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獅子宰相と呼ばれた男

強者の倫理05 中華民国の暴動「Remenber Pekin's Genocide‼」

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 昭和 5年(1928年)北京にアメリカ軍駐留キャンプが建設される
 昭和 6年(1929年)アメリカ、株価の大暴落暗黒の木曜日始まる。
           アメリカと中華民国との間で、駐留軍について協定締結
 昭和 8年(1931年)イギリス金輸出禁止
 昭和 9年(1932年)アメリカ金輸出禁止
           ソ連軍撤退と中共停戦協定交渉開始
 昭和10年(1933年)アメリカ、国家資本として、上海に自動車工場建設
           中共停戦協定締結
           北京自治政府保安隊、アメリカ軍憲兵隊襲撃(公安門事件)
           北京国民革命軍、アメリカ軍キャンプ襲撃事件発生(北平事件)
 昭和11年(1934年)国民党と共産党の和解、国共合作
           北京アメリカ移民居留地区で、虐殺事件(通州事変)
           アメリカ軍による、北京占領
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 大陸でのアメリカは、アメリカを標準とする考え方から抜けられず、現地での軋轢と歪は、徐々に大きくなっていた。中華民国との関係は、悪化する一方であった。中国共産党と国民党が停戦協定を締結すると、アメリカは共産党にに対する武装解除を要求した。中国共産党は武装解除を拒否し、南京政府の国民党は、国際連盟へ訴え出ることとなった。

 フランスが調停役となり、アメリカと中華民国の調整に入った。国際連盟は、反共産主義を提唱していることから、共産党を受け入れることは無いが、停戦そのものは有効であるとした。武装解除については、最終的な講和交渉までは、武装解除は延期となった。

 アメリカ軍が駐留している北京へも、不景気なアメリカから、多くの移民が、流れ込んでいた。

 北京郊外、永定河の上流8キロ程の城子に、アメリカ軍キャンプが設置され、10万もの軍隊が駐留することから、北京では軍関連の仕事が、多かったのは事実であった。駐留軍関連の仕事は、当初は現地の人間が担っていたが、アメリカからの移民が増えると、アメリカからの移民に職が与えられ、現地の人から仕事を奪っていったのである。

 現地で仕事を奪われた人達による、強盗や嫌がらせ、窃盗や強姦といった犯罪が増加し、アメリカ軍の憲兵隊による鎮圧は、過激になっていったのである。あまりに激化する憲兵の行動もあって、北京の自治政府保安隊が、憲兵隊と衝突、保安隊17名憲兵隊員32名が死亡した。中華民国とアメリカの関係は、徐々に悪化していったのである。

 北京のアメリカ軍が、張家口へ移動し、憲兵隊を中心に782名が城子に残り、家族や移民を含め13712名が居留していたが、北京国民革命軍1万が襲撃する北平事件が発生した。残存のアメリカ軍782名は壊滅、家族や居留民が虐殺される事件が発生した。

 民間人13712名のうち、張家口に逃げ込むことができたのは、2911名であり、1万人以上の一般市民に対して、陰惨な虐殺が実行された。張家口から引き返したアメリカ軍は、虐殺後に逃げだした北京国民革命軍を追うように、北京市街地に入り陰惨な虐殺の状態に逆上し、アメリカ軍は北京を占領した。

 南京政府に対し、アメリカは虐殺を行った犯人である、北京国民革命軍の武装解除と引き渡しを通告と市民の安全確保から北京を中心とした地域の租借を求めた。南京政府は、これを国際連盟への提訴として、交渉を始めたが、大陸駐留のアメリカ軍は、南の廊坊へ逃げ込んだ北京国民革命軍と戦闘状態に入っていた。
 大陸駐留のドイツ軍も参加し、米独両軍による、南京への進撃が開始されたのである。



 北京の虐殺事件については、アメリカ国民を激昂させ、中華討つべしの気運を高めていった。

「Remenber Pekin's Genocide‼」

 この報道が、アメリカ国内で流れると、大学からは学生の姿が消えて、軍事務所に若者による長蛇の列が出来上がったという。





 帝国陸軍シナ派遣軍は、唐山に5万を派遣し、不測の事態へ備えることとし、皇泰島のオーストラリア軍およびイギリス海軍もまた、戦闘態勢に入っていた。安東省のフランス軍や大慶のイタリア軍も厳戒態勢に入っていた。

 アメリカは、北京における自国民虐殺について訴え出て、北京国民革命軍の処断を求めた。中華民国側は、蒋介石を代表として、アメリカ軍の横暴から生じた、北京国民革命軍の一部将兵による暴走であり、北京国民革命軍全体の問題ではないと反論した。

 事実関係を調査するために、イギリスとフランスが合同で、調査団を派遣することなった。
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