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3-3 逃げる男
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ペイトンが逃げた。
信じられない、とジェームスは朝から呆れ返った。
ペイトンは実に几帳面な男で、毎朝七時に起床し、軽く三十分のランニングの後、シャワーを浴びて、朝食を取り、九時に屋敷を出て馬車で二十分の仕事場へ向かう。
しかし、今日に限りいつもより一時間も前に出掛けた。
自分のペースが乱されるのは嫌いなペイトンが、朝のルーティンを曲げてまで早朝出勤した理由は、急ぎの仕事があるからなどでは断じてない。
ジェームスは、直ぐに追い掛けて連れ戻したい気持ちを抑えて、アデレードが起きてくるのを待った。
主人だけでなく、筆頭執事の自分まで不在ではアデレードの心証を悪くする。
あくまで急な仕事が入った体でやり過ごそう、と考えたから。
だが、食堂で挨拶したアデレードは、ペイトンのことを尋ねたが、今日の天気はどうか、と聞くのと同じくらい容易い感じだった。
不在の理由を告げても「そうなんですね」という反応。
ただ社交辞令で聞いてみただけで、そもそも興味がなさそうだった。
(奥様は貴方のことなど微塵も気にしておられないですよ)
ジェームスは苦く思った。
しかし、嫁いできたからには妻の務めを果たそうとする気持ちは持っているらしい。
礼状の手配を頼んでみたが、命じてくれればこちらがする旨を告げても、自分ですると断った。
昨日も傲慢な態度はなかったし、噂に聞き及んだ我儘令嬢ではないな、と改めて思った。
ジェームスは、フォアード家の夫人となる令嬢に関して、何の用意もせず招くわけにはいかないため、アデレードのことをあれこれ調べていた。
美男子と評判のリコッタ伯爵家の嫡男に付き纏い迷惑がられている悪評を入手してペイトンの尤も嫌うタイプの令嬢だな、と不穏を感じていた。
ペイトンの懸念通り、ペイトンの美貌に執心するのではないか、とも。
しかし、実際嫁いできたアデレードは全くペイトンに興味を惹かれる様子はなかったし、白い結婚を白い結婚として遂行しようという意思が見えた。
ペイトンが失礼な宣言をしなければ、もっと淡々とした関係を築けたはずだ。
今日だって、普通に朝食を共にして、普通に挨拶して出掛ければそれで丸く収まっただろう。
(一年ずっと逃げるつもりじゃないだろうな)
アデレードはペイトンが早朝出勤したことに疑いは抱いていなかったが、屋敷の人間は誰もが変だと思っている。
それほどペイトンは自分のスタイルを曲げない男だ。
その全てを投げ打ってまで逃げ惑う意味がわからない。
女嫌いでも女性恐怖症ではないはずだ。
だというのに、昨日から様子がおかしいのも気になる。
一体どういうつもりでいるのか白黒はっきりつけさせる必要がある。
午後から礼状の手配を手伝う約束をアデレードと取り交わした後、ジェームスはすぐさまペイトンの元へ向かった。
フォアード家は領地の運営の他、貿易商を営んでいる。
優秀な人材は出自に構わず雇用する方針で、様々な階級からのニーズを拾いやすい。
卸売りだけではなく小売の店舗も五つ所有している。
各店舗ごとに特色を持たせて高級品と日用品は同じ店では販売しない。その為客層は店舗ごとに異なり、貴族から平民まで多くの客を取り込んでいる。
ペイトンの執務室は第一号店である本店にある。
三階建のビルで、一階が店舗、二階、三階が事務所となっている。
ペイトンは基本的に午前中はこの事務所で仕事をして、午後からは店舗を回ったり、商談に応じたり、会食に出掛けたりする。
「あれ、ジェームスさん、今日は出勤日でした?」
「いや、旦那様に急用だ」
事務所へ上がると受付嬢が疑問を投げかけてくる。
ジェームスは貿易商の方の経理事務も担っていて、隔週ごとに事務所へ来る。
「ペイトン様は先程出社されましたよ」
受付嬢がにこやかに答える。
先程? 二時間前には屋敷をでたのに? と疑問が湧いたがそのままペイトンの執務室へ向かう。
ドンドンと扉を叩くが返事がない。
「居るのは分かっているんですよ。入りますよ」
徐に扉を開けると「勝手に入ってくるな」と抗議しながら執務机に突っ伏しているペイトンが見えた。
「急な仕事とは一体なんですか? 奥様に挨拶もせず出社するような案件などないはずですが?」
構わずジェームスが詰め寄ると、ペイトンは机に顔を埋めたままもごもご言った。
聞き取れずにジェームスがもう一度尋ねると、
「今準備しているところだ!」
と今度は投げやりに叫ぶ。
「準備って何のですか?」
ジェームスが眉根を寄せるが、机の上に散乱している本の題名を見て何とも言えない気持ちになった。
異性の心を掴む方法
恋を叶える魔法の言葉100
また会いたいと思わせる会話術
恋愛初心者の愛されテクニック
見える範囲ではそれだけだが、他にもバラバラと机上に散乱している。
これを隠すために机に覆い被さっていたらしい。
もう諦めたのか、今は不機嫌に顔を上げている。
「……奥様を好きになっちゃったんですか?」
「馬鹿言うな。契約を遂行するのに必要だから買ったんだ」
いやいや、とジェームスは思った。
こんな本を読むくらいなら、ちゃんと朝の挨拶をして一緒に朝食をとれよ、と。
まぁ、でも、逃げただけではないことに少し安心した。意外に本人にやる気があることも。
「奥様は旦那様が出掛けたのかお尋ねでしたよ」
興味はなさそうでしたけど、の言葉は呑み込みでジェームスが告げると、
「そうか……何て答えたんだ?」
「出勤した旨をお伝えしました」
「何か言っていたか?」
ペイトンが心許なく尋ねる。
何も、とは答えづらくて、
「奥様は、本日は結婚の内祝いの手配をしてくださるそうです」
とジェームスははぐらかして返した。
「そんなことはさせるな」
「妻の務めとしては通常のことかと」
「昨日嫁いできたばかりだろ」
「昨日嫁いできたばかりでも妻は妻です」
「そうじゃなくて!」
ペイトンが語調を強める。
てっきり屋敷のことに口を挟ませるな、という意味合いで言ったと思ったが違うらしい。
「奥様がご自身で自分がすると仰られましたので。もちろん私が補佐します」
ジェームスが付け加えるとペイトンは黙った。
夫の金で遊び歩く妻、というのはペイトンが一番嫌う構図のはずだ。
だが、嫁いできたばかりの自分の妻には、いきなり仕事をさせない思いやりはあるらしい。
ジェームスは生温かい気持ちになった。
だったら、それを言葉にすれば恋愛指南書を読むよりよっぽど効果的なのではないかとは思わなくもないが。
しかし、本を読了後ペイトンがどう動くか非常に気になったので、敢えて何も忠告しないことにした。
ペイトンが逃げた。
信じられない、とジェームスは朝から呆れ返った。
ペイトンは実に几帳面な男で、毎朝七時に起床し、軽く三十分のランニングの後、シャワーを浴びて、朝食を取り、九時に屋敷を出て馬車で二十分の仕事場へ向かう。
しかし、今日に限りいつもより一時間も前に出掛けた。
自分のペースが乱されるのは嫌いなペイトンが、朝のルーティンを曲げてまで早朝出勤した理由は、急ぎの仕事があるからなどでは断じてない。
ジェームスは、直ぐに追い掛けて連れ戻したい気持ちを抑えて、アデレードが起きてくるのを待った。
主人だけでなく、筆頭執事の自分まで不在ではアデレードの心証を悪くする。
あくまで急な仕事が入った体でやり過ごそう、と考えたから。
だが、食堂で挨拶したアデレードは、ペイトンのことを尋ねたが、今日の天気はどうか、と聞くのと同じくらい容易い感じだった。
不在の理由を告げても「そうなんですね」という反応。
ただ社交辞令で聞いてみただけで、そもそも興味がなさそうだった。
(奥様は貴方のことなど微塵も気にしておられないですよ)
ジェームスは苦く思った。
しかし、嫁いできたからには妻の務めを果たそうとする気持ちは持っているらしい。
礼状の手配を頼んでみたが、命じてくれればこちらがする旨を告げても、自分ですると断った。
昨日も傲慢な態度はなかったし、噂に聞き及んだ我儘令嬢ではないな、と改めて思った。
ジェームスは、フォアード家の夫人となる令嬢に関して、何の用意もせず招くわけにはいかないため、アデレードのことをあれこれ調べていた。
美男子と評判のリコッタ伯爵家の嫡男に付き纏い迷惑がられている悪評を入手してペイトンの尤も嫌うタイプの令嬢だな、と不穏を感じていた。
ペイトンの懸念通り、ペイトンの美貌に執心するのではないか、とも。
しかし、実際嫁いできたアデレードは全くペイトンに興味を惹かれる様子はなかったし、白い結婚を白い結婚として遂行しようという意思が見えた。
ペイトンが失礼な宣言をしなければ、もっと淡々とした関係を築けたはずだ。
今日だって、普通に朝食を共にして、普通に挨拶して出掛ければそれで丸く収まっただろう。
(一年ずっと逃げるつもりじゃないだろうな)
アデレードはペイトンが早朝出勤したことに疑いは抱いていなかったが、屋敷の人間は誰もが変だと思っている。
それほどペイトンは自分のスタイルを曲げない男だ。
その全てを投げ打ってまで逃げ惑う意味がわからない。
女嫌いでも女性恐怖症ではないはずだ。
だというのに、昨日から様子がおかしいのも気になる。
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午後から礼状の手配を手伝う約束をアデレードと取り交わした後、ジェームスはすぐさまペイトンの元へ向かった。
フォアード家は領地の運営の他、貿易商を営んでいる。
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各店舗ごとに特色を持たせて高級品と日用品は同じ店では販売しない。その為客層は店舗ごとに異なり、貴族から平民まで多くの客を取り込んでいる。
ペイトンの執務室は第一号店である本店にある。
三階建のビルで、一階が店舗、二階、三階が事務所となっている。
ペイトンは基本的に午前中はこの事務所で仕事をして、午後からは店舗を回ったり、商談に応じたり、会食に出掛けたりする。
「あれ、ジェームスさん、今日は出勤日でした?」
「いや、旦那様に急用だ」
事務所へ上がると受付嬢が疑問を投げかけてくる。
ジェームスは貿易商の方の経理事務も担っていて、隔週ごとに事務所へ来る。
「ペイトン様は先程出社されましたよ」
受付嬢がにこやかに答える。
先程? 二時間前には屋敷をでたのに? と疑問が湧いたがそのままペイトンの執務室へ向かう。
ドンドンと扉を叩くが返事がない。
「居るのは分かっているんですよ。入りますよ」
徐に扉を開けると「勝手に入ってくるな」と抗議しながら執務机に突っ伏しているペイトンが見えた。
「急な仕事とは一体なんですか? 奥様に挨拶もせず出社するような案件などないはずですが?」
構わずジェームスが詰め寄ると、ペイトンは机に顔を埋めたままもごもご言った。
聞き取れずにジェームスがもう一度尋ねると、
「今準備しているところだ!」
と今度は投げやりに叫ぶ。
「準備って何のですか?」
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いやいや、とジェームスは思った。
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「奥様は旦那様が出掛けたのかお尋ねでしたよ」
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「そうか……何て答えたんだ?」
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「何か言っていたか?」
ペイトンが心許なく尋ねる。
何も、とは答えづらくて、
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とジェームスははぐらかして返した。
「そんなことはさせるな」
「妻の務めとしては通常のことかと」
「昨日嫁いできたばかりだろ」
「昨日嫁いできたばかりでも妻は妻です」
「そうじゃなくて!」
ペイトンが語調を強める。
てっきり屋敷のことに口を挟ませるな、という意味合いで言ったと思ったが違うらしい。
「奥様がご自身で自分がすると仰られましたので。もちろん私が補佐します」
ジェームスが付け加えるとペイトンは黙った。
夫の金で遊び歩く妻、というのはペイトンが一番嫌う構図のはずだ。
だが、嫁いできたばかりの自分の妻には、いきなり仕事をさせない思いやりはあるらしい。
ジェームスは生温かい気持ちになった。
だったら、それを言葉にすれば恋愛指南書を読むよりよっぽど効果的なのではないかとは思わなくもないが。
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