ベスティエン ――強面巨漢×美少女の〝美女と野獣〟な青春恋愛物語

熒閂

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#01: Before dawn

Before dawn

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「いまウワサになってる女、知ってる?」

「どんなウワサだよ」

「メチャクチャケンカが強ェ女がいるんだ。人間じゃねェってくらい強くて、男相手でもタイマンなら負けナシの」

「ウソつけよ、そんな女いるかよ」

「ウソじゃねーよ。俺は見たんだ」

 俺たちがまだ
 自分の正義と信念と拳を
 熱いままに振り翳せた頃

 そこには
 暴力と支配と苦痛と欲望と刺激と
 曖昧な自由があった。

 野獣のような猛者たちが犇めき合う暁闇のなか
 ひとりの女が玉座に立つのを俺は見た。

 女帝の御代の開闢――――。
 男たちが鎬を削り織り成した長い歴史が変革を迎える。
 その黎明期、暗澹たる時代に俺はいた。
 物語は、女帝が目覚める前からすでに始まっていた。




  § § §




 春、四月某日。
 セーラー服を身に纏った、黒髪のショートヘアの少女が、ガードレールに腰かけていた。
 歩道の脇に立つ桜の木から白い花片が、少女の頭や肩にはらはらと降りかかる。蒼天の下、黒と白のコントラスト。桜の樹の下に佇む少女は、桜の精が絵画から抜け出てきたかのように幻想的な空気感を纏っていた。

 相模 禮[サガミ レイ]――――
 大きな真っ黒の瞳に、それを縁取る長く艶やかな睫毛。白磁のような肌に桜色の頬、そして薄紅色の唇。総じて、お人形のように水際立って愛らしい顔立ちをした、この春高校一年生になったばかりの少女。




「……あかん。道分かれへんよになってしもた。う~ん。どこで間違えたんかな」

 桜の精は、ひどく現実的な問題に直面していた。
 今日は待ちに待った入学式だというのに、学校への道程が思い出せず、ガードレールに腰かけて途方に暮れていた。
 高校進学に併せて独り暮らしを始めたため、自宅周辺であっても土地勘はゼロと言ってもよい。まだ実家にいる頃に、学校への道程を充分に頭に叩きこんだつもりだったが、それだけで新居から学校への道程を把握したと思ったのは、どうやら自惚れだったらしい。

(初日からこんなやと、ほんまにやってけるんかちょっと不安。ただでさえひとりっきりのスタートやのに……)

 禮は、地元では名の知れた有名校、俗に「名門私立」と呼ばれる女子校附属幼稚園に入園し、そのまま大学までエスカレータ進学でほぼ確約されていた。初等部・中等部とそつなく卒業。
 ところが、高校進学タイミングで突如、そのエスカレーターから飛び出すことを決心した。親をはじめ、教師や友人たちからも口々に勿体ないだの変わり者だの言われたはしたが、決心は揺るがなかった。まったくの新しい環境で、正直、少々の不安はあるけれども……。

「そろそろ行ってみよかな」

 禮は地面にタッと足をつけ、勢いよく立ち上がった。
 いつまでも此処でじっとしていても埒が明かない。方角さえ正しければ、めげずに歩いていけば校舎が見えてくるはずだ。




  § § §




 私立荒菱館コーリョーカン高等学校――――。
 不良・ヤンキー・落ちこぼれ・社会不適合者の吹き溜まり。校内校外問わず窃盗事件・暴力事件・補導は日常茶飯事。押しも押されもしない、地域一悪名高い底辺校である。
 他にもこの高校ならではの特徴的な点がいくつか存在するが、この場で例をひとつ挙げるとすれば、女子生徒が非常に少数である点である。その現状は、統計的な数字を見れば顕著で、全校生徒数に対する女子生徒数の比率は1%弱。つまるところ、禮はこの高校に於いて稀少で珍重される女子生徒なのだ。

「…………であるからしてー、本日から晴れて本校の生徒となった諸君らには一層の誇りと熱意、自覚を持っていただきたい所存であります。本日は諸君らの生涯にとって節目となる記念すべき日であり、私を含め職員一同――……」

 朗々と校長の挨拶が続くなか、服装や髪型が悪目立ちする新入生が多いのはこの高校の入学式の恒例であり、上級生に空席が目立つのも例年のこと。生徒たちはおろか、教師陣すらもそのようなことは気にも留めず、入学式は粛々と進行された。

 三年生の列に並ぶ金髪の男は、背伸びをしたりキョロキョロしたりして一年生の一団を熱心に観察した。

 美作 純[ミマサカ ジュン]――――
 荒菱館高校の最上級生にして〝№2〟。
 人相が悪い生徒が多い荒菱館高校のなかでは、珍しく爽やかな顔立ち。性格も温厚で人懐っこく、比較的平和主義で通っている。
 平生から愛想のよい彼の最大の悩みは、彼女イナイ歴十八年目を迎えようとしていること。顔立ちもスタイルも並以上なのだから、このような環境でなければ恋人のひとりやふたりは出来ただろうに。




「禮ちゃんいてまへんなー」

 美作は、隣に座っている強面の男に話しかけた。
 男は入学式が始まってずっと腕組みをして沈黙。美作の言葉を聞いて眉間の皺をさらに深くした。

 近江 渋撥[オーミ シブハツ]――――
 短く刈り上げられた黒髪は学生らしいと言えなくもないが、顔つきは十代には見えないほど大人びていた。眉を潔く剃り落とし、生来の強烈な三白眼で、かなりの強面だ。肌は生まれつき浅黒く、肩幅のある屈強な体つき。此國の男性の平均身長を遥かに超えた長躯。常に他人を見下ろすことになり、かなり近寄りがたい風貌だった。
 彼こそが〝鬼〟〝暴君〟と怖れられるこの街最強の男にして、千人以上の荒くれが犇き合うこの学園に君臨する唯一の帝王だ。




「入学式あんな楽しみにしとったのに何してんねやろ」

「知らん」

 近江はいつもどおり無表情だけれども、いつもにも増して不機嫌そうにキッパリと言い切った。
 美作は横目で近江の表情を窺った。その視線には「薄情者」という意味が含まれていた。

「知らんて。禮ちゃんせっかく受験受かって荒菱館に入れたんやから、もう少し褒めたげたってもええんちゃいますか」

 近江は美作の小言をまるで相手にせずハッと鼻で笑った。

「禮が勝手にせんでもええベンキョしてんねん。俺は知らん」

 禮は自ら望んで、大学まで安寧のはずの私立校のエスカレータから降り、苦労が目に見えている受験戦争に参戦した。それは近江にとってはまったく理解不能な決断だった。
 この話題を続けても楽しい展開になりそうにないから、美作は別の話題に切り替えることにした。

「禮ちゃん道にでも迷ってんのかなー。禮ちゃんが入学式に来おへんで、近江さん心配ちゃいますの」

 バキッ! ――近江は美作の臑を蹴り飛ばした。

「いったァッ」

「心配せえへんわけないやろ! 当たり前のことぬかすなッ」

 近江は美作をギロッと睨みつけた。

「俺の禮はむちゃくちゃカワイイ」

「あっ、ハイ。デスネ」

 近江が脈絡なく自信満々に断言した言葉を、美作は抵抗なく認めた。反論などしようものなら、今度はトゥキックではなく拳が飛んでくるのが目に見えている。

「迷子になってその辺の頭の悪い男に声かけられとるかもしれんて考えたら、ほんまこんなトコにのんびり座ってられへん」

「ほな、何で今年に限って入学式にちゃんと出てはるんですか。毎年サボらはるのに」

「禮が絶対出ろ言うさかい仕方なくやッ」

 近江の八つ当たりで怒鳴られ、美作は苦笑する。

「近江さんがイライラしはる気持ちも分かりまっせ。禮ちゃんほんまカワイイですもん🩷 俺がカレシやったら心配で居ても立っても……」

 バキィッ! ――再び臑に襲い来る激痛
 美作は足を押さえてその場で悶絶した。

(俺に当たってもどうもなれへんのに😢)

「クソッ、イライラする。禮がいてへんのに入学式なんぞ出て何になんねん」

「3年にもなると入学式なんか珍しくもないさかい、飽きますなー」

 美作は、これ以上八つ当たりついでに蹴られては堪らないから、またもや話題の転換を試みることにした。
 近江が沈黙して数秒後、美作はマズいことを言ってしまったと気づいてハッとした。

「オウ。オマエより多く入学式しとるからなァ、飽き飽きしとるわ」

 近江が低い声で言葉を発し、美作はビクッと肩を撥ねた。以後の沈黙が居たたまれず、額からじとりと汗が流れ落ちた。

(わ、話題間違えた……💦 俺のイージーミス)

 実は、近江は本来此処にいるべき人間ではない。彼は最上級生の美作のひとつ年上であり、つまり、この学校の制服を着て入学式がやって来るのは四度目だ。美作よりも年上の彼が、美作と同列に座らざるを得ない理由は唯ひとつ――――留年したからだ。したがって、彼はかなり不本意に此処に座っている。

(余計なこと言うな美作ッ)

(俺たちの命まで危なくするつもりか!)

 入学式が始まって以来ずっと不機嫌な近江の雰囲気がますます嶮難さを増し、周囲の生徒たちの両肩にはプレッシャーがズーンッとのしかかった。




  § § §




 結局、禮が登場することなく入学式はつつがなく終了した。
 入学式終了後、新入生は各自、教室にて教科書の配布を受ける段取りだ。新入生たちはのらりくらりと自分の教室に入っていった。
 とある新入生のクラスの担任教師は、教壇に立って教室内を一望した。そして、ひとつの空席に目を留めた。廊下側から二列目の、教室後方から二番目の席がひとつぽつりと空いている。
 担任教師は溜息混じりにクラス名簿を手にした。おそらくは、毎年恒例の入学式サボタージュ。
 入学式は新入生にとっては晴れの日ということもあり、比較的出席率の高い行事だが、それすらも出席しない横着な生徒が毎年必ずいるものだ。

(今年の入学式サボりはどんなヤツだ。……え~と、斎藤川原サイトーガワラはいるな。その後ろの席……)

 担任教師は名簿の名前を指で押さえ、苦虫を噛み潰したような表情をした。

相模サガミレイ――……あ~~、例の女子生徒か。入学式からサボりとは、これは先が思い遣られる。ただでさえ女子はモメ事の原因になりやすいんだから、目立つことしないでくれよ~。俺が受け持っている間は穏便に生活してくれ~~)

 ガラッ。――教室前方のドアがいきなり開いた。
 担任教師を含め、クラス全員の目玉がそちらを向いた。そして、目を奪われた。この教室内にあって、唯ひとりだけセーラー服を着た存在。プリーツスカートから覗く、細くて嫋やかな白い手足。柔らかそうな黒髪を揺らし、大きな愛らしい瞳でまじろぎをする、佳麗な少女に。
 この場にあまりにもそぐわない可憐に、何処からともなく、おおお……と感嘆が聞こえた。

「ごめんなさい。遅れました」

 セーラー服に身を包んだ稀少な女子生徒――――禮は、担任教師と目が合うなり、申し訳なさそうな表情をしてペコッと頭を下げた。
 担任教師はクラス名簿を手に少々面食らった。このように素直な謝罪は、この学校に赴任してこの方、お目にかかったことがなかった。
 禮は両手で丁寧に教室のドアを閉め、担任教師がいる教卓に近づいた。眉を八の字にして口を開いた。

「あの……相模サガミレイです。道に迷ってしもて、入学式間に合わへんくて、ほんまごめんなさい」

「イ、イヤ、いいよ」

 ――いや、よくはないけど。
 担任教師は想定外の低姿勢に、ついすんなりと許してしまった。
 聖職者である彼の目にも、肩を竦めてやや上目遣いの禮は、愛らしく映った。

(えらく素直だなー。ホントに荒菱館の生徒か? しかもカワイイ🩷)

 禮の登場により教室中の男子生徒がにわかにざわめいた。なにせ女子生徒は1%満たないこの環境で、女子生徒がいるクラスに当たるというのは大変な幸運だ。
 よしんば、同じクラスに女子生徒がいたとしても、このような学校を選ぶぐらいだから、何処ぞの暴走族総長のオンナだとか、現役のレディースだとか、ハッキリ言って口も態度も悪い、女らしさの欠片もない可愛げのない女ばかりだと高を括っていた。にも拘わらず、遅れて現れた少女は、見るからに清純そうで水際立って可愛らしい。クラスメイトたちは揃いも揃って心のなかでガッツポーズ。

「カ、カワイイ……」

「センセー許してやろーぜ。カワイイ子には優しくしてやらねーと」

「へー。こんな女が荒菱館にいるとは思わなかったな。つーか、あの顔で性格ブスじゃねーだろな」

「少々の性格の悪さは問題じゃねェ。このガッコにあのレベルが存在してることが奇跡だ」

「あっはっはっ。一年間楽しみだぜ」

 歓声に似たどよめきに包まれた禮は、訳が分からずにキョトンとして教室を見回した。
 担任は溜息をひとつ。当人が素直だろうと愛らしかろうとこの環境では、そこにいるだけで問題のタネであることには変わりない。

「お前たちウルサイよ。静かにしなさい」

 担任教師は禮にひとつの机を指し示した。

「あそこがキミの席だよ。早く座んなさい相模サガミ

「はーい」

 禮は教壇にクルッと背を向けて自分の席へと向かった。
 禮が担任教師に言われたとおり教室の真ん中を割って歩く間中、男子生徒の目は釘付けだった。
 禮はじゃっかんの居心地の悪さを感じながら自分の席に辿り着き、机の上に通学鞄を下ろして椅子に腰かけた。
 禮が一呼吸吐くよりも早く、前方の席の男子生徒が振り返った。

「なあ、名前何て言うん? 俺、斎藤川原サイトーガワラシノグ。ヨロシクな」

 禮は内心、高校生活に不安を抱えていたから、気さくに自己紹介してくれたことが嬉しかった。ニッコリと微笑んだ。

「ウチ、相模サガミレイやよ。ヨロシク」

(うおおおお~ッ! カワイイ~🩷🩷)

 クラスメイト男子生徒の胸中は、全員一致で相模サガミレイが荒菱館高校ナンバーワン美少女に確定した。




  § § §




 入学式終了後。
 荒菱館コーリョーカン高校の王様御用達喫茶・ブラジレイロ。
 若者に人気がある舶来のコーヒーショップや、女性受けしそうな小洒落たカフェとは趣が異なる純喫茶。壁紙や木目のカウンターやテーブル席のソファ、コーヒーカップやランプ、至る所すべてのパーツが古きよき芳しさを残す店内。マスターも店内同様に古めかしい雰囲気で、無口で程よく不干渉。
 この店は近江オーミたちの行き付けだが、いつ訪れても繁盛している様子はない。それがまた居心地がよかった。

 しかしながら、居心地がよいはずの店内で、近江は先ほどからずっと貧乏揺すりが止まらなかった。煙草を咥えて腕組みをしたまま、足を小刻みに動かし続ける。
 近江のテーブルを挟んで対面には、サングラスをかけた男が座す。彼は不思議そうに首を傾げた。

「コイツは何をイライラしてんねん」

 駿河 鶴榮[スルガ ツルエ]――――
 近江の幼馴染み。今春、荒菱館高校を無事卒業したばかり。家業のバイク屋を継ぐ為に、従業員として日夜懸命に修行中。
 長い揉み上げと、常にかけているサングラスがトレードマーク。学生服を着用しなくては高校生には見られない近江に負けず劣らず、実年齢よりかなり大人びて見える風貌だ。
 サングラスの下の素顔は、レイもいまだに見たことがない。

 鶴榮からの問いかけに対し、近江の隣に座る美作ミマサカが、それが~、と口火を切った。

「禮ちゃんが入学式に来おへんくて。近江さんには入学式に絶対出てや言うてたらしいんですけど」

「あの禮ちゃんやからな、道に迷ったんかもな。せやさかいワシが送ろうかァ言うたのに」

 鶴榮は近江と禮が付き合い始める前からふたりのことを知っている事情通だ。ふたりの性情もよく把握している。長年、名門女子校で育った禮は、無垢で純真な世間知らず。よく言えばマイペース、分かりやすく言えば、心配になるほどボーッとしたところがある。

「入学式から先が思い遣られるなァ、ハツ

「今も先も知るか。元々禮みたいなのが荒菱館に入って、何も無いわけがない」

 近江は明らかにイライラし、鶴榮と目も合わさずにぶっきらぼうだ。

「そうは言うても」と美作は近江の顔を見た。

「禮ちゃんが荒菱館受ける言い出したときは、そんな反対しはらへんかったような」

ハツのことや、頭のなかで猛反対しとってもどうせ顔には出さん。禮ちゃんには甘いさかいな~」

 近江は険しい表情で紫煙を吐き出した。

「禮がそうしたい言うてんのに、俺がどうやって邪魔でけんねん」

 近江は誰よりも禮にご執心にしてご寵愛。故に禮のお願いも我が儘も、ついには首を縦に振らないわけにはいかない。
 近江の胸中を察した鶴榮は、カカカッと笑った。

「禮ちゃんに嫌われたないもんな」

「💢」

 ドンッ。――近江はテーブルに握り拳を落とした。
 鶴榮は近江を揶揄って笑うから、美作は内心冷や冷やものだ。近江から八つ当たりされるのは自分なのだから。

 ふと、近江は鶴榮の横の座席に置かれた花束に気づいた。男が花束を用意する理由などは大体知れているけれども。

「オイ、ツル。何やソレ」

「禮ちゃんへのプレゼントやで。何か文句あるか?」

「あれへん」

「自分のカノジョが男から花束貰ういうても高校入学のお祝いなんやから、まさかそんなもんでカレシがイチイチ文句言うたりせんよなァ? 歴としたカレシなんやからビクともせんやろ、なあハツ?」

「せやさかい何も言うてへんやろがッ」

 ダンッ! ――近江が先ほどよりも力強くテーブルを叩き、美作はビクッとした。

(絶対わざとや。駿河さん、絶対、わざと近江さんを刺激して楽しんではる……)

 鶴榮は近江の幼馴染みであり、自ずと付き合いが最も長い。唯一近江を揶揄うことのできる存在だ。それがこのふたりの付き合い方だとしても、美作の心臓には悪い。

 チリリンッ。――店のドアベルが鳴った。
 近江と鶴榮、美作の三人はそちらを振り向いた。
 入店してきたのは予想どおり、話題の主人公・禮だった。入学式諸々学校での行事が済んだら、ブラジレイロで落ち合う約束をあらかじめ交わしていた。
 禮はすぐに近江たちを見つけ、手を振りながら笑顔でテーブルに近づいた。

ツルちゃん、ジュンちゃん。久し振りー」

 真新しいセーラーの襟やスカートを揺らして愛らしい少女に微笑まれては、流石の鶴榮も口角が上がり、美作もニコニコになる。

「禮ちゃんが着るとウチの制服も見違えるな」

「ちゅうか、ウチのセーラー久々に見たで。カワイイカワイイ」

 禮は気恥ずかしそうに、えへへとはにかみ、鶴榮の隣が空いていたから自然とそこに座った。すると近江からジロッと睨まれ、鶴榮はククッと笑みを零した。

「入学式サボって何しとった、禮」

 近江は禮がソファに腰かけるや否や、責めるように尋ねた。

「サボったんちゃうよ。道に迷ってしもただけ」

「オマエ、自分ンちから学校までもひとりでろくに行かれへんのか」

「だってマンションから行くのは初めてやったから」

「あんなァオマエ、自分の――」

 ハイハイそこまで、と鶴榮から遮られ、近江はチッと舌打ちした。
 鶴榮は花束を禮に差し出し、白い歯を剥き出しにしてニカッと笑った。

「禮ちゃん入学おめでとう」

「わー、花束や。こんな大きいのええの? 鶴ちゃんおおきにー」

 禮は自分の肩が隠れてしまいそうなほどの花束を受け取り、鶴榮に満面の笑みを返した。
 彼氏である近江としては、その笑顔を自分以外の男に引き出されては心中穏やかではない。近江の表情と雰囲気が険難になり、美作の胃はキリキリと締めつけられる。鶴榮のことだから、ここまで予見して敢えて近江に見せつけるように禮に花束を渡したのではないか。

「禮ちゃんが喜んでくれるんやったら、花束くらいなんぼでも持ってくるで。ワシ、禮ちゃんのこと好きやから」

「ウチも鶴ちゃんスキー」

 パリーンッ!
 鶴榮が禮の肩に腕を回して顔を近づけた瞬間、近江は水が入ったコップを握り潰した。

「ッ~~!💢💢」

(ヒィィイイイッ💦)

 美作は胸中で悲鳴を上げた。

ハツと同じガッコ通えるようになってよかったなあ、禮ちゃん」

「うん」

「受験自体は禮ちゃんのアタマなら心配してへんかったけどな」

 鶴榮に頭を撫でられ、禮は嬉しそうにはにかむ。
 鶴榮は禮を気に入っており、禮は鶴榮に全幅の信頼を寄せている。つまり、このふたりはとても仲がよい。

「す、駿河さん……。も、その辺に💧」

 美作の弱々しい声。ふたりが仲よくすればするほど胃がきゅぅううと絞まる。

「オマエも嬉しいやろ、ハツ

 鶴榮から話を振られた近江は「べつに」と淡白に答えた。

「べつにてオマエなあ。その仏頂面は今に始まったことちゃうけど、今日くらい嘘でも嬉しい顔でけへんか。せっかくの禮ちゃんのハレの日やで」

「嘘でもほんまでも俺は嬉しかない」

 近江が放言した瞬間、禮の顔がピクッと緊張したのを、鶴榮は見逃さなかった。
 禮の胸はズキリと軋んだ。ズキズキと痛むけれど、近江は何でもない顔をしているから、自分も何でもない振りをしなくてはいけないと思って、笑った。

「ごめんね」

 禮は無理して笑って一言だけそう言った。
 花束を自分の横に置いてメニューを手に取った。関心をメニューの注文に向けたのは、この話をやめにしてという合図。
 恋人ではない鶴榮と美作のほうが、余程禮の感情の機微に敏感だった。禮の胸中を察して、はあ、と溜息を吐いた。

(あーあ……禮ちゃんかわいそ)

(やらかしたな、ハツのアホ)




  § § §




 近江と禮は、美作と鶴榮とはブラジレイロで別れ、ふたりきりで帰路に就いた。
 四月の入学式直後。草木が芽吹いて花が咲く時節だが、陽が沈めば外の空気は冷たい。引き際を知らない冬が、まだ余韻を残していた。日没を過ぎて気温が低くなった。
 禮は肌寒さから、鶴榮からプレゼントされた花束を両手で大事だいじそうに抱えていた。

「暗くなるの早くなったねえ」

 禮は夜空を見上げた。
 息が白くならない程度の肌寒さ。禮と近江以外に周囲に人通りはなく、時折強い風が吹き抜ける。

「もう七時やからな」

 近江の声は背後から飛んできた。
 先行する禮と、追随する近江。連れ立っているというには少々距離を空けて歩いていた。端から見れば知り合いなのか無関係なのか判断がつかない程度の距離。対人関係をグラフにするならば、おそらく今の禮と近江との距離が知人と他人とを分別するギリギリの境界線。
 話しかければ聞き取れるし返事もするが、ブラジレイロを出てからずっとその距離が埋まることはない。どちらかが故意にその距離を測ったわけではなく、お互いにその距離を無理に縮めようとはせず、一進一退の同じリズムで歩く。その距離の合間を風が吹き抜けるから、きっと寒いのだ。

 ――たぶん何かをマズったんだろうな。
 その程度のことには近江も気づいていた。
 快活な禮がずっと黙っているのは珍しいことだ。この場にはふたりしかいないのに、振り返らず、顔を見せず、目を合わせようともしない。意図的にそうしているとしか考えられない。
 ジリッジリッカチッ。――近江は煙草に火を点けてライターをポケットに仕舞った。
 ブラジレイロを出てから何本目かの煙草。ブラジレイロから歩いて此処まで来る間、近江はほとんど煙草を吸いっぱなしだった。
 肺の中いっぱいに吸いこんだ煙草の煙をゆっくりと吐き出し、日没後の真っ黒い景色に白い煙がゆっくりと溶けこんでいく様を、目を細めて眺めた。紫煙が視界を覆って一旦は禮の姿を隠し、徐々に晴れてまた禮の背中が見えてくる。
 禮の背中が隠れているその間は、近江は何も考えずに済む。考え事は好きではない、慣れてもいない。不慣れなことや思いどおりにならないもどかしさが自分を苛立たせるから、なるべく何も考えたくなかった。
 いつもとは何かが違うことには勘づいている。普段なら目を瞑ってでもできるシャツのボタンを掛け違ってしまった感じ。しかし、どこで掛け違えたのかは分からない。

(クソッ。イライラする……)

 苛立って物に当たり散らかすなんて無様な場面を禮には見せたくないから、必死に脳内を切り替えようとしているのに、それすら思いどおりにならず、苛々する。何も考えないようにしようと自分の脳内の回路を止めようとするのに、制御が儘にならなくてますます苛々する。
 訳の分からない苛立ちを解消したい、近江の思考は曖昧な沈黙を守るよりも、そのような単純な目的を優先することにした。
 近江は火を点けたばかりの煙草を地面に捨てた。そして、グリグリと靴の裏で踏みつけた。

「禮」

 近江に呼び止められ、禮はピタッと足を止めた。

「俺に言いたいこと、あるやろ」

 近江が捻り出した最大級優しい言葉だった。何処でボタンを掛け違えたかなんて分からない。禮に勘づかれないようにスマートに掛け直す手段も思いつかない。元々何でも繊細にこなすのは苦手だ。

「あれへんよ」

 その簡潔な返答が本心であるか否か、近江は禮の表情を窺おうとしたが、すでに陽光はない上に、禮が少し俯いている所為でそれは叶わなかった。
 いろいろなことに苛々する。陽が暮れてしまったことにも、この道に街灯が少ないことにも、鶴榮が贈った花束が禮の顔を見るのを邪魔することにも、禮の心情を透視することのできない自分自身にも。今このとき、神様の気紛れかただの偶然か、さまざまなものが自分を苛立たせるように作用している気がした。

「嘘つけ」

「ついてへん」

「ほんまのこと言うてるヤツはそんなビクビクせえへん」

「ビクビクなんかしてへんよ」

「せやったら何で俺から離れよんねん。こっち来いや」

「ウチが離れたんちゃうよ。ハッちゃんが離れてるんやん」

「ほなそっから動くな」

 ジャリッ、と近江の靴が地面を踏み締める音。近江も禮も意識的に距離を空けたわけではない。それなのに、禮は理由もないのに逃げ出したい気分だった。
 ザッザッザッザッ。――足音が聞こえる。風の音も聞こえる。自分の心臓の音も、やたら大きく聞こえる。近江が大きな歩幅で一歩一歩近づいてくる度に、鼓動が大きくなった。
 禮は、近江の靴の爪先が視界に入った瞬間、脳内にドクンッという大きな音が響いた。

「ホレ見てみい、ビクついとる」

 近江の声が傍近くで聞こえ、禮は花束をギュウッと強く握り締めた。

「ウチは嘘なんか吐いてへんしビクビクもしてへんもん」

「情けない声出しとる。顔見してみぃ」

「…………」

 禮からの返事はなく、それどころか俯いてますます花束の陰に顔を隠してしまった。近江はこのような些細な抵抗にも苛立ちを隠しきれず、ハァアーッ、と大きな溜息を吐いた。

「言うこときけや。苛々させんな」

 自分の感情すらも御しきれない。自分の欲の為にしか動けない。だから彼には、苛立ってささくれ立つ自分を制御することはできない。
 バサンッ、と近江は禮が抱える花束を躊躇なく鷲掴みにした。乱暴に引き剥がし、先ほどの煙草と同様に道端に投げ捨てた。
 それから、呆気に取られて声も出ない禮の顔を、悪びれる様子もなくジッと正視した。

「ブス」

 半ば茫然とする禮の頭上に、近江は強烈な一言を浴びせた。

「何ちゅうツラしとんねん。オマエ今ごっつブサイクなツラしてんで」

「ご、ごめ……ッ」

 面と向かって罵倒されたというのに、禮には瞬間的に怒りや反感など湧かなかった。距離が近くなった所為で近江の苛立ちがヒシヒシと伝わってきて、とにかく彼の機嫌を治さなければという心配で頭がいっぱいになった。

「アホか、なに謝ってんねん」

 近江は禮の頭の上に手を置いてポンポンと撫でた。
 堅くて粗野な大きな手で、ガラス細工にでも触れるかのようにできるだけそっと、できるだけ優しく禮の頭を撫でる。そんなはずはないと頭では分かっているのに、力加減を間違えたら目の前にいるか弱い少女が崩れ落ちてしまいそうで、慎重に触れる。

「言いたいこと言わんさかい、そんな無理したブサイクなツラになんねん。嘘吐いてまで我慢すんな。言いたいことあんなら、俺には言うてええねん」

 低く響く声。大きな手の温度。落ち着いて刻まれるリズム。強引で気が短くて言葉が強くて、たまに痛い。それでも、めいいっぱいの優しさを与えてくれることも知っている。

「ごめんなさい……ッ」

 禮は全身にぎゅうぎゅうに力を入れて声を絞り出した。

「せやさかい、何で謝んねん」

 近江は溜息を吐こうとして出かかった息をハッと飲みこんだ。禮の瞳から大粒の涙が零れ落ちたからだ。
 近江が、禮の波打つ黒い瞳に気を取られた刹那に、涙は頬の上を滑れ落ちた。近江が受け止める暇もなく、禮の顎先から離れて直線的に落下して地面にぶつかって弾け、染みこんで消えた。

「ハッちゃんと同じガッコにしてごめんッ……なさい。ハッちゃん嫌がってんの知ってたのに……無視してごめんなさッ……」

「禮……」

「ほんまごめんなさい……ッ」

 禮は次々と雫になる涙を制服の袖で拭いながら、思い浮かぶ限りの謝罪の言葉を並べた。
 涙は感情のかたまりだから、胸の内の熱い想いの形だから、自分ではとめられない。ごめんなさい、ごめんなさい、なんて子どもの駄々のように同じ言葉を繰り返すしかできない。

「もうハッちゃんが嫌がることせえへんからッ……嫌いにならんといて……」

 何でもよいから少しでも同じものが欲しくて、同じであるというだけで繋がっている気がする。それが錯覚だとか思いこみだとか自分でも分かっていても、〝同じ〟であるということに意味を感じずにはいられない。
 しかしながら、〝同じ〟が自分にとっては誇りであっても、相手にとっては重荷かもしれない。〝同じ〟を求める自分は相手にとっては疎ましいかもしれない。自分の求めるものが相手の重荷であったら哀しい。自分に必要不可欠なものが相手にとっては不要で邪魔なものだったら哀しい。
 哀しくて不安で、涙は堰を切ったように溢れ出てくる。これが破裂してしまうってことなのかもしれない。心が破裂して、心は真っ赤な血を噴き出す代わりに熱い涙を流すのだ。

「泣くな」

 禮は近江を見上げた。
 近江は顔をそっぽに向けていたが、身長差があるから禮の視点からは近江の表情が見えた。近江の表情は険しかった。

「オマエは何で泣くねん。言いたいこと言えとは言うたけど、泣けとは言うてへんやろが」

 近江は心底不機嫌そうな顔をして、放言した。
 そんな顔をされるくらいなら何も言わないほうがよかったと、禮は思った。黙っていればそれで済む。そんな顔をされるだけで心はギシッギシッと軋む。軋んで歪んで罅割れて、弾けてバラバラ砕け散る。真っ赤な血の代わりに熱い液体を流して。

「な、泣いて……しもて、ごめんなさい……」

 禮は俯いて必死に制服の袖で目を擦った。
 これ以上近江の機嫌を損ねるのが恐くて、面倒臭いと思われて嫌われるのが何より恐くて。しかし、気が焦るばかりで涙は一向に止まる気配がなかった。禮の意思で泣いたわけではないから、意思で止めることもできない。

「クソッ」

 近江は近江で、禮の涙をとめてやれる上手い手段を思いつかない自分が腹立たしかった。

「オマエ、今まで俺の何見てきたんや」

 ガツッ、と突然近江から肩を掴まれ、禮は肩をビクンッと跳ねさせた。水面のような黒い瞳は微動し、また一筋涙が流れ落ちた。
 近江は両手で禮の頬を包みこんで顔を上げさせ、自分のほうを向かせた。

「俺ァどっからどう見ても禮に惚れとる。禮しか見てへん。禮を嫌いになるなんか有り得へん」

 禮の目はポロポロポロと落涙した。近江は睨むような険しい表情をしてその涙を拭ってやる。
 禮の涙が疎ましくて泣くなと言ったわけではない。禮の泣き顔が見苦しくて泣き止めと言ったわけではない。恋の為に流される涙は、目を背けたくなるほど痛々しくて儚くて脆弱で、哀しくなるほど美しい。人は、美しいものには、ただただこいねがい縋る。

「頼むわ……もう泣かんといてくれ」

 近江は、禮の唇の上に覆い被さるように自分の唇を重ねた。
 呼吸を呑みこみ、ゆっくりと目を閉じる。重なった上下の睫毛に涙が振り落とされる。真っ暗な視界で頬の上を涙が走る感触を抱き、間近に自分以外の息遣いを感じる。
 今この時はふたりの間に距離はなかった。引き離されたくない。一秒でも長くこのままでいて。手を伸ばして彼の服を掴み、震える指先で懸命に縋りつく。いつまでもずっと絶対的に唯一、好きでいてと強要なんかできないから、縋りついてでもこの時を引き延ばしたい。
 ――無様だね。自分でも情けなくなるくらい全身全霊であなたが好き。




  § § §





「好き……」

「ハッちゃん……好きぃ」

「好きやよ……っ」

 何度口にしたか分からない。数え切れない。覚えていない。不安にならない為に何度も交わす約束の言葉。

「俺もや。好きや、禮」

 その返事だけで幸せ。その返事が欲しくて堪らない。その返事を聞けば呼吸が止まる。
 真っ暗な部屋の中、横たえられたシーツが冷たくてゾクッとした。反射的にあなたに手を伸ばし、あなたはわたしの手を捕まえて、手の平にキスをしてくれた。それから、わたしの腕を柔らかく捕まえ、自分の首の後ろへと回させる。
 あなたはわたしの首筋に口づけた。

「ッ……」

 声は出さなかったけれど、シーツの感触なんかよりもっとずっとゾクゾクする。ヴァンパイアが牙を立てて生き血を啜るように、首筋に長くゆるく吸いつかれる。

 愛しくて愛しくて、眼下に横たわるひとりの少女が愛しくて、唇でも指先でも視線でも何でもいいから触れていたい。
 引き離されたくない。ずっと一緒にいたい。繋がっていたい。ひとりでそのようなことを考えているのか不安になるのだ。本当はふたりとも同じことを考えているのに。
 肉体が欲しいのか真心が欲しいのかと天秤にかけたら、前者を否定はしない。欲しくて堪らない。多分両方欲しい。すべてが欲しい。
 ――貪欲なのだ。お前の為にいくらでも欲張りになる。俺のすべてをくれてやるから、お前のすべてを俺にくれ。

 今夜はやたら静かだ。窓外から自動車や通行人の騒音が聞こえてくることもなく、静謐が部屋を満たす。
 そのような暗闇のなかで、ふたりを照らすのは心許ない豆電球がたったひとつ。薄明かりに晒され、暗闇に浮かび上がる白い躰。膝を割って組み敷いて、白い柔肌に爪を立てて逃がさぬように捕まえて、震える瞳を我が物顔で俯瞰する。
 ギシッ。――スプリングの軋みは恐怖が忍び寄る音だ。寒気がする。
 大きな身体に隠されて微かな光も当たらなくなり、ふっと視界が暗くなったと思ったら、不意に腰元に手が触れてギクッとした。経験など無いくせに本能的に予感がして勝手に身体がきゅっと縮まり、瞬く間に熱が引いてゆく。

「い、痛い……?」

「たぶんな」

 心細げな問いかけはフッと微笑で返された。
 あなたの手が胸に触れ、首筋に触れ、頬に触れ、滑るように撫でられると少し不安が和らいだ。ずっと触れていてと、もっとくっついていてと、わたしをひとりにしないでと、心のなかでひたすらに願う。
 指を絡めて口づけをする。あなたの唇は温かく、額や胸には汗が浮く。あなたはまたわたしの腕を自分の肩に回し、身体をもっとくっつけてくれる。隙間を潰して密着する肌と肌。今、この薄暗がりのなかでシーツよりも酸素よりも何よりも、あなたが一番近くにいる。

「ッあ……」

 息を殺して愛に耐える。あなたが貫く痛みすら愛しいよ。

 ガリッ。――生まれて初めての激痛に、あなたの肌に爪を立てた。
 猛烈な圧迫感と異物感と引き裂かれる痛覚と脳が上げる悲鳴と、熱い体温と途切れ途切れの吐息と滑る躰と、狂おしい愛おしさ。吐き出したくなるような悲鳴も押し退けて、ただただ愛おしいってことの本当の意味を噛み殺す。
 こんなにも狭い空間で、ふたりだけしかいない空間で、いろいろなものが渦巻いている。

「やっぱ……痛いか」

「ッ……」

 声を出せないから、瞳に涙を溜めて必死に何度もコクコクと頷いた。

「……悪いなァ。もうちょお我慢せえよ」

 あなたはわたしの額を撫で、ベッドに肘を突いてゆっくりとわたしに覆い被さった。
 あなたが微かに動く度、わたしはあなたに刺し殺されてしまいそうだけれど、必死に声を殺す。あなたが好きだから、どうしようもなく好きだから、声を殺す。泣きながら、声を殺す。
 鼓動が伝わってきて吐息が吹きかかる距離にいる。付かず離れず何かの拍子で唇が掠める度、死にそうになりながらも、あなたが近くにいるのだと安堵する。
 しがみついていていいですか。もっと強く、もっと強く。わたしにはそんなことしかできない。
 あなたに振り落とされないように、あなたに置いていかれないように、あなたとつながっていられるように、あなたにしがみついていたい。




熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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