私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi

文字の大きさ
132 / 168
探訪編

胸の高鳴り

しおりを挟む
 声を聞いた途端、キースの顔色が真っ青に変わる。

 声のした方に目を向けると、ノアが立っていた。
 視線は、キースの手に落ちている。

(もしかして!
 キースが私を襲っていると誤解してる?)

「護身術を教えてもらっているの!
 その……私からお願いしました」

 そう告げると、ノアは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。

「……そうですか」

 短い沈黙。

「それなら、私がお教えしましょうか」

 その言葉に、キースが安堵したように胸を撫で下ろす。

「それじゃあ、おいとましま~す!」

 と、軽い足取りで彼は走り去っていった。

 キースが離れ、訓練場に残ったのは、私とノアだけだった。
 ノアは自然な動作で位置を代わり、私の前に立つ。

 夕暮れの光が石畳を赤く染め、遠くでは居残り練習をしている兵士たちの訓練の音が響いている。
 
 けれど、私の意識はすべて、目の前の人に奪われていた。

「キースとは、どこまでしましたか?」

 ノアはいつもと変わらない声音で言う。
 落ち着いていて、淡々としていて、
 ――私の気持ちなんて何も知らない顔。

「えっと……。
 手首を掴まれた時と、壁に追い込まれた時を……」

「では、続きをしましょう」

「え」

 確認もなく、ノアの手が伸びてきた。

 そう言うと、ノアはキースと代わって私を壁に追い込む。
 背に冷たい壁が触れた瞬間、逃げ道がふさがれた。

 それだけなのに、血の気が一気に顔に集まるのが分かる。

「っ……!」

「力を抜いてください。
 今は抵抗しなくて大丈夫です」

 そんなこと、無理だった。

 だって、近い。
 距離が近すぎる。

 視線を上げれば、すぐそこにノアの胸元がある。
 少し顔を上げれば、顎の線、喉仏、落ちる影。

(……無理。これは無理)
 
 呼吸が重なるほどの近さに、心臓が、思い切り跳ねる。

「……身体が固定されている場合は、一気に脱力して相手の隙を作ってください。
 両手が空いていれば、相手の内肘を狙います」

 彼のいつもよりワントーン低い声が耳元をくすぐる。

「……はい」

 返事をした声が、思ったより上ずってしまった。

 そっと深呼吸をする。
 これは訓練。
 守ってもらうためじゃなく、自分が隣に立つための一歩なのだから。

「エリシア様?」

 ノアが首を傾げる。

「……だ、大丈夫です」

 私はノアに言われた通りに内肘を思いっきり手首で打って脱出した。

「よく出来ました!」

 そう言うと、ノアは満面の笑みを浮かべる。
 先程までの男らしい強引な姿とのギャップに鼓動が高鳴った。

「では、次は背後から襲われた時にしましょう。
 では、この状態から――」

 言いながら、ノアは私の背後に回った。

「!?」

 息が止まる。

「全体重を乗せて相手の足を踏みつけると、相手は足を引きます。
 そこで相手の顔面に頭突きするといいです」

 背中越しに感じる体温。
 肩越しに伸びてくる腕。
 吐息が、耳元にかかる。

 集中しないといけないのに、頭が上手く回らない。

「ですが、相手の手を自由にさせてしまうと厄介です。
 なので――」

 指導のために、私の手首を引き寄せる。
 完全に後ろから抱きしめられたようになった私の心臓は高鳴りすぎて、聞こえてしまうんじゃないかと不安になる。

「っ……」

 違う、集中しないと。
 私はここに、きちんと学びに来たんだ。

「……エリシア様、力が入っています」

 優しい声で、そんなことを言わないでほしい。

「ご、ごめんなさい」

 震えないように必死で答える。

「緊張されていますか?」

「……はい」

 正直に言った瞬間、背後の気配が、ほんの少しだけ戸惑ったように揺れた。

「……急でびっくりしましたよね」

 ノアは一歩、距離を取る。

 さっきまで近すぎて焦っていたのに、その一歩が、なぜかひどく名残惜しくて、胸がぎゅっと締めつけられた。

 ――違う。
 それを望んではいけない。

「いえ!続けてください!」

 ノアは一瞬だけ私を見つめ、
 それ以上は何も言わず、指導を続けた。

 その真剣な横顔が、
 また、胸を締めつける。

 ――こんな距離で、平然としていられるなんて。

 きっとノアは、何も気づいていない。
 私の心臓が、今にも壊れそうだなんて。

「では、正面から獲物を持った輩が来た時を想定しましょう」

 だけど、こんなふうに近くで、真剣に向き合ってくれることが、どうしようもなく、嬉しかった。

 夕暮れの訓練場で、私は自分の恋心を抑えるのに必死になりながら、護身術を身につけた。

――――――――――


 一日の終わり、侍女達が役目を終えて部屋の扉が閉まった瞬間、張りつめていた糸が切れた。

 侍女に声をかけられても、曖昧に笑ってやり過ごし、夜着に着替えた途端、私はそのままベッドに倒れ込んだ。

 柔らかな寝台が、身体を受け止める。

「……はぁ……」

 情けないほど長い息が、唇からこぼれた。

 目を閉じた途端、思い出す。

 ノアの手。
 近すぎた距離。
 耳元に落ちた低い声。

 ――だめ。

 思い出しちゃ、だめなのに。

 枕に顔を埋める。

 胸が、うるさい。
 心臓が、まだ落ち着かない。

「……何やってるの、私……」

 自分に向けた小さな声が、夜に溶ける。

 私は皇女だ。
 生まれた瞬間から、立つ場所も、進む道も決められている。

 恋なんて、
 ましてや相手がノアだなんて――
 考えること自体、許されない。

 幼馴染で。
 守ってくれる人で。
 ……掟で、結ばれない人。

「分かってる……」

 分かっているのに。

 今日、ノアが教えてくれた護身術はただの訓練だった。

 触れたのは、必要だったから。
 近かったのは、指導のため。

 特別な意味なんて、ひとつもない。

 ――それなのに。

 布越しに感じた体温を、
 声の低さを、
 真剣な眼差しを、

 どうしても、忘れられない。

「最低……」

 枕に顔を押しつけたまま、呟く。

 彼は何も知らないのに。
 私だけが、勝手に期待して、勝手に苦しくなって。

 守ってもらうことにも慣れすぎているくせに、今度は隣に立ちたいなんて言って。

 重い。
 きっと、迷惑だ。

「……嫌だな、こんな自分」

 指先が、シーツを掴む。

 それでも。

 ――あの日。
 「隣に立ちたい」と言った私を、
 否定しなかった。

 拒絶もしなかった。

 それだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「……ずるい」

 否定されなかったことが、
 こんなにも、嬉しいなんて。

 私は、枕を抱きしめた。

 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

 苦しいのに、
 幸せで、
 どうしようもなく、満たされてしまう。

 たとえ、想いが届かなくても。

 たとえ、この恋が名前を持たなくても。

 それでも、近くにいたい。

「……ばか」

 そう呟いて、目を閉じる。

 自己嫌悪と、幸福が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まって、涙が滲んだ。

 それなのに、夕暮れの訓練場で感じた温もりが、夜の静けさの中でもまだ消えなかった。
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。 婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。 しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。 儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで—— 「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」 「……そんなことにはならない」 また始まった二人の世界。

「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした

しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」 十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。 会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。 魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。 ※小説家になろう様にも投稿しています※

【完結】どうか私を思い出さないで

miniko
恋愛
コーデリアとアルバートは相思相愛の婚約者同士だった。 一年後には学園を卒業し、正式に婚姻を結ぶはずだったのだが……。 ある事件が原因で、二人を取り巻く状況が大きく変化してしまう。 コーデリアはアルバートの足手まといになりたくなくて、身を切る思いで別れを決意した。 「貴方に触れるのは、きっとこれが最後になるのね」 それなのに、運命は二人を再び引き寄せる。 「たとえ記憶を失ったとしても、きっと僕は、何度でも君に恋をする」

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

好きでした、婚約破棄を受け入れます

たぬきち25番
恋愛
シャルロッテ子爵令嬢には、幼い頃から愛し合っている婚約者がいた。優しくて自分を大切にしてくれる婚約者のハンス。彼と結婚できる幸せな未来を、心待ちにして努力していた。ところがそんな未来に暗雲が立ち込める。永遠の愛を信じて、傷つき、涙するシャルロッテの運命はいかに……? ※十章を改稿しました。エンディングが変わりました。

あなたが遺した花の名は

きまま
恋愛
——どうか、お幸せに。 ※拙い文章です。読みにくい箇所があるかもしれません。 ※作者都合の解釈や設定などがあります。ご容赦ください。

【完結】優しいあなたに、さようなら。二人目の婚約者は、私を殺そうとしている冷血公爵様でした

ゆきのひ
恋愛
伯爵令嬢であるディアの婚約者は、整った容姿と優しい性格で評判だった。だが、いつからか彼は、婚約者であるディアを差し置き、最近知り合った男爵令嬢を優先するようになっていく。 彼と男爵令嬢の一線を越えた振る舞いに耐え切れなくなったディアは、婚約破棄を申し出る。 そして婚約破棄が成った後、新たな婚約者として紹介されたのは、魔物を残酷に狩ることで知られる冷血公爵。その名に恐れをなして何人もの令嬢が婚約を断ったと聞いたディアだが、ある理由からその婚約を承諾する。 しかし、公爵にもディアにも秘密があった。 その秘密のせいで、ディアは命の危機を感じることになったのだ……。 ※本作は「小説家になろう」さん、カクヨムさんにも投稿しています ※表紙画像はAIで作成したものです

愛されていたのだと知りました。それは、あなたの愛をなくした時の事でした。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
リリナシスと王太子ヴィルトスが婚約をしたのは、2人がまだ幼い頃だった。 それから、ずっと2人は一緒に過ごしていた。 一緒に駆け回って、悪戯をして、叱られる事もあったのに。 いつの間にか、そんな2人の関係は、ひどく冷たくなっていた。 変わってしまったのは、いつだろう。 分からないままリリナシスは、想いを反転させる禁忌薬に手を出してしまう。 ****************************************** こちらは、全19話(修正したら予定より6話伸びました🙏) 7/22~7/25の4日間は、1日2話の投稿予定です。以降は、1日1話になります。

処理中です...