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第18話「王太子アレス、異世界へ」
しおりを挟む世界の壁は、本来なら神様の領分だった。
――と、神官長は昔から口酸っぱく言っていたのだが、その言葉は今、エルメリア王城の地下で見事に裏切られていた。
床一面に刻まれた巨大な魔法陣。
幾重にも重なる円陣と、光を内側に閉じ込めるような複雑な紋様。
魔道学者たちが並べた魔力増幅装置と安定化水晶が、低く脈打つように光っている。
世界と世界を繋ぐ“門”は、もう試験段階ではなかった。
「安定化率、過去最高値です!」
「外側からの逆流も、許容範囲。
これなら、長時間の維持も……」
学者たちの声には、恐れと興奮が入り混じっている。
その光景を、少し離れた場所から眺めている男が一人。
アレス・エルメリア王太子。
深い青のマントに、王家の紋章を刺繍した礼装。
黄金の髪は後ろでまとめられ、蒼い瞳には迷いがない。
「……ここまでするとはな」
隣で、神官長が半ばあきれたように呟いた。
「世界の禁忌に、堂々と踏み込んでおる自覚はあるのか、殿下」
「もちろんある」
アレスはあっさりと答える。
「禁忌という言葉は、往々にして“管理できないもの”につけられる。
なら、管理できるようにすればいいだけの話だ」
「そう簡単に言うものではない」
「簡単に言っているわけではないさ」
アレスは、魔法陣の中心――薄く揺れる光の膜を見つめた。
「向こう側には、“神級の聖女”がいる。
世界の膜を揺らすほどの光。
それをこの手で掴めるかもしれないのだ」
その声音に、熱はあれど、罪悪感はない。
彼にとってこれは、国政の一環であり、権力の強化であり、
そしてなにより、「過去の選択を有利に修正できる機会」でもあった。
「殿下」
慎重派の老臣が、苦い顔で口を挟む。
「直々のご渡航など、危険が大きすぎます。
向こう側が敵意を持っていたら、どうなさるおつもりで」
「敵意を持たれないように立ち回るのが、王太子の仕事だ」
軽く笑う。
「向こう側の王と正面から話せる立場の人間が行かなければ、“外交”は始まらない。
騎士隊だけ送り込んでいては、いつまでも“侵入者同士の小競り合い”から進展しないだろう」
老臣は、なおも食い下がる。
「せめて、エミリア様を――」
そこまで言って、口を噤んだ。
アレスの視線が、ほんの少しだけ冷たくなったのを感じたからだ。
「……今の聖女を、外へ出すべき時ではない」
アレスは短く言い切る。
「彼女には、まだ国内の信仰を支える役割がある。
“本物の神級聖女”と比較される場所へ連れ出すのは、得策ではない」
言い回しは丁寧だが、内実は残酷だ。
エミリアは、もはや「主役」ではない。
国内向けの「象徴」として、王城という舞台に縫い付けられているだけだ。
◇ ◇ ◇
その頃、その「舞台」の裏側――聖女居館。
エミリアは、窓辺に座り込んでいた。
レースのカーテン越しに見える、中庭。
王宮の庭師たちが、今日も丹精込めて花を整えている。
その向こう側で、王城の塔のひとつに人の出入りが増えているのが見えた。
異世界への門の儀式場がある塔。
「……アレス様、本当に行くんだ」
呟いた声は、小さく震えていた。
数日前。
会議室での会話の断片が、耳にこびりついて離れない。
『門の安定化が進んだようだな』
『はい、殿下。もはや短時間の開閉ではなく、ある程度の滞在も可能かと』
『なら――次は、俺が行く番だ』
当たり前のことのように、アレスはそう言った。
そこに、エミリアの名前は出てこなかった。
「私の……役目は、もう終わりなの?」
自嘲を含んだ問いかけ。
誰も答えない。
この部屋には、今や彼女一人しかいない。
以前は、女官や神官が常に出入りしていた。
祈りの時間、勉強の時間、謁見の時間――忙しい聖女のスケジュールは、隙間なく埋められていた。
それが今は、嘘みたいに空いている。
奇跡の成功率が落ちた。
民衆の期待が、少しずつ別の方向へ向き始めた。
“別世界の聖女”という噂が、王宮の中を静かに駆け巡っている。
「私が……自分で、自分の座を汚したのに」
エミリアは、握りしめた手を見つめた。
あの時。
リオネッタを悪役にして、自分を守ることを選んだ。
「聖女」という肩書きを守るために。
本当は、自分が偽物だと知っていたくせに。
だから――今、こうして追い落とされかけている状況は、「自業自得」だとどこかで理解している。
(わかってる。
わかってる、けど……)
向き合えない。
自分の卑怯さと、残酷さと。
あの夜のリオネッタの表情と。
窓の外で、塔の上に魔力の光が立ち上る。
空の色が、一瞬だけ揺らいだ。
「行かないで、なんて……言える立場じゃないよね、私」
エミリアは、膝を抱えて小さく笑った。
その笑いは、涙の味がした。
◇ ◇ ◇
一方その頃――ラグナリア。
王都ラグナリア城の大広間横、会議室。
いつもは王と側近たちが集まる場所だが、その日だけは、大神殿の高位神官たちと、騎士団長アルヴァ、そして王太子レオン・ラグナリアが一堂に会していた。
重厚な木製の机。
その上には、簡易的に描かれた“世界の構造”の図と、最近の魔力観測の記録。
「――結論から言おう」
王太子レオンが口を開いた。
柔らかな茶色の髪に、穏やかな瞳。
外見だけ見れば「癒し系王子」だが、言葉の芯は思った以上に硬い。
「“異世界の王太子”が、我が国に来訪する可能性が高い。
門の揺らぎ方が、明らかに“人が渡る”規模になってきている」
大神殿長が、深いため息をついた。
「今までは、“向こうからの針”が時々刺さる程度だったのう。
それが、今や“橋”になりつつあるわけじゃ」
「異世界からの、“王族”の来訪……」
年配の大臣が、顔をしかめる。
「前代未聞もいいところだ。
外交の機会と見るべきか、侵略の前段階と見るべきか」
「それを見極めるのが、この会議の目的だ」
レオンは静かに言う。
意見は、きれいに二つに割れていた。
「向こうの世界は、すでにこちらに手を伸ばしてきております」
若い魔道学者が、前のめりに言った。
「こちらからも橋を架け、情報交換を行うべきです。
異世界の知識と技術は、我が国の発展に大きく寄与する可能性があります」
「それは分かるが――」
慎重派の大臣がすぐに返す。
「その“技術”とやらを言い訳に、“聖女”を奪われるようなことがあってはならん。
ラグナリアの守りは、今や聖女レアの力に大きく依存しておるのだぞ」
神殿長が頷く。
「レアは、神の加護を持つ少女じゃ。
異世界の王太子とやらが、どれほど礼儀正しく名乗りを上げようと、“利用価値”だけで見ておる可能性は高い」
その言葉に、アルヴァは無言で同意した。
前世のエルメリアの話を聞いた後では、なおさら。
「肝心の“本人”の意思は?」
レオンが問う。
「聖女レアの意見を聞かずに、この場だけで決めるのは筋違いというものだ」
「……それが」
神殿長は、困ったように眉を寄せた。
「本人は、“会いたくない”と言っておる。
だが同時に、“逃げ続けて誰かが代わりに傷つくのも嫌だ”と」
会議室の空気が、少しだけ重くなる。
◇ ◇ ◇
その頃、大神殿の小さな礼拝堂。
レアは、静かな空間でひとり膝をついていた。
祭壇の上には、小さな女神像。
白い石で削られたその姿は、どこかあの夢で会う女神に似ている。
両手を組んで、目を閉じる。
「……会いたくないです」
小さな声が、空間に溶けていく。
「前の世界の王太子と。
わたしを断罪した人と。
“もう君とは話すことは何もない”って言い切った人と」
その記憶は、まだ生々しい。
アレスの顔を思い出すだけで、胃がきゅっと縮む。
「でも、逃げ続けたら――きっとまた、誰かが代わりに傷つきますよね」
ラグナリアの王族。
大神殿。
騎士団。
民たち。
自分が“聖女”である以上、自分の問題は、自分だけの問題では済まない。
「わたしが“会いたくないから”って隠れて、そのせいで向こうが力ずくの手段に出たら……」
そのとき、盾になるのは、きっとアルヴァたちだ。
前線に立つのは騎士団で、外交の矢面に立つのは王と王太子で、
神殿は信仰を守るために奔走する。
(また、誰かを置いて逃げるの?)
前世、自分一人が森に置き去りにされたあの日。
あの世界は、自分一人を犠牲にして安定を守った。
今度は――自分が逃げれば、誰かが代わりに「切り捨てられる」かもしれない。
「……いやだ」
レアは、ぎゅっと目を閉じた。
「今度は、わたしがちゃんと向き合いたいです」
怖い。
怖いけれど。
「逃げないで、“ちゃんと決着をつけたい”です」
女神像は、何も言わない。
でも、その沈黙が、レアには「聞いている」と感じられた。
◇ ◇ ◇
その夜。
騎士団の詰所奥の小部屋で、アルヴァとレアが向き合っていた。
テーブルの上には、簡単な地図。
ラグナリア王城の広間の配置と、警備の動線。
「王城と大神殿で協議した結果」
アルヴァが口を開く。
「“異世界の王太子一行を王城広間で迎え、聖女レアも同席する”という形で、正式な会談が行われることになった」
「……そう、ですか」
事前に覚悟はしていたが、改めて口にされると、胃がひっくり返りそうになる。
「お前の意志を無視して決まったわけではない」
アルヴァは、レアの顔を見た。
「“会いたくないと言うなら、その意志を最優先する”と俺は主張した。
王太子殿下も神殿長も、それを理解はしている」
「でも、結局わたしが“会う”と言ったから」
レアは、苦笑いを浮かべる。
「ねじ曲げられたわけじゃなくて、自分で選んだんですよね」
「それでもなお、“逃げていい”と言う奴はいるだろう」
アルヴァの声には、少しだけ迷いも混じっていた。
「俺も、その一人だ」
「……アルヴァさん」
「お前が“会わない”と決めるなら、俺たちは最後まで戦う」
それは、宣言だった。
「門の破壊を試みる。
向こう側との接触を全力で断つ。
侵入者を見たら即座に排除する覚悟もする」
レアは、思わず目を見開いた。
アルヴァは続ける。
「世界の膜がどうこうという話は、魔道学者と神殿の領分だ。
だが、“お前の意志を守る”という仕事は、俺たち騎士団の役目だ」
その言葉は、胸の奥にじん、と響いた。
「だから――“会いたくない”と言っていい」
アルヴァは真剣な目で告げる。
「それでも、ラグナリアはお前を守る」
レアは、しばらく何も言えなかった。
喉が詰まって、言葉がうまく出てこない。
前世。
リオネッタとして生きていたとき。
自分の意志など、誰も聞こうとしなかった。
自分の「嫌だ」は、いつも「義務」と「体裁」に塗りつぶされた。
だから今、「嫌だと言ってもいい」と言われることそのものが、信じられないくらいに贅沢に思えた。
それでも――。
「……会います」
レアは、小さく、けれどはっきりと言った。
「怖いです。
正直、今すぐにでも逃げ出したいです」
正直すぎる言葉に、アルヴァの口元が僅かに緩む。
「でも、逃げて――代わりに誰かが傷つく未来を思ったら」
レアは、震える手をぎゅっと握った。
「今度は、わたしがちゃんと“決着をつけたい”です」
「決着」
「はい」
レアは頷く。
「前の世界で、何も言えなかったこと。
誰にも届かなかった声。
“どうして”って言えなかった疑問」
胸の中に溜め込んできたものが、次々と言葉になってあふれてくる。
「全部一度、ちゃんと相手にぶつけてみたいです。
それで砕けても、嫌われても……今度は、自分で選んだ結果なら、ちゃんと受け止めたい」
アルヴァは、しばらく彼女を見ていた。
彼女の瞳は震えている。
でも、その奥には、確かな意志がある。
「……分かった」
アルヴァは、静かに頷いた。
「なら、俺がやることは変わらん」
「変わらない?」
「ああ」
彼は、ごく自然な口調で言う。
「お前が“決着をつける”場を、全力で護る。それだけだ」
レアの胸に、また一つ、小さな灯りがともる。
◇ ◇ ◇
――そして、対面の日は来た。
ラグナリア王城、大広間。
高い天井。
王家の紋章が刻まれた大きな旗。
壁には各国の使節団から贈られた絵画や装飾品。
その中央に、長い赤い絨毯が敷かれている。
絨毯の先端には、ラグナリア王と王妃、王太子レオン。
その少し横位置に、白い正装を纏ったレアと神殿長。
側面には、各国からの使節や重鎮たちが整列していた。
騎士団は壁際に控え、いつでも剣を抜ける体勢を維持している。
アルヴァは、レアの少し斜め後ろに立っていた。
護衛の位置。
でも、その距離は、「守る」には十分近い。
「息、止めるなよ」
小声で囁く。
「止めてないです……多分……」
レアは、緊張で引き攣った笑顔を浮かべた。
白銀の髪はいつもよりも丁寧に整えられ、淡い青を基調とした聖女の礼装を身に纏っている。
その姿は、誰がどう見ても「ラグナリアの聖女」そのものだ。
なのに、心はやっぱり小さな田舎神殿のころと変わらず、びびりで、怖がりで。
(逃げないって、決めた)
胸の中で、自分に言い聞かせる。
(逃げない。ここで立ってるのは、前世のリオネッタじゃなくて、今のレアだ)
大広間の扉の前で、号令が響いた。
「――エルメリア王国、王太子アレス・エルメリア殿下、ご入場!」
ざっ、と空気が動く。
緊張と警戒と好奇心が混じった視線が、一斉に扉へ向けられた。
重い扉が、きぃ、と音を立てて開く。
そこから現れたのは、見覚えのあるシルエット。
黄金の髪。
蒼い瞳。
整った顔立ち。
王族の礼装。
前世と違うのは、纏う衣のデザインと、肩にかけられた異世界の紋章だけ。
アレス・エルメリア。
記憶の中の「断罪する王太子」と、今目の前にいる「異世界からの客人」が、レアの視界の中でぴたりと重なる。
胸の奥で、古傷がばきり、と音を立てて開いたような痛みが走った。
(あ……)
喉が、ひゅっと締まる。
広場の中央に立たされたあの日の自分。
彼の冷たい声。
「君と話すことは何もない」。
全部が一気に蘇ってきて、足元がふらつきそうになる。
その瞬間。
背中に、そっとあたたかい気配が触れた。
言葉にはならない。
でも、それは確かに「ここにいる」というメッセージだった。
アルヴァだ。
振り向かなくても分かる。
この世界で、一番信頼できる気配。
(大丈夫)
レアは、ぎゅっと指先に力を込めた。
(今は、あのときと違う)
彼女はゆっくりと息を吸い、吐き出す。
アレスは、赤い絨毯の上をまっすぐ歩いてくる。
その後ろには、エルメリアの騎士団と魔道学者、神官たち。
彼らは皆、ラグナリア王家と聖女の姿に、わずかな緊張と畏怖を覚えているようだった。
アレスが足を止める。
ラグナリア王へ一礼を捧げ、その後、レアへ視線を向けた。
その瞬間――。
彼の蒼い瞳に、一瞬だけ驚きの色が走った。
白銀の髪。
氷青の瞳。
しかし、その顔立ちの輪郭、口元の形、目の開き方。
「……リオ――」
喉の奥まで出かかった名前を、アレスはギリギリのところで飲み込んだ。
ここは自国の断罪広場ではない。
他国の王城の大広間。
「前世の亡霊の名」を、いきなり口にする場ではない。
彼は、一瞬でいつもの王太子の仮面をかぶり直した。
「聖女レア殿、でよろしかったか」
問いかけという形を取りながら、その声には、彼なりの観察が混じっている。
レアは、喉が乾ききっているのを自覚しながら、ゆっくりと頭を下げた。
指先が、かすかに震えている。
それでも、声だけはできる限り滑らかに出そうとした。
「ようこそ、ラグナリアへ」
形式的な挨拶。
儀礼的な言葉。
でも、その一言の裏側で――彼女の心は、嵐のように揺れていた。
断罪の夜の“その人”に、
今度は、自分の意思で向き合うために。
世界と世界、過去と現在。
全部を巻き込んだ「決着」の幕が、静かに上がろうとしていた。
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私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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