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建国祭編
小春日和
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ハルの退院は、思っていたよりもあっけなかった。
「医師が許可したんだ。
これ以上寝ていたら、公務が山になる」
そう言う彼は、もう狩猟祭で担架に乗せられていた姿とは別人のようだった。
白磁のように整った顔立ち、無駄のない長い四肢。
包帯で固定された利き腕さえ、彼の美しさを損なうことはなく、むしろどこか痛々しさが艶を帯びて見える。
それでも――
動くたび、ほんの一瞬だけ眉が寄るのを、私は見逃さなかった。
「……やっぱり、不便だな」
低く零した声に、視線が向く。
彼は着替えをしようとして、思うように動かない腕に舌打ちをした。
「無理しないでって言われたでしょう」
「言われはしたが、これくらいできないのは癪だ」
苛立ちを含んだ声音。
けれど、どこか甘えを含んでいるのがわかる。
私は一歩近づき、彼の前に立った。
「じっとしてて」
「……これくらいできる」
「怪我人は黙っててください」
そう言うと、ハルは一瞬だけ目を細め――
まるで、逃げ場を塞がれた獣のような視線を、私に向けた。
「……強情だな」
小さく笑って、彼は従った。
ボタンを留めるたび、彼の体温が指先に伝わる。
近い距離が気にならない訳じゃなかったけれど、今はそんなことを言っている場合じゃないと、自分に言い聞かせた。
「昔も、こうして世話を焼かれていた気がする」
「……子どもの頃?」
「ああ。叱られてばかりだった」
意外な言葉に、思わず顔を上げる。
長い睫毛の影が頬に落ちるのを、至近距離で見てしまって、胸の奥が不意に騒いだ。
「王太子殿下が?」
「その呼び方、やめろ」
即座に返ってくる必死な抗議に、思わず笑ってしまった。
彼も釣られたように、困った顔で口元を緩める。
二人の間に戻ってきた、この空気感が嬉しくて……。
どこかここが私の居場所のようなそんな錯覚に陥る。
迎賓館に戻ったあとも何かと大変なことばかりだった。
特に食事は、時間も手間もかかった。
ハルは利き手と逆の右手でスプーンを操ろうとして、うまく口に運べなかったり、フォークとナイフを使う料理に苛立ちを見せる。
「……手伝うよ」
「いや、まだいける」
「いけてない」
私は、彼の分の食事を全て一口分に切り分けた。
さらに半ば強引にスプーンを受け取り、すくって彼に差し出すと、ハルは露骨に眉をひそめた。
「ここまでしなくていい……」
「怪我人でしょ」
「嫌だ」
「じゃあもう、ハルとはご飯食べない」
ハルは一瞬ためらってから口を開けた。
その仕草が、ひどく無防備で――
幼さと、抗えない従順さが同居しているのが、可愛かった。
「……満足か?」
「うん。可愛い」
不服そうなハルに私はくすりと笑ってしまった。
午後は庭園で過ごした。
秋の陽射しは柔らかく、葉擦れの音だけが静かに流れる。
ハルは椅子に腰掛け、私はその隣で他愛のない話をした。
エルダールで、すべてを放り出して出かけた日の話。
厳しかった教育係のこと。
最近のサーシャの失敗談。
そして、ハルが連れていってくれた湖の話。
どれも取るに足らない思い出。
だけど、その時間がとても尊かった。
「……こうしていると」
ハルが、空を見上げたまま言う。
「全部、嘘みたいだな」
「何が?」
「帝国に来てからの毎日が」
確かに、嘘みたいだ。
振り返る暇もないほど、いろんなことが起こりすぎた。
「あともう少しで、エルダールに帰れるね」
私がそう言うと、ハルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かにうなずいた。
「あぁ」
残された公務は、皇太后との茶会と、閉幕の夜会だけだ。
(あ!そういえば!)
私は鞄に忍ばせたハンカチを取り出した。
狩猟大会の時に作っていたものだ。
「ハル……今更だけど、これ、受け取ってくれる?」
私の言葉と手元のハンカチにハルは何かを察したように、少し照れくさそうにする。
「俺に?」
「うん。怪我しちゃったから縁起悪いかもだけど……」
「ありがとう」
ハルは受け取ったハンカチを大切そうに見つめる。白い布に金糸で施した星空の刺繍。その色合いは彼そのものだ。
その後、私たちは言葉を交わさず、ただ同じ空を見上げていた。
今は、セラのままでいい。
そう、自分に言い聞かせるように。
夜、部屋へ戻る前。
「……ありがとう」
不意にかけられた声に、足を止める。
「何が?」
「世話をかけた」
照れたように視線をそらす彼に、胸が温かくなる。
「当たり前のことだよ」
そう答えると、ハルは少しだけ笑った。
「明日も、来るのか」
「うん」
私が頷くと、ハルは名残惜しそうに、私の額にほんの一瞬だけ額を寄せた。
慌てて身を引こうとする私を彼の腕が掴む。
心は揺れ始めているのに、
鼓動が高鳴ってしまう自分に嫌になる。
「ハル……こういうのダメ。」
「何で?」
「私はハルの同じ気持ちを返せない。
それに……反応に困っちゃう」
「うん。困って」
思いもしない言葉に顔をあげると、見つめられた金色の瞳に目が離せなくなる。
本当に綺麗な人。
拒絶しないといけないと分かっているのに逃げられない。
「困って、迷って……。
もっと俺の事、考えて」
彼の目が真っ直ぐに私を見つめる。
「頭の中が俺でいっぱいになればいい」
その低くて甘い囁きが耳がくすぐったい。
でも、どこか祈りにも、呪いにも似ていた。
「じゃあ、また明日。待ってる」
ハルはそう言うと、私からパッと離れて背を向けた。
部屋に戻ったあとも、彼の体温が残って離れなかった。
心は、確かにノアに揺れている。
それなのに……。
ハルという存在は、私の心を、美しい棘で縛りつけてくる。
彼と明日もまた会える。
二人で一緒に過ごせることで、こんなにも心が安らかで温かくなる。
今日みたいな日が、いつまでも続けばいい――
そんな願いが、現実離れしていることを、私が一番知っている。
「医師が許可したんだ。
これ以上寝ていたら、公務が山になる」
そう言う彼は、もう狩猟祭で担架に乗せられていた姿とは別人のようだった。
白磁のように整った顔立ち、無駄のない長い四肢。
包帯で固定された利き腕さえ、彼の美しさを損なうことはなく、むしろどこか痛々しさが艶を帯びて見える。
それでも――
動くたび、ほんの一瞬だけ眉が寄るのを、私は見逃さなかった。
「……やっぱり、不便だな」
低く零した声に、視線が向く。
彼は着替えをしようとして、思うように動かない腕に舌打ちをした。
「無理しないでって言われたでしょう」
「言われはしたが、これくらいできないのは癪だ」
苛立ちを含んだ声音。
けれど、どこか甘えを含んでいるのがわかる。
私は一歩近づき、彼の前に立った。
「じっとしてて」
「……これくらいできる」
「怪我人は黙っててください」
そう言うと、ハルは一瞬だけ目を細め――
まるで、逃げ場を塞がれた獣のような視線を、私に向けた。
「……強情だな」
小さく笑って、彼は従った。
ボタンを留めるたび、彼の体温が指先に伝わる。
近い距離が気にならない訳じゃなかったけれど、今はそんなことを言っている場合じゃないと、自分に言い聞かせた。
「昔も、こうして世話を焼かれていた気がする」
「……子どもの頃?」
「ああ。叱られてばかりだった」
意外な言葉に、思わず顔を上げる。
長い睫毛の影が頬に落ちるのを、至近距離で見てしまって、胸の奥が不意に騒いだ。
「王太子殿下が?」
「その呼び方、やめろ」
即座に返ってくる必死な抗議に、思わず笑ってしまった。
彼も釣られたように、困った顔で口元を緩める。
二人の間に戻ってきた、この空気感が嬉しくて……。
どこかここが私の居場所のようなそんな錯覚に陥る。
迎賓館に戻ったあとも何かと大変なことばかりだった。
特に食事は、時間も手間もかかった。
ハルは利き手と逆の右手でスプーンを操ろうとして、うまく口に運べなかったり、フォークとナイフを使う料理に苛立ちを見せる。
「……手伝うよ」
「いや、まだいける」
「いけてない」
私は、彼の分の食事を全て一口分に切り分けた。
さらに半ば強引にスプーンを受け取り、すくって彼に差し出すと、ハルは露骨に眉をひそめた。
「ここまでしなくていい……」
「怪我人でしょ」
「嫌だ」
「じゃあもう、ハルとはご飯食べない」
ハルは一瞬ためらってから口を開けた。
その仕草が、ひどく無防備で――
幼さと、抗えない従順さが同居しているのが、可愛かった。
「……満足か?」
「うん。可愛い」
不服そうなハルに私はくすりと笑ってしまった。
午後は庭園で過ごした。
秋の陽射しは柔らかく、葉擦れの音だけが静かに流れる。
ハルは椅子に腰掛け、私はその隣で他愛のない話をした。
エルダールで、すべてを放り出して出かけた日の話。
厳しかった教育係のこと。
最近のサーシャの失敗談。
そして、ハルが連れていってくれた湖の話。
どれも取るに足らない思い出。
だけど、その時間がとても尊かった。
「……こうしていると」
ハルが、空を見上げたまま言う。
「全部、嘘みたいだな」
「何が?」
「帝国に来てからの毎日が」
確かに、嘘みたいだ。
振り返る暇もないほど、いろんなことが起こりすぎた。
「あともう少しで、エルダールに帰れるね」
私がそう言うと、ハルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かにうなずいた。
「あぁ」
残された公務は、皇太后との茶会と、閉幕の夜会だけだ。
(あ!そういえば!)
私は鞄に忍ばせたハンカチを取り出した。
狩猟大会の時に作っていたものだ。
「ハル……今更だけど、これ、受け取ってくれる?」
私の言葉と手元のハンカチにハルは何かを察したように、少し照れくさそうにする。
「俺に?」
「うん。怪我しちゃったから縁起悪いかもだけど……」
「ありがとう」
ハルは受け取ったハンカチを大切そうに見つめる。白い布に金糸で施した星空の刺繍。その色合いは彼そのものだ。
その後、私たちは言葉を交わさず、ただ同じ空を見上げていた。
今は、セラのままでいい。
そう、自分に言い聞かせるように。
夜、部屋へ戻る前。
「……ありがとう」
不意にかけられた声に、足を止める。
「何が?」
「世話をかけた」
照れたように視線をそらす彼に、胸が温かくなる。
「当たり前のことだよ」
そう答えると、ハルは少しだけ笑った。
「明日も、来るのか」
「うん」
私が頷くと、ハルは名残惜しそうに、私の額にほんの一瞬だけ額を寄せた。
慌てて身を引こうとする私を彼の腕が掴む。
心は揺れ始めているのに、
鼓動が高鳴ってしまう自分に嫌になる。
「ハル……こういうのダメ。」
「何で?」
「私はハルの同じ気持ちを返せない。
それに……反応に困っちゃう」
「うん。困って」
思いもしない言葉に顔をあげると、見つめられた金色の瞳に目が離せなくなる。
本当に綺麗な人。
拒絶しないといけないと分かっているのに逃げられない。
「困って、迷って……。
もっと俺の事、考えて」
彼の目が真っ直ぐに私を見つめる。
「頭の中が俺でいっぱいになればいい」
その低くて甘い囁きが耳がくすぐったい。
でも、どこか祈りにも、呪いにも似ていた。
「じゃあ、また明日。待ってる」
ハルはそう言うと、私からパッと離れて背を向けた。
部屋に戻ったあとも、彼の体温が残って離れなかった。
心は、確かにノアに揺れている。
それなのに……。
ハルという存在は、私の心を、美しい棘で縛りつけてくる。
彼と明日もまた会える。
二人で一緒に過ごせることで、こんなにも心が安らかで温かくなる。
今日みたいな日が、いつまでも続けばいい――
そんな願いが、現実離れしていることを、私が一番知っている。
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