追放された悪役令嬢、転生先で最強聖女とか神級とか聞いてないんだけど!?

タマ マコト

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第4話「国境の森、孤独と死の匂い」

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 国境の森は、噂どおり――いや、噂以上に、気味が悪かった。

 足を一歩踏み入れた瞬間、空気の温度が一段下がる。
 さっきまで灰色だった空は、枝と葉に覆われて、ほとんど見えなくなった。

 木々は、黒くねじれていた。
 幹は細いのに、枝だけが無駄に伸びて、まるで上から獲物を狙う指みたいにぶらさがっている。
 じっと見ていると、動いているような気さえした。

 霧が、低く漂っている。
 足首の辺りを冷たい綿が撫でていくみたいで、鳥肌が立った。

 鳥の声は、ほとんど聞こえない。
 代わりに、どこからか、木がこすれ合うギシギシという音だけがしている。

「……最悪なロケーションですわね」

 冗談のつもりで口にした言葉は、思った以上にかすれていた。
 返事は当然、ない。

 ここには、リオネッタしかいない。

 歩き出してから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
 王都を出るときはまだ昼過ぎだったはずだから、まだ日没までは余裕がある……と信じたい。

 けれど、この森の中では、昼も夜も関係ないように暗い。

 足が痛い。
 歩き慣れた舗装された廊下ではなく、デコボコした土の道。
 石が無遠慮に踵を突き上げるたびに、細いヒールが恨めしくなる。

(こんな場所、ドレスとヒールで歩くところじゃありませんわよね)

 分かっている。
 でも、これしか服がなかったのだ。
 追放が決まった女に、わざわざ森歩き用のブーツを用意してくれるほど、公爵家は優しくない。

「いっ……」

 足元の根っこに引っかかって、軽くつまずく。
 バランスを崩さないように、近くの木に手をついた。

 ドレスの裾を見ると、すでに泥だらけだった。
 真紅の生地に、茶色の汚れがべったりとこびりついている。

(ああ……お気に入り、だったのに)

 使用人たちが丁寧に手入れしてくれていたドレス。
 パーティで「とてもお似合いです」と言われたこともあるドレス。

 今は、ただの「森で動きにくい布の塊」だ。

 胸の奥に、小さな苦笑いが浮かんだ。

「完璧な淑女、ですって。笑わせないで……」

 息が上がっている。
 空腹も、じわじわと存在感を増してきていた。

 朝から、ほとんど何も食べていない。
 喉は乾いていないのに、胃がきしむように痛い。

 寒さも、じっとりと肌にまとわりついてくる。
 森の中の冷気は、城の石造りの廊下のそれとは違って、生々しくて、濡れていて、骨に染みる。

(私って、こんなに、何もできなかったんだ)

 歩きながら、じわじわと実感が湧いてくる。

 今までの人生。
 「完璧であれ」と言われ続けた人生。

 でも、その完璧さは、柔らかい絨毯の上で、温かい部屋の中で、誰かが用意した舞台の上でだけ通用するものだった。

 道を間違えれば、執事が教えてくれる。
 何かを落とせば、メイドが拾ってくれる。
 体調が悪ければ、すぐに医師が呼ばれる。

 「守られている」ことを、当たり前だと思っていたわけではない。
 むしろ、感謝していた。恩返しのつもりで努力してきた。

 でも――。

(守られなくなった瞬間、私ってこんなに、無力)

 一人で歩くことすら、ままならない。
 空腹と寒さで、すぐに心が折れそうになる。

 誰も、「頑張りましたわね」とは言ってくれない。
 そもそも、頑張ったところで、見ている人がいない。

 枝が顔に当たり、頬に細い傷がついた。
 少しだけ痛い。
 でも、それすらも、「ああ、本当に私は今、守られていないんだ」と教えてくれる現実の証拠みたいだった。

◇ ◇ ◇

 どれくらい歩いただろう。

 感覚的には、何時間も歩いた気がする。
 けれど、実際の距離はたいして進んでいないのかもしれない。

 森の景色は、どこまで行っても似たようなものだ。
 黒い木々、湿った土、白い霧。

 ふと、遠くから別の音が聞こえた。

 さらさら、という、水の流れる音。

「……水?」

 半ばふらふらと音の方へ向かう。
 枝をかき分けた先に、細い小川が流れていた。

 透明とは言い難いけれど、泥水というほどでもない。
 石にぶつかって、ちょろちょろと水が跳ねている。

 喉が、ごくりと鳴った。

 貴族の令嬢が、こんなところで小川の水をそのまま飲むなんて――
 そんな「常識」が頭の隅で顔を出す。

(でも、今さら、品も何もないですわよね)

 もう、公爵令嬢ではないのだ。
 追放された、ただの女。

 膝をつき、両手ですくって水を口に運ぶ。
 冷たさが、舌と喉を滑り落ちていく。

「……っ、冷たっ」

 思わず肩を震わせる。
 でも、乾いた喉には、それが救いだった。

 何度か口に含んだあと、リオネッタは水面を覗き込んだ。

 そこには、自分の顔が映っている――はずだった。

「……誰、これ」

 反射的に、そんな言葉が漏れた。

 水面に揺れる顔は、確かに金髪の縦ロールに、深紅の瞳を持っている。
 いつも鏡で見ていた、「悪役令嬢」の顔。

 でも今は、髪は崩れ、ところどころほつれて頬に張りついている。
 瞳の下にはうっすらとクマができ、血の気が引いて、唇は少し青い。

 何よりも――その目が、怯えている。

 誰かを睨みつけるように見えると評されたその瞳が、
 今はただ、「怖い」と叫んでいる女の子の目になっていた。

(悪役令嬢、なんて立派なものじゃないわ)

 水面に映る自分を見ながら、リオネッタは苦い笑みを浮かべる。

(ただの、追い詰められて逃げ場を失った女の子)

 誰かを悪く笑ったことなんて、一度もない。
 誰かを階段から突き落としたことも、スープに薬を入れたこともない。

 でも、結果だけ見れば――自分は「悪役令嬢」にされてしまった。

「……あの子から見れば、私は、そうだったのかしらね」

 ふと思う。
 聖女エミリアから見た、自分の姿。

 いつも遠くからじっと見てきて、近づきもせず、話しかけもせず。
感情を顔に出さないから、何を考えているのか分からない。

(怖かったでしょうね。
 あんなふうに、じっと見られたら)

 自覚して、少しだけ胸が痛くなった。

 悪意はなかった。
 むしろ、「聖女様は大変そうだわ」と思っていた。

 だからこそ、そっとしておいた。
 でも、「そっとしておく」は、必ずしも優しさとは限らない。

 ひょっとすると、自分は、一番楽な位置にいただけなのかもしれない。

 関わらないでいれば、怪我もしない。
 好かれもしない代わりに、嫌われもしない――と、勝手に信じていた。

(そんなこと、なかったけれど)

 現実は、嫌われるときは勝手に嫌われるし、悪役にされるときは一瞬だ。

「……はぁ」

 ため息が、やけに大きく聞こえた。

 手を水で濡らして、顔をばしゃりと洗う。
 冷たさが、一瞬だけ頭をすっきりさせてくれた。

 それでも、疲労は限界に近い。
 足は棒になっているし、肩も腕も、慣れない荷物の重みに悲鳴を上げている。

 小川のそばで、少しだけ腰を下ろしたい衝動に駆られる。
 でも――。

(ここで座り込んだら、多分、そのまま動けなくなる)

 嫌な予感だけは、やけに冴えていた。

 立ち上がると、足首がズキンと抗議する。
 それでも、トランクを持ち直して、また森の奥へと歩き出した。

◇ ◇ ◇

 時間の感覚が、おかしくなってくる。

 同じ景色の中を、同じ速さで歩いているはずなのに、
 進んでいるのか戻っているのか分からなくなる。

 ふと、頭上を見ると、木々の隙間から、薄いオレンジ色の光が覗いていた。

「……夕暮れ」

 日が、暮れかけている。

 森の中の夕暮れは、街のそれとは違って――
 「空が赤く染まる」より先に、「足元から闇が這い上がってくる」感覚の方が強い。

 冷気が、地面からじわじわと侵入してくる。
 靴の底を通り抜けて、足首からふくらはぎ、膝へと登ってくる。

 体の芯が冷えていくと、不安が倍増する。

(このまま、誰にも気づかれずに、ここで倒れて……
 そのまま、死ぬのかしら)

 怖い想像なのに、妙にリアルだった。

 王都での生活。
 家族、使用人、学園、アレス、エミリア――。

 あの世界から一歩外に出た瞬間、自分は「もういない人」になっているのだろう。

 森の中で、一人で倒れたって、誰も知らない。
 数年後、運よく誰かが骨を見つけて、「ああ、誰か死んでいたんだな」と思う程度。

 リオネッタ・フェルディアという名前は、王都のどこかの噂話にちょっとだけ残って、
 やがて、「聖女いじめの悪役令嬢」としてだけ語り継がれる。

 そして、その噂も、時間と共に薄れていく。

(なんて、安っぽい人生)

 だけど、ここまで来てしまった以上、どうすることもできない。

 体が重い。
 足が、鉛をぶらさげているみたいに動かない。

 視界の端が、少しだけ暗くなってきた気がした。

 ぽつ、ぽつ、と小さな音がする。
 見上げると、雲が厚くなり始めていた。

「……雨?」

 冗談でしょ、と空に向かって言いたくなる。
 さすがにそれは、声には出さなかった。

 代わりに、喉の奥で小さく笑う。

「完璧な淑女に、こんな仕打ち、あります?」

 誰に向けてでもない呟きが、霧の中に溶けた。

 日が落ち始めると、森の中の暗さは一気に増す。
 木の幹が、さっきまでより太く見える。
 霧の白さと闇の黒さのコントラストが強くなり、世界が灰色に塗り潰されていく。

 足元の影が濃くなって、何が落ちているのか分からない。
 枝か、石か、穴か。どれも、足を取るには十分だ。

 心臓が、段々と早くなる。
 理由のない恐怖――いや、理由はある。
 ここで夜を迎えるのが、単純に、怖い。

(火もない、屋根もない。
 私は、こんなところで夜を越えるの?)

 指先が冷えてきて、トランクの取っ手を握る力が入らない。
 それでも、歩くしかない。

 歩かないと、止まった場所が、そのまま「終わりの場所」になる気がした。

◇ ◇ ◇

 その時だった。

 ――グルルルルル。

 低い唸り声が、森の奥から聞こえた。

 背筋が、ぞわりと粟立つ。

 風かと思った。
 けれど、違う。
 これは、生き物の声だ。

 リオネッタは、ゆっくりと振り返る。

 霧の向こう。
 木々の隙間から、二つの赤い光がこちらを見ていた。

「……え」

 一瞬、意味が分からなかった。

 赤い光は、じっと動かない。
 まるで、こちらを観察しているように。

 次の瞬間、その光が近づいてくる。
 霧を割って、黒い影が姿を現した。

 黒狼――。

 普通の狼より、一回りも二回りも大きい。
 全身を覆う毛は、光を飲み込むみたいな漆黒。
 瞳だけが、血のような赤でぎらぎらと輝いている。

 口元からは、鋭い牙がのぞいていた。
 息を吐くたびに、白い煙が漏れる。

 その匂いが、鼻先まで届いた。
 生臭くて、獣臭くて、喉の奥がひりつく。

(……魔物)

 言葉としては知っていた。
 教本にも出てきたし、講義で話も聞いた。

 「国境の森には魔物が棲んでいる」「だから、決して近づくな」と。

 でも、こうして真正面から対面するのは、初めてだ。

 黒狼は、低く唸りながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
 地面に爪がめり込む音が、はっきり聞こえた。

 ――逃げなきゃ。

 頭では分かっている。
 足が、動かない。

「……っ、あ」

 喉の奥から、変な声が漏れた。
 恐怖で、声帯がうまく動いてくれない。

 黒狼の赤い目が、じっと自分を射抜いている。

 完全に、「獲物」として認識されていた。

(逃げて。走って。動いて、リオネッタ)

 自分に命令するみたいに、心の中で叫ぶ。
 そのおかげか、足がようやく反応した。

 トランクを放り出し、反対方向に駆け出す。

 頭の中は、「逃げろ」しかない。

 でも、森の地面は、ドレスとヒールで全力疾走するには向いていなかった。

 根っこ、石、ぬかるみ。
 さっきまでは慎重に避けていた障害物たちが、今は容赦なく足を絡めとってくる。

「きゃっ――!」

 ヒールが根に引っかかり、身体が前につんのめる。

 咄嗟に手をついたが、受け身を取る余裕なんてない。
 膝と掌に、鋭い痛みが走る。

 土と枯れ葉と、どこかの苔。それらが顔にまでかかる。
 冷たくて、汚くて、涙が出そうになる。

 背後から、地面を蹴る音が迫ってきた。

 振り返る勇気はなかった。
 でも、分かる。もう、すぐそこにいる。

(いやだ)

 心の中で、子どもみたいに叫ぶ。
 声に出せない。

(死にたくない。まだ、何もしていないのに)

 黒狼の気配が、背中に覆いかぶさる。
 影が、視界を飲み込む。

 飛びかかってくる気配を、肌で感じた。

 その瞬間――。

(だれか――)

 訳もなく、頭に浮かんだ。

(助けて)

 声にならない叫び。
 喉の奥で潰れた声が、心の中だけで響く。

 奇跡なんて期待していない。
 女神も、神様も、この世界には「聖女」という名前で半ば作り物としてしか存在しないと知ってしまった。

 それでも、最後の最後で、誰かに縋りつきたくなる。

(誰でもいい。ハンナでも、アレスでも、エミリアでも……誰か)

 黒狼の牙が、胸元に突き刺さった。

「――っ!」

 声にならない悲鳴が、喉でちぎれた。

 鋭い痛みが、胸を貫く。
 肺にまで達したような感覚。
 息が、一気に奪われる。

 次の瞬間、その痛みが「熱」に変わっていく。

 温かいものが、服の内側を伝って流れ出る。
 血だと理解するのに、少し時間がかかった。

 世界の色が、じわじわと薄くなっていく。
 さっきまで濃かった木々の黒も、霧の白も、グラデーションのない灰色に変わっていく。

 鉄の匂いが、強くなった。
 口の中にも、鉄の味が広がる。

(ああ……これ、私の血の味)

 頭のどこかが妙に冷静で、どうでもいいことを考えていた。

 耳鳴りがひどい。
 ゴウゴウと風が吹いているみたいな音が、頭の中を占領する。

 黒狼が、もう一度牙を立てた。
 痛みは、最初ほど鮮烈ではない。

 体が、痛みをちゃんと感じる余裕を失いつつあるのだと、ぼんやり理解する。

 冷たさと、温かさ。
 心臓の鼓動が遠くなっていく感覚。
 指先の感覚が消えていく。

(私の人生……)

 ふっと、思考のベクトルが変わった。

(何か一つでも、誰かの役に立てたのかな)

 公爵家の娘として、完璧であろうとした。
 王太子妃として恥じないように、努力した。
 病弱だった子どもから、ここまで立てるようになった。

 でも、それは本当に「誰かのため」になっていたのだろうか。

 父と母は、最後には自分よりも家を選んだ。
 アレスは、自分を信じる代わりに、聖女を選んだ。
 使用人たちは、「厄介者」として自分から離れていった。

(私の存在で、誰かが救われたことなんて……あった?)

 ハンナが、ハンカチをそっと忍ばせてくれた顔が浮かぶ。
 あのときの目は、確かに、自分のことを案じてくれていた。

(あの人だけは……)

 そこまで考えたところで、思考がうまく続かなくなった。

 耳鳴りが、さらに大きくなる。
 世界の輪郭が、にじんでいく。

 木々の息づかいも、霧の冷たさも、黒狼の重さも、全部が遠ざかっていく。

(……ごめんなさい)

 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。

 父に? 母に? ハンナに?
 アレスに? エミリアに?
 それとも、自分自身に?

 答えが出る前に――意識は、音もなく、闇の底へと沈んでいった。
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