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Kapitel 05
受難 02
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王城内・ルディの執務室。
ルディがデスクに座していると「ルディ! ルディ!」と大声が聞こえてきた。すぐにウルリヒが室内に入ってきた。その腕にアキラを抱えて。
ルディは素早く椅子から立ち上がってウルリヒに近づいた。
「ルディ! ビシュラは何処だッ」
「殿下。そのように慌ててどうされました」
「アキラが突然気を失ってしまった。ビシュラが部屋におらん。ビシュラはいずこか」
「棄てました」
ウルリヒはルディの顔を見て停止した。
「それはどういうことだ?」
う……、とアキラが声を漏らした。
ウルリヒは腕のなかのアキラに目を落とした。
アキラは何度か呻き声を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「おお、気づいたか。アキラ。どうした。具合が悪いのか?」
「いや、大丈夫。たまにものすごく眠たくなるだけだから」
ウルリヒはそう言われてもまったく意味が分からなかった。彼には人間についての知識がないから致し方なかった。アキラが下ろしてくれと言うので、言われるがまま慎重に床に下ろした。
ウルリヒはアキラからルディへと目線を戻した。
「ルディ。ビシュラを棄てたとはどういう意味だ?」
「えッ⁉」
ルディは表情を微塵も変えぬまま、尻尾がクルッと弧を描いた。
「雪原へ棄てて参りました」
アキラは一瞬、ルディが何を言ったのか分からなかった。それは獣人ならではの冗談か、それともルディの下手なジョークかと考え至る。だがし、ルディの無表情と冷たい目線を見てそうではないと察した。
ゾクッとアキラの背中を悪寒が走った。
「どういうことッ」
アキラは激昂しながら血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。
厳しい気候のこの国で屋外に長時間捨て置かれること、それが何を意味するか、どういう結果となるか、説明されずとも明らかだ。
ウルリヒも少々困惑した表情をルディに向けた。
「ルディ。一体何があって……」
「あの者は〝四ツ耳〟でした」
それを聞いたウルリヒは、一瞬表情を変えた。
ルディはウルリヒからアキラへと目線を移し、腰を折ってマズルを近づけた。
「如何に貴女様の侍女とはいえ、〝四ツ耳〟などを殿下のお側に寄らせるわけには参りません」
「よつみみ……?」
「替わって、貴女様の侍女は私めが最高の者を揃えましょう。御心配には及びませんよ」
「そんなの要らない。ビシュラさんを連れ戻して」
アキラは凜とした瞳をルディに向けた。
ルディは不思議そうに首をやや傾げた。
「あの〝四ツ耳〟をそんなにもお気に入りですか。どういった経緯で貴女様に仕えたか存じませんが〝四ツ耳〟など下賤の者。殿下の寵を受ける貴女様には相応しくございませんよ」
「よつみみが何のことかわたしには分からない。下賤なんて言われても知ったことじゃない。ビシュラさんを早くここに連れ戻して。こんな寒さのなか放り出されたら――」
「無論、そのつもりで放逐いたしました」
それはつまり、積極的な殺意でなくとも、ビシュラの死を予見したということだ。むしろ、そうするために放り出したと認めたのだ。
そうした張本人であるルディに何を言っても無駄だ。この冷たい目は、情が通じるような相手ではない。
アキラはウルリヒの腕を掴んで引っ張った。
「ウルリヒくん。ビシュラさんをここに戻してッ」
「アキラ……」
ウルリヒが困り顔をし、ルディがフッと笑みを零した。
「まさかそこまで御執心とは」
ルディは悪巫山戯のように口の端を吊り上げた。何かを企んでいるようにさえ感じた。
「そこまで仰有るのなら、あの者を城に置くことを許しましょう。しかし、我が儘を聞き入れるのですから、無条件というわけにはゆきません」
「オイ、ルディ」
何かを言いかけたウルリヒを、ルディは視線で制止させた。
ルディの言動はこの国において至極妥当だ。ウルリヒも強くは反対しなかった。
「〝四ツ耳〟を王族と同じ城に住まわせているなど民に知れれば、殿下の権威が損なわれかねません。これは殿下のみならず王族にとって甚大なるリスク。それを許容しても構わないと申し上げているのですから、相応の条件を提示するのは当然のことです」
「何をすればビシュラさんを戻してくれるの」
アキラに迷いはなかった。自分が無力であることをよく知っている。ビシュラを助けるために、ルディから差し出されたものが何であれ、すべて呑みこむほかに何もできないことをよく理解している。
そしてルディは、この令嬢が特別聞き分けがよく諦めのよい性格であることを、とっくに見抜いていた。
「やはり、貴女様はとても聡明であられますね」
ルディは、アキラの返答を待ち構えていたかのようにほくそ笑んだ。
§ § § § §
灰白色の空、一面の銀世界。
見えるものはすべて塗り潰されたように真っ白だ。まるで色の失われた世界。自然物も建物も目印になるものは何もなく、人も獣も存在しない。今は何時でどちらが北で南なのか、どちらの方角から来たのかも分からない。
ビシュラは、ルディの命令を受けた数人の獣人によって王城から連れ出され、枷を外され放置された。見ず知らずの場所だが、わざわざ捨てに来たということは、王城からかなり離れた地点なのだろう。
「や、やっと外に……」
ビシュラは数日振りの自由を確認するように深く呼吸した。
冷気に切りつけられたかのように気管や肺が痛かった。寒さで震えが止まらず歯がガタガタと鳴り、指先がビリビリと痺れる。この肉体は獣人に比べて劣り、過酷な環境には順応できない。自分に許されている時間はそれほど長くはないのかもしれない。これが最初で最後のチャンスかもしれない。
ビシュラは手の平を天に向けて瞼を閉じた。
――広域探査網展開
ビシュラの足元を起点にして網状のものが一瞬チラッと煌めいて全方位に拡がった。発生源であるビシュラ以外の者には見えない網、それは終点を目で追えないほど遠くまで伸びてゆく。
ビュオオオオッ、と強い寒風が全身に吹きつけた。こうして集中しているように見える間も、頬や手など冷たい外気に晒されている部位が切られるように痛い。
沈黙してしばらく、ビシュラはハッと目を開いた。
「ありました。ヴィンテリヒブルク城――……!」
王城の城下町からも遠く離れたこの雪原には、流石に通信を妨害するようなジャミングは存在しなかった。
ビシュラは探査プログラムを収束し、直ぐさまプログラムを切り替えた。
――長距離間信号発信プログラム開始
――法紋展開
脳内だけに響く細く甲高い音。
ビシュラはやるべきことを終えたあと、自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
一縷の望みを見つけたはずなのに胸が強く締めつけられる。手放しで信じるには不安が大きすぎる。何かしていないと心細くて泣き出しそうだ。そのような情けない様を、子どものような様を、誰もいないこの場所であっても晒すわけにはいかないと、まだプライドを守る根性は残されていた。現実問題、この情況では何かしていないと死はフィクションではない。
ビシュラはヴィンテリヒブルク城の方角へ向かって足を踏み出した。
(アキラさんひとりフローズヴィトニルソンの王城に残すのは心配ですが、〝四ツ耳〟のわたしが戻っても、きっと王城に入ることは許されません)
ゴォォオオオッ!
しっかりと掴んでいないと外套が吹き飛ばされてしまいそうな強風。ビシュラは真っ直ぐ歩いて行くことすら容易ではなかった。
(マントは渡されましたが、流石にこの寒さは凌ぎきれません。ですが、じっとしていても身体が凍るだけ。歩けなくなるまで歩き続けるしかありませんね。少しでもヴィンテリヒブルク城に近づいたほうが得策です。わたしの足で辿り着けるとは思えな……いや、考えるのはやめます。とにかく動いてないと死んでしまうのは確かなのですから)
どれほどの時間を歩いたのだろう。時計がなく正確な時間は分からず、距離も分からない。ただ確かなことは、一時間前よりも一分前よりも一歩前よりも、目的地に近づいたということ。此処で懸命に努力していることは無駄ではないと自分に言い聞かせ、一歩一歩前に進む。そうしていないと心が折れそうになる、見渡す限り何もない真っ白な世界では。
この国に来て思い知らされた。人を殺めることなどは簡単だ。獣人ならばその爪のたった一掻きで人を殺められる。直接手を下さずとも、この過酷な環境下では置き去りにするだけで、少々目を瞑るだけで、容易に命を奪うことができる。
これまで死について真剣に考える必要などないほど、安寧に生きてこられた。死に直面したときに思い出すのは、あの人の顔。
「……歩兵長……」
それはもう不思議なことではなかった。ビシュラにとってはヴァルトラムは力や強さの象徴。
自分に無いものすべてを持っている、死の危機に瀕した自分が焦がれるものすべてを持っている。盲目的にヴァルトラムを崇敬する者たちも、このような心持ちなのだろうか。常にこのような心持ちであの男の背中を追っているのだろうか。己との差を思い知りながら。
此処から味方が待つ地への距離と、脆弱な自分と強さの象徴であるヴァルトラムとの距離、どちらも変わらぬ遠方に感じられた。
――あの人は、わたしが想うほどには、わたしを思い出してくれてはいないだろうけれど、一歩でもあの人の近くへ行かなければ。
「歩兵、長……」
最早、呼吸をしたときの喉の痛みすら感じなくなった。手足が冷えている感覚もない。体内で熱を生み出すより先に外気に奪われてゆき、熱という熱が吸い取られるように失われてゆく。
ザクッ。――ビシュラは雪の上に両膝をついた。
足から力が抜け、自分の体重を支えきれなかった。咄嗟に両手を出す体力も残っておらず、全身から雪に突っ伏した。
立ち上がって再び歩き出さなければいけないはずなのに、頭では何をすべきか分かっているのに、体を動かせない。
「歩兵長……早く……」
体が重たい。瞼も重たい。何より頭が重たい。もう何も考えられない。吹き荒ぶ風雪のなか、あの人の名前だけを呼んでいた。
「歩兵長……歩兵――……早く……アキラさん、を――……」
ルディがデスクに座していると「ルディ! ルディ!」と大声が聞こえてきた。すぐにウルリヒが室内に入ってきた。その腕にアキラを抱えて。
ルディは素早く椅子から立ち上がってウルリヒに近づいた。
「ルディ! ビシュラは何処だッ」
「殿下。そのように慌ててどうされました」
「アキラが突然気を失ってしまった。ビシュラが部屋におらん。ビシュラはいずこか」
「棄てました」
ウルリヒはルディの顔を見て停止した。
「それはどういうことだ?」
う……、とアキラが声を漏らした。
ウルリヒは腕のなかのアキラに目を落とした。
アキラは何度か呻き声を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「おお、気づいたか。アキラ。どうした。具合が悪いのか?」
「いや、大丈夫。たまにものすごく眠たくなるだけだから」
ウルリヒはそう言われてもまったく意味が分からなかった。彼には人間についての知識がないから致し方なかった。アキラが下ろしてくれと言うので、言われるがまま慎重に床に下ろした。
ウルリヒはアキラからルディへと目線を戻した。
「ルディ。ビシュラを棄てたとはどういう意味だ?」
「えッ⁉」
ルディは表情を微塵も変えぬまま、尻尾がクルッと弧を描いた。
「雪原へ棄てて参りました」
アキラは一瞬、ルディが何を言ったのか分からなかった。それは獣人ならではの冗談か、それともルディの下手なジョークかと考え至る。だがし、ルディの無表情と冷たい目線を見てそうではないと察した。
ゾクッとアキラの背中を悪寒が走った。
「どういうことッ」
アキラは激昂しながら血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。
厳しい気候のこの国で屋外に長時間捨て置かれること、それが何を意味するか、どういう結果となるか、説明されずとも明らかだ。
ウルリヒも少々困惑した表情をルディに向けた。
「ルディ。一体何があって……」
「あの者は〝四ツ耳〟でした」
それを聞いたウルリヒは、一瞬表情を変えた。
ルディはウルリヒからアキラへと目線を移し、腰を折ってマズルを近づけた。
「如何に貴女様の侍女とはいえ、〝四ツ耳〟などを殿下のお側に寄らせるわけには参りません」
「よつみみ……?」
「替わって、貴女様の侍女は私めが最高の者を揃えましょう。御心配には及びませんよ」
「そんなの要らない。ビシュラさんを連れ戻して」
アキラは凜とした瞳をルディに向けた。
ルディは不思議そうに首をやや傾げた。
「あの〝四ツ耳〟をそんなにもお気に入りですか。どういった経緯で貴女様に仕えたか存じませんが〝四ツ耳〟など下賤の者。殿下の寵を受ける貴女様には相応しくございませんよ」
「よつみみが何のことかわたしには分からない。下賤なんて言われても知ったことじゃない。ビシュラさんを早くここに連れ戻して。こんな寒さのなか放り出されたら――」
「無論、そのつもりで放逐いたしました」
それはつまり、積極的な殺意でなくとも、ビシュラの死を予見したということだ。むしろ、そうするために放り出したと認めたのだ。
そうした張本人であるルディに何を言っても無駄だ。この冷たい目は、情が通じるような相手ではない。
アキラはウルリヒの腕を掴んで引っ張った。
「ウルリヒくん。ビシュラさんをここに戻してッ」
「アキラ……」
ウルリヒが困り顔をし、ルディがフッと笑みを零した。
「まさかそこまで御執心とは」
ルディは悪巫山戯のように口の端を吊り上げた。何かを企んでいるようにさえ感じた。
「そこまで仰有るのなら、あの者を城に置くことを許しましょう。しかし、我が儘を聞き入れるのですから、無条件というわけにはゆきません」
「オイ、ルディ」
何かを言いかけたウルリヒを、ルディは視線で制止させた。
ルディの言動はこの国において至極妥当だ。ウルリヒも強くは反対しなかった。
「〝四ツ耳〟を王族と同じ城に住まわせているなど民に知れれば、殿下の権威が損なわれかねません。これは殿下のみならず王族にとって甚大なるリスク。それを許容しても構わないと申し上げているのですから、相応の条件を提示するのは当然のことです」
「何をすればビシュラさんを戻してくれるの」
アキラに迷いはなかった。自分が無力であることをよく知っている。ビシュラを助けるために、ルディから差し出されたものが何であれ、すべて呑みこむほかに何もできないことをよく理解している。
そしてルディは、この令嬢が特別聞き分けがよく諦めのよい性格であることを、とっくに見抜いていた。
「やはり、貴女様はとても聡明であられますね」
ルディは、アキラの返答を待ち構えていたかのようにほくそ笑んだ。
§ § § § §
灰白色の空、一面の銀世界。
見えるものはすべて塗り潰されたように真っ白だ。まるで色の失われた世界。自然物も建物も目印になるものは何もなく、人も獣も存在しない。今は何時でどちらが北で南なのか、どちらの方角から来たのかも分からない。
ビシュラは、ルディの命令を受けた数人の獣人によって王城から連れ出され、枷を外され放置された。見ず知らずの場所だが、わざわざ捨てに来たということは、王城からかなり離れた地点なのだろう。
「や、やっと外に……」
ビシュラは数日振りの自由を確認するように深く呼吸した。
冷気に切りつけられたかのように気管や肺が痛かった。寒さで震えが止まらず歯がガタガタと鳴り、指先がビリビリと痺れる。この肉体は獣人に比べて劣り、過酷な環境には順応できない。自分に許されている時間はそれほど長くはないのかもしれない。これが最初で最後のチャンスかもしれない。
ビシュラは手の平を天に向けて瞼を閉じた。
――広域探査網展開
ビシュラの足元を起点にして網状のものが一瞬チラッと煌めいて全方位に拡がった。発生源であるビシュラ以外の者には見えない網、それは終点を目で追えないほど遠くまで伸びてゆく。
ビュオオオオッ、と強い寒風が全身に吹きつけた。こうして集中しているように見える間も、頬や手など冷たい外気に晒されている部位が切られるように痛い。
沈黙してしばらく、ビシュラはハッと目を開いた。
「ありました。ヴィンテリヒブルク城――……!」
王城の城下町からも遠く離れたこの雪原には、流石に通信を妨害するようなジャミングは存在しなかった。
ビシュラは探査プログラムを収束し、直ぐさまプログラムを切り替えた。
――長距離間信号発信プログラム開始
――法紋展開
脳内だけに響く細く甲高い音。
ビシュラはやるべきことを終えたあと、自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
一縷の望みを見つけたはずなのに胸が強く締めつけられる。手放しで信じるには不安が大きすぎる。何かしていないと心細くて泣き出しそうだ。そのような情けない様を、子どものような様を、誰もいないこの場所であっても晒すわけにはいかないと、まだプライドを守る根性は残されていた。現実問題、この情況では何かしていないと死はフィクションではない。
ビシュラはヴィンテリヒブルク城の方角へ向かって足を踏み出した。
(アキラさんひとりフローズヴィトニルソンの王城に残すのは心配ですが、〝四ツ耳〟のわたしが戻っても、きっと王城に入ることは許されません)
ゴォォオオオッ!
しっかりと掴んでいないと外套が吹き飛ばされてしまいそうな強風。ビシュラは真っ直ぐ歩いて行くことすら容易ではなかった。
(マントは渡されましたが、流石にこの寒さは凌ぎきれません。ですが、じっとしていても身体が凍るだけ。歩けなくなるまで歩き続けるしかありませんね。少しでもヴィンテリヒブルク城に近づいたほうが得策です。わたしの足で辿り着けるとは思えな……いや、考えるのはやめます。とにかく動いてないと死んでしまうのは確かなのですから)
どれほどの時間を歩いたのだろう。時計がなく正確な時間は分からず、距離も分からない。ただ確かなことは、一時間前よりも一分前よりも一歩前よりも、目的地に近づいたということ。此処で懸命に努力していることは無駄ではないと自分に言い聞かせ、一歩一歩前に進む。そうしていないと心が折れそうになる、見渡す限り何もない真っ白な世界では。
この国に来て思い知らされた。人を殺めることなどは簡単だ。獣人ならばその爪のたった一掻きで人を殺められる。直接手を下さずとも、この過酷な環境下では置き去りにするだけで、少々目を瞑るだけで、容易に命を奪うことができる。
これまで死について真剣に考える必要などないほど、安寧に生きてこられた。死に直面したときに思い出すのは、あの人の顔。
「……歩兵長……」
それはもう不思議なことではなかった。ビシュラにとってはヴァルトラムは力や強さの象徴。
自分に無いものすべてを持っている、死の危機に瀕した自分が焦がれるものすべてを持っている。盲目的にヴァルトラムを崇敬する者たちも、このような心持ちなのだろうか。常にこのような心持ちであの男の背中を追っているのだろうか。己との差を思い知りながら。
此処から味方が待つ地への距離と、脆弱な自分と強さの象徴であるヴァルトラムとの距離、どちらも変わらぬ遠方に感じられた。
――あの人は、わたしが想うほどには、わたしを思い出してくれてはいないだろうけれど、一歩でもあの人の近くへ行かなければ。
「歩兵、長……」
最早、呼吸をしたときの喉の痛みすら感じなくなった。手足が冷えている感覚もない。体内で熱を生み出すより先に外気に奪われてゆき、熱という熱が吸い取られるように失われてゆく。
ザクッ。――ビシュラは雪の上に両膝をついた。
足から力が抜け、自分の体重を支えきれなかった。咄嗟に両手を出す体力も残っておらず、全身から雪に突っ伏した。
立ち上がって再び歩き出さなければいけないはずなのに、頭では何をすべきか分かっているのに、体を動かせない。
「歩兵長……早く……」
体が重たい。瞼も重たい。何より頭が重たい。もう何も考えられない。吹き荒ぶ風雪のなか、あの人の名前だけを呼んでいた。
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