37 / 168
神殿編
知る覚悟
しおりを挟む
図書館へ通うようになって、一月が経った。
小さな図書館は、外界の時間の流れから切り離されたように静かだった。
積み上がった古書はどれも分厚く、羊皮紙の表紙や革張りの背表紙は触れた指先に確かな時の重みを残す。
そんな空間で、私は毎日のようにハルと向かい合い、机に本を広げて勉強をしていた。
最初は、神官長や王妃にすぐ止められると思っていた。しかし、ハルが何かと理由をつけて許可を取ってくれたらしく、誰にも咎められることはなかった。
机には、エルダールの歴史書、地理、法律、神殿の掟……慣れない文字と知らない概念が並ぶ。
幸い皇女時代に同盟国の言語は習っていたけれど、帝国の書物とは文体も語彙も少し違い、解読だけでもひと苦労だ。
それでも、私は不思議と苦にならなかった。むしろ、分からないことばかりの世界のなかで、"知る"ことが救いになっていた。
読み進めるほどに、私はページに引き込まれていった。
エルダールの国の成立。
“神の祝福”の名の下の統治。
民への負担の増加。
そして——神子制度。
(この国は……“神子”を守っていたんじゃなくて……)
ページをめくる手が、かすかに震えた。
むしろ、
“使い捨てるために作られた制度”——
そう読み取れてしまった。
呼吸が浅くなりかけたその時、隣から伸びてきた手が、そっと私の本を閉じた。
「この本はここまでだ」
ハルの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。
「……知りすぎるな。今のお前が抱えられるほど軽い話じゃない」
「でも——」
「じゃあ、地図でも見てみろ」
「地図?」
「あぁ、世界が広がる」
言われるがまま地図を取り出す。しかし、地名が流し書きで、全く読めない。
「ねぇ、ハル……」
「どうした」
頬杖をついて巻物を読んでいたハルが、ちらりとこちらを見た。
「この地図、よく分からなくて……」
「どれだ、見せろ」
そう言って、ハルは自然な動きで私の横に腰を寄せ、地図を覗き込んだ。かすかな香の香りと、距離の近さ。鼓動が早くなるのを自覚し、私は慌てて視線を地図へ戻した。
「ここが王都。南が交易都市イヴ、東に抜けると——」
ハルは真面目に教えてくれているというのに、私はどうしても集中できない。
ここ数年、誰とも触れ合うことなく過ごしてきたせいだろうか。人の温度に、思いのほか弱くなっていた。
「ハルは……ずっと、ここで育ったの?」
気づけば、まったく別の質問をしてしまっていた。ハルは一瞬まばたきし、小さくため息を落とす。
「お前、聞いてなかっただろ」
「あ、違うの……気になってて」
「……まぁいい。ハニー宮は、もともと皇太子だった父の宮だ。だから、ここが俺の育った場所で間違いない」
珍しく話す気になっているらしいと察し、私はもう一歩踏み込んだ。
「じゃあ……ずっと“神子”として?」
「いや。神子にされたのは七歳だ。それまでは……王子として育てられていた、はずだ」
言葉は淡々としているのに、どこか慎重さがあった。
七歳——レオンが失踪した年と同じ。まだまだ親に甘えたい頃だ。
「寂しくなかったの……?」
思わず口にすると、彼は短く答えた。
「どうだかな」
その言い方は、はっきりと“これ以上は話さない”という拒絶だった。
それでも、なにか大事な断片がそこに隠れている気がして、胸の奥がざわついた。
だが、ハルが地図を閉じ始めたので、それ以上は聞かなかった。
「そろそろ時間だ。続きは明日だ」
「ええ。……ありがとう、ハル」
宮の出口まで送ってくれた彼は、振り返ることなく静かに去っていった。その背中を見送りながら、胸に残った違和感だけが冷たく沈んだ。
──ハルの過去に、何があったのだろう。
小さく息を吐いた時、扉の向こうから小さな声がした。
「セラ様……本当に、大丈夫でいらっしゃいますか?」
恐る恐る覗き込んできたのは、迎えに来てくれたサーシャだった。手を胸元でぎゅっと握りしめ、落ち着かない様子で立っている。
「大丈夫よ。勉強できて、むしろ嬉しいくらい」
「……いえ。その……ハルシオン様のことで」
「ハルが? どういうこと?」
サーシャは迷っていた。けれど、やがて決意したように唇を結んだ。
「ここ数日……神殿の方々が、ハルシオン様の動向を気にしておられます。“様子がおかしい”と」
胸がひやりと揺れる。
「それって……悪い意味で?」
「詳しくは分かりません。ただ、“神子見習いに近づきすぎている”と陰で噂されていて……」
サーシャの声には震えがあった。
「セラ様……お気をつけください。掟に触れた時、誰が罰せられるのかは……」
言葉を濁したままだったが、十分に伝わった。
私か。
それとも、ハルか。
私はひとつ深呼吸をして、サーシャの手をそっと握った。
「教えてくれてありがとう。でも……私は勉強をやめないわ」
「セラ様……」
「知らないままじゃ、何も守れないもの」
ハルの過去も、神殿の意図も、自分の立場も。
知らなければ、選ぶことすらできない。
——だから、知りたい。
胸にそう刻みながら、私は水晶宮へ続く回廊を歩き出した。
小さな図書館は、外界の時間の流れから切り離されたように静かだった。
積み上がった古書はどれも分厚く、羊皮紙の表紙や革張りの背表紙は触れた指先に確かな時の重みを残す。
そんな空間で、私は毎日のようにハルと向かい合い、机に本を広げて勉強をしていた。
最初は、神官長や王妃にすぐ止められると思っていた。しかし、ハルが何かと理由をつけて許可を取ってくれたらしく、誰にも咎められることはなかった。
机には、エルダールの歴史書、地理、法律、神殿の掟……慣れない文字と知らない概念が並ぶ。
幸い皇女時代に同盟国の言語は習っていたけれど、帝国の書物とは文体も語彙も少し違い、解読だけでもひと苦労だ。
それでも、私は不思議と苦にならなかった。むしろ、分からないことばかりの世界のなかで、"知る"ことが救いになっていた。
読み進めるほどに、私はページに引き込まれていった。
エルダールの国の成立。
“神の祝福”の名の下の統治。
民への負担の増加。
そして——神子制度。
(この国は……“神子”を守っていたんじゃなくて……)
ページをめくる手が、かすかに震えた。
むしろ、
“使い捨てるために作られた制度”——
そう読み取れてしまった。
呼吸が浅くなりかけたその時、隣から伸びてきた手が、そっと私の本を閉じた。
「この本はここまでだ」
ハルの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。
「……知りすぎるな。今のお前が抱えられるほど軽い話じゃない」
「でも——」
「じゃあ、地図でも見てみろ」
「地図?」
「あぁ、世界が広がる」
言われるがまま地図を取り出す。しかし、地名が流し書きで、全く読めない。
「ねぇ、ハル……」
「どうした」
頬杖をついて巻物を読んでいたハルが、ちらりとこちらを見た。
「この地図、よく分からなくて……」
「どれだ、見せろ」
そう言って、ハルは自然な動きで私の横に腰を寄せ、地図を覗き込んだ。かすかな香の香りと、距離の近さ。鼓動が早くなるのを自覚し、私は慌てて視線を地図へ戻した。
「ここが王都。南が交易都市イヴ、東に抜けると——」
ハルは真面目に教えてくれているというのに、私はどうしても集中できない。
ここ数年、誰とも触れ合うことなく過ごしてきたせいだろうか。人の温度に、思いのほか弱くなっていた。
「ハルは……ずっと、ここで育ったの?」
気づけば、まったく別の質問をしてしまっていた。ハルは一瞬まばたきし、小さくため息を落とす。
「お前、聞いてなかっただろ」
「あ、違うの……気になってて」
「……まぁいい。ハニー宮は、もともと皇太子だった父の宮だ。だから、ここが俺の育った場所で間違いない」
珍しく話す気になっているらしいと察し、私はもう一歩踏み込んだ。
「じゃあ……ずっと“神子”として?」
「いや。神子にされたのは七歳だ。それまでは……王子として育てられていた、はずだ」
言葉は淡々としているのに、どこか慎重さがあった。
七歳——レオンが失踪した年と同じ。まだまだ親に甘えたい頃だ。
「寂しくなかったの……?」
思わず口にすると、彼は短く答えた。
「どうだかな」
その言い方は、はっきりと“これ以上は話さない”という拒絶だった。
それでも、なにか大事な断片がそこに隠れている気がして、胸の奥がざわついた。
だが、ハルが地図を閉じ始めたので、それ以上は聞かなかった。
「そろそろ時間だ。続きは明日だ」
「ええ。……ありがとう、ハル」
宮の出口まで送ってくれた彼は、振り返ることなく静かに去っていった。その背中を見送りながら、胸に残った違和感だけが冷たく沈んだ。
──ハルの過去に、何があったのだろう。
小さく息を吐いた時、扉の向こうから小さな声がした。
「セラ様……本当に、大丈夫でいらっしゃいますか?」
恐る恐る覗き込んできたのは、迎えに来てくれたサーシャだった。手を胸元でぎゅっと握りしめ、落ち着かない様子で立っている。
「大丈夫よ。勉強できて、むしろ嬉しいくらい」
「……いえ。その……ハルシオン様のことで」
「ハルが? どういうこと?」
サーシャは迷っていた。けれど、やがて決意したように唇を結んだ。
「ここ数日……神殿の方々が、ハルシオン様の動向を気にしておられます。“様子がおかしい”と」
胸がひやりと揺れる。
「それって……悪い意味で?」
「詳しくは分かりません。ただ、“神子見習いに近づきすぎている”と陰で噂されていて……」
サーシャの声には震えがあった。
「セラ様……お気をつけください。掟に触れた時、誰が罰せられるのかは……」
言葉を濁したままだったが、十分に伝わった。
私か。
それとも、ハルか。
私はひとつ深呼吸をして、サーシャの手をそっと握った。
「教えてくれてありがとう。でも……私は勉強をやめないわ」
「セラ様……」
「知らないままじゃ、何も守れないもの」
ハルの過去も、神殿の意図も、自分の立場も。
知らなければ、選ぶことすらできない。
——だから、知りたい。
胸にそう刻みながら、私は水晶宮へ続く回廊を歩き出した。
15
あなたにおすすめの小説
あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。
婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。
しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。
儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで——
「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」
「……そんなことにはならない」
また始まった二人の世界。
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
【完結】どうか私を思い出さないで
miniko
恋愛
コーデリアとアルバートは相思相愛の婚約者同士だった。
一年後には学園を卒業し、正式に婚姻を結ぶはずだったのだが……。
ある事件が原因で、二人を取り巻く状況が大きく変化してしまう。
コーデリアはアルバートの足手まといになりたくなくて、身を切る思いで別れを決意した。
「貴方に触れるのは、きっとこれが最後になるのね」
それなのに、運命は二人を再び引き寄せる。
「たとえ記憶を失ったとしても、きっと僕は、何度でも君に恋をする」
[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜
h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」
二人は再び手を取り合うことができるのか……。
全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)
好きでした、婚約破棄を受け入れます
たぬきち25番
恋愛
シャルロッテ子爵令嬢には、幼い頃から愛し合っている婚約者がいた。優しくて自分を大切にしてくれる婚約者のハンス。彼と結婚できる幸せな未来を、心待ちにして努力していた。ところがそんな未来に暗雲が立ち込める。永遠の愛を信じて、傷つき、涙するシャルロッテの運命はいかに……?
※十章を改稿しました。エンディングが変わりました。
【完結】優しいあなたに、さようなら。二人目の婚約者は、私を殺そうとしている冷血公爵様でした
ゆきのひ
恋愛
伯爵令嬢であるディアの婚約者は、整った容姿と優しい性格で評判だった。だが、いつからか彼は、婚約者であるディアを差し置き、最近知り合った男爵令嬢を優先するようになっていく。
彼と男爵令嬢の一線を越えた振る舞いに耐え切れなくなったディアは、婚約破棄を申し出る。
そして婚約破棄が成った後、新たな婚約者として紹介されたのは、魔物を残酷に狩ることで知られる冷血公爵。その名に恐れをなして何人もの令嬢が婚約を断ったと聞いたディアだが、ある理由からその婚約を承諾する。
しかし、公爵にもディアにも秘密があった。
その秘密のせいで、ディアは命の危機を感じることになったのだ……。
※本作は「小説家になろう」さん、カクヨムさんにも投稿しています
※表紙画像はAIで作成したものです
愛されていたのだと知りました。それは、あなたの愛をなくした時の事でした。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
リリナシスと王太子ヴィルトスが婚約をしたのは、2人がまだ幼い頃だった。
それから、ずっと2人は一緒に過ごしていた。
一緒に駆け回って、悪戯をして、叱られる事もあったのに。
いつの間にか、そんな2人の関係は、ひどく冷たくなっていた。
変わってしまったのは、いつだろう。
分からないままリリナシスは、想いを反転させる禁忌薬に手を出してしまう。
******************************************
こちらは、全19話(修正したら予定より6話伸びました🙏)
7/22~7/25の4日間は、1日2話の投稿予定です。以降は、1日1話になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる