海異恋愛譚

タウタ

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第4章

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 フィンと研究所に通うようになって十日が経った。フィンは多忙だ。データを取り、書類を整理し、水槽を洗い、顕微鏡をのぞく。扱う生物もデータも多岐にわたっている。相変わらず手伝いはさせてもらえない。
 フィンは壁の時計と手元を見比べ、広げていた器具や資料を片付けて席を立った。ルートグーヴァは黙ってついていく。向かう先はカフェテリアだ。大量の食糧が並べられ、人間たちが思い思いに皿に取っている。何度見ても奇妙な光景だ。ルートグーヴァとフィンは四人掛けの丸いテーブルに向かい合って座った。
「先生の、オウムガイの潜水機能に関する考察だが」
 フィンはエビの炒め物を口に入れたところだったが、先生という単語に反応して顔を上げた。
「文末にフィンの名前があった。どの部分を手伝ったんだ」
 ルートグーヴァはフィンがエビを飲み込む間、ドレッシングをかけていないレタスを食べていた。カフェテリアで色々な食べ物を口にしてみて、フルーツよりは野菜の方が食べやすいとわかった。エビやイカの料理を見つけて喜んだのも束の間、加熱された魚介類はなんとも表現できない食感でげんなりさせられた。まだハムやソーセージの方が食べられる。
「海中での実地観察と、検体採取と、飼育と、解剖と……」
 要するに、ほとんどフィンがしているらしい。
「実地観察は潜水艇で? 深度を一定に保つのは難しいだろう」
「覚えているので、できます」
 フィンは会話を打ち切るように顔を伏せ、黙々とエビを食べる。口調を変えてもフィンの態度は変わらなかった。馴れ馴れしいと怒られるよりはいいが、歩み寄れた気はしない。
「やあ、シュナイダー」
 白衣の男が三人近づいてきた。
「ごく短い論文を書いたんだ。食事中に悪いが、感想を聞かせてくれないか。今。すぐに」
 「今」と「すぐに」に妙なアクセントを置き、一人がクリップで留められた紙の束を差し出した。フィンは二呼吸ほど間を取り、フォークを置いて受け取った。嫌な感じがする、とルートグーヴァは思った。根拠はないが、確信はある。クラーケンで言えば皮膚感の一種だが、人間の体ではなんと呼ぶのだろう。
「シュナイダー、まだかい」
 フィンは身じろぎもせず論文に見入っている。男の問いかけに答えない。ページをめくろうともしない。
「それほど難しい内容ではないんだ。さくっと読めるはずなんだが、どうかしたのか」
 論文の男がフィンを急かし、他の二人がにやにや笑う。ルートグーヴァは嫌な感じの正体に気づいた。悪意だ。彼らはフィンに危害を加えようとしている。フィンはなぜ動かないのだろう。逃げなければ、あるいは立ち向かわなければ、やられてしまう。
「フィン、私にも見せてくれ」
 ルートグーヴァはフィンの隣に席を移して論文をのぞいた。マダコの捕食における嗜好性の実験を行ったと書かれている。そっと紙を引っぱると、フィンは手を離した。ななめに目を走らせ、ページをめくっていく。ほとんどが実験の手順と条件で占められている。
「マダコのオスとメス、各二匹ずつについて捕食の際に嗜好性が見られるか」
「おい、勝手に読むな」
「対象は貝、カニ、イカ、ニシン」
「無視するな」
 ルートグーヴァは実験結果が表にまとめられたページを抜き出し、フィンに渡した。
「一定の嗜好性あり。雌雄の別なし」
 数秒のうちに、フィンがつぶやく。
「実験期間はどれくらいですか」
「三日間だ」
 フィンの問いに、ルートグーヴァは条件のページを見ながら答えた。水槽の大きさ、実験室の明るさ、餌を均等にマダコの視界に置く方法など、図解されたページをフィンに渡す。
「貝とカニは殻がついていますか」
「注釈はない」
 フィンが問い、ルートグーヴァが答える。
「殻つきだ。さっきから何なんだ。俺はシュナイダーと話してるんだぞ」
 論文を持ってきた男が苛立ちを露わにする。
「実験期間中、使用個体は固定ですか。実験前にはどのような餌を食べていましたか。殻つきの貝とカニは摂食までに殻を破壊する、あるいは毒を注入して開けさせる必要があります。イカとニシンはそのまま食べられます。マダコがそれを知っていた場合、最初からイカとニシンを選んだりはしないんでしょうか」
 フィンは凪いだ海のような目で、論文の男を見上げた。
「その可能性がないとは、まあ、今の段階では断言できない」
「色覚と嗜好性の関係についてはどういう結果を予測しますか。タコは色盲ですが、光度変化による影響はあると考えていますか。先生の『頭足類の視覚における簡易考察』によると、生息深度より実験室が明るい場合、イカなどの白い餌について知覚速度が」
「貴重な意見をどうも。失礼する」
 男は論文を引ったくり、足早に離れていった。他の二人は顔を見合わせ、白けた表情で去っていく。フィンは彼らをしばらくながめた後、ルートグーヴァに向き直った。
「助けてくれてありがとうございます」
 薄い青色の目がかすかに細められ、口角がわずかに上がる。ほのかな笑みは、ルートグーヴァがそれと認識すると同時に消えてしまった。まるで波をとらえ損ねたクラゲのように、フィンの内側へ沈んで見えなくなる。
「なぜ、彼らはあんな真似をするんだ。学問に議論は不可欠だが、純粋に議論目的で来たとは思えない」
 あの三人は縄張りを守るためでも、獲物やメスを奪うためでもなく、フィンを攻撃した。人間は不可解だ。そして、醜悪だ。
「不公平だからです」
「何が不公平なんだ」
「僕が、先生の助手をしているのが、です」
「私も助手だが、不公平だろうか」
「ルートは不公平ではありません。ルートが先生の助手なのは、優秀だからです。話しているとわかります。あなたは、聡明な人です」
 フィンは両手で眼鏡の位置を直した。正体を見破られたような気がして、ルートグーヴァは緊張した。
「僕は、みんなと同じようにできません。劣っているんです。劣っているのに、先生の助手だから、不公平なんです」
「劣っているというのは、具体的には」
 フィンはちらりとルートグーヴァを見て、もう湯気の立っていないコーヒーを一口飲んだ。それから、フォークで皿の上の食べ物を赤と緑と黄色に分け始めた。皿の縁に肉や野菜が寄せられる。中央が空き、数種類のソースが混ざった。トマトの種が流れてソースの表面でくるくる回っていた。
 フィンは黙っていた。踏み込みすぎたかもしれない。ルートグーヴァが質問を取り下げようと口を開きかけたとき、フィンのフォークが止まった。
「僕は、みんなと同じようにできないんです。クラスのみんなが、アルファベットを全部覚えたとき、僕はAとBとCしかわかりませんでした」
 文章を読むにも、暗算をするにも、とても時間がかかる。咄嗟に言葉が出なくなるので会話を続けられない。文字に限らず、新しい事柄をすぐに覚えられない。フィンは淡々と「みんなと同じようにできない例」を並べていった。
 思い当たる節がある。初めて会った日、フィンは偽の手紙を見つめて動かなかった。先ほどの論文も、なかなかページをめくらなかった。会話の途中で考え込んでしまうのは茶飯事だ。レシピの本はずいぶんと読み込まれているのに、食事のメニューは毎日変わらない。時代遅れの洗濯機は、買い替えると使えなくなってしまうのだろう。
「僕は、論文を書いたことがありません。長い文章を、うまく書けないんです」
 フィンは仮説や着想をすべて先生に話すそうだ。先生はフィンに適切な実験を指示し、得られた結果を元に論文を書く。
「先生の質問に、うまく答えられないことも、よくあります」
「先生の問いが特別に難しいんじゃないか」
 先生は一年の半分以上をフィールドワークに費やしている。目が届かない分、助手に求めるレベルは高くなるだろう。フィンが優秀だからあえて難しい質問をしているとも考えられる。ルートグーヴァの意見に、フィンは首を振った。
「僕は劣っているし、何の実績もないんです。ただ先生の助手というだけで、自由に研究ができる。それは、きっと不公平です。人間は不公平に、特に、自分が虐げられていると感じられる不公平に、我慢ができません」
 証明終了とでも言うように、フィンは色分けされた皿の上のものを食べ始めた。ルートグーヴァは納得できなかった。先ほどの三人が公平性について考えているとは思えない。恐らく、あの三人はフィンが文章を読むのが苦手だと知っていた。嫌がらせをしにきただけだろう。
「私はフィンが劣っているとは思わない」
 ルートグーヴァは食い下がった。フィンは優秀な研究者だ。先生の興味のおもむくまま、誰より多くの研究を進めている。実験動物の世話も、数値の記録も、解剖も培養も淀みない。サバの解剖のとき、ルートグーヴァへの回答は整然としていた。先ほどの小論は読むには時間がかかったが、要点がわかった後の対処は早かった。先生の論考への言及も、記憶していなければできない。
「これだけできて、なぜ自分が劣っていると思うんだ」
「実験も、先生の著作の引用も、覚えたからできるんです。覚えているのだから、できて当たり前です。それは、優秀とは言いません」
「しかし、忘れたり思い出せなかったりするだろう」
「忘れたり思い出せなかったりするのは、覚えていないからです。覚えたら忘れないはずです」
 どんな生き物でも完全な記憶を保つのは難しい。レヴィアタンさえ陸と人間について、忘れた、行ってみればわかるとしばしば回答を放り投げた。ハイドラストイエは新しい恋人ができると、過去の恋人の情報が混ざって困るとぼやく。対して、フィンの「覚える」はすなわち「忘れないし、すぐに思い出せる」らしい。
 フィンにはできないことが多いが、反面、驚くほどできることもある。劣っているとも優れているとも言い難い。多くの人間と能力が異なっている。
「そうだ、異なっている。違うんだ」
 フィンは、ヤドカリが外をうかがうように目だけをルートグーヴァに向けた。ルートグーヴァはフィンの顔をのぞき込む。
「フィンは劣っているのではなく、違っているんだ」
「個体差という意味ですか」
「個体差で片付けるには差が大きい。一面的に劣っていると結論づけるのは間違っている。もしもフィンが本当に劣っているなら、先生が助手にしたりしないだろう」
 フィンは上目遣いにルートグーヴァを見ている。眼鏡がずり落ちて目にフレームがかかっていたが、焦点はルートグーヴァに結ばれていた。
「先生も、同じことを言いました。君はみんなと違う。振れ幅が大きいから目立ってしまうだけだ、と」
 フィンがうつむき、砂色の髪が揺れる。
「僕は、先生が何を言っているかわかりませんでした。ルートにはわかるんですね。やっぱり、あなたは頭のいい人です」
 フィンは皿の上のものをスプーンで中央に集めた。かつん、かつん、と食器がぶつかる音がする。ルートグーヴァは黙るしかなかった。どんなに言葉を尽くしても、きっとフィンには「違い」が伝わらない。その理由がフィンが「違う」からだとしたら、先行き不安だ。「違う」相手と仲良くなれるだろうか。宝玉の在処を聞き出せるだろうか。
 ルートグーヴァはハイドラストイエの助言を思い返した。
 困っているときを見逃さずに助けると、一気に距離を詰められる。
「フィン、何か困っていることはないか」
「いいえ」
「では、一番苦手なことは」
 フィンはスプーンを止めた。
「料理です」
 レシピを読んで理解するまでに時間がかかる上に、食材が足らない場合にどうしたらいいかわからないらしい。
「いつも同じメニューですみません」
「文句を言っているわけじゃない」
「先生がいるときは、先生が料理をしてくれます。僕はあまり料理の練習をしていません。先生のごはんはおいしいです」
 ルートグーヴァは適当に相槌を打った。先生は料理上手らしい。
「カフェテリアには色々な食べ物があるので、たくさん食べてください」
 うまい返事を思いつかず、ルートグーヴァは自分の皿を引き寄せた。冷めたソーセージは硬かった。
 帰宅したルートグーヴァはフィンの目を盗んでレシピの本を持ち出した。写真や挿絵の多い本を選んだが、未知の材料ばかりで解読は困難だ。フィンが眠ってから泡沫の精霊たちを呼び入れ、冷蔵庫や貯蔵庫の食材と本を照らし合わせる。
「ねえ、この黄緑色のはリンゴじゃないの?」
「違うわよ。ほら見て。本のリンゴは赤いもの」
「形は同じだぞ」
 泡沫の精霊たちは海辺のことしか知らないらしい。野菜は玉ねぎとキャベツしかわからず、肉類はまったく見分けがつかないと言う。
「あっ、広場の噴水にいる子たちは? あの子たちの方が詳しいんじゃない?」
「仲間がいるのか」
「私たちよりちょっと小さくてちょっと力が弱いけど。私、呼んでくる」
 噴水に住む精霊たちの手を借りて、粗方の食材は判別できた。結果、材料が足らず、オムレツとホットケーキ以外は作れないと判明した。
「別の卵料理を作ればいいのよ」
「ルートグーヴァ、あなた卵を割れるの?」
「経験はないが、手先が器用になる薬は飲んでいる」
「じゃあ、大丈夫ね」
 海と噴水の精霊たちは本のページを次々とめくって甲高い声を交わす。ルートグーヴァは盛り上がりすぎた彼女たちに静かにするよう注意し、別の本で調理器具の名称を覚えた。
 精霊たちの満場一致で朝食のメニューが決められ、翌朝の食卓にはパンとベーコンとポーチドエッグが並んだ。ポーチドエッグは干からびたミズクラゲのようだ。本には塩と胡椒とマヨネーズをかけろと書かれていたので、指示に従った。フルーツは最終的な形状から切り方を推測した。コーヒーだけは作る過程が想像できず、断念した。
「おはようございます」
「おはよう」
 フィンは眼鏡の位置を両手で直し、テーブルとルートグーヴァを見比べた。
「ルートが作ったんですか」
「料理が苦手だと言っていたから、手伝えないかと思ったんだ」
 フィンは見えない糸で引かれるように椅子に座った。フォークを入れると、ポーチドエッグから黄身が流れ出る。ルートグーヴァは寝不足でぼんやりとしながらフィンをながめていた。
「久しぶりに、誰かが作ったごはんを食べました」
「そうか」
「おいしいです。ありがとうございます」
 フィンはフォークを握ったまま、笑った。
 目を細めて、口角を上げて、はっきりとわかる笑顔だった。
「そうか……それは、よかった」
 感想が丸ごと声になった。ルートグーヴァが宝玉の在処に一歩近づいたと考えられるようになったのは、フィンがコーヒーを淹れ始めてからだった。
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