海異恋愛譚

タウタ

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第2章

「起きて。早く早く」
「日が昇ってしまう前に」
 ルートグーヴァは貝の欠片が擦れるような声で目を覚ました。辺りは暗く、星が輝いている。体を起こそうとしたが、うまくいかない。よく見れば腕が四本しかない。いや、頭から遠い方の腕は脚と呼ぶのだったか。頭に近い方の腕を使って体の半分を起こす。
「顔を見せて」
「あら、いい男」
 甲高い声が周囲を回る。海面で生まれ、朝には消えてしまう泡沫の精霊たちだ。口々にルートグーヴァの容姿を褒める。自分では確かめようもないが、不快な姿ではないようで安心した。
「私宛に預かっているものがあるはずだ」
 ルートグーヴァはまとわりつく精霊たちを手で払った。声が海底と違って聞こえる。魔女の薬が効いているらしく、問題なく発声できた。
「忘れてないわ。人間の服よ」
「おカネはこの中。予備の服もあるわよ」
 立ち上がる瞬間こそふらついたが、すぐに慣れた。歩くのも走るのも支障はない。手先が器用になる薬のおかげで、衣類のボタンも簡単にとめられた。魔女から色々な薬をもらっておいてよかった。薬がなければ朝までに支度が終わらなかっただろう。
「はい、これがお手紙」
 精霊の一人が封筒を差し出した。これが紙。初めて触った。かさかさしていて、とても薄い。手触り以外は何もわからない。クラーケンの姿であれば、触れるだけでもっと多くの情報が得られただろう。人間の体は不便だ。
 手紙は宝玉を持ち去ったと思われる人間宛てに書かれている。もちろん偽造だ。日が昇ったら、その人間に会わなければならない。人間は嫌いだ。ルートグーヴァは大きく息を吐いた。「ため息」という行為らしい。いつもは水が出るのに、人間の体からは空気しか出ない。勝手が違ってむずむずする。
「ねぇ、そろそろ朝よ。帰らなきゃ」
「こんないい男を残して、残念」
「がんばってね、ルートグーヴァ。困ったら浜辺で呼んでちょうだい。私たちいつでも来るわ」
 辺りが明るくなり始め、精霊たちは泡が弾けるように消えてしまった。まだ若い夏の日が昇る。ルートグーヴァは顔の前に手をかざした。目に差し込む光の量が深海とは桁違いだ。空が青いのは知っていた。海が青いのも知っていた。クラーケンは色盲だが、濃淡の違いくらいはわかる。しかし、青がこんなに多様で鮮やかとは知らなかった。
 波の合間で日の光と海が混じり合い、青とも赤ともつかない陰影が生まれては消える。白く輝く波頭の下に重い影がわだかまっている。刻一刻と色を変える様は、海自体が呼吸をしているようだ。ルートグーヴァは太陽がすっかり姿を現すまで海をながめていた。
 海沿いの道は煉瓦で舗装されていた。動物の鳴き声らしきものが聞こえる。知らない匂いがただよっている。離れたところに人間がいたが、ルートグーヴァには目を向けなかった。
 街の最南端、道が海に背いて大きく曲がった角に、着底する場所を間違えたイソギンチャクのような土地があった。平屋が一軒建っている。街の建物がすべて石と漆喰で造られているのに対し、この家はふんだんに木が使われていた。円筒にいくつも立方体を貼りつけたような構造をしている。壁に沿って家の裏に回ると、海に面した曇りガラスのドアがあった。少し先に小屋が建っている。調査によると、この中に潜水艇が格納されているらしい。小屋のそばの坂は浜辺へ続いているので、宝玉を見つけたらここから海へ戻れるだろう。
 表に戻り金属の輪で玄関のドアを二度ノックすると、ややあってカチンと別の金属音がした。ドアの隙間から人間の頭が出てくる。夜明けの海をはめ込んだような目が二つ、ルートグーヴァをとらえ、すぐに逸らされた。
「おはようございます」
 ルートグーヴァが朝のあいさつをすると、海の目の人間はびくりと肩を震わせた。ハイドラストイエより頭ひとつ分以上背が低い。一七〇センチくらいだろうか。髪は短く、砂の色をしている。そばかすの浮いた頬。薄い唇。大きなレンズの眼鏡をかけている。服を着ていて体型はわからないが、貫禄があるとは言い難い。砂地に棲むハゼのようにおどおどしている。
 彼がフィン・シュナイダー。宝玉を持ち去ったとされる人間だ。事前情報によると、二十六歳。内陸の大都市出身で、高名なナチュラリストの弟子らしい。師匠は研究旅行で赤道付近におり、フィンが一人で留守番をしている。
「ルート・グラーケンといいます。先生からの手紙です」
 ルートグーヴァは偽の手紙を差し出した。新しい助手を派遣するのでしばらくいっしょに暮らすように、と書かれている。ルートグーヴァは頭足類の研究をしている設定だ。フィンにはあらかじめ、もう一通別の手紙でルートグーヴァの来訪が予告されている。
 フィンは手紙の封を開け、首をほとんど九十度曲げて読み始めた。首の後ろの皮膚が薄く、骨の形がわかる。半魚人と似たような姿をしているが、鱗は一枚も持っていない。不思議な生物だ。こんな乾燥した世界で、どうやって生きているのだろう。
 フィンはサンゴのようにじっとしている。出てきた瞬間以外、ルートグーヴァと目を合わせようとしない。大して長くない手紙にずいぶん時間をかけている。あまり聡明ではなさそうだ。とても一人で潜水艇に乗って海を探検するようには見えない。
「どうぞ」
 ぼそぼそと不明瞭な声がして、ルートグーヴァは家の中に招き入れられた。ドアを抜けるとすぐに居間だった。片隅にキッチンがある。フィンは居間をまっすぐに突っ切り、ドアを一つずつ開けていった。トイレ、洗面所と浴室、書庫と続く。フィン自身の部屋と、先生の部屋は開けられなかった。
「ここがあなたの部屋です」
 ルートグーヴァは室内を見回した。壁紙が褪せ、古い匂いがする。ベッドと机しかない。普段は使われていないようだ。
「シーツと枕カバーはそこです」
 ベッドの上に清潔そうな白い布が置かれている。シーツとは何だろう。どう使うのだろう。畳まれているのだから、まずは広げるのだろう。広げて、その後はどうするのだろう。
「僕は、これで」
「待ってください」
 フィンはドアノブに手をかけたまま振り返った。説明がないのだから、人間は皆シーツの使い方を知っているはずだ。どう使うのかと聞いては怪しまれる。憶測で使って誤っていた場合、やはり怪しまれる。こんなときのために、魔法の言葉も教わってきた。
「手伝ってください」
 ルートグーヴァが言うと、フィンは黙って戻ってきた。フィンの動きを真似てシーツを広げ、マットレスの下に押し込む。なるほど、シーツはこうして使うのか。
「ありがとうございます」
 フィンはにこりともせず部屋を出て行こうとしたが、またドアの前で止まった。
「グラーケンさんは、食べられないものはありますか」
「ありません。できれば、ルートと呼んでください」
 一族の名を中途半端に使った偽名は違和感が強い。
「では、僕のこともフィンと呼んでください」
「わかりました」
 レヴィアタンに教わった例文のような、ぎこちない会話だった。ドアが閉まり、一人になる。窓の外には海が見える。ルートグーヴァは窓を開け、潮の匂いを引き入れた。
 ベッドに腰かけてみると、少しだけへこんだ。岩ほど硬くはなく、ナマコほど柔らかくはない。今夜は眠れないかもしれない。慣れないベッドはもちろん、この部屋は広すぎる。ルートグーヴァは早くも岩の隙間の我が家が恋しくなった。
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