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エピローグ
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インターホンが鳴り、フィンは玄関へ向かった。ドアを開けると海鳴りが聞こえ、北風が頬を刺す。チェックのマフラーを鼻まで巻いた郵便配達員が小包を差し出した。受け取りのサインは少しうまくなったと思う。ルートの字がきれいだったのがうらやましくて練習した。まだ自分の名前だけだが、先生が帰ってくるまでには、なんでも上手に書けるようになりたい。
食パン一斤ほどの小包は、もちろん先生からだ。フィンに届く郵便物の九十パーセントは先生からで、残りの十パーセントは首都にいる両親からのハガキだった。小包を持って浴室に向かう。以前は家にいる時間のほとんどを先生の書斎で過ごしていたが、浴室に変わった。
変化は他にもある。魚のバターソテーを覚えた。切り身であれば調理できる。それから、浴槽が使えなくなった。元々シャワーしか使っていないので不自由はない。
フィンは浴室の前で靴を脱ぎ、靴下を丸めて押し込んだ。ズボンの裾を折り上げてドアを開けると、緑がかった金色の目と視線が合う。フィンは冷たい石の床をつま先立ちで歩き、椅子に腰かけた。フィンが背もたれのショールを肩にかけると、暗い赤色の腕がぬるりと足首に絡みついた。
「見てください。先生から届きました」
フィンは海の言葉で話した。ルートが練習相手になってくれたので、ずいぶん流暢に話せるようになった。今は海と陸両方の言葉を使ってルートと会話をしている。ちゃんと教わったけれど、彼の名前はどうしても発音しにくい。ルートでいいと言われたので、ルートのままだ。
「中身は?」
「今から開けます」
細い麻紐をほどき、油紙をはがして箱を開ける。ルートは興味深そうにフィンの手元を見上げている。箱には一つずつ緩衝材で包まれたウニや貝殻が入っていた。これらは分類し、標本箱に並べて保管する決まりになっている。
手紙も入っていた。青いインクで、フィンにも読めるよう一文字ずつはっきりとしたブロック体で書かれている。フィンは筆記体が苦手だ。印刷された字は読めるが、人が書いた字はそれぞれに癖があり、形が違うのでうまく読めない。
「フィン、読んでくれ」
「はい。フィンへ、元気、ですか。ご飯を、食べ、て、いますか。毎晩、夢……夢、あ、素敵な夢を、見ていますか」
フィンのたどたどしい音読を、ルートは黙って聞いている。潜水艇の故障は気にしなくていいと書かれていた。フィンが無事で安心したと続いている。
「僕の手紙、届いたんですね」
「そのようだな」
ルートに手伝ってもらって初めて先生に手紙を書いた。先生は常にヨットで移動しているので届くか不安だったが、うまく受け取ってもらえてよかった。
「すごいです。返事が来ました」
「手紙とは、そういうものではないのか」
「たぶん、そういうものです。でも」
なんと説明すればいいのだろう。すごいと思ったからすごいと言ったが、何どうすごいのかルートには伝わらなかった。考え込んでいると、ルートの腕が足首をもう一周した。ルートはいつも一生懸命フィンを知ろうとしてくれる。
「ゆっくりでいい」
フィンはうなずいた。ルートはやさしい。ただ静かに待っていてくれる。いっしょにいると言って、本当にいっしょにいてくれる。ルートに助けられた日からしばらくは、ルートが海に連れ戻されてしまうのではないかと不安でたまらなかった。
数週間前、諸々の報告に来たラス――彼の名前もまた発音しづらい――に、誰かルートを連れ戻そうとしていないかと聞いたら、呆れ顔で一蹴された。
「誰も来ねぇよ。わざわざ陸に上がってこいつと戦って勝って引きずって帰れる奴? そんなのどこにいるんだよ」
「いなくはないが、彼らは来ないだろう。私がいない方が都合がいいだろうから」
どうやらルートはクラーケンの長老たちのお気に入りで、同族の一部から政敵と見なされているらしい。ラスによると、お気に入りを失った長老たちの嘆きは相当で、発狂寸前だそうだ。
「誇張しすぎだ」
「わりとマジだぞ。お前もうちょっと愛されてる自覚持てよ。じーさんたちがかわいそうになるぜ。いや、そうでもないか。オレの首絞めやがったからな。ざまぁみろって感じだ」
長老たちに比べて王は穏やからしい。
「気が向いたら帰ってこいってさ。王様から伝言な」
王は、フィンが海底王国の場所を知ったからといって事を起こすつもりはないようだ。
「王に、御慈悲に感謝すると伝えてくれ」
「はいはい、言っとく言っとく」
王は魔力のほとんどを失い、今は玉座から動けないらしい。あの日、王は火山を再度封印するため、死を覚悟ですべての魔力と生命力を使おうとしていた。たとえ火山を封印できたとしても、ヘドロに覆われた海にはどんな生物も棲めない。少しでも被害を抑えようと、水流を起こしてヘドロを火山へ戻していたらしい。
「そこに身動きできないばば様が飛んできて、ラッキーってばば様の魔力使って火山に結界張ったんだってよ。で、王様はギリギリ助かったってわけ」
欠けた宝玉の代わりに魔女の黒真珠が使われ、王国の国境を成す結界も再構築された。
「ルートが言ってたばば様の勝算な、あれよくわかんねぇってよ。たぶんオレたちが黒真珠持って逃げてる間に未来が変わったんだって、レヴィアタンが言ってた」
「そうか。何がきっかけだったか気になるが、魔女が死んでは確かめようもないな」
「未来なんか見えない方がいいって。振られるってわかってたら口説く気失せるだろ」
「お前は本当にそればかりだな」
ラスは一時間ほど話し、最後に「ルートの代わりにこき使われて心労で鱗が剥げた」と恨み言をこぼして帰っていった。
「半魚人はストレスで鱗が剥げるんですか」
「フィン、今のは冗談だから真に受けなくていい」
あれから、ラスは姿を見せていない。鱗は冗談でも、こき使われているのは本当なのだろう。
「ルートは、ラスに手紙を書かないんですか」
「海に紙は持ち込めないからな。それに、字を書くにはしばらく練習が必要だ」
確かに、クラーケンの腕でペンを握るのは難しいだろう。もしもルートが海に帰ってしまっていたら、フィンがいくら手紙を書いても届かない。こうして近くにいて、触れているから話ができる。どんなに近くにいても、触れていないと互いの声は聞こえない。当たり前のように会話しているが、ふたりの通信手段はとても危うい。
「ほんのちょっとのことで、僕の手紙は先生に届かないんです」
郵便局の窓が開いていて、手紙が風に飛ばされてしまったら。手紙を乗せた船が転覆してしまったら。先生が郵便局どころか人もいない孤島で研究していたら。
ルートと浴室で会話をするよりもずっと多くの危険を乗り越えて、フィンの手紙は先生に届いた。先生は手紙を読み、返事を書いた。先生の手紙もまた多くの危険を乗り越えて、フィンに届いた。そうしてようやく、先生とフィンはお互いにどうしているかを知る。
「たくさんの時間と、たくさんの労力をかけて、かけてでも、人間は、誰かに何かを伝えたいんです。それは、その発想は、とても、すごいです」
「そうだな。人間に限った話ではないが」
イルカやクジラは鳴き交わし、シオマネキたちはハサミを鳴らす。コウイカやタコは皮膚の色を変え、群れ成す魚たちは微妙なひれの動きで意思を示す。この世界ではすごいことがたくさん起こっているのだ、とフィンは思った。
「僕は、上手に説明できましたか」
「ああ、よくわかった」
ルートの皮膚の色が、かすかにオレンジがかって見える。喜んでくれたらしい。ルートは、フィンがフィン自身の気持ちや考えについて話すとうれしそうにする。
「通訳の、ミランダ、が、伝承、おもしろい伝承を、教えてくれました」
手紙の続きには、いっしょに旅をしている仲間とのやり取り、航海の途中で遭遇した珍しい気象現象、思いついた仮説について書かれていた。先生は今、赤道付近でベラの分類をしているらしい。当分は帰れないそうだ。末尾に、また手紙を書くとあった。
「つい……追伸、フィンも、手紙、手紙を、書い、書いて、ください。波が、届けて、くれます」
フィンは首を傾げた。波が届けてくれるとはどういう意味だろう。おとぎ話にあるように、瓶に詰めて海に流せばいいのだろうか。海流図を思い起こす。先生がいる赤道付近に届けるには、どこから流すのが最適だろう。
「フィン」
「はい」
「先生がいなくてさびしいか」
「はい。少しだけ」
フィンは正直に答えた。起きて、朝食を摂って、研究所に行って、帰ってきて、夕食を摂って、シャワーを浴びて、歯を磨いて、寝る。一人でもできる。先生がいなくても生活に支障はない。さびしさとは別の問題だ。
ルートがいなくなったとき、フィンは途方に暮れた。朝起きられなかったり、食事が喉を通らなかったり、気づけば何十分も無駄にシャワーを浴びたりしていた。一人でも大丈夫だったはずなのに、急に何もできなくなってしまった。さびしくてさびしくて、どうしていいかわからなかった。ルートに関する限り、生活とさびしさは同じ問題らしい。先生とルートの違いは、フィンには説明できない。
「でも、平気です」
いつか、きちんと言葉にできるだろうか。
ルートは喜んでくれるだろうか。
「だって、ルートがずっといっしょにいてくれるんでしょう」
ルートは何も言わずに腕を持ち上げた。フィンが手を差し出すと、腕の先がくるりと手首に巻きつく。手首の内側、やわらかな皮膚に吸盤がひとつ吸いついた。
Fin.
食パン一斤ほどの小包は、もちろん先生からだ。フィンに届く郵便物の九十パーセントは先生からで、残りの十パーセントは首都にいる両親からのハガキだった。小包を持って浴室に向かう。以前は家にいる時間のほとんどを先生の書斎で過ごしていたが、浴室に変わった。
変化は他にもある。魚のバターソテーを覚えた。切り身であれば調理できる。それから、浴槽が使えなくなった。元々シャワーしか使っていないので不自由はない。
フィンは浴室の前で靴を脱ぎ、靴下を丸めて押し込んだ。ズボンの裾を折り上げてドアを開けると、緑がかった金色の目と視線が合う。フィンは冷たい石の床をつま先立ちで歩き、椅子に腰かけた。フィンが背もたれのショールを肩にかけると、暗い赤色の腕がぬるりと足首に絡みついた。
「見てください。先生から届きました」
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「中身は?」
「今から開けます」
細い麻紐をほどき、油紙をはがして箱を開ける。ルートは興味深そうにフィンの手元を見上げている。箱には一つずつ緩衝材で包まれたウニや貝殻が入っていた。これらは分類し、標本箱に並べて保管する決まりになっている。
手紙も入っていた。青いインクで、フィンにも読めるよう一文字ずつはっきりとしたブロック体で書かれている。フィンは筆記体が苦手だ。印刷された字は読めるが、人が書いた字はそれぞれに癖があり、形が違うのでうまく読めない。
「フィン、読んでくれ」
「はい。フィンへ、元気、ですか。ご飯を、食べ、て、いますか。毎晩、夢……夢、あ、素敵な夢を、見ていますか」
フィンのたどたどしい音読を、ルートは黙って聞いている。潜水艇の故障は気にしなくていいと書かれていた。フィンが無事で安心したと続いている。
「僕の手紙、届いたんですね」
「そのようだな」
ルートに手伝ってもらって初めて先生に手紙を書いた。先生は常にヨットで移動しているので届くか不安だったが、うまく受け取ってもらえてよかった。
「すごいです。返事が来ました」
「手紙とは、そういうものではないのか」
「たぶん、そういうものです。でも」
なんと説明すればいいのだろう。すごいと思ったからすごいと言ったが、何どうすごいのかルートには伝わらなかった。考え込んでいると、ルートの腕が足首をもう一周した。ルートはいつも一生懸命フィンを知ろうとしてくれる。
「ゆっくりでいい」
フィンはうなずいた。ルートはやさしい。ただ静かに待っていてくれる。いっしょにいると言って、本当にいっしょにいてくれる。ルートに助けられた日からしばらくは、ルートが海に連れ戻されてしまうのではないかと不安でたまらなかった。
数週間前、諸々の報告に来たラス――彼の名前もまた発音しづらい――に、誰かルートを連れ戻そうとしていないかと聞いたら、呆れ顔で一蹴された。
「誰も来ねぇよ。わざわざ陸に上がってこいつと戦って勝って引きずって帰れる奴? そんなのどこにいるんだよ」
「いなくはないが、彼らは来ないだろう。私がいない方が都合がいいだろうから」
どうやらルートはクラーケンの長老たちのお気に入りで、同族の一部から政敵と見なされているらしい。ラスによると、お気に入りを失った長老たちの嘆きは相当で、発狂寸前だそうだ。
「誇張しすぎだ」
「わりとマジだぞ。お前もうちょっと愛されてる自覚持てよ。じーさんたちがかわいそうになるぜ。いや、そうでもないか。オレの首絞めやがったからな。ざまぁみろって感じだ」
長老たちに比べて王は穏やからしい。
「気が向いたら帰ってこいってさ。王様から伝言な」
王は、フィンが海底王国の場所を知ったからといって事を起こすつもりはないようだ。
「王に、御慈悲に感謝すると伝えてくれ」
「はいはい、言っとく言っとく」
王は魔力のほとんどを失い、今は玉座から動けないらしい。あの日、王は火山を再度封印するため、死を覚悟ですべての魔力と生命力を使おうとしていた。たとえ火山を封印できたとしても、ヘドロに覆われた海にはどんな生物も棲めない。少しでも被害を抑えようと、水流を起こしてヘドロを火山へ戻していたらしい。
「そこに身動きできないばば様が飛んできて、ラッキーってばば様の魔力使って火山に結界張ったんだってよ。で、王様はギリギリ助かったってわけ」
欠けた宝玉の代わりに魔女の黒真珠が使われ、王国の国境を成す結界も再構築された。
「ルートが言ってたばば様の勝算な、あれよくわかんねぇってよ。たぶんオレたちが黒真珠持って逃げてる間に未来が変わったんだって、レヴィアタンが言ってた」
「そうか。何がきっかけだったか気になるが、魔女が死んでは確かめようもないな」
「未来なんか見えない方がいいって。振られるってわかってたら口説く気失せるだろ」
「お前は本当にそればかりだな」
ラスは一時間ほど話し、最後に「ルートの代わりにこき使われて心労で鱗が剥げた」と恨み言をこぼして帰っていった。
「半魚人はストレスで鱗が剥げるんですか」
「フィン、今のは冗談だから真に受けなくていい」
あれから、ラスは姿を見せていない。鱗は冗談でも、こき使われているのは本当なのだろう。
「ルートは、ラスに手紙を書かないんですか」
「海に紙は持ち込めないからな。それに、字を書くにはしばらく練習が必要だ」
確かに、クラーケンの腕でペンを握るのは難しいだろう。もしもルートが海に帰ってしまっていたら、フィンがいくら手紙を書いても届かない。こうして近くにいて、触れているから話ができる。どんなに近くにいても、触れていないと互いの声は聞こえない。当たり前のように会話しているが、ふたりの通信手段はとても危うい。
「ほんのちょっとのことで、僕の手紙は先生に届かないんです」
郵便局の窓が開いていて、手紙が風に飛ばされてしまったら。手紙を乗せた船が転覆してしまったら。先生が郵便局どころか人もいない孤島で研究していたら。
ルートと浴室で会話をするよりもずっと多くの危険を乗り越えて、フィンの手紙は先生に届いた。先生は手紙を読み、返事を書いた。先生の手紙もまた多くの危険を乗り越えて、フィンに届いた。そうしてようやく、先生とフィンはお互いにどうしているかを知る。
「たくさんの時間と、たくさんの労力をかけて、かけてでも、人間は、誰かに何かを伝えたいんです。それは、その発想は、とても、すごいです」
「そうだな。人間に限った話ではないが」
イルカやクジラは鳴き交わし、シオマネキたちはハサミを鳴らす。コウイカやタコは皮膚の色を変え、群れ成す魚たちは微妙なひれの動きで意思を示す。この世界ではすごいことがたくさん起こっているのだ、とフィンは思った。
「僕は、上手に説明できましたか」
「ああ、よくわかった」
ルートの皮膚の色が、かすかにオレンジがかって見える。喜んでくれたらしい。ルートは、フィンがフィン自身の気持ちや考えについて話すとうれしそうにする。
「通訳の、ミランダ、が、伝承、おもしろい伝承を、教えてくれました」
手紙の続きには、いっしょに旅をしている仲間とのやり取り、航海の途中で遭遇した珍しい気象現象、思いついた仮説について書かれていた。先生は今、赤道付近でベラの分類をしているらしい。当分は帰れないそうだ。末尾に、また手紙を書くとあった。
「つい……追伸、フィンも、手紙、手紙を、書い、書いて、ください。波が、届けて、くれます」
フィンは首を傾げた。波が届けてくれるとはどういう意味だろう。おとぎ話にあるように、瓶に詰めて海に流せばいいのだろうか。海流図を思い起こす。先生がいる赤道付近に届けるには、どこから流すのが最適だろう。
「フィン」
「はい」
「先生がいなくてさびしいか」
「はい。少しだけ」
フィンは正直に答えた。起きて、朝食を摂って、研究所に行って、帰ってきて、夕食を摂って、シャワーを浴びて、歯を磨いて、寝る。一人でもできる。先生がいなくても生活に支障はない。さびしさとは別の問題だ。
ルートがいなくなったとき、フィンは途方に暮れた。朝起きられなかったり、食事が喉を通らなかったり、気づけば何十分も無駄にシャワーを浴びたりしていた。一人でも大丈夫だったはずなのに、急に何もできなくなってしまった。さびしくてさびしくて、どうしていいかわからなかった。ルートに関する限り、生活とさびしさは同じ問題らしい。先生とルートの違いは、フィンには説明できない。
「でも、平気です」
いつか、きちんと言葉にできるだろうか。
ルートは喜んでくれるだろうか。
「だって、ルートがずっといっしょにいてくれるんでしょう」
ルートは何も言わずに腕を持ち上げた。フィンが手を差し出すと、腕の先がくるりと手首に巻きつく。手首の内側、やわらかな皮膚に吸盤がひとつ吸いついた。
Fin.
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