マインハールⅡ

熒閂

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Kapitel 02

神代の邪竜 07

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 耀龍ヤオロン麗祥リーシアンは、真っ黒に変わった大地を見下ろして愕然とした。
 世界の終焉のような大火、地獄が顕現したかのような業火。それは紛れもなく、兄弟のうち最大の火力を操る赫一瑪ファイーマの容赦のない火焔の一太刀だった。

「こ、これが手緩いと仰有った理由か。《邪視ブゼルブリク》とは、一大哥イーダーガが本気になられても、それでも殺せぬほどの怪物だと……ッ」

「こんなんじゃ……こんなんじゃ……天哥々ティエンガコが生きてるわけ、な……ッ」

 耀龍の目には涙が滲んだ。麗祥のような心境にはなれなかった。絶望した。地獄の業火に焼かれ、耐えられる生き物がいるなど思えなかった。

「ティ……ティエ……あ……ティエン……ッ」

 アキラも同様だった。上空で滞空する縁花ユェンファの腕のなかで、震えながら譫言のように何度も名前を紡いだ。それしかできなかった。何もできなかった。救うことも身代わりになることも。
 隔絶された世界にいて、気配も感じられず、実在さえも疑った。しかし、同じ世界にいたって、視界にいたって、何もできない。無力な自分にはできることなど何もない。
 縁花は諦めるなと言った。本当にそうだ。何かする前に諦めるべきではなかった。諦める前に何かすべきだった。すべてもう遅いと悔いるくらいなら、この身を賭して、命を懸けて、何かしてあげたかった。

 地上には黒い塊があった。顎を仰角に上げて両膝を突いて座りこんだ、霜髪の怪物だったものだ。髪も衣服も焼け落ちて全身真っ黒。時折パラパラと表面から黒い滓が剥げ落ちる。大火によって地表から洗い流された樹木と同じように黒炭と化していた。
 バサンッ!
 黒い塊に突如として羽が生えた。
 その身よりも大きな皮膜の両翼を一掻き、空に舞い上がった。一瞬にして赫一瑪の眼前に到達した。
 赫一瑪は黒い塊に目を見つけた。焼け爛れたり炭となったりした表面のなかでギラリと光った紫色の双眸が、こちらを見ていた。
 人の脂と肉の焼けた臭いがする。焼け焦げた肉をパラパラと撒き散らす。そうなってまでも息絶えることのない醜悪な怪物。

「斯様な様に成り下がり…………見るに堪えん」

 赫一瑪は手刀にネェベルを纏わせて鋭利に強化し、怪物の首筋に切りつけた。
 ドォンッ! ――怪物は手刀によって地面へと跳ね飛ばされた。
 赫一瑪は即座に怪物を追った。
 怪物は宙で一回転して脚から着地。その瞬間、皮膚の焼け焦げた黒いものが一気に弾け飛んだ。一瞬にして頭部から霜髪が生え揃い、皮膚や黒い鱗は元通りに再生された。
 怪物の間近に迫っていた赫一瑪に、剥げ落ちた黒い鱗片が一斉に襲いかかった。
 チュインチュインッ、カカカンッ、キンッ! ――赫一瑪の眼前に牆壁が発生して〝飛鱗〟を弾いた。
 赫一瑪が怪物に向かって手刀を振り下ろし、怪物は鋭利な爪を突き出した。
 ズドォオンッ!
 双方の攻撃と攻撃とが接触する直前、分厚く覆ったネェベル同士が反発し合ってふたりとも反対方向へ吹き飛んだ。
 赫一瑪は難なく宙で体勢を立て直して着地した。
 すぐさま耀龍が近くにやって来て、大丈夫かと声をかけた。
 先ほど〝飛鱗〟を防いだ牆壁、あれは耀龍が兄のために助力したものだった。優しくはない人物だと知ってはいても、血を分けた兄弟だ。咄嗟に身を案じる情はある。
 赫一瑪は耀龍の問いかけにも答えず、目線を霜髪の怪物に固定していた。

「もう脚も生えたか。やはり再生速度が尋常ではない」

 丸焼きにされた怪物の風貌は、以前とは少々異なった。
 霜髪は足許にぞろびく元の長さを取り戻し、真新しい皮膚は青黒く色艶が増し、体表を覆う漆黒の鱗は以前よりも面積を増して鎧のような光沢を放った。二本の脚でしっかりと地面を踏み締めて立つ闘士型の体型。何処までが筋肉で、何処からが天然の鎧を纏っているのか見分けがつかない。人離れして逞しく恐ろしく、正しく怪物じみている。
 霜髪の怪物はバチンッバチンッ、と三叉の尾を地面に叩きつけた。自身を鼓舞しているのか、歓喜しているのかもしれない。己を討ち滅ぼそうとする戦士の来臨を。

「我々と同じ生き物とは思えん」

 赫一瑪が冷淡に言い捨てた言葉が、耀龍の耳に届いた。しかし、いいえ、そんなことはない、と直ちに否定できなかった。対峙する霜髪の怪物に、兄の面影は一切無かった。
 同じ生き物とは思えない。それは耀龍の本音と一致した。兄を救わねばと思う反面、恐ろしくて消えてくれとも思う。この如何ともしがたい恐怖心を兄であったものに抱いているという罪悪感から逃げ出したかった。

 ヴヴンッ。――チカッと眩しさが目を刺した。
 耀龍が顔を顰めた瞬間、赫一瑪にドンッと突き飛ばされた。
 シュインッ。――光の槍がすぐ傍を通過した。
 耀龍は赫一瑪に突き飛ばされたお陰でそれを喰らわずに済んだ。
 ヴンッ、ヴヴヴンッ。――霜髪の怪物の周囲に無数の光の槍が生じた。
 耀龍が体勢を立て直す前に一斉に発射された。縁花が耀龍の前に走りこんできて、刀剣で以てそれらをすべて弾き落とした。
 赫一瑪は光の槍を華麗に回避しながら霜髪の怪物と距離を取った。
 光の槍はアキラたちのほうへも飛来した。アキラを守るルフトとヴィントはハッとしたが、回避するには光の槍は速すぎた。彼らは縁花のようにあれを相殺できる技術もネェベルも持ってはいない。盾になる覚悟を決めるしかなかった。
 ズドンッ! ズダアンッ!

「グアァッ!」

 ルフトとヴィントは、光の槍が着弾した威力で吹き飛ばされた。
 アキラの視界は目映い光でいっぱいになった。光の槍が向かってきたことは分かったが、回避する術も防御する術も持たなかった。
 バヂィンッ、ガチンッ、カキィンッ!
 アキラの眼前に赫暁ファシャオが降り立ち、ブンッと大剣を振り回した。光の槍を薙ぎ払って消滅させた。
 赫暁は、赫一瑪と縁花が、このなかで自分に次ぐ手練れたちが、霜髪の怪物と攻防を繰り広げるのを確認し、アキラのほうへ爪先を向けた。

「間一髪だったな」

「あ、ありがとうございます」

 赫暁は気にするなとばかりにニッと笑った。

 耀龍は、アキラと赫暁とが向き合って何かを話しているのを目にした。戦闘の衝撃音が引っ切りなしに響き、ふたりから位置も離れており、声はまったく聞こえなかった。赫暁が懐から何かを取り出してアキラに手渡し、アキラに顔を近づけて耳許で何かを囁くような素振りがあった。
 次の瞬間、アキラが霜髪の怪物に向かって駆け出してギョッとした。

「アキラ⁉」

 驚いたのはルフトとヴィントも同じだ。光の槍の着弾に吹き飛ばされて地面に伏していたふたりは、ガバッと急いで起き上がった。

「いけません、アキラ殿!」

 アキラのあとを追おうとしたふたりの前に、赫暁が立ちはだかった。
 赫暁は大剣を肩に載せてふたりを悠然と見下ろした。

「主人の邪魔をするな、従者」

「アキラ殿に何をさせるつもりだ。あの方は御自分を守る術を持っていないのだぞッ」

「それはお前たちも同じこと。あの邪竜の前には、姑娘クーニャンも有翼の子らも違いはない。だが、姑娘クーニャンには姑娘クーニャンだけの役目があるのよ」

 赫暁は肩に担いでいた大剣を浮かせてヒュッと軽く取り回した。
 ズガンッ! ――地面に大剣を突き立てた。
 ルフトとヴィントは、不敵にニヤリと口角を引き上げた赫暁に気圧された。
 ファ=ニーズヘクルメギルの族長は稀代の武人として高名であり、実際に霜髪の怪物と渡り合う腕前を披露した。彼にとって年若い有翼人種の姉弟など赤子同然だ。
 ヴィントは赫暁を突破できないことが歯痒かった。か弱い少女の背中が離れてゆくのを見詰めることしかできない。あの少女はとても慈悲深いが、あまりにも非力だと知っているのに。
 ――いけません、アキラ殿! たとえ何と引き換えであっても、御自分の命を犠牲にするような真似をなさらないでください!

 タタタタッ、とアキラは霜髪の怪物に一直線に駆けた。
 体育の授業で全力疾走するときよりも心臓が高鳴った。ドクンッドクンッと痛いほど拍動した。それを無視して遮二無二手足を動かした。立ち止まったら恐くて足が竦んでしまいそうだった。
 赫暁から〝飛鱗〟はネェベルに反応すると説明された。霜髪の怪物の意思ではなく、知覚ではなく、あれ自体がネェベルを感知して自動迎撃する厄介この上ない代物。あれがあっては接近することが難しく、接近できたとしても常に防ぎ続けなければならない。さもなくば、肉を抉られる。
 この世界の住人は総量の大小はあれ、みなネェベルを有している。したがって、あれを切り抜けられるのはネェベルを持たないアキラだけだ。
 アキラは説明自体を理解することはできた。しかし、触れれば肉を抉られるような代物がいつ飛んでくるか分からないのだから、恐怖を完全に払拭することはできなかった。
 恐怖に足が停まってしまわぬように、赫暁から託されたものを握り締めて懸命に走った。

(恐い……! 恐いけど、本当に何も飛んでこない)

 アキラがネェベルを持たないからだろうか、戦闘の衝撃音によって足音が掻き消されたのだろうか、どんどん距離が近づくのに、霜髪の怪物は一向にこちらを振り向きもせずアキラの存在に気づいていないようだ。
 もうすぐ辿り着ける。そう思った瞬間、ヒュッ、と風を切る音が聞こえた。その音はとても近く、小石でも蹴ったのかと思った。
 ズブチュンッ。
 左手に何かぶつかったと思ったら、激痛が走った。
 左の薬指が第二関節あたりから跳ね飛ばされてなくなっていた。そこには耀龍からもらった指輪があった場所だ。〝飛鱗〟は人間であるアキラが唯一持つネェベルを放つものを正確に撃ち抜いた。

「ッあああああ!」

 アキラは悲鳴を上げて蹲った。
 ――痛い痛い痛い痛い痛いッ!
 今まで味わったことのない激痛に左腕が震えた。薬指から広がって左手全部が痺れるような激痛。いま口を開いたらまた叫んでしまうに違いない。とにかく歯を食い縛った。


「父様ッ」

 耀龍と麗祥が赫暁に詰め寄った。

「アキラに何を言ったの! あんな無茶をさせるなんてッ」

「メギンの短剣を渡した。あれを身に突き刺せば《邪視ブゼルブリク》を抑える効果がある」

 メギンは、ネェベルを吸収する性質を持つ鉱石。純度の高いメギンを名匠が全身全霊を篭めて鍛えることにより、厖大なネェベルを吸収する逸品が生まれることがある。赫=ニーズヘクルメギルの家宝のひとつとして受け継がれるものもそういった類いのものだ。
 それは耀龍も麗祥も知っている。しかし、赫暁を見詰める瞳は釈然としなかった。

「本当?」

 耀龍から懐疑的に問われ、赫暁はハハッと笑みを零した。

「ご明察。察しがよくなったな、お前」

「父様?」

「俺の狙いは別だ」

 赫暁は地面に突き立てた大剣を引き抜き、よっ、と肩に担ぎ上げた。ルフトたちに背を向けてアキラのほうへ目を遣った。

姑娘クーニャンに《オプファル》たる役目を果たしてもらう」

「は……?」

ティエンが《オプファル》を得て〝制約〟を破棄し、生来の完全な力を獲得すれば、内部より《邪視ブゼルブリク》を御すことも可能、という算段だ。そうなれば《邪視ブゼルブリク》の強大な力はティエンのものだ。クソ親父も二度と利用しようなどと考えまい。ティエンの立場は揺るぎないものとなり、クソ親父の鬱陶しい介入もなくなる。一石二鳥だ」

 赫暁の視界のなかで、アキラは蹲っていた。指を吹き飛ばされて苦痛に打ち震えていた。年端もゆかない少女が血を流して痛みに啼く、悲愴な姿。清らかな少女が穢らわしい怪物に立ち向かう、健気な姿。可憐で一途で無垢で、なんともパセティック。

姑娘クーニャンは……ティエンの女は、イイ女だな。ほんの少しの望みさえあれば、アレのために躊躇なく命を懸ける」

 ――「ティエンを救えるのは、姑娘クーニャンだけだ」――
 赫暁はあのとき、アキラにそう囁きかけた。
 それだけで事足りた。あの慈悲深く清廉な少女に命を捧げさせるには。

 ガシッ。――耀龍は赫暁の衣服の、二の腕あたりを捕まえた。
 赫暁は父と子の間柄だから心を許してのことだろうが、画策を饒舌に吐露したことが耀龍には腹立たしかった。アキラを犠牲にすると事もなげに言ってのけたのが許し難かった。父は我が子を見捨てないと兄は言った。我が子を見捨てない父が、我が子を何も理解していないことに憤慨した。

天哥々ティエンガコのためにアキラを犠牲にするってことじゃないか……」

「お前も元よりそのつもりだったろう。以前よりティエンの〝制約〟の破棄を望んでいた」

天哥々ティエンガコもオレももう昔とは違うんだよ! 天哥々ティエンガコがアキラを殺すことになるなんて絶対にダメだ! そんなことになったら天哥々ティエンガコがどうなるか……ッ」

 赫一瑪が近づいて耀龍を諭す。

「やめよ、耀龍ヤオロン。貴様が手をかけている御身は、我らが父上である前にファの族長だ」

「どうでもいいよそんなこと! 天哥々ティエンガコに何かあったら父様だって許さないからッ」

 パァンッ。――赫一瑪は耀龍の頬に手の平を張った。
 それから耀龍の手首を捕まえて父親の服から引き剥がした。
 耀龍は再び父親に食ってかかることはしなかったが、明らかに反抗的な目付きを見せた。いつも飄々としている末弟が、真正面から反抗してみせたのは本気の表れだった。

「畏れながら」と麗祥が口を開いた。

「私も今はロンと同じ思いです」

 麗祥は耀龍よりも少しばかり理性的だった。しかし、拳をグッと握り締めて今にも噴出しそうな反抗心を押しこめていた。
 耀龍と麗祥にとって、天尊ティエンゾンは父親代わりだった。実の父親は公務に忙しく、上の兄ふたりも父親の補佐や課せられた責任を果たすことに邁進していた。無視されたわけでも蔑ろにされたわけでもない。ただ、接する時間が乏しかっただけだと理解している。それでも、天尊が父親やほかの兄たちよりも自分たちに費やしてくれた時間と手間は意味の深いものだった。
 弟たちの記憶のなかで、天尊も不在がちだった。任務で各地を飛び回る多忙な身でありながらも、可能な限り幼い弟たちの相手をしてくれた。時間の許す限り、自身の教えられることを教えてくれたと思う。上ふたりの兄と同じく年は離れているが、最も近しい兄であり、ともすれば実父よりも父親の情のようなものを注いでくれた。
 だから、耀龍と麗祥は、何よりも天尊の幸福を望む。天尊の望まないことは何ひとつしたくはない。たとえそれが、天尊を救う唯ひとつの道であったとしても。敬愛する兄を兄のまま取り戻したければ、してはいけないことなのだ。
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