私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi

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神殿編

知る覚悟

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 図書館へ通うようになって、一月が経った。

 小さな図書館は、外界の時間の流れから切り離されたように静かだった。

 積み上がった古書はどれも分厚く、羊皮紙の表紙や革張りの背表紙は触れた指先に確かな時の重みを残す。

 そんな空間で、私は毎日のようにハルと向かい合い、机に本を広げて勉強をしていた。

 最初は、神官長や王妃にすぐ止められると思っていた。しかし、ハルが何かと理由をつけて許可を取ってくれたらしく、誰にも咎められることはなかった。

 机には、エルダールの歴史書、地理、法律、神殿の掟……慣れない文字と知らない概念が並ぶ。
 幸い皇女時代に同盟国の言語は習っていたけれど、帝国の書物とは文体も語彙も少し違い、解読だけでもひと苦労だ。

 それでも、私は不思議と苦にならなかった。むしろ、分からないことばかりの世界のなかで、"知る"ことが救いになっていた。

 読み進めるほどに、私はページに引き込まれていった。

 エルダールの国の成立。
 “神の祝福”の名の下の統治。
 民への負担の増加。
 そして——神子制度。

(この国は……“神子”を守っていたんじゃなくて……)

 ページをめくる手が、かすかに震えた。

 むしろ、
 “使い捨てるために作られた制度”——

 そう読み取れてしまった。

 呼吸が浅くなりかけたその時、隣から伸びてきた手が、そっと私の本を閉じた。

「この本はここまでだ」

 ハルの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。

「……知りすぎるな。今のお前が抱えられるほど軽い話じゃない」

「でも——」

「じゃあ、地図でも見てみろ」

「地図?」

「あぁ、世界が広がる」

 言われるがまま地図を取り出す。しかし、地名が流し書きで、全く読めない。

「ねぇ、ハル……」

「どうした」

 頬杖をついて巻物を読んでいたハルが、ちらりとこちらを見た。

「この地図、よく分からなくて……」

「どれだ、見せろ」

 そう言って、ハルは自然な動きで私の横に腰を寄せ、地図を覗き込んだ。かすかな香の香りと、距離の近さ。鼓動が早くなるのを自覚し、私は慌てて視線を地図へ戻した。

「ここが王都。南が交易都市イヴ、東に抜けると——」

 ハルは真面目に教えてくれているというのに、私はどうしても集中できない。
 ここ数年、誰とも触れ合うことなく過ごしてきたせいだろうか。人の温度に、思いのほか弱くなっていた。

「ハルは……ずっと、ここで育ったの?」

 気づけば、まったく別の質問をしてしまっていた。ハルは一瞬まばたきし、小さくため息を落とす。

「お前、聞いてなかっただろ」

「あ、違うの……気になってて」

「……まぁいい。ハニー宮は、もともと皇太子だった父の宮だ。だから、ここが俺の育った場所で間違いない」

 珍しく話す気になっているらしいと察し、私はもう一歩踏み込んだ。

「じゃあ……ずっと“神子”として?」

「いや。神子にされたのは七歳だ。それまでは……王子として育てられていた、はずだ」

 言葉は淡々としているのに、どこか慎重さがあった。
 七歳——レオンが失踪した年と同じ。まだまだ親に甘えたい頃だ。

「寂しくなかったの……?」

 思わず口にすると、彼は短く答えた。

「どうだかな」

 その言い方は、はっきりと“これ以上は話さない”という拒絶だった。
 それでも、なにか大事な断片がそこに隠れている気がして、胸の奥がざわついた。

 だが、ハルが地図を閉じ始めたので、それ以上は聞かなかった。

「そろそろ時間だ。続きは明日だ」

「ええ。……ありがとう、ハル」

 宮の出口まで送ってくれた彼は、振り返ることなく静かに去っていった。その背中を見送りながら、胸に残った違和感だけが冷たく沈んだ。

──ハルの過去に、何があったのだろう。

 小さく息を吐いた時、扉の向こうから小さな声がした。

「セラ様……本当に、大丈夫でいらっしゃいますか?」

 恐る恐る覗き込んできたのは、迎えに来てくれたサーシャだった。手を胸元でぎゅっと握りしめ、落ち着かない様子で立っている。

「大丈夫よ。勉強できて、むしろ嬉しいくらい」

「……いえ。その……ハルシオン様のことで」

「ハルが? どういうこと?」

 サーシャは迷っていた。けれど、やがて決意したように唇を結んだ。

「ここ数日……神殿の方々が、ハルシオン様の動向を気にしておられます。“様子がおかしい”と」

 胸がひやりと揺れる。

「それって……悪い意味で?」

「詳しくは分かりません。ただ、“神子見習いに近づきすぎている”と陰で噂されていて……」

 サーシャの声には震えがあった。

「セラ様……お気をつけください。掟に触れた時、誰が罰せられるのかは……」

 言葉を濁したままだったが、十分に伝わった。

 私か。
 それとも、ハルか。

 私はひとつ深呼吸をして、サーシャの手をそっと握った。

「教えてくれてありがとう。でも……私は勉強をやめないわ」

「セラ様……」

「知らないままじゃ、何も守れないもの」

 ハルの過去も、神殿の意図も、自分の立場も。

 知らなければ、選ぶことすらできない。

 ——だから、知りたい。

 胸にそう刻みながら、私は水晶宮へ続く回廊を歩き出した。
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