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獅子宰相と呼ばれた男

強者の倫理03 困窮する白系ロシア人と租界事情

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 昭和 5年(1928年)フランス金解禁
           日本金解禁
 昭和 6年(1929年)アメリカ、株価の大暴落暗黒の木曜日始まる。
 昭和 8年(1931年)イギリス金輸出禁止
 昭和 9年(1932年)アメリカ金輸出禁止
 昭和10年(1933年)アメリカ、国家資本として、上海に自動車工場建設
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 中華民国は、南京政府であり、長江の経済圏として、発展していった地域である。ロシア帝国の崩壊後、ロシア帝国の租界があった、満洲里、哈爾濱、長春、奉天、上海、天津、漢口には、亡命ロシア人の多くが住み着いた地域となっていた。ロマノフ家が無地領主Landless Lordとなった後も、租界については、ロマノフ家が権益を有していた。ロシア租界には、フランス領事館が置かれて、ボリシェビキから逃れた者達にとっては、亡命地であったのです。しかしながら、亡命者であるロシア人にとって、租界での生活は厳しいものでした。

 満洲里は、モンゴル系アムール・コサックを中心とした、ロシア白軍を組み入れた馬賊集団であった。ボリシェビキとの戦闘激化の中で、日本から義勇兵として参戦した伊達順之助が加わり、10万を超える武装集団になっていたのである。ブラゴヴェシチェーニエから東へと戦場を拡大する中で、満洲里へ達した馬賊は、ソビエトとの戦いの中で、多くの白系ロシア人亡命者を抱えたのも満洲里であった。コサックだけでなく、貴族や商人、軍人の多くもまた、東へと逃げ込んできたのでした。

 亡命者は、困窮しており、非常に厳しい生活条件下で働くこととな多のです。哈爾濱や炭鉱を含めた鉱山での働き手であり、漢人や清人、モンゴル人達と一緒に働くことになったのです。「特区」が定められて、租界が消えましたが、貧しい白人の存在は、非常に珍しかったのです。北洋軍閥が支配する哈爾濱、長春、奉天では、裕福な者がロシア軍人のボディガードを雇ったり、貴族令嬢を妾とすることが流行ったのです。「特区」で成功した者達にとって、白人を雇うことがステイタスでもあったのです。

 ダンスクラブ、サロンには、多くの亡命女性が働き手として勤めていたのも事実です。

 奉天の駅前には、張作霖が建てたヤマトホテルがあり、張作霖は、ホテル最上階を執務室として借り切っていたのであった。ホテルのサロンには、伯爵夫人を含めた白人女性たちが務め、ホテルのドアマンはロシア軍人であり、ホテルボーイは白系ロシア人の少年であった。

 奉天だけでなく、「特区」の繁華街は、白系ロシア人を働き手としていたのです。

 上海、天津、漢口の租界もまた、亡命してきたロシア人で溢れていったのです。天津では、ドイツ人が幅を利かせ、町の隅で中国人と一緒に働いているのが、亡命ロシア人でした。上海や漢口でも同じであったのです。

 上海の出来事は、「上海の伯爵夫人」という映画になっていて、漢口の話は、さだまさしの「フレディもしくは三教街」でも歌われています。

 帝政ロシア崩壊から、20年を越え、白系ロシア人達は、逃れてきた各地で、溶け込んでいったのです。一定の教養持つ者達は、建築、医者といった専門職に就き、フランス語に長けた上流階級の者達は、商売でも活躍していったのです。望郷の芸術は、上海に帝政ロシア様式の建築に昇華されていきます。今でも、当時のロシア建築が、僅かに残されています。

 亡命ロシア人によって、オペラやバレエの上演されるようになり、文化としての欧州を根付かせていったのです。

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