上 下
5 / 9
歴史if 小早川秀秋

旗幟鮮明の松尾山 補足

しおりを挟む
 基本ルールは、個人を対象としているため、戦闘指揮というSkillは設定していません。
 さて、いかがでしたしょうか。お爺ぃ演出による関ケ原合戦当日の秀秋が行える行動は、それほど大きな幅はありません。

 小早川秀秋は、戦場でどのように考え判断したということになるでしょうか、小早川家を継ぐ予定だった、南宮山の毛利秀包と共に、関ケ原では非常に面白い歴史ifが展開できそうなところがあります。

 異世界転生小説なら、好き勝手数字をチートすることもできますが、小早川秀秋の能力は、若手成長株ではあっても、関ケ原の時点では、それほど高くありません。

 また、史実における1600年当時、小早川秀秋の立場も微妙で在り、毛利秀包が継ぐはずだった小早川家の乗っ取り問題、秀吉による秀次切腹への連座によって、減封されたり、秀吉没後に筑前筑後に復領となるなど、豊臣家での扱いは、あまり良いものではなかった。
 
 そういった意味では、関ケ原前の状況で、自分の配下を取り纏めることすらも、かなり厳しい状況であったように思われます。あまりに状況が酷いので、筆頭家老の山口宗永は残しています。

 歴史の事実を知っているという状況だけでは、松尾山に展開した時点から、歴史の大道に乗るには、非常に厳しい立場であったと言えます。

 小早川秀秋が豊臣秀秋であったならという歴史ifであれば、秀次と一緒で、太閤秀吉によって殺されている可能性まであったかなとも思います。なんにせよ、歴史の奔流に翻弄された武将の一人であります。



 関ケ原を秀吉が没した1998年からとすれば、宇喜多秀家との関係が、秀秋にとっては一番重要な要素となります。西軍は、豊臣家としては、宇喜多秀家と小早川秀秋が主力なのです。
 前提条件として、秀吉による減封がなければ、秀家と同じく1万7千は動員できたと考えられます。

 また、関ケ原の合戦は、関ケ原だけではなく、日本中を巻き込んだ、東西抗争でもありました。関ケ原で起きていることだけでなく、徳川秀忠と真田昌幸の合戦や大坂城の輝元や秀頼の状況といった、様々な地域で生じる合戦の結果や状況変化は、そのまま関ケ原の合戦に響きます。





<参考資料>
 サンセットゲームズ社製 「関ケ原」(旧版エポック社)
しおりを挟む

処理中です...