歴史小説 歴史以前の縄文文明

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不都合な真実

不都合な真実・02 神武東征に始まる、奈良盆地周辺の大規模治水事業

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<<戦後の日本では、縄文式土器や弥生式土器が発見され、2600年くらいであった日本の歴史が、一万年以上古くなってしまった>>
<<縄文期は、狩猟生活ではなく、狩猟生活から定住生活への移行期であった>>
<<水稲栽培そのものが、縄文時代から始まっていた>>

 縄文時代は、16500年前から始まり、旧石器時代の狩猟採取生活から、定住生活への変化が、縄文時代の変化である。

 初期の縄文期では、粟津湖底遺跡が9300年程前の遺跡であり、数十人規模の住居跡が発見されている。食料の種類としては、植物(コナラ37.7%、トチノキ30.9%、ヒシ27.8%、他)貝類(セタシジミ78.3%、カワニナ10.6%、イシガイ4.8%、タニシ4.3%、他)魚類(コイ60.1%、ギギ10.3%、ナマズ6.6%、他)鳥獣(イノシシ30.5%、ニホンジカ7.5%、シカ9.0%、スッポン17.0%、他)となっている。この時期の琵琶湖湖水温度が、現在と比較して+1度高かったとされている。
「引用:伊庭功、粟津湖底遺跡から見た縄文時代の生業と環境」
 こういった状況からすれば、9300年前の琵琶湖を中心とした気候は、薩摩の気候と同じと考えられ、かなり暖かったのは事実である。初期の地層からは、栗の殻も大量に発見されていて、栗から堅果類への変化が生じていることから、気温変化も生じたと推定されます。
 水を確保でき、堅果類や貝に淡水魚が豊富な、琵琶湖湖岸地域は、かなり多くの人口を抱えることが可能であったと推定されます。

 栗の木を植樹し、小豆等の栽培を行っていて、漆の生産も可能としていたのが、定住が進んだ縄文時代である。青森県の三内丸山遺跡のように、5900年前から4200年前まで長期間続く、定住生活拠点であった。三内丸山遺跡で、百戸くらいの家があり、一戸数人が居住していたすれば、数百人規模の定住拠点と捉えることができます。

 岡山県灘崎町にある彦崎貝塚で6000年程前には、稲の炭化米が大量に発見され、様々な堅果類や豆類の栽培と同様に、日本各地で始まっていたのは間違いないとされている。当時の稲作が、陸稲か水稲かについては、まだ確定していないようである。湿度に気を付けて保管すれば、籾での保管が数年は可能であることから、長期保存可能な食料としての価値は高かったと推定される。

 神武東征の時期が、紀元前660年で弥生期とすれば、東征時期はそのまま、稲作を中心とした、文化の伝搬時期と重なっていることになる。

 このような状況からすれば、神武帝による東征は、稲作の単位面積当たりの収穫高、保存性を利用した、戦略的に活用した形の侵攻ということになる。それでも、当時の筑紫ヤマトでは、「出雲」「美」といった瀬戸内の強国に対抗できないので、結果として畿内ヤマトの中心地域であった白方(枚方)ではなく、辺境である橿原に居を構えたことになる。綏靖陛下、安寧陛下、懿徳陛下、孝昭陛下、孝安陛下、孝靈陛下、孝元陛下、開化陛下に渡って、奈良盆地で土木治水事業を進めて、水稲地域を拡大しつつ、人口の増大を図り、畿内ヤマトの勢力圏を拡大していったということになる。

 水稲地域の拡大は、人口を拡大させる結果となり、大規模な土木治水工事が可能となる、知識・技術が畿内ヤマトに伝搬していった結果でもあった。

 大量の労働力を確保して、土木治水作業を推進することで、水稲面積が拡大させ、土木治水作業者を水稲栽培の労働者とすることで、食料生産量を拡大する。食料生産量を拡大して、余剰労働力を確保して、さらに大規模な土木治水作業を推進し、水稲面積を拡大して、水稲栽培の労働力とする。この流れは、そのまま橿原を中心とする畿内ヤマトの勢力拡大であり、勢力基盤の確立期でもあった。

 実際に土木治水作業を実行するには、十年の歳月が必要であり、人口の拡大と余剰労働力を確保を推進するのにも、数十年の歳月がかかる。橿原から奈良盆地の開墾は、一世代で完了する工事ではなく、三輪神社を確保することで、大和川の上流域の治水工事から開始できたことになる。

 崇神陛下の御代までに、畿内ヤマトの勢力圏は、毎年氾濫する奈良盆地を中心として、橿原から葛城山、三輪山と周囲の河川上流域に治水工事を進め、奈良盆地を水稲地帯としていった。宮内庁で記される、開化陛下までの天皇陵の位置関係からも、奈良盆地周辺地域から南側を勢力圏としていたと推定される。

 神武東征の時期に生まれたのが、水稲栽培が作りあげる、日本の原風景であった。
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