姉の秘密 短編集

高遠 加奈

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鼓動

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プラネタリュウムの空には、星座が映し出されている。明るい星々を繋いだラインは実際の空にはないものの、星のかたまりを認識するためにはとても役に立っていた。


うだるような暑さから逃れて来たプラネタリュウムには、程良い冷房と暗闇で気を抜いたら意識を刈り取られてしまいそうなほど快適だった。



唇をぎゅっと噛んでいるのも、頭上を見上げているのも今のあたしには都合が良かった。

そういえば、日本最大のプラネタリュウムは名古屋にあって、継ぎ目のわからないドームに、瞬きまでもリアルな星々を再現していたはずだ。


行ってみたいね、なんて呑気で鈍い自分の言動が悔やまれてならない。

いつ、誰となどと決まってもいない約束は、ないのも同じだ。ノーカンでお願いしたい。

見目麗しい幼なじみが、女性に囲まれているのなんて見飽きるくらいなのに、胸に痛みが走った。

普段は無愛想なのに、笑っていたからだ。そんなささいなことで動揺して逃げてきてしまうくらいには参っていた。

音楽とガイド音声のなかに、ふとひそやかな足音が混ざっているのが感じられた。

摺り足のようなそれは、何かを探しているのか、移動しては立ち止まるということを繰り返していて、なんだかこちらに近付いているようだった。



何故だか、その足音に落ち着かない気分がつのっていく。それは追う者の気配を漂わせて何かを囲い込み、逃げ出せなくさせる狩猟犬のようだった。



ちらりと時計を確認する。


不審な輩が紛れ込むのも、ここが夜の気配を漂わせているからかもしれない。

そろりと席を立ち、徘徊するものの気配とは反対方向へと回り出口へ向かう。

数歩足を進めて、がっしりとした腕に背中から捕まれる。



「……どこ行く気? 」


薄闇のなかにも、足元のフットライトが僅かな光を投げかけていて、相手を判別できるだけの光源になっていた。

笑った顔になってはいても、その目は笑ってなどいなくて背筋が凍るような冷たい光をまとっていた。


「あ、うん……トイレとか? 」

「ふうん……邪魔になるから座ろ」



腕を捕まれたま座るので、つられるようにして自分まで隣の席に腰を下ろした。

トイレに行くと言っているのに、何故座ることになっているのか。座ってもなお離されることのない腕をどうしたらいいものか。







「ねえ、どうして逃げたの? 」

「……別に逃げてないよ」

ぎゅっと腕に力が入る。手が大きくて、あたしの腕を簡単につかめてしまうため、時折力加減を忘れているとしか思えない程の力が加わって痛い。


あたしは、痛みを感じる人間だと言ってやりたくなる。


ただその場合は、相手の機嫌にもよる……



「それなら、どうして駅前からいなくなった?」

「そうかな。駅前に司がいたの気がつかなかったよ」




あきらかに不機嫌であるものの、どうにかごまかしてしまいたい。


たとえ二百メートル離れていたって、司の居場所はすぐわかる。何かフェロモンでも醸しているのか、女性の視線が一斉にそちらに向くのだ。

実際に司を見るよりも早く、その体から放たれるなにがしかの物質によって認識されるのだ。


それはオーラというものかもしれないし、フェロモンなのかもしれない。通常、認識できないそれを見境なく撒き散らすことにちっとも関心をしめさないばかりか、それに当てられる存在を認識するのが億劫であるらしい。


通り過ぎた後には、屍ばかりだ。

デート中であっても、司を認めたとたん魂を持っていかれる女性が後を絶たない。ぽうっと上気した頬で、司を目で追ってしまう。



「出掛ける予定があるなら、言って」

「……たいした用事じゃないから、気にしないで」


きゅうっと絡められた指が強く握りこまれる。


「独りで歩かせるのが心配なんだよ」


美麗な顔の眉間に深い皺が刻まれる。悩める青年の頭を占めるのが、幼なじみの外出先だとはいただけない。


「司が心配することなんて、何もないから」


幼い頃から見目麗しい幼なじみは、ちょっと気を許した途端に年上のお姉様方にすぐに取り囲まれてしまう。

保育園のお散歩でさえ連れ去られそうになった過去がある。



そんな時、しぶしぶではありながらあたしが司をお姉様の包囲網から救い出していた。

司の優しくて綺麗なママから、司のことを頼まれていたのもあるし、あたしのほうが司より1ヶ月お姉さんだからだ。


天使のような司が目にいっぱいの涙を溜めて怖かったというのを、撫でてあげて落ち着かせて家まで連れて行けば、司ママの感謝の言葉に手作りお菓子の歓待が待ち受けていて、幼心にこれはオイシイと認識してしまった。


つまりはあたしの一番の関心事は司ママのお菓子であって小鹿のようにぷるぷるふるえる天使ではなかった。


幼い頃からの耐性があるのか、幸いなことに司フェロモンが効かない体質だったのも良かった。


保育園、小学校を経て大分、司という人物の扱いに長けたつもりでいたが、思春期を迎えてややこしいことになっている。


「駄目だよ。結香はかわいいから、拉致られちゃう。どこかへ行く用事があるなら僕が守ってあげるから」


身の危険を感じた両親の希望で護身術のために空手を習い始め、すでに有段者になった司は身長も伸びてがっしりとした体躯になった。



そんな司は、なぜかあたしにだけ甘い顔を見せる。


成長して丸みを帯びて女性らしくなったとはいえ、天使をいつも身近に見てきた自分からしても、あまり女子力のない自分を司は女神かなにかのように扱う。


ほんの散歩で拉致られそうになる自分の過去から、あたしが独りて出歩くことをよしとしない。


「約束して。そばにいなかったら結香を守ることだって出来ないんだよ? 」


司とは違うから、そんなことはない


そう喉まで出掛かって飲み込んだ。


言ったことがあるのだ。しかしその言葉を撤回するまでにどれだけ結香がかわいいのか言葉を尽くして語り聞かされ、その口からこぼれる言葉に砂を吐く思いで耐えた。

まるで自分のこととは思えないその数々のエピソードに、どれだけ厚いフィルターがかかっているのかと頭を抱えた。



ああ、これは憧れに似ている。


泣いている司を隠すように背中に庇い、自分よりも大きなお姉様と対峙するのを見ていた司は、自分だけのヒーローを手に入れたのだ。



そして時を経て、憧れの存在のように強い自分を手に入れたのだ。


その頃には、かつてのヒーローには憧れのかけらも残っていなかったのだけれど。


「いいよ。わかった司の好きにしたらいいよ」



これ以上、司の意志を尊重しなかったら、また誉め殺しが待っている。それだけは勘弁してもらいたい。確実に体力を削られていくからだ。



「やっと分かってくれたんだね」

嬉しそうに腕の中に抱き込まれて、鼓動がとくりと早くなった。


司フェロモンの効かない自分でも、女子であるなら王子様との甘いロマンスの夢も見てしまう。


まあ、司が飽きるまで付き合うのも悪くない。

司からしたら都合のいい女よけを見つけただけかもしれないし。


勉強に追われて、司がらみの面倒やら司がらみの女の戦いを調停にあたってきていたので、ここいらでちょっと真面目に勉強にあてる時間を確保したかったのもある。



抱きしめられながら、司が黒い笑みを浮かべているなんてちっとも知らずに、締め切りの近いレポートのことをあれこれ考えていた。




「外堀はもう埋まっているんだよ。あとは結香が落ちるだけ」

他には何も欲しくないなど知りもしないで、腕の中でくつろいでいるのが憎らしくもある。

長い髪を梳いて、いくつもキスを落とす。


もう、逃がさない。
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