海異恋愛譚

タウタ

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第3章

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 フィンは毎日似たような色の服を着ている。ズボンは乾いた砂の色と、濡れた砂の色と、汚れた砂の色の三色だった。シャツはすべて白い。
 午前八時、朝食を摂る。ホットケーキ、フルーツ、コーヒーがテーブルに並べられる。毎朝同じメニューだ。ナイフとフォークの扱いよりも、ルートグーヴァは食事そのものに苦戦した。ホットケーキは口の水分がなくなるし、コーヒーは何を目的に飲んでいるのかわからない。フルーツは海藻の亜種だろうと飲み込んでいるが、おいしいとは思えなかった。
 午前九時、フィンはショルダーバッグひとつで出かける。街の北にある研究所に勤めており、研究旅行で不在の先生の研究をあずかっているそうだ。黙って出ていくので、ルートグーヴァが気づいたときには姿がない。クラーケンの体であれば、匂いや空気の流れで動きが察知できるだろうが、人間の体ではドアが閉まる音を聞き逃すとそれまでだ。
 午前九時十五分。フィンの不在を入念に確かめ、ルートグーヴァは捜索を始める。居間はひたすら物が多い。南洋の呪術が編み込まれた丸いラグの上に、頂点をぴたりと合わせて二脚のソファが据えられている。床には望遠鏡や一抱えもある薄紅色の水晶が置かれ、天井からは色とりどりの貝で作られた大小のモビールが垂れ下がっている。壁は一面作りつけの書棚だ。本以外にも、カエルの置物や紐で繋がれたガラス玉などが雑多に並んでいる。
 キッチンは狭く、食器が二組ずつしかない。シンク下の棚にはレシピの本が何冊も入っていた。どれもぼろぼろだ。ページの端が折られ、赤い線が引かれている箇所もある。
 洗面所もトイレも狭かった。人間の頭ほどもある宝玉を隠せそうな場所はまったくない。洗濯室は家の中でもっとも狭く、洗濯機だけで空間が埋まっている。洗濯機の側面に書かれた製造年は十年以上前だった。レヴィアタンが、人間の技術の進歩は恐るべき速さだと言っていた。もっと新しい型があるだろうに、どうして買い替えないのだろう。
 裏の小屋の鍵は居間の書棚から見つけた。早速開けてみたが、潜水艇は奇妙な形だった。透明な球体の三方を丸みのある直方体が囲んでいる。球体の内部にはふたつの座席が前後に並び、多くのスイッチとレバーがある。肝心の宝玉は見当たらない。
 先生の寝室も書斎も、物が置けそうな場所には大量の本と雑貨が詰め込まれていた。書斎には頑丈そうな木の机が据えられ、カレンダーや筆記具が置かれていた。もうすぐ六月が終わる。カレンダーの隣には写真が何枚か飾られていた。逆さに吊るされたカジキと髭の男性と少年が写っている。殺した生物を誇らしげに掲げる。人間は野蛮だ。
 写真の少年はフィンだ。髭の男性が先生だろう。先生はフィンの肩に手を置いて微笑んでいる。フィンは少しも笑っていない。写真の中でも現実でも、フィンは表情が欠落している。
 フィンの部屋は客間より狭い。家具以外は本ばかりで、すべて先生の著書だった。こうしてなんの進展もなく、一日が終わる。フィンが音もなくドアを開けて帰ってくるまで、ルートグーヴァは居間で本を読んで過ごす。夕食は野菜とベーコンのスープ、パン、オムレツだ。これも毎日変わらない。
 食後、ルートグーヴァは食器をシンクで洗う。最初は洗剤のぬめりで皿を落としそうになったが、すぐに慣れた。皿洗いができるようになっても、宝玉は見つからない。隠し部屋でもあるのかと、丸一日床と壁と天井を叩いて空洞を探したが、空振りに終わった。
 魔女はルートグーヴァが陸で宝玉を取り戻すと言った。借りは作らないとも言っていたので、嘘ではないだろう。結論はひとつだ。
「あの家に宝玉はない」
 ルートグーヴァが告げると、ハイドラストイエは腕を組んで唸った。海は静かだった。波が胡坐をかいたハイドラストイエにぶつかり、ルートグーヴァの足元までやってくる。
「恐らく研究所に保管しているんだろう。出入りには許可証が必要らしい。ハイドラストイエ、手配してくれ」
「許可証な。帰ったら王様に言う」
 ルートグーヴァは空を見上げた。月は左側がほんの少し欠けているが、丸く明るかった。数日で、ルートグーヴァが上陸してから最初の満月が昇る。あと二ヶ月。
「で、どうよ。陸の生活は。ってか、お前の声って陸で聞くと全然違うな」
「この体から出ているだけで、私の声ではない。お前の声も、皮膚を通して聞くのとは違う。鮮明だ」
 陸に上がる前は、耳も口も不便だと思っていたが、実際に人間の体になってみると機能的だった。人魚と半魚人の一族の声が大きい理由は体の構造によるのだと思っていたが、単純に大きな声でやり取りする文化なのだろう。
「なあ、人間の女子ってどんな感じ? かわいい? オレが好きそうな子いた?」
 ルートグーヴァは腕を組み、ため息をついた。いくら人魚と半魚人の一族が乱婚でも、人間まで恋愛対象にするのはどうかと思う。
「例の人間以外は誰にも会っていない。お前は見境がなさすぎる」
「好き嫌いはちゃんとあるって。でも、かわいい子はとりあえずチェックしとくだろ」
「しない」
 クラーケンは一夫一婦が基本だが、一生添い遂げるカップルは珍しい。たいてい二、三回離婚する。千年以上生きるので、長くいっしょにいる間に嫌気が差してしまうらしい。
「愛する相手はひとりでいい」
「好きな子はいっぱいいた方がいいぞ。ひとりに振られても次がいる。まあ、うちの一族にもお前みたいなタイプたまにいるけどな。で、あいつ、どんな奴?」
「全長……いや、人間は身長か。地面からこれくらいだ」
 ルートグーヴァは目の少し下を差した。
「体重はわからない。目が青くて、髪は砂浜に似た色をしている」
「いや、そうじゃなくて。どんな性格なんだ」
「性格?」
「明るいとか、楽しいとか、ひねくれてるとか、何かあるだろ」
 フィンについて、特に性格がわかるような情報は得ていない。強いて言うなら、几帳面だろうか。規則正しい生活をしているし、料理のメニューも服の組み合わせも毎日同じだ。ルートグーヴァがそう答えると、ハイドラストイエは大仰に肩を落とした。
「お前、そんなだから恋人できないんだぞ」
 昔からよく言われる。余計な世話だ。欲しいとも思っていない。
「恋人は今関係ない」
「大ありだろ。もう何日もいっしょに住んでるのに、なんで性格がわかんねぇんだよ」
 なぜと聞かれると困ってしまう。フィンの言動には注意を払っているつもりだ。フィンはドアを左手で開けて右手で閉め、スプーンを握って持つ。発言に限れば、情報不足だ。おはよう、おやすみといった基本的なあいさつと、連絡事項以外にはほとんど会話がない。
「しゃべらないとか意味わかんねぇ。何か話せよ。今日水温いねーとかでいいから」
「陸では、いい天気ですね、だ」
「そうじゃねぇよ。話すのが大事なんだ。奴と楽しくおしゃべりできるようになる。つまり、仲良くなる。で、宝玉を隠してる場所を聞き出すんだ」
 なるほど。ハイドラストイエもたまにはいいことを言う。一人で闇雲に戸棚を開けていくよりも、効率がよさそうだ。
「どうせよそよそしいしゃべり方しかしてないんだろ。それじゃ仲良くなれないぞ」
 図星を指され、ルートグーヴァは返答に詰まった。確かにフィンとの会話は定型的すぎる。
「いいか、一方的に話すだけじゃダメだ。相手の話も聞いてやれ。そんで、話すときはちゃんとオチのある面白い話をしろ。あと、困ってるのを見逃さずに助けてやると、一気に距離を詰められる。ちなみに全部実証済みだ」
「わかった。試してみる。お前が異性を口説きまくっていたのも無駄ではないんだな」
「それ、褒めてるか?」

 ハイドラストイエから助言を受けた翌朝、ルートグーヴァは早速フィンとの会話を試みた。いい天気ですね、と言おうにも今日は空が曇っている。
「今日は曇っていますね」
 仕方がないので、事実を述べる。コーヒーを飲んでいたフィンは、窓の外に顔を向けた。
「そうですね」
 会話が途切れる。他の話題を探していると、皿の上のオレンジが目に入った。
「フィンは、フルーツが好きですか」
「いえ、別に」
 またも会話が途切れる。ルートグーヴァが次の話題を探しあぐねているうちに、フィンは出勤してしまった。フィンの答えは短すぎて会話を続けにくい。もっとフィンが話したくなるような話題が必要だ。ルートグーヴァは話題について一日考え、帰宅したフィンをつかまえた。
「いつも似たような色のズボンですが、フィンはその色が好きなのですか」
「いえ、別に」
「フィンの故郷はどんなところですか」
「都会です」
「どんな研究をしていますか」
「色々と」
 フィンは小首を傾げた。
「先生は色々なものに興味を持ちます。同時にたくさんのことを調べたり研究したりします。知っていますよね」
「はい、そうですね」
 今度はルートグーヴァが短い返事しかできなかった。
 夜中に窓を叩く音で目を覚ます。頭だけ動かすと、外で泡沫の精霊たちが手を振っていた。ルートグーヴァはベッドから転がり落ちないようゆっくりと起き上がった。この数日でようやくベッドで横になって眠れるようになった。それまでは部屋の広さが落ち着かず、机の下でうずくまって寝ていた。翌日になると体中が痛かった。
「許可証は無理だったみたいよ。代わりに紹介状ですって」
「研究所に持っていくと、許可証と交換できるんですって」
 封筒の宛先は研究所の総務部になっていた。フィンとは仲良くなれないが、研究所に行けば少しは宝玉に近づけるだろう。
 翌朝、紹介状を見せるとフィンはかすかに眉を寄せた。
「急に届いたんですか」
「私に持たせるのを忘れたので、後から送ってくれたんです。先生は研究で頭がいっぱいだったんでしょう」
「……そうかもしれません」
 ルートグーヴァはフィンといっしょに研究所へ向かった。パンの匂いがする。スカートの裾をヒラムシのように翻して人間が駆けていく。海はルートグーヴァが最初に陸に上がった日と変わらず静かだった。波はよく手入れされた人魚の鱗のように並び、規則正しく浜に寄せている。
 道は研究所に近づくにつれて登り坂になり、途中から角度が急になった。研究所は街の北端の崖に建っている。道と海に挟まれた細長い土地だが、相当な広さだ。高さも大きさもまちまちの建物が密集し、あるいは点在している。
 フィンは厚いガラスの扉を両手で押し開け、隙間から屋内へ入った。ルートグーヴァは同じ隙間を通ろうとして肩をぶつけた。クラーケンの姿ならもっと細い幅でも抜けられただろうが、人間の体ではそうもいかない。
 通路は窓がなく薄暗かった。床も壁も天井も白い。フィンは通路を曲がり、銀のノブのドアをノックして開けた。
「ここが総務部です。先生の紹介状を貸してください」
 フィンは偽の紹介状を黒い髪の女性に渡した。紙を一枚差し出され、ルートグーヴァは氏名や住所を書いた。フィンがいない間に練習したので、字はそれなりに書ける。
「はい、どうぞ。仮許可証よ。機密区域の立ち入りは禁止されています。気をつけて」
 仮許可証は厚手の紙で、穴が空けられていた。穴には紐が通っている。ルートグーヴァはフィンを真似て紐を首にかけた。
 フィンは廊下に出ると、ルートグーヴァに目もくれず歩き始めた。案内はここまで、という意味だろうか。フィンと離れて敷地内を探索してもよかったが、行く当てはない。ルートグーヴァが後からついていくと、フィンは立ち止まって振り返った。
「フィンが先生からどんな研究をあずかっているか、興味があります。しばらくはフィンと行動したいです」
「……どうぞ」
 様々な話題を振り続けた結果、フィンは「先生」にとても敏感だとわかった。「先生」と聞くと数秒長く目を合わせるし、多少口数が増える。
「僕は、頭足類の研究はしていませんけれど」
 どうぞ、の続きがあった。「先生」の効果を実感しつつ、ルートグーヴァはフィンについていった。控室で余っている白衣を借り、研究室へ入る。長い机が部屋を半分に区切っている。机は同じく長い薬品棚で半分に仕切られていた。棚を挟んで向かい合っていた数名の研究員が顔を上げ、フィンとルートグーヴァをちらりと見て、また手元に視線を戻す。
 フィンが部屋の隅にある背の高い箱の扉を開けると、冷気が流れ出た。見た目も大きさも家にあるものとは違うが、冷蔵庫らしい。フィンは五十センチほどの銀色のトレイを取り出し、ドアに向かった。
「ありがとうございます」
 先回りしてドアを開けると、フィンはルートグーヴァを見ないで礼を言った。研究員たちがこちらの様子をうかがっている。好意的な視線ではない。新参者に厳しいのは海でも陸でも同じようだ。
 フィンは隣の部屋に移り、中央に据えられた黒い作業台にトレイを置いた。ひきだしを開けたり、干されたタオルを取ったりと動き回っている。気づけばまったく会話をしていない。
「何か手伝いましょうか」
「いいえ、必要ありません」
 ハイドラストイエの助言に従い、困っているなら助けようと思ったが、あっさり断られてしまった。仕方なく、ルートグーヴァは作業台の傍に立っていた。トレイの上のサバを見ると顔をしかめてしまいそうなので、目を逸らす。研究所で何が行われているかは、レヴィアタンから聞かされている。
 水質、海流、海底の地形、北の果ての氷山、何万匹ものイワシの大群、それを追いかけるザトウクジラから、その体についたフジツボまで、人間たちは海に関する何もかもを研究し、調査している。人間は欲深い。特に、恐ろしいほど知識欲にあふれている。研究対象が生物である場合、人間は好んで彼らを切り刻む。ただ解を得るために、無数の命が奪われる。
「心せよ、ルートグーヴァ。研究所は人間の欲望のるつぼであり、もっとも醜悪な場所なのだ」
 レヴィアタンは怒りに背びれを震わせながら語った。
 このサバはこれからフィンの手で切り刻まれる。人間は無神経で残酷だ。宝玉を取り戻すために、フィンに話を合わせなければならない。苦痛だが、今は無神経で残酷なふりが必要だ。
「サバの何を調べているのですか。先生からはどんな指示を?」
 素気なくされないよう、「先生」を入れて会話を試みる。フィンはルートグーヴァの問いに答えず、サバのえら蓋やひれを持ち上げていた。聞こえなかったのだろうか。ルートグーヴァがもう一度声をかけようとしたとき、フィンは思い出したように口を開いた。
「毎年一定の割合で回遊ルートを外れる群がいるので、その理由を調べています。先生の『北海生息サバ回遊考』によると、サバは孵化後一度北上し、成長してさらに北上、繁殖期に向けて南下します。先生が追跡した四つの群のうち、一つが二度目の北上をしませんでした。先生は餌場の変動か、遺伝子疾患ではないかと仮定しています」
 こんなに話すフィンは初めてで、ルートグーヴァは少なからず驚いた。
「餌場の変動の場合、サバ以外の生物にも生息域の変化があると思いますが、どうですか」
「別の回遊魚には変化がありませんでした」
 回遊魚とは住んでいる深さが違うので、隣人とは言え詳しくは知らない。ルートグーヴァは黙ってうなずいた。
 フィンは細い刃のハサミやピンセットをトレイの右側に等間隔に並べた。道具を並べ終えると、フィンは両手を胸の前で組んで目を閉じた。
「何をしているのですか」
「お祈りです」
 これが祈りか。人間は世界中で多様な神を作り、信仰している。神への願い、感謝、懺悔などを祈りと呼ぶらしい。海の王国では誰も祈らない。無駄だからだ。神が下界に干渉しなくなってから気が遠くなるような時が流れている。宝玉を賜った海の王でさえ、神と交信する術はない。フィンは神に祈りが届くと信じているのだろうか。届かないと知りながら祈っているのだろうか。
「何を祈ったのですか」
 例えば、有効なデータが取れますように。例えば、他の生命を奪う罪をお許しください。例えば、研究ができることに感謝します。きっとどこにも作用しない身勝手な内容なのだろう。
「僕は今からこのサバを解剖します、と」
 想像とまったく異なる回答に、ルートグーヴァは戸惑った。
「それは、お祈りですか」
「はい」
 ただの報告のように思える。
「そのお祈りは必要ですか」
 聞かずにはいられなかった。
「必要です」
「なぜ」
 フィンは持ち上げたハサミを作業台に戻した。じっとサバを見つめている。下ろすまぶたを持たないサバもまた、フィンを見つめている。
「先生の助手になったばかりのとき、僕は、どうやって解剖をしていいかわかりませんでした。そうしたら、先生がお祈りをしなさいと言ったんです」
「お祈りと解剖の仕方がわからないことの関係性は?」
 フィンの話は何も説明していない。助手を務めるうちに、道具の使い方や切開の手順は覚えられるだろう。回数を重ねればコツもつかめるに違いない。すべては知識と経験に起因する。
「お祈りをすれば、死んだ生き物とどう接すればいいか、神様が教えてくれるらしいです。先生が、そう言っていました」
 フィンはハサミを取り、サバの排泄孔より少し腹側に切込みを入れた。ショキ、と硬い音がする。間を置いて、ショキ、ショキ、と続く。フィンの視線はサバに固定され、動かない。
「接するとは?」
 この場合、接する対象はサバだ。フィンの言葉では、死んだ生き物。死んだ生き物と接するとはどういう意味だろう。フィンはハサミを止めたが、ルートグーヴァを見なかった。ねっとりと黒い血を流すサバを見下ろしている。
「答えられません」
 再びハサミが動き出す。一定のリズムで音を刻む。
「答えられないというのは、わからないという意味ですか」
「いいえ」
「わかっているけれど、答えられない?」
「はい」
「なぜ」
 フィンはサバから顔を上げ、ルートグーヴァを見た。
「言語化できません」
 会話が断ち切られる。ハサミの音がしない室内は静かだった。この部屋だけ研究所から切り離され、海の底に沈められているようだ。
「僕は」
 ややあって、フィンは口を開いた。視線は低い位置をさまよっている。
「僕は、思っていることを説明するのが下手、みたいです。先生が、そう言っていました」
 まるで免罪符だ。先生が言えば、フィンは意味のない祈りも感情を説明できないことも受け入れてしまう。神よりもずっと先生を信仰しているらしい。
 ルートグーヴァは切り開かれていくサバとフィンをながめていた。フィンは解剖を「どう接すればいいか」と言った。これまでの会話から、フィンの「接する」は精神的な意味だと推測できる。死んだ生き物と精神的にどう接すればいいかわからない、というのがフィンが祈る理由だ。ならば、と別の疑問が浮かぶ。
「生きているものと接するとき、フィンはお祈りをしますか」
「いいえ」
「なぜですか」
 フィンの手が止まったが、一瞬だった。フィンは傍らのタオルで手を拭き、ノートに何かを書きつけた。ペンを置き、もう一度タオルを持ち上げ、今度は完全に停止した。幼い頃に見つけた岩のようだ、とルートグーヴァは思った。その岩はサンゴ礁から離れた砂地にぽつんと転がっていた。無数の水泡を寄せ集めたようなソフトコーラルが育ち、透明な体の小さなエビがせっせと行き来するようになっても、岩はじっとしていた。トウアカクマノミの一家が世代を経てもじっとしていた。ルートグーヴァがそこを離れる瞬間にも、岩はじっとしていた。
「生きているものと、僕の間には、関係性があります」
 フィンが話し始め、ルートグーヴァは記憶の海から引き戻される。
「その関係性は、種別、固体別で、異なります」
 相手がオキアミなのか、マダラトビエイなのか、ハイドラストイエなのか、王なのか、魔女なのか。
「その関係性は、死んでからも、継続されるのか。継続されるとしたら、生前無関係であった場合、新たに関係を構築できるのか」
 一匹のオキアミが死んでも気づかない。マダラトビエイが死んだら食べるかもしれない。ハイドラストイエが死んだら悲しむだろう。王が死ねば喪に服す。魔女が死んだら……想像できない。
「継続されないとしたら、僕は、その死んだ生き物を、どうすればいいのか」
 オキアミもマダラトビエイもハイドラストイエも王も魔女もすべてを同じ死体と見なした場合、どうすればいいのだろう。
「そもそも、死んだ生き物は、命が、ない状態なのか。命が、死んでいる状態なのか」
 フィンは両手でタオルを握り締め、話し続けた。指を組み合わせてはいないが、祈りのポーズに似ている。フィンの話は同じところを何度も行き来した。生きているとは何か。死んでいるとは何か。解剖している対象は肉体なのか生命なのか。フィンが発する言葉はすべて疑問形だった。誰も答えない疑問を吐き出し続けるフィンを、ルートグーヴァはじっと見ていた。
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 フィンは何を感じているのだろう。すべての人間がフィンと同じように考えているのか。それとも、フィンだけが特別なのか。人間に対する評価を修正すべきだ、とルートグーヴァは思った。少なくともフィンに対しては、絶対に必要だ。
「フィン」
 声をかけると、フィンは口をつぐんだ。ぎこちなく首だけを回し、ルートグーヴァを見る。
 ハイドラストイエが言っていた。堅苦しい言葉遣いでは、仲良くなれない。
「もう少し、砕けた話し方をしてもいいだろうか」
 フィンは二度瞬きをした。それから小さな声で、どうぞ、と言った。
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