私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi

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探訪編

前夜

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 それからしばらくの間、ノアは私を「エリー」と呼ばなかった。

 理由は分かっている。
 分かっている、はずなのに――。

 廊下ですれ違う時も、執務の報告を受ける時も、呼ばれるのは決まって「エリシア様」「皇女殿下」だった。
 以前と同じ、何一つ変わらないはずの呼び方。

 なのに、不思議と胸の奥に、小さな空白が生まれる。

 呼ばれないだけ。
 ただ、それだけのことなのに。

 私は、その空白を意識しないふりをする術を、まだ上手く身につけられていなかった。

 ――きっと、私が勝手に期待してしまっただけ。

 馬車の中で呼ばれたのは例外で、特別で、だからこそ忘れなければならない。

 もしかしたらノアは嫌だったのかも。
 "皇女"に言われたから仕方なく呼んだだけだったのかもしれない。

 そう思えば思うほど、心が軋む。

 私は、ノアの中であくまでも"皇女"であって、一人の女性にはなれない。
 その現実が胸を抉るようだった。

 それでも私は笑顔を崩さず、彼もまた、いつも通り完璧な側近の一人だった。

――――――――――

 旧男爵領への旅立ちを翌日に控えた夜。

 私は禁書庫で、偶然見つけたあの一枚の紙切れを思い出した。

 皇太子一家襲撃事件の記録に挟まれていたそれは、走り書きのような簡素な文字で、ただ一文だけ記されていた。

『使用人の一団をジャイロ家領内にて最後に目撃』

 署名はない。
 書き手を示す印もない。

 けれど、その言葉に導かれるように調べを進めた結果、私は、確かに“真実に近い場所”へ辿り着いてしまった。

 だからこそ、胸騒ぎがした。

 誰が、何のために残したものなのか。

 旅に出る前にこのことをノアに伝えないといけない気がして、私はノアを訪ねた。

 彼は執務室で旅の最終確認をしていて、私の訪問を知ると慌てて部屋から出てきた。

「お呼びくだされば良かったのに……
 どうなさいましたか、エリシア様」

 その呼び方に、胸の奥が小さく揺れる。
 私はそれを飲み込み、手にした紙切れを差し出した。

「これを……見せたくて」

 彼は紙を受け取り、目を走らせた。

「旧ジャイロ男爵……」

「この通りに調べて、私は真実にたどり着きました。
 でも……誰が真実を見せようとしているのか、分からなくて……」

 声が、少しだけ震えた。

「誰かが意図的に私を、真実に近付けようとしている気がして……怖くて……」

 ノアはすぐには答えなかった。
 紙切れを机に置き、深く息を吐く。

「……可能性は否定できません」

 低く、慎重な声。

「この情報は、偶然見つかる類のものではありませんから。
 書き手は、エリシア様が動くことで、何が起こるかを理解した上で渡しています」

 私の不安を肯定する言葉に、背筋が冷えた。

「つまり……味方か、敵かは分からない?」

「そう、ですね……」

 ノアは私をまっすぐ見つめる。
 その青い瞳は、感情を抑えた静けさの奥に、確かな緊張を宿していた。

「旅では私から離れないでください。
 どんな些細な違和感でも、必ず報告を」

 いつもの指示。
 いつもの側近の言葉。

 なのに、その一つ一つが、やけに重く胸に落ちる。

「……分かりました」

 そう答えながら、私は思ってしまう。

 もしこの紙切れが、
 私やノアを狂わせる何かだったら。

 名前ひとつで揺れてしまう私は、ちゃんと立っていられるのだろうか。

 私は微笑みを作って頷き、部屋を後にしようと扉を閉めた、その瞬間だった。

「……お待ちください、エリシア様」

 背後から呼び止められ、足を止める。

 振り返ると、ノアがすでに部屋を出てきていた。
 その表情は執務中のものより、わずかに柔らいで見えた。

「夜も遅いですから、お部屋までお送りします」

「……そんな、大丈夫です」

 反射的にそう答えたが、彼は首を横に振る。

「何があるか分かりませんから」

 それは、いつもの理屈。
 側近として、当然の判断。

 それでも――。
 嬉しいはずなのに、何だか寂しい気持ちになってしまう。

 並んで歩き出すと、夜の回廊は思いのほか静かだった。
 灯りは落とされ、壁際のランプが、長い影を床に落としている。

 足音が、二人分、規則正しく響く。

 ノアは、ほんの半歩前を歩いていた。
 護衛として、自然な位置取り。

 その距離が、今の私たちそのもののようで、胸の奥が小さく疼いた。

 言葉はなかった。
 けれど、沈黙が気まずいわけではない。

 彼が、ここにいる。
 それだけで、不思議と心が落ち着いていく。

「……あの紙切れのことですが」

 ノアが、低く切り出した。

「旅の間、改めてこちらでも調べを進めます」

「ありがとう」

「危険ですから、一人で調べようとはしないでくださいね」

 その言葉に、胸が掴まれるような感じがした。

 私は皇女で、彼は側近。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 隣に立つなんてできない。

「……分かっています」

 そう答えた声は、自分でも驚くほど静かだった。

 やがて、私の私室の前に辿り着く。

「ここまでで大丈夫です」

 そう言うと、ノアは足を止め、軽く一礼した。

「おやすみなさい、エリシア様」

 やっぱり、その呼び方。

 分かっている。
 今の彼には呼んでもらえないのだろう。

 それでも――。

 扉を開ける前、私はほんの一瞬、振り返ってしまった。

 ノアは、まだそこに立っていた。
 私が部屋に入るのを見届けるつもりなのだろう。

 その視線は確かに、私一人を見ていて。

 胸の奥の空白が、少しだけ、熱を帯びた。

 私は静かに扉を閉める。

 その向こうで、足音が遠ざかっていくのを、しばらく聞いていた。

 涙が零れそうになる。

 胸の中は、様々な感情でいっぱいいっぱいだった。

 敵か味方か分からない存在への恐怖。
 そして、決して縮まらないノアとの関係性。

 呼ばれないことに慣れようとしている自分と、それでも、呼ばれる瞬間を待ってしまう自分がいる。

 それが恋だと認めてしまったら、もう、引き返せない気がした。

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