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42-3 生涯現役で
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「べ、別に、調子になんて……」
「たかが男爵令嬢が私に口答えするつもり? 今すぐ膝をついて謝罪しなさい」
膝をつくのは罪人の謝罪のやり方で、一般市民でもやらない屈辱的な行為だ。
自分でも思う以上にすらすら言葉が出ることに驚く。
無意識にいつか言ってやろうと考えていたのかもしれない。
どいつもこいつもこれまで反撃されなかったから、言いたいことを言ってくれる。
つけあがらせた自分の落ち度だと思った。
「膝をつけなんて……ひどいわ。友達だと思っていたのに……!」
メイジーの悲劇のヒロインぶる態度にアデレードは吹き出しそうになるのを耐えた。
「友達じゃないでしょ。御託はいいから早く床に伏して謝罪しなさい」
「こ、こんなことレイモンド様が知ったらなんと仰るか」
メイジーの台詞にアデレードはハッとした。
そして、目の前の霧が晴れたように不思議な心地になった。
メイジーに対しては不快極まりないが、以前のような気持ちではなかった。
あの手先が冷たくなる感覚も、唇が縫い合わされて喋れなくなる硬直感も全く襲ってこない。
怖くない、と思った。
そして同時に、あぁ、私は怖かったのか、とすとんと腑に落ちた。そうか、そうか、私は怖かったんだ、と。
――レイモンド様はどう仰るかしら?
そう言われる度、心が冷えて怖かった。
反論してもレイモンドは味方してくれない。助けてくれない。セシリアから庇ってくれた頃のレイモンドはいなくなってしまった。
それを証明してしまうのが怖かった。
ぼやけた何かが繋がって、世界が鮮明に見える気がした。
ある種の感動にアデレードが沈黙していると、メイジーは言い淀んでいると都合よく解釈したらしい。
「レイモンド様は、アデレード様のそういう爵位を笠に着た態度を不快に感じていらしたんですよ。侯爵様だってきっと幻滅されると思います」
よい逃げ口上を得たとばかりにつらつら喋るメイジーにアデレードは笑いが込み上げてきた。
だって、と。だって、
「レイモンドは知らないけど、私の旦那様は別に幻滅しないと思いますよ」
「え?」
「だから、しないって」
「そ、それはただ我慢しているだけで……白い結婚が終わったら切れる関係ですもの。波風立てたくないだけです。内心はどう思っていらっしゃるか。わたしは、友達として忠告してあげているんですよ! 侯爵様が離縁した後もアデレード様を助けてくれますか? くれませんよね。だから、友達は大事にしないと、」
「助けるよ」
(え?)
アデレードは背後に突然人がいたことに対する驚きで飛び上がって振り向いた。
見知った人物ではあるがその表情は知らない。
ペイトンが高圧的にメイジーを見下げている。
(なんで?)
タイミングが良すぎる。
緊迫した空気なのに、ますます妙な笑いが湧き上がってくる。笑ったらまずい場面ほど笑ってしまうやつ。
目が合うとペイトンは冷たい表情から一転して呆れきった顔をした。
「君、何をへらへら笑っているんだ。本当に頼りないな。がつんと言ってやるんじゃないのか。のほほんとし過ぎだ」
ペイトンがつかつか隣まで歩いて来る。
私は何を怒られているのか。別にのほほんとなどしていない。今まさに謝罪を要求しているところだった。ペイトンは何処から聞いていたのか。邪魔をしといて理不尽ではないか。
アデレードは反論しようとしたが、先にペイトンが再びメイジーに視線を移して言った。
「随分勝手な発言をしてくれるな。君は僕の何を知って、どういう根拠で僕の妻に無礼を働くんだ?」
「ちが……わたしはそんなつもりじゃ……わたしはアデレード様を心配して……」
「ならば、その心配は無用だ。白い結婚が終わっても僕は何かあればいつでも彼女を助けに来る。君に僕が彼女をどう思っているかなど詮索される謂れもない」
「こ、侯爵様はアデレード様がノイスタインでどういう評価を受けていたか知らないからそう仰るんです。彼女は侯爵様の思っているような人ではありません。皆、迷惑してたんです。今だって私に膝をついて謝罪しろと脅してきて……」
大きな目を潤ませて、か弱げに言う。
心配だから忠告した、という体裁はどうしたのか。
ペイトンが最初から全部聞いている可能性だって十分にあると思うが、面の皮が厚すぎる。
「それで?」
「え」
「評判か。権力を笠に着てリコッタ家の子息に言い寄っている、だったか? で、だからなんだ?」
ペイトンの威圧的な態度に場が凍りつく。胃が痛くなるような沈黙が落ちる。
「わたし、なにもしていないのに……!」
それでも大嘘を言い返すメイジーにはある意味脱帽する。
ペイトンが乾いた笑い声を上げたことで全て立ち消えたが。
「侯爵家の人間だから優遇されてずるいのだろう? その優遇される侯爵家の人間に舐めた口を利いたら罰されるのは当然だ。何の矛盾もない」
笑ったままで嬉々として述べるペイトンが見知らぬ人間に見えた。
庇われているのに何故か一緒に非難されている気持ちになるほど、凍てついた雰囲気が充満している。
「僕は加虐趣味はないし、女性に手を上げる外道でもないが、お前は既に一線を越えている。今すぐ膝をついてアデレードに謝罪しろ」
流石長年女嫌いを貫いてきたことはある、と妙な感心をしてしまう。
ぐっと喉を詰まらせて泣き出しそうなメイジーにペイトンが怯む様子はない。
まともな紳士なら気の毒がって多分許してしまうのではないか。
(私も助けたりなんてしないわよ)
アデレードはぎゅっと拳を握って強く思った。
喧嘩を売ってきたのはメイジー・フランツだ。私は悪くない。関係ない。自業自得。
人気のない場所で謝罪するだけで許されるならお釣りがくるんじゃないか。
どうせ心から謝ったりしない形だけの謝罪だ。ならばせめてとっとと膝をつけ、と思うがメイジーは一向に動く気配がない。
(この期に及んで強情を張るつもり?)
ドレスがちょっと汚れるだけのこと。人がくる前にちゃちゃっと終わらせた方がよいだろうに、とアデレードは冷めて思ったが、
(ドレス……)
メイジーの苦悶の表情と棒立ちのまま硬直した姿が目に映る。
メイジーによく似合う淡い桃色。腰で切り返しがあるデザイン。卒業祝いの贈り物だと自慢げに語ったドレス。
卒業式は明後日なのに何故今日着てきたのか……とそこまで考えて、
(あぁ……)
と思った。
アデレードは嫌な動悸がして、
「もういいです」
と次の瞬間唇がほとんど無意識に動いていた。
「君、何を言っているんだ?」
ペイトンが鋭い視線のままこちらを向く。
「ドレスが汚れるから、もういいです」
「は? そんなことはどうでもいいだろ」
「そのドレスが着られなくなったら困るんでしょ?」
アデレードはメイジーを見つめた。
「それしか持ってないから」とまでは言わなかった。
でも、メイジーは察したのだろう。顔が真っ赤に染まる。
確かに自分は恵まれている。メイジーが欲しいものを持っている。
卒業式のプレゼントなら卒業式に着ればいいのに、と簡単に言ってしまえるほど。他のを着ればよいのに、と。
(でも、私を攻撃して良い免罪符にはならないわ)
高位貴族に楯突いて無事で済むはずがない。
だから、膝をついて謝罪してドレスが汚れても仕方ない。
ただ「可哀想に」と思ってしまった。
メイジーからこのドレスを奪っても仕方ないんじゃないか、と。
ここで跪かせることに意味があるかな、と。
侯爵令嬢らしく毅然と振舞うように教えられた。でも、これは侯爵令嬢らしい行動だろうか。
このまま膝を折らせてもざまーみろとは思わない。対等に思っていないから。
遥か下に見ている。確かに自分は酷い人間かもしれない。これは優しさではなく施しだ。でも、
「もういいから、行きなさい」
アデレードは続けて言った。
メイジーはせわしなく腰のリボンに触れながら目を泳がせている。
唇を強く結んでいたが、瞳からポロッと涙が落ちた瞬間意を決したように、
「……っも、申し訳ありませんでした」
と震える声で言って走り去った。
ヒールの音が不気味なくらい響く。
泣いていた。多分、本当の涙だ。
アデレードは黙ってメイジーの後ろ姿を見つめた。善人ぶる気はないが後味は悪い。
「君は口先ばかりで本当に全然やり返さないな」
ペイトンのため息交じりの声に顔を向ける。
「……途中で虚しくなったんです」
「そんなんだから舐められるんだ」
「さっきはちゃんとやりました」
「さっき?」
ペイトンの顔色がまた怒りに染まる。
「何故一日に何度も絡まれるんだ。普通の侯爵夫人はそんなに絡まれたりしないだろ」
普通の侯爵夫人、という聞きなれない単語にふふっとアデレードが笑うとペイトンは益々顔を顰めた。
「何笑っているんだ」
「すみません」
「別に、謝ることでは……」
「じゃあ、次はもっとちゃんとやります」
「へなちょこだから心配だ」
「へなちょこ……」
失礼すぎないか。ここぞとばかりに悪口を言われている気がしてならない。しかし、扱き下ろされた自分よりペイトンの方が苦い顔をしていることにアデレードは笑った。
「でも、大丈夫ですよ」
「何が」
「だって旦那様がずっと助けに来てくれるんでしょ?」
「……それは……そうだが」
「次からは私を愚弄したらペイトン・フォアードが黙ってないぞって言いますね」
「あぁ、そうしてくれ」
「私が八十歳になってもですよ」
「はち……君、そんな年になってまで喧嘩するつもりなのか」
「生涯現役なんで」
「僕は真面目な話をしているんだぞ」
「私も真面目に話してます」
アデレードは笑顔を殺してすんっとした表情を作ろうと試みたが、笑いが溢れてくるので非常に微妙な顔になった。
ペイトンが諦めたように息を吐く。
「君が八十なら、僕は八十五なんだが……」
「はい。頑張ってください」
「……まぁ、いいが」
ペイトンはぼそぼそ言って、
「それより、さっきの女は本当に貴族なのか? 礼儀がなってなさすぎるだろ」
と話を戻した。
「彼女は特別なんです。レイモンドの恋人ですから」
「え、そんなはずないだろ……」
ペイトンが目を開いて絶句する。そこまで驚くことだろうか。
「嘘なんか吐きませんよ」
「だったら、」
「なんですか」
「いや……」
「なんですか? 気になるから言ってください」
「本当になんでもない。すまない」
「ふーん。別にいいですけど」
「……すまない」
「そんなに謝られても」
何もペイトンのせいじゃないだろうに、謝罪する意味がわからない。
レイモンドのことを語らせてしまったと詫びているのだろうか。
別にいいのに、とアデレードは思った。だって、
「本当にもう大丈夫なんで」
とアデレードは繰り返した。
メイジーがレイモンドの恋人だと口にしても何も感じなかった。
燻っていた気持ちが魔法みたいに溶けて何処かへ飛んでいった。
ペイトンがずっと味方でいてくれるからもういいか、と思った。
さっき迷うことなくペイトンを信じてよかったな、とも。
たとえばそれがただのリップサービスでも、今日味方してくれたことは事実だから、と。
「喉乾いたからサロンに行きましょう」
アデレードは今自分がどういう顔をしているか不安で、見えないようにペイトンの前を歩き始めた。
だから、当然ペイトンの表情も見なかった。
ペイトンが本当は何を謝っているのか追及することはなかったし、何に罪悪感を抱いているか知るよしもなかった。
「たかが男爵令嬢が私に口答えするつもり? 今すぐ膝をついて謝罪しなさい」
膝をつくのは罪人の謝罪のやり方で、一般市民でもやらない屈辱的な行為だ。
自分でも思う以上にすらすら言葉が出ることに驚く。
無意識にいつか言ってやろうと考えていたのかもしれない。
どいつもこいつもこれまで反撃されなかったから、言いたいことを言ってくれる。
つけあがらせた自分の落ち度だと思った。
「膝をつけなんて……ひどいわ。友達だと思っていたのに……!」
メイジーの悲劇のヒロインぶる態度にアデレードは吹き出しそうになるのを耐えた。
「友達じゃないでしょ。御託はいいから早く床に伏して謝罪しなさい」
「こ、こんなことレイモンド様が知ったらなんと仰るか」
メイジーの台詞にアデレードはハッとした。
そして、目の前の霧が晴れたように不思議な心地になった。
メイジーに対しては不快極まりないが、以前のような気持ちではなかった。
あの手先が冷たくなる感覚も、唇が縫い合わされて喋れなくなる硬直感も全く襲ってこない。
怖くない、と思った。
そして同時に、あぁ、私は怖かったのか、とすとんと腑に落ちた。そうか、そうか、私は怖かったんだ、と。
――レイモンド様はどう仰るかしら?
そう言われる度、心が冷えて怖かった。
反論してもレイモンドは味方してくれない。助けてくれない。セシリアから庇ってくれた頃のレイモンドはいなくなってしまった。
それを証明してしまうのが怖かった。
ぼやけた何かが繋がって、世界が鮮明に見える気がした。
ある種の感動にアデレードが沈黙していると、メイジーは言い淀んでいると都合よく解釈したらしい。
「レイモンド様は、アデレード様のそういう爵位を笠に着た態度を不快に感じていらしたんですよ。侯爵様だってきっと幻滅されると思います」
よい逃げ口上を得たとばかりにつらつら喋るメイジーにアデレードは笑いが込み上げてきた。
だって、と。だって、
「レイモンドは知らないけど、私の旦那様は別に幻滅しないと思いますよ」
「え?」
「だから、しないって」
「そ、それはただ我慢しているだけで……白い結婚が終わったら切れる関係ですもの。波風立てたくないだけです。内心はどう思っていらっしゃるか。わたしは、友達として忠告してあげているんですよ! 侯爵様が離縁した後もアデレード様を助けてくれますか? くれませんよね。だから、友達は大事にしないと、」
「助けるよ」
(え?)
アデレードは背後に突然人がいたことに対する驚きで飛び上がって振り向いた。
見知った人物ではあるがその表情は知らない。
ペイトンが高圧的にメイジーを見下げている。
(なんで?)
タイミングが良すぎる。
緊迫した空気なのに、ますます妙な笑いが湧き上がってくる。笑ったらまずい場面ほど笑ってしまうやつ。
目が合うとペイトンは冷たい表情から一転して呆れきった顔をした。
「君、何をへらへら笑っているんだ。本当に頼りないな。がつんと言ってやるんじゃないのか。のほほんとし過ぎだ」
ペイトンがつかつか隣まで歩いて来る。
私は何を怒られているのか。別にのほほんとなどしていない。今まさに謝罪を要求しているところだった。ペイトンは何処から聞いていたのか。邪魔をしといて理不尽ではないか。
アデレードは反論しようとしたが、先にペイトンが再びメイジーに視線を移して言った。
「随分勝手な発言をしてくれるな。君は僕の何を知って、どういう根拠で僕の妻に無礼を働くんだ?」
「ちが……わたしはそんなつもりじゃ……わたしはアデレード様を心配して……」
「ならば、その心配は無用だ。白い結婚が終わっても僕は何かあればいつでも彼女を助けに来る。君に僕が彼女をどう思っているかなど詮索される謂れもない」
「こ、侯爵様はアデレード様がノイスタインでどういう評価を受けていたか知らないからそう仰るんです。彼女は侯爵様の思っているような人ではありません。皆、迷惑してたんです。今だって私に膝をついて謝罪しろと脅してきて……」
大きな目を潤ませて、か弱げに言う。
心配だから忠告した、という体裁はどうしたのか。
ペイトンが最初から全部聞いている可能性だって十分にあると思うが、面の皮が厚すぎる。
「それで?」
「え」
「評判か。権力を笠に着てリコッタ家の子息に言い寄っている、だったか? で、だからなんだ?」
ペイトンの威圧的な態度に場が凍りつく。胃が痛くなるような沈黙が落ちる。
「わたし、なにもしていないのに……!」
それでも大嘘を言い返すメイジーにはある意味脱帽する。
ペイトンが乾いた笑い声を上げたことで全て立ち消えたが。
「侯爵家の人間だから優遇されてずるいのだろう? その優遇される侯爵家の人間に舐めた口を利いたら罰されるのは当然だ。何の矛盾もない」
笑ったままで嬉々として述べるペイトンが見知らぬ人間に見えた。
庇われているのに何故か一緒に非難されている気持ちになるほど、凍てついた雰囲気が充満している。
「僕は加虐趣味はないし、女性に手を上げる外道でもないが、お前は既に一線を越えている。今すぐ膝をついてアデレードに謝罪しろ」
流石長年女嫌いを貫いてきたことはある、と妙な感心をしてしまう。
ぐっと喉を詰まらせて泣き出しそうなメイジーにペイトンが怯む様子はない。
まともな紳士なら気の毒がって多分許してしまうのではないか。
(私も助けたりなんてしないわよ)
アデレードはぎゅっと拳を握って強く思った。
喧嘩を売ってきたのはメイジー・フランツだ。私は悪くない。関係ない。自業自得。
人気のない場所で謝罪するだけで許されるならお釣りがくるんじゃないか。
どうせ心から謝ったりしない形だけの謝罪だ。ならばせめてとっとと膝をつけ、と思うがメイジーは一向に動く気配がない。
(この期に及んで強情を張るつもり?)
ドレスがちょっと汚れるだけのこと。人がくる前にちゃちゃっと終わらせた方がよいだろうに、とアデレードは冷めて思ったが、
(ドレス……)
メイジーの苦悶の表情と棒立ちのまま硬直した姿が目に映る。
メイジーによく似合う淡い桃色。腰で切り返しがあるデザイン。卒業祝いの贈り物だと自慢げに語ったドレス。
卒業式は明後日なのに何故今日着てきたのか……とそこまで考えて、
(あぁ……)
と思った。
アデレードは嫌な動悸がして、
「もういいです」
と次の瞬間唇がほとんど無意識に動いていた。
「君、何を言っているんだ?」
ペイトンが鋭い視線のままこちらを向く。
「ドレスが汚れるから、もういいです」
「は? そんなことはどうでもいいだろ」
「そのドレスが着られなくなったら困るんでしょ?」
アデレードはメイジーを見つめた。
「それしか持ってないから」とまでは言わなかった。
でも、メイジーは察したのだろう。顔が真っ赤に染まる。
確かに自分は恵まれている。メイジーが欲しいものを持っている。
卒業式のプレゼントなら卒業式に着ればいいのに、と簡単に言ってしまえるほど。他のを着ればよいのに、と。
(でも、私を攻撃して良い免罪符にはならないわ)
高位貴族に楯突いて無事で済むはずがない。
だから、膝をついて謝罪してドレスが汚れても仕方ない。
ただ「可哀想に」と思ってしまった。
メイジーからこのドレスを奪っても仕方ないんじゃないか、と。
ここで跪かせることに意味があるかな、と。
侯爵令嬢らしく毅然と振舞うように教えられた。でも、これは侯爵令嬢らしい行動だろうか。
このまま膝を折らせてもざまーみろとは思わない。対等に思っていないから。
遥か下に見ている。確かに自分は酷い人間かもしれない。これは優しさではなく施しだ。でも、
「もういいから、行きなさい」
アデレードは続けて言った。
メイジーはせわしなく腰のリボンに触れながら目を泳がせている。
唇を強く結んでいたが、瞳からポロッと涙が落ちた瞬間意を決したように、
「……っも、申し訳ありませんでした」
と震える声で言って走り去った。
ヒールの音が不気味なくらい響く。
泣いていた。多分、本当の涙だ。
アデレードは黙ってメイジーの後ろ姿を見つめた。善人ぶる気はないが後味は悪い。
「君は口先ばかりで本当に全然やり返さないな」
ペイトンのため息交じりの声に顔を向ける。
「……途中で虚しくなったんです」
「そんなんだから舐められるんだ」
「さっきはちゃんとやりました」
「さっき?」
ペイトンの顔色がまた怒りに染まる。
「何故一日に何度も絡まれるんだ。普通の侯爵夫人はそんなに絡まれたりしないだろ」
普通の侯爵夫人、という聞きなれない単語にふふっとアデレードが笑うとペイトンは益々顔を顰めた。
「何笑っているんだ」
「すみません」
「別に、謝ることでは……」
「じゃあ、次はもっとちゃんとやります」
「へなちょこだから心配だ」
「へなちょこ……」
失礼すぎないか。ここぞとばかりに悪口を言われている気がしてならない。しかし、扱き下ろされた自分よりペイトンの方が苦い顔をしていることにアデレードは笑った。
「でも、大丈夫ですよ」
「何が」
「だって旦那様がずっと助けに来てくれるんでしょ?」
「……それは……そうだが」
「次からは私を愚弄したらペイトン・フォアードが黙ってないぞって言いますね」
「あぁ、そうしてくれ」
「私が八十歳になってもですよ」
「はち……君、そんな年になってまで喧嘩するつもりなのか」
「生涯現役なんで」
「僕は真面目な話をしているんだぞ」
「私も真面目に話してます」
アデレードは笑顔を殺してすんっとした表情を作ろうと試みたが、笑いが溢れてくるので非常に微妙な顔になった。
ペイトンが諦めたように息を吐く。
「君が八十なら、僕は八十五なんだが……」
「はい。頑張ってください」
「……まぁ、いいが」
ペイトンはぼそぼそ言って、
「それより、さっきの女は本当に貴族なのか? 礼儀がなってなさすぎるだろ」
と話を戻した。
「彼女は特別なんです。レイモンドの恋人ですから」
「え、そんなはずないだろ……」
ペイトンが目を開いて絶句する。そこまで驚くことだろうか。
「嘘なんか吐きませんよ」
「だったら、」
「なんですか」
「いや……」
「なんですか? 気になるから言ってください」
「本当になんでもない。すまない」
「ふーん。別にいいですけど」
「……すまない」
「そんなに謝られても」
何もペイトンのせいじゃないだろうに、謝罪する意味がわからない。
レイモンドのことを語らせてしまったと詫びているのだろうか。
別にいいのに、とアデレードは思った。だって、
「本当にもう大丈夫なんで」
とアデレードは繰り返した。
メイジーがレイモンドの恋人だと口にしても何も感じなかった。
燻っていた気持ちが魔法みたいに溶けて何処かへ飛んでいった。
ペイトンがずっと味方でいてくれるからもういいか、と思った。
さっき迷うことなくペイトンを信じてよかったな、とも。
たとえばそれがただのリップサービスでも、今日味方してくれたことは事実だから、と。
「喉乾いたからサロンに行きましょう」
アデレードは今自分がどういう顔をしているか不安で、見えないようにペイトンの前を歩き始めた。
だから、当然ペイトンの表情も見なかった。
ペイトンが本当は何を謝っているのか追及することはなかったし、何に罪悪感を抱いているか知るよしもなかった。
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