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亡命編
夜明け前の誓い
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客間に案内された後、侯爵夫人が静かに入ってきた。
彼女は栗色の髪をまとめ上げ、深い色の上衣を身につけている。その佇まいは気品に満ちていて、どこか母を思い出させた。
「お疲れでしょう、皇女殿下」
柔らかな声に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「このような時間にお手数をおかけして、申し訳ありません」
「そんなこと。あなたはこの家の客人ではありませんよ。守るべき人です」
侯爵夫人は机に置かれた銀の小箱を開けた。中には、布、紐、鋏、そして布包みが整然と並べられていた。
「侯爵から伺いました。髪を——切るのですね」
私は息を呑んで頷いた。
「……はい」
侯爵夫人は静かに頷き、扉の外に目を向けた。
「ノア公子、お願いいたします」
ノアが入ってきた。
柔らかな灯の中、その顔は疲労が滲んでいるのに、どこまでも真っ直ぐな瞳をしていた。
彼の手には、鞘から抜かれた細身の剣。磨かれた刃が炎を映して、仄かな光を放っている。
私は鏡の前に座った。
自分の長い金髪が、背を流れる。父から受け継いだ皇族特有の金髪。その髪が切り落とされると思うと、胸が詰まった。
ノアは少し迷ったように髪に触れる。
「……本当に、よろしいのですね」
「ええ。これは、必要なことですから」
静かに目を閉じる。剣がわずかに鳴り、空気が震えた。
次の瞬間、髪が断たれる音が響く。頭が軽くなり、首筋に触れる空気が冷たかった。
侯爵夫人がそっと近づき、ノアから髪を受け取った。それをまるで大切な宝物のように扱い、そっと布に包む。
「……これで、あなたの“亡骸”ができました」
その声には、哀しみと同じくらいの決意が滲んでいた。
夫人はハサミを手に、乱れた断面を整える。
短い髪になった自分を、鏡の中で見つめた。幼く、どこか違う人のようだった。
「これで、立派な少年のようですわ」
「……そう、でしょうか」
夫人はさらに小さな布包みを差し出した。
「これは、あなたの首飾りですね。
瞳と同じ石……ペリドットでしょう?」
「はい。父と母が……誕生日に贈ってくれたものです」
夫人は優しく微笑み、包みをそっと手渡した。
「これはあなたの“希望”です。
どんなに暗い道を歩いても、これを胸にしまっていれば、道を見失うことはありません」
私はそれを受け取り、胸の奥でそっと握った。
「……ありがとうございます」
――――――――――
支度が整ったのは、夜が明けきらぬ頃だった。
空はまだ青黒く、東の端だけが薄らと白んでいる。
霧が庭を包み、馬の吐息が白く浮かんだ。
侯爵が正門の前に立ち、四人を見送った。その隣には侯爵夫人が並んでいる。
「この先、いくつかの関所を越えることになる。油断はなりませぬ」
侯爵は厳しい声で言ったが、その目には優しさがあった。
「フレディ、殿下を頼んだぞ」
「必ずや」
ベネット伯爵が深く頭を下げた。
侯爵夫人がそっと私の手を取った。
「どうか、ご無事で。
……そして、必ず戻ってきてくださいね」
私は堪えきれずに夫人の手を強く握り返した。
馬車に乗り込もうとしたとき、ノアがいつものように手を差し伸べた。
だが、ベネット伯爵の咳払いがそれを制止する。
――この先からは人の目がある。騎士らしく振るまえ、ということだろう。
「そうですね」
私はノアの手を取らず、自分の力で馬車に乗り込んだ。
「申し訳ございませんでした」
ノアはすぐに姿勢を正し、伯爵と私に頭を下げた。
「何年もそうしてきたんだ。
すぐには切り替えられねぇだろうが、いつ誰が見てるか分からんからな。
これからは徹底しよう」
「はい」
「まずは呼び方を決めねぇとな。さすがに“皇女様”じゃまずい。何か良い候補はありますか?」
私は記憶を遡った。
まるで今、この場で名を呼ばれているように父と母に名前を呼ばれた記憶がよみがえる。
「……両親にはエリーと呼ばれていました」
私の言葉を聞いたノアは懐かしむように優しい顔をした。
「それでは"エリス"はどうでしょう?嘘をつく時は真実も混ぜると良いとよく言いますし」
ノアの提案に伯爵は深くうなずく。
「じゃあ、“エリス様”…いや、“エリス”と呼ばせていただきます!」
「伯爵様、敬語も不要です。これから私は、伯爵様の部下ですから」
「そ、そうですか……いや、そうだな。エリス!」
私が死んだことになった時からどこか空っぽになった心にノアがくれた名前はぽっと灯りをともしてくれたように感じる。
「ノアも、よろしくお願いしますね」
私がノアの方に目線を送ると、ノアは目を瞬かせた。
「はい、皇女……えっと……エ、エリス……様」
「じゃないですよね?」
「……エリス」
ぎこちない呼び方に、思わず小さく笑みが漏れた。
――この様子では先が思いやられる。だが、きっと少しずつ慣れていけるはずだ。
「それに、道中の私は“男”ですから。ちゃんとそのように扱ってくださいね」
「そ、それは……!
い、いくらなんでも……!」
ノアが似合わない声を出したちょうどその時、御者台からウィリアムの声が響いた。
「皆さん、準備はいいですか。出発しますよ」
合図とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
重厚な鉄の門が軋む音を立てて開かれ、夜風がひんやりと頬を撫でた。
屋敷の明かりが背後で小さくなっていく。あの屋敷での安息は、きっともう戻らないのだと、胸の奥で分かっていた。
車輪が石畳を叩く音が、夜の静寂の中で規則的に響く。
エルダールまでの道は長く険しい。
だが、どんな闇の中でも必ず夜明けは来る。
そう信じなければ、前に進めなかった。
「エリス、寒くありませんか?」
ノアが気遣うように声をかける。私は首を横に振り、薄く微笑んだ。
「平気です。……ありがとう」
ノアは小さく頷き、窓の外へ目を向けた。その横顔を、車内のランプが淡く照らしている。かつて護衛として傍にいた時と今は少し違う。
「今のうちに少しでも休んでおけ。明日からは街道も険しくなる」
ベネット伯爵の忠告に私達は小さく頷いて返事をした。
「はい」
私は背を預け、静かに目を閉じた。
耳に残るのは、馬の蹄が地を叩く音と、遠くで風が木々を揺らす音だけ。
その律動に身を委ねながら、私は心の奥で静かに誓った。
――必ず、生き延びてみせる。いつかこの国に帰るために。
彼女は栗色の髪をまとめ上げ、深い色の上衣を身につけている。その佇まいは気品に満ちていて、どこか母を思い出させた。
「お疲れでしょう、皇女殿下」
柔らかな声に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「このような時間にお手数をおかけして、申し訳ありません」
「そんなこと。あなたはこの家の客人ではありませんよ。守るべき人です」
侯爵夫人は机に置かれた銀の小箱を開けた。中には、布、紐、鋏、そして布包みが整然と並べられていた。
「侯爵から伺いました。髪を——切るのですね」
私は息を呑んで頷いた。
「……はい」
侯爵夫人は静かに頷き、扉の外に目を向けた。
「ノア公子、お願いいたします」
ノアが入ってきた。
柔らかな灯の中、その顔は疲労が滲んでいるのに、どこまでも真っ直ぐな瞳をしていた。
彼の手には、鞘から抜かれた細身の剣。磨かれた刃が炎を映して、仄かな光を放っている。
私は鏡の前に座った。
自分の長い金髪が、背を流れる。父から受け継いだ皇族特有の金髪。その髪が切り落とされると思うと、胸が詰まった。
ノアは少し迷ったように髪に触れる。
「……本当に、よろしいのですね」
「ええ。これは、必要なことですから」
静かに目を閉じる。剣がわずかに鳴り、空気が震えた。
次の瞬間、髪が断たれる音が響く。頭が軽くなり、首筋に触れる空気が冷たかった。
侯爵夫人がそっと近づき、ノアから髪を受け取った。それをまるで大切な宝物のように扱い、そっと布に包む。
「……これで、あなたの“亡骸”ができました」
その声には、哀しみと同じくらいの決意が滲んでいた。
夫人はハサミを手に、乱れた断面を整える。
短い髪になった自分を、鏡の中で見つめた。幼く、どこか違う人のようだった。
「これで、立派な少年のようですわ」
「……そう、でしょうか」
夫人はさらに小さな布包みを差し出した。
「これは、あなたの首飾りですね。
瞳と同じ石……ペリドットでしょう?」
「はい。父と母が……誕生日に贈ってくれたものです」
夫人は優しく微笑み、包みをそっと手渡した。
「これはあなたの“希望”です。
どんなに暗い道を歩いても、これを胸にしまっていれば、道を見失うことはありません」
私はそれを受け取り、胸の奥でそっと握った。
「……ありがとうございます」
――――――――――
支度が整ったのは、夜が明けきらぬ頃だった。
空はまだ青黒く、東の端だけが薄らと白んでいる。
霧が庭を包み、馬の吐息が白く浮かんだ。
侯爵が正門の前に立ち、四人を見送った。その隣には侯爵夫人が並んでいる。
「この先、いくつかの関所を越えることになる。油断はなりませぬ」
侯爵は厳しい声で言ったが、その目には優しさがあった。
「フレディ、殿下を頼んだぞ」
「必ずや」
ベネット伯爵が深く頭を下げた。
侯爵夫人がそっと私の手を取った。
「どうか、ご無事で。
……そして、必ず戻ってきてくださいね」
私は堪えきれずに夫人の手を強く握り返した。
馬車に乗り込もうとしたとき、ノアがいつものように手を差し伸べた。
だが、ベネット伯爵の咳払いがそれを制止する。
――この先からは人の目がある。騎士らしく振るまえ、ということだろう。
「そうですね」
私はノアの手を取らず、自分の力で馬車に乗り込んだ。
「申し訳ございませんでした」
ノアはすぐに姿勢を正し、伯爵と私に頭を下げた。
「何年もそうしてきたんだ。
すぐには切り替えられねぇだろうが、いつ誰が見てるか分からんからな。
これからは徹底しよう」
「はい」
「まずは呼び方を決めねぇとな。さすがに“皇女様”じゃまずい。何か良い候補はありますか?」
私は記憶を遡った。
まるで今、この場で名を呼ばれているように父と母に名前を呼ばれた記憶がよみがえる。
「……両親にはエリーと呼ばれていました」
私の言葉を聞いたノアは懐かしむように優しい顔をした。
「それでは"エリス"はどうでしょう?嘘をつく時は真実も混ぜると良いとよく言いますし」
ノアの提案に伯爵は深くうなずく。
「じゃあ、“エリス様”…いや、“エリス”と呼ばせていただきます!」
「伯爵様、敬語も不要です。これから私は、伯爵様の部下ですから」
「そ、そうですか……いや、そうだな。エリス!」
私が死んだことになった時からどこか空っぽになった心にノアがくれた名前はぽっと灯りをともしてくれたように感じる。
「ノアも、よろしくお願いしますね」
私がノアの方に目線を送ると、ノアは目を瞬かせた。
「はい、皇女……えっと……エ、エリス……様」
「じゃないですよね?」
「……エリス」
ぎこちない呼び方に、思わず小さく笑みが漏れた。
――この様子では先が思いやられる。だが、きっと少しずつ慣れていけるはずだ。
「それに、道中の私は“男”ですから。ちゃんとそのように扱ってくださいね」
「そ、それは……!
い、いくらなんでも……!」
ノアが似合わない声を出したちょうどその時、御者台からウィリアムの声が響いた。
「皆さん、準備はいいですか。出発しますよ」
合図とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
重厚な鉄の門が軋む音を立てて開かれ、夜風がひんやりと頬を撫でた。
屋敷の明かりが背後で小さくなっていく。あの屋敷での安息は、きっともう戻らないのだと、胸の奥で分かっていた。
車輪が石畳を叩く音が、夜の静寂の中で規則的に響く。
エルダールまでの道は長く険しい。
だが、どんな闇の中でも必ず夜明けは来る。
そう信じなければ、前に進めなかった。
「エリス、寒くありませんか?」
ノアが気遣うように声をかける。私は首を横に振り、薄く微笑んだ。
「平気です。……ありがとう」
ノアは小さく頷き、窓の外へ目を向けた。その横顔を、車内のランプが淡く照らしている。かつて護衛として傍にいた時と今は少し違う。
「今のうちに少しでも休んでおけ。明日からは街道も険しくなる」
ベネット伯爵の忠告に私達は小さく頷いて返事をした。
「はい」
私は背を預け、静かに目を閉じた。
耳に残るのは、馬の蹄が地を叩く音と、遠くで風が木々を揺らす音だけ。
その律動に身を委ねながら、私は心の奥で静かに誓った。
――必ず、生き延びてみせる。いつかこの国に帰るために。
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