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狭間にて

閑話休題:難波の神社へ寄進されし島

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 女護島からさらに南に下ると、鬼ヶ島があった。鬼ヶ島では、坂東の陸から追われた鬼が逃げ込んでいた。ここから追われると思って、戦い挑んで来た者達は凄まじく、為朝へ戦いを挑み、凄まじい戦いとなったが、鬼を退治に来たのではないと理解してもらうと、好んで戦おうとするもの少なく、宝を差し出せと言ったら、もう持っていないと応える始末であった。
 鬼達から、白漆喰の生産と鬼釜の話しをすると、釜を鬼ヶ島だけでなく、女護島に設置したいと言うと、女護島へ渡ってくれるものが多く、船に乗って旅に出ないかと誘うと、面白いと来る鬼達もいてくれた。彼等を一党として雇いいれた。特に、為朝に何度投げ飛ばされても、向かっていった鬼衆の一鬼ひとつきは、為朝の弟子になると言ってついてきた。



 京洛への手続きとして、鬼ヶ島は難波の住吉大社と坐摩神社へ寄進されておりました。鬼釜によって生産された白漆喰で造られた船は、伊豆諸島を結ぶミズチ船として発達するとこととなった。
 白漆喰はコンクリートである。竹編白漆喰船と呼ばれる船は、塩飽本島で建造された。宵闇のコンクリート船は、第二次大戦時に造られた鉄筋コンクリート船ではなく、コンクリートカヌー等で使用される、モルタルに近い製造法で造られているコンクリート船である。竹編にコテで、白漆喰を塗りこんで造るやり方で、カーボン繊維やガラス繊維を芯材とすれば、かなり頑丈な構造船を造ることができる。日本では、竹筋を芯とした白漆喰材で船を建造していた。

 

  竹を骨材として使った、白漆喰船の建造が始められた。特に、ミズチ衆が曳く小型の五丈(十五メートル)白漆喰船による下田白濱神社、駿河大島神社、伊豆大島や女護島を含めた伊豆諸島を結ぶ、交易路は、大島紬やミズチ漁による集団漁法が進められ、鯨などの獲物まで取れるようになっていた。油や鯨骨といった特産品が増加していた。こういった伊豆諸島の生産量の拡大は、為朝や玲がもたらしたもので、為朝は、伊豆諸島全域に影響を拡大していったのであった。玲は、伊豆国司に気づかれぬように、駿河や難波との取引を中心として、下田から竹を購入して下田の白濱神社を介して、竹籠を販売し、伊豆介へ税として上納し、納税額を拡大していくことで、追求を逃れていた。
  伊豆介の茂光は、大島へ絹を送って紬と返す従来の租税だけでなく、竹を送って竹籠で返すことによる交易拡大については、三郎太夫から茂光へ報告がされており、竹籠の利益を茂光へ上納されていて、大きな利益ともなっていたので、気づかれなかったのである。


  ミヅチを使った漁法は、銛を用いた個人漁法や集団漁法による、イルカやクジラ、サメといった獲物を狩ることができるようになった。伊豆近海では、ミヅチを使った漁法や船の移動が、少しづつ知られていった。
  伊豆介茂光のところにも、伊豆近海での海産加工品の増加と、ミヅチを用いた漁法について報告があがるようになっていった。
  茂光は、伊豆近海での、海産物取引等で、掠り上納金が増えて、ほくほくしていたので、ミヅチ漁法や船についての追及は甘くなっていた。
  伊東の水軍を率いる、宇佐美定行は、ミヅチの籠船に乗って漁をする大島の者達を見て、
「ミヅチか、我らも欲しいものだ。契りの交わし方は判らんのか」
「はぁ、昔は、遠洋で見かける程度でしたが、最近になって契りを交わすものが増えてきたようです」
「籠船の様子からすれば、関船を曳くことも出来そうじゃ」
「はぁ、それが何か」
「判らんのか、梃子が要らんのだぞ」
「おぉッそれは」
「契りを交わすミヅチがおれば、伊豆水軍衆が、坂東の水軍を束ねることもできるのじゃ」
「は、はい」
「調べよ。ミヅチとの契りを交わす方法じゃ」
「はッ」
手下達が駆け出していく。



 玲は、ミヅチ船を難波から送られた渡辺党の船として、紀州を廻り、伊勢から東海沿岸を通って、沼津への交易路を拓いていた。伊豆介が得意とする駒の売買も、伊勢の熊野水軍衆が買い取って畿内に販売することで、大きな商いともなっていた。茂光は、急に増加した上納金にほくほくしながら、馬の売り上げとして三頭で弐百石を受け取っていた。
「竜族の娘も役に立つ者だな」
「はい、殿。熊野水軍からは、竜の姫が沼津より西を熊野、松浦へと約定したと言われました」
茂光は、心配そうに
「それでは、竜の姫は、儲からぬのではないか」
「竜の姫は、為朝に夢中とのことで、沼津にも挨拶を欠く有様とのこと、大島と下田、沼津の取引だけで、西のことに興味が無いようです」
  海産物は増えているが、これといった特産品が少ない、伊豆の島々からの収益で満足しているのであれば、茂光は気にならなかった。
「そうか、そうか、それでは少し、京洛から紅でも届けようか」
茂光が、祝いとして、玲へ紅を贈り、為朝には、鋼一貫を届けたのであった。

 玲にとって、沼津、下田を起点として、南の島々に向かって航路を拓く必要があるので、とてもではないが、西に構っている余裕など無いということと、難波渡辺、和泉松浦や熊野水軍との交渉で、京洛との交易ができることが有り難かっただけである。
 玲は、為朝が勢力を広げれば、本拠地をさらに遠くに取るといった京洛へ近づかぬ方法を考えていた。つまりは、謀叛人というのは、京洛の近くにいるから危険なので在り、京洛から離れれば危険度へ減っていく。清盛に対しては、物理的に距離を取ることで、許容しやすくして、上納金を納めることで、配慮の確保を図ったのである。
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