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獅子宰相と呼ばれた男

強者の倫理04 アメリカ公共事業は、大陸に拡大す

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 昭和 5年(1928年)フランス金解禁
           日本金解禁
 昭和 6年(1929年)アメリカ、株価の大暴落暗黒の木曜日始まる。
 昭和 8年(1931年)イギリス金輸出禁止
 昭和 9年(1932年)アメリカ金輸出禁止
 昭和10年(1933年)アメリカ、国家資本として、上海に自動車工場建設
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 アメリカは、if昭和10年(1933年)民主党のフランクリン・ルーズベルトが、32代合衆国大統領となった。アメリカは、公共事業による雇用確保を高めた。銀行の経営状態について、政府が監査し、銀行の支援と再編を実行したのです。

 3Rの目標
 Relief(救済)
 Reconstruction(再建)
 Reform(改革)

 救済対象は、アメリカ失業し、大陸へ渡った者達も含まれていた。上海租界のスラム街は、移民の国から来た移民、フーバーズスラムと揶揄される、貧民街を形成していた。

 上海租界のスラム街は、フーバーズスラムと呼ばれ、かつてのロシア白系と同様に、管理組合から蔑視されたのです。租界の外側は、中華民国領であり、「他国籍難民限定地区」を設置し、非常に厳しい状況に追い込まれていました。

 移民の国から来た移民の生活は、厳しい状況でしたが、国策によって、長江流域でのモータリゼーションを図る、アメリカ資本によって、if昭和10年(1933年)フォード、ゼネラル、クライスラーの工場が上海郊外に建設され、働き手として多くの移民が雇われたのです。

 モータリゼーションは、ドイツ軍およびアメリカ軍を中心とし、車両需要が増加しつつあった日本が対象となっていた。アメリカの自動車会社を締め出し、高額の関税がかかるようになった日本であったが、大連から送られる車両については例外とされていた。大連から送られる車両は、奉天郊外のフォード、哈爾濱のゼネラル、長春のクライスラーであった。この三社については、満洲鉄道都市警備局が運ぶことで、日本製扱いとされ、関税から除外されていたのである。

 上海から大連までを、日本郵便を使って信書扱いで送ることになり、大連で積み替えて、日本製扱いとして、日本に送るという方法がとられた。

 日本では、東京、横浜、大阪といった、大都市では車両需要が増加していて、大連からの代行輸入は、黙認されていたのである。名古屋でも大連からの輸入車が走り始めると、工務省に対して、自動車業界からの圧力がかかったのである。

 日本で走る車は、車両整備を国内で実施する必要があるが、国内の工務学校では、大連車の修理や整備も、農業車と同じように実施していたのである。ただ部品等は、工務学校や大学校で加工するため、改造に近い形での修理整備が実施されていたのである。

 恐慌から脱したと言っても、輸出状況は厳しく、輸入関税を高くしなければ、立ち行かない自動車業界にとって、大連車は敵となっていたのである。これは、タイ米だけでなく、タイ製の三輪車まで、国産車扱いとして走っていたことも併せて報告された。タイ製は、日本製統制ガソリンエンジンを搭載し、車体の組立検査をタイのバンコクで実施、輸出された車であった。これも日本郵便が信書として運ぶことで、日本製扱いとなっていたのである。

 工務省からの抗議に対して、満洲鉄道都市警備局は商務省と逓信省を動かし、大連車は日本の鉄道で運び、日本の船で運んでいる。この利益を阻害することは、大日本帝国護衛総体の権益を損なうものであると反論したのである。

 外務大臣幣原からは、アメリカとの交渉を継続するためにも、大連車については、例外として扱うべきであると報告されていた。

 加藤高明首相は、アメリカとの確執を避けるために、大連車は除外するものの、逓信省に命じて、信書交付に際して、100ポンド以上は、10ポンドにつき1銭の値上げを命じ、振興税としたのである。1台につきだいたい1円から5円の値上げとなった。

 日本への輸入は、月に100台から300台であり、アメリカは、上海の自社工場と「特区」の自社工場が、どちらも月産200台ほどなので、自社工場で争う状況となっていた。アメリカは、日本国内で走る車両が増加すると予想していたが、思った以上に伸び悩んでいた。日本国内は、原動機付き自転車や農業車と呼ばれる、特殊小型車両が数万台走っていたのです。
 また、アメリカの広い道を走ることが前提となっているアメリカ車は、道が細い日本国内では、走ることのできる地域が限られ、長距離走ることが可能なのは、関東大震災後に造られた、環状道路を中心とした関東地区と街道整備が進められた大阪の都市部くらいだったのです。
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