歴史小説 歴史以前の縄文文明

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日本の怖さ

日ノ本の恐さ 「不殺生戒」殺生はいけないから、無益な殺生を戒めるへ

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 サンデル教授の「正義の殺人」はあるか。ハーバード大で行われている、非常に面白い授業であり、何度か見直すくらいに、確かめる必要がある授業である。白熱講義として、日本でも知られていて、youtubeにも流れている。

 「殺人に正義は無い」とするのは、日本の考え方であり、「不殺生戒」の戒律を守らない、根本思想となっている。殺人そのものを禁忌とするのではなく、殺人はすべて悪とした上で、罪の軽重を問いかけて考えるのが、日本における「殺人」に対する考え方となる。

 一寸の虫に五分の魂とする程に、「不殺生戒」は、日本では浸透している一方で、鶏肉を食べれるけど、鶏を殺せない人間が居る。万物に魂が宿るという前提からすれば、稲を刈るのも「殺し」であり、蚕から絹を取るのも「殺し」である。

 トロッコ問題が取り上げているのは、様々な「殺し」の二択から、どの「殺し」であれば正しいかを議論する形となっている。お爺ぃであれば、正しいかではなく、納得できるかである。トロッコ問題は、ゲームにもなっているが、フィリッパ・フットが提起した、倫理問題であり、様々な課題が考案され、状況に対しての議論がなされている。

 日本では、選択しないが多いらしく、選択する立場になりたくないとしている。これは、「殺し」はできる限り忌避すべきモノであり、「殺す」行為に対して、自分の意志を介在させたくないだそうで、鶏肉は食うけど、鶏を殺せない今の日本人らしい選択である。殺人が罪であり、「正義」ではない、そんな日本人らしい考え方では、人が死ぬという選択はできないということでもある。

 ハーバードのサンデル教授が、日本で授業した時に、日本人が論理的な判断ができると仰られた。トロッコ問題のように、思考ゲームという形であれば、日本人はゲームとして参加できるようになっていた。しかしながら、疫病との戦いのように、様々な情報と状況が錯綜する中では、日本人は思考ゲームとしての行動はとれない。

 「一寸の虫に五分の魂」という言葉があり、虫を殺すことすらも、「殺生」とするのが、日本人の基本的な考え方である。万物に魂が宿るとすれば、モノを壊すことも、魂を殺す行為となり、「殺生」の一つとして捉えることとなります。この倫理観を厳しくすると、生類憐みの令となるように、すべての生物を対象としてしまう考え方となります。

 日本では、「殺生」を禁止してしまうと、衣食住を維持することができません。衣食住を確保するためには、「殺生」を認めなければならないので、公的には認められないけれど、「不殺生戒」に従わないことを許容しなければなりませんでした。単純な「不殺生戒」ではなく、「無益な殺生をしてはならない」に変化したのである。

 日本人の場合、本質として、「殺生」を忌避しますが、否定はしていません。

 必要となれば、どのような「殺生」であれ、許容するというのも、日本人の特徴となります。許容の範囲には、自分自身をも含み、他の絶滅すらも許容しています。種痘によって、「天然痘」を撲滅したとの話は、「天然痘」という種を根絶やしにしたことを意味します。殲滅そのものも、許容の対象であり、人殺しも対象となる時、「祀ろわぬ民」を根絶やしにして、「祀ろう民」へと帰化させていったのが、日本の歴史ということになります。
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