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#03: The flawless guy
喧嘩屋と武術家
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――トラちゃんと睨み合うハッちゃんの顔は、いつもよりめっちゃ顔色悪いよに見えた。
まるで、死神を後ろに背負うてるみたいやって、ほんまに思た。
ああ、めっちゃ縁起悪いこと考えてしもた。
渋撥と虎宗は、互いにいつでも殴りかかれる間合で対峙した。
禮には、渋撥の顔色にいつもよりも血の気がなく見えた。肌の色が濃いから顔色は分かりにくいはずなのに、何故だかそのように見えた。病院から半ば脱走して出てきたばかりだから、血色が悪いのは仕方がないのかもしれないが、それを差し引いても、まるで死体のようだった。
禮は息苦しさを感じて自分の喉に触れた。
屋外なのに嫌な空気が充満する。喉渇いて全身が重たくなる。
「お前、大人しゅう寝といたほうがええんちゃうか」
「あァ?」
渋撥は悪態で返した。心底気に入らない虎宗相手にゆっくりとお喋りする気など毛頭なかった。
「キッショイ顔色しよって。いま無理したら命縮めるかもしれへんで」
「オウ。ほなワレェぶっ殺すのに俺の命懸けたるァ」
渋撥は迷いなく直ぐさま言い返し、虎宗は少し驚いたように目を見開いた。
潔い男だと、思った。
強い男だと、思った。
手負いの獣のようだとも思った。
しかしながら、どれにしても渋撥が引かないというのなら虎宗が引導を渡さなければならない事実に変わりはない。向こうがそれほどの覚悟を持ち合わせているなら却って好都合だ。
コクンッ。――虎宗は神経を鋭敏に研ぎ澄まし、渋撥が生唾を嚥下する音すら聞こえた。
虎宗がジリッと一歩前に出たのと同時に、渋撥も足を前に踏み出した。野の獣は臭いを嗅いで、気配を噛んで、視線を読んで、敵の動きを察知する。これといった合図は要しない。
コクン。――何度も何度も生唾を嚥下する音が聞こえる。
虎宗は深く踏みこんで拳を振りかぶった。
獣と獣が牙を剥き合い、爪を立て合い、額をぶつけ合う瞬間。
ガギィインッ!
§ § §
大志朗と美作との戦い――――。
ゴガァンッ! ドッボォッ!
「アッ……カ……ッ?」
大志朗は腹部に走る痛みに驚きながら後退った。
大志朗が繰り出したパンチは正確に美作の顔面を捕らえた。しかし、美作は大志朗に殴られた一瞬後に、大志朗の鳩尾に蹴りを決めた。
(なんちゅうヤツや。殴られる前提で突っこんできよる。殴られた瞬間にケリ出す反射神経も大したモンや)
大志朗は痛む鳩尾を押さえて敵を見た。
美作は悪戯が成功した幼稚な子どものようにニッと笑った。大志朗と同様にダメージを負ったはずなのに、その素振りは微塵も見せなかった。
「オラァッ!」
美作は声を上げながら拳を振り上げた。
大志朗は美作の大振りのパンチを難なく躱したのに、チッと舌打ちした。
「クソッ。我流はやりにくいで」
「ああ。オマエ、禮ちゃんと同じ道場なんやっけ? 何やったかな、えーと……なんとか流っちゅう立派な名前の。俺もそーゆーキチンとしたモンちったあ囓っとけばよかったなー」
美作は大志朗を指差して暢気に笑った。
そのような気もないのに軽口を叩くのが、大志朗の癇に障った。金髪の彼にとっては冗談程度。しかし、大志朗にとっては至極真剣に費やした時間だ。それを軽んじられたような気がした。
「ケンカ屋が」
大志朗はまた言い捨て、禮と同じ重心を低くした横半身の構えを取った。
美作のほうは型も何もあったものではない、ありがちなファイティングポーズで待ち受ける。彼にとっては構えなどどうでもよい。どう手足を揃えるかなど問題ではない。最重要の問題は、一瞬でも速く、一発でも多く敵に攻撃を喰らわせること。そして、敵よりも一分一秒でも長く自分の足で立っていられること。
大志朗には、構えを見れば、拳を交えれば、金髪の男が何に師事したこともないずぶの素人であるとは分かった。しかし、実力はそこらの経験者を優に凌ぐ。身体能力や反射神経、動きのキレは自分に匹敵すると言ってもよい。だから、ケンカ屋と揶揄しつつも、手を抜くつもりは一切なかった。
ジャリッ。――大志朗が美作に向かって全力で駆け出した。
美作が身動きするより速く地面を蹴り、大志朗の身体は軽やかに宙を舞った。
ガキィンッ! ――大志朗の跳び蹴りが美作の顔面を捉えた。
「ブハァッ!」
美作は咄嗟に腕を構えたが、跳び蹴りの威力に押されてガードを崩された。
ズバァンッ! ――大志朗は間髪入れずに美作の太腿を蹴り飛ばした。
美作はわずかにぐらりと体勢を崩した。
大志朗はその隙に拳を振りかぶった。渾身の力でもって打ちこんでやろうとした瞬間、美作の目がギランと光った。
美作は顎を引き上げて大志朗のパンチを回避した。一呼吸置く間もなく直ぐさま大志朗に反撃を繰り出した。
大志朗は攻撃直後の不安定な姿勢でありながら、美作のパンチをどうにか身を捩って躱した。
(やっぱコイツ、反射神経だけはハンパない!)
大志朗は美作の反射神経を警戒して数歩下がった。
美作が大志朗に蹴られた跡を手の甲で拭うとやや熱を持っていた。これは腫れるのだろうなと思うと、大志朗は綺麗な顔のままでいることが少し面白くなかった。
「すばしっこいヤツやな」
大志朗は賛辞のつもりで言ったのだが、美作は悔しそうに口を尖らせて睨みつけてくる。
美作は膝を曲げて腰を落とし、瞬発力だけでガジャッと踏み切って跳び上がった。瞬間、大志朗もできるだけ高く跳んだ。ふたりが空中で蹴りを繰り出したのは、ほぼ同じタイミングだった。
ガキィンッ! ――大志朗の蹴りが一瞬早く美作の脇腹を捉えた。
「グアッ」と美作は着地すると同時に片膝を突いた。
「クソ! 俺のが先に動いたのにッ」
「ケンカ屋風情が、足技で真っ当な武術家に勝とうなんざ思わんことや」
美作が膝を突いている間に大志朗は眼前まで迫っていた。
「お前もセンスはかなりええけどな」
大志朗の片足が地面から浮き、美作はピクッと反応した。ゴロゴロゴロッと素早く地面を転がってその場から退避して大志朗の前蹴りを躱した。
(い、今のは〝情けない様〟に入らんかな……?)
美作がドキドキしながらチラッと鶴榮の様子を窺った。
鶴榮は体ごと渋撥のほうを向いており、此方などチラ見してもいなかった。
――そうですか、そうですよね。そっちのほうが見応えがありますよね。
「…………」
美作は無言で立ち上がってパンパンッと服を叩いて土埃を払った。
「さあ来い!」
「あ。スマン」
すでに面前で大志朗が拳を振りかぶっていた。殴り合いの最中に余所見をするほうが過失だ。大志朗は一応軽率な謝罪を口にして美作の顔面に全力で拳を叩きつけた。
バキィンッ!
殴られても美作はその場から一歩も退かなかった。大志朗の胸座を掴んで力いっぱい自分のほうへ引き寄せた。
大志朗はハッとした。金色のかたまりが迫ってくる。掴まれているから回避しようがない。
ガキャアンッ!
美作は自らの額を大志朗の顔面に打ち付けた。
大志朗はかなり強烈な頭突きを喰らい、視界に火花が散って一瞬両目を瞑ってしまった。
美作はその瞬間を狙い澄まし、腰を捻って大志朗の脇腹目がけて蹴りを繰り出した。大志朗は足を引き上げて美作の蹴りをガードした。
ガスッ。――大志朗は流れるような動作で美作の顎に掌打を打ちこんだ。
対象との距離に充分な隙間を作りだし、一歩強く踏みこんだ。
美作は、飛び上がった大志朗の膝が鼻先に直撃寸前、ギョッとした。
「うわあーッ!」
美作が反射的に半歩ずれ、大志朗の膝蹴りは空を切った。
大志朗は美作と擦れ違うように着地し、すぐに美作のほうへ向き直った。
「外したか。ほんますばしっこいヤツや」
「危ないやろコラァッ! 鼻潰れたらどうすんねんッ」
「お返しや」
大志朗は自分の顔を指差した。美作がよくよく見てみると頭突きを喰らわした跡がうっすらと残っている。
「ケンカ屋相手にここまで手こずらされるとはな」
大志朗は溜息を吐いた。
美作は血の味のする唾をペッと地面に吐き捨てた。
「人のことケンカ屋ケンカ屋てエッラソーに。オマエがなんぼのモンやねん。一遍ケンカ始めたら道場通いもシロートも関係あれへん。ケンカで勝たれへんのやったら武術家なんか、こっちから願い下げじゃ」
美作は大志朗にケンカ屋と罵られる度、お前では役不足だと言われている気分だった。大志朗にそのつもりはなくとも、本来なら大志朗の敵は鶴榮であったこと、鶴榮に機会を譲られたのだということ、様々なことが美作を卑下させる。
否、自分がケンカ屋であるかどうかなどどうでもよいし、是非を論ずる気もない。ケンカ屋の是非も自身を卑下する最悪の気分も、瑣末なことだ。美作が重要視しているのはもっと別のことである。
自分が鶴榮から譲渡され、自分が鶴榮から委任され、自分が鶴榮から信頼されたのだ。敬愛する人物からの評価と信頼、これ以上に守らなければいけないものなどあるか。何としてもそれに応えなければならない。今の美作にとってそれ以上に重要なことなどない。
「ケンカに勝てるんならケンカ屋でも何でもええ。俺は情けないカッコだけはでけへんねん!」
美作は両脚で踏ん張って胸を張り、敵を真っ直ぐに見据えた。
その目には幾度殴られても蹴られても燃え続ける闘志が宿る。この金髪の青年には自分とはまた異なる義心があるのだろうと、大志朗は悟った。
「喋るのも体力使うし……ぼちぼち終いにしよか」
大志朗はそう言うと、お決まりの横半身の構えを取った。
美作は、構えたきり少しも揺るがず見事な姿勢を維持する大志朗をジーッと観察した。
武道の覚えなどないのに、隙が無いと感じた。街の破落戸とはまったく異なる存在であるというのは間違いない。自信満々に喧嘩屋と武術家という線引きを明確にするくらい、完璧に武術家らしい男だと思った。
美作は相手にあまりに隙がないので、ガッカリしたように溜息を吐いた。
それから「ヨシ」と顔を上げ、手の平を上に向けてクイックイッと手招きした。
「打ってこい」
何を言っているのかと、大志朗は目を大きくした。
「遠慮せんと打ってこい。武術家の本気っちゅうモン、見せてくれ」
そう言われてすんなり信じられるほど大志朗は単純ではなかった。戦場で敵の言を頭から信用するなど愚かだ。
美作は、さあ、とばかりに拳を解いて両手を広げた。
(……マジか、コイツ。ほんまに隙だらけや。どのタイミングで仕掛けてもええくらい、ほんまに待っとる。こんなもん、目ェ瞑っとるのと同じや)
美作は仁王立ちになって不敵な笑みを湛えた。
大志朗の大きな黒眼は動揺してやや揺れた。美作の言動は不可解すぎる。何が狙いだ、何をしようとして、何を考えている。
「そんな難しく考えんでもええやん。たかがケンカやで」
そう言って美作はニヤッと笑った。似たような台詞を、サングラスをかけた男にも言われた気がする。
――この世はパラダイス。好きなようにケンカして好きなように生きて死んで。たかがケンカの為に。
お前たちにとってケンカとは何なのだ。〝たかがケンカ〟と言いながら、何の為に己の身を削る。骨を懸け、腱を懸け、血を懸け、命を懸け〝たかがケンカ〟の為にそうまでするお前たちは一体何なのだ。
「早よ来いやーッ!」
美作の呼び声に応じるように、大志朗が動いた。
(これだけ隙だらけやったらどんな小細工しとったかて入る!)
大志朗が一歩迫り二歩迫り、眼前まで迫っても美作は微動だにしなかった。その反射神経で捉えられないはずはないのに、不敵な笑みを湛えたまま大志朗を待ち構えた。
大志朗が拳を振り、美作と目が合った。美作の目には裏切りの色はなく、此方を真っ直ぐに見据え続けていた。
バキィインッ!
大志朗の渾身の一撃が美作の顔面に決まった。その一撃は、大志朗にとってはこの上なくよいタイミングで入った。想定どおり、美作は威力に押されて大きく上体を仰け反らせた。
しかしながら、美作はその場から一歩も動かなかった。
大志朗は表情に困惑を色濃く浮かべた。驚愕したのか途惑ったのか、大志朗自身にも定かではない。しかし、何かを受け入れなければいけない予感はした。美作が大志朗の全力を受け止めたように、大志朗も美作から与えられる何かを受け止めなければいけない気分に、させられた。
「くあーーッ。サスガに効くゥ。せやけどこちとら《不死身》がウリやねん」
美作は大志朗の胸座を掴んだ。
大志朗は固定された視界のなかで、ニヤリと口の端を高く吊り上げる美作を見た。
「お返しや」
ガゴォオンッ!
美作はこれ以上ないと言うくらい力を振り絞り、大志朗の顔面に拳を叩きこんだ。
ザシャァアアッ。
大志朗は美作に殴られて吹っ飛び、地面をゴロゴロと転がって俯せの体勢で停止した。
「ぶはッ!」
大志朗にはどうにか意識があった。しかし、脳がぐわんぐわんと揺れて視界が歪んだ。指を動かして懸命に拳を握ろうとするが、指先にまで力が伝わらない。
視界の外から「っはぁー、っはぁー、っはー」と美作の荒い吐息が聞こえてくる。あ。視界の端に美作の靴が見えた。立ち上がらなくてはと、戦わなくてはと、懸命に命令するがやはり足腰どころか指の一本さえも満足に言うことを聞いてくれない。
「クソ……」
大志朗は悪態を吐くのが精いっぱいだった。
美作は思いっ切り肩で息をしつつ大志朗の傍まで寄ってきて見下ろした。地面に伏した大志朗には、立ち上がる気配はなかった。
「まだやるか?」
美作の声が降ってきた。
大志朗は自らの心臓が胸を叩くのを感じた。
戦いたい。負けたくない。コイツに勝ちたい。そのような単純な感情ばかりが次から次へと湧いてくる。単純で強烈な感情が、懸命に心臓を拍動させる。
――やっと気づいた。俺は、限界の見えた武術家なんかちゃう。
自分で諦めたフリしとっただけや。いつもトラの背中を見とるから、トラを追い越すことはでけへんて自分で決めつけとった。
やっと気づいた。ほんまは俺もトラみたいになりたい。ほんまはトラを越えてみたいんや。
大志朗は地面に手をついてヨロヨロと上体を引き起こし、俯せの体勢からゴロンと仰向けになった。
「そうしたいトコやけどな……体、動けへんねん」
美作は大志朗の傍にしゃがみこんだ。しゃがんだ膝の上に頬杖を突いて大志朗の顔を覗きこみ、得意満面でニッと笑った。
「俺もなかなかのモンやろ」
大志朗は、厭味ったらしい台詞の割には悪びれない笑顔だと思った。敗北は悔しいはずなのに不思議と憎くはなかった。
「……勝ったら気分ええんやろな」
「なに当たり前のこと言うてんねん。オマエやったらその辺のヤンキーなんかチョロイもんやろ」
大志朗は美作から目を逸らし、その向こう側に拡がる空を眺めた。
夜空には大小様々な星がチカチカと輝いている。この程度のことで感傷に浸るなどしないが、今夜は随分と高く遠く感じた。
「勝っても負けてもこんなスッキリした気分なんは……えらい久し振りや」
勝っても負けても、寝ても覚めても、どうしようもなく気分が晴れなかったのは、腹を決めきれなかった、諦めた振りをして諦めきれなかった、曖昧で未熟な自分への罰だったのだろう。あのような最悪の気分を味わう羽目になるから、攘之内は腹を決めてしまえと忠言をくれたのかもしれない。
「……お前、名前は」
「俺は美作――……」
美作は急にクラッと眩暈のような感覚に襲われた。「あれ?」と零してバランスを崩して尻餅をついた。クラクラする頭蓋を手で支えても視界の揺れが一向に収まらず、背中から仰向けに倒れこんだ。
「ガーッ……グラグラするゥ」
夜空を仰ぐ美作の視界を、鶴榮の顔が遮った。
「《不死身の美作》にここまで喰らわすとは、やっぱあの兄ちゃんやるのォ」
美作は腫れ上がった顔を歪めて笑みを造った。
鶴榮もそれに応えるようにニイッと笑って見せた。
「オマエもカッコ付けやな。ケンカの最中にわざわざ相手に殴らせたるとはな。撥や曜至に似てきたんちゃうか」
「いやー……俺なんかがまだまだ畏れ多い」
§ § §
バキンッ!
虎宗の強烈なハイキックが、渋撥の側頭部を捉えた。
「クッ……!」
渋撥の視界には火花が散ったが踏み留まった。
虎宗は足を引き戻し、また構えながら渋撥を真っ直ぐに見た。
渋撥の気魄は凄まじいが無論、圧されはしなかった。その辺の三下とは段違いであり、只の破落戸にはあまる気魄。しかし、決して武人というわけではない。むしろ、尋常な人間ですらない。
近江渋撥という男は野獣。獣たちの頂点に超然と君臨する百獣の王。そして、自分がそうであることを本能的に知っている根っからの獣の性だ。
「……確かに、大きな口叩くだけあるわ」
虎宗は独り言のようにボソリと零した。
渋撥は「あァ?」と悪態を吐き、虎宗に蹴られた蟀谷辺りをグイッと手の甲で拭った。その拍子に触れた太い血管が薄気味悪いくらいにドクンッドクンッと脈打った。
「この前のダメージ残っとるやろにまだ倒れへん。ほんま化け物並の頑丈さや」
「ケンカの最中に相手の心配か、ボケが。お行儀ええ振りなんかキッショイ」
……コクンッ。――渋撥は先ほどから何度も何度も生唾を嚥下した。
何度押し戻しても押し戻しても、少々酸の味のする唾液が臓腑から込み上げてきては喉を突く。酸味と苦みを併せ持った、体温と同じ温度の生温かい液体が喉に絡みつくのは不快で仕方がない。
「こっちはワレェぶっ殺すのに命懸けてんねん。オドレも殺す気で来い、クサレ坊主」
虎宗は渋撥の挑発をハッと鼻で笑い飛ばした。
「俺なんかの為に命張ってくれんのか。……禮ちゃんの願いも聞いてやれへんくせに」
「あァッ⁉」
「オドレは、禮ちゃんより自分のクソみたいなプライドとる最低のドサンピンや」
――そうや。
俺は自分のオンナより、自分のプライドをとる男や。ほな俺からプライド取ったら何が残んねん。プライド以外に何があんねん。力尽く以外に何がでけんねん。
何も持ってへん、何もでけへん、何も思わへん、何も感じへん。それこそクソみたいな俺に、禮が惚れてくれんのか。ンなワケないやろ、ボケが。
渋撥は虎宗の言葉に反感を覚えなかったのは自分でも意外だった。思ったよりも冷静に指摘を受け止めていた。虎宗の言を何の根拠もない挑発だと思わなかったのは、自覚があるからに他ならない。
禮がやめてくれと涙ながらに乞うても振り切った。掴まれた袖を無下に振り払った。呼び止める悲鳴に背中を向けた。すべての所業は、何よりも自分のプライドを優先させたからだ。
禮をどうしようもなく好きだ。心底惚れていると、とうに気づいている。自分から少しでも離れるのが許せないくらい独占したいとも思う。けれども野獣の本能は、愛情よりも暴虐が勝る。
本能が脳内で叫ぶ。本能が胸を叩く。本能がこの肉体を突き動かす。この男をそのままにするなと。この男だけは決して許してはならないと。
――殴れ、壊せ、ぶっ殺せ。グチャグチャに踏み拉いてしまえ!
「ワレェ、ほんまは悔しいんやろ」
渋撥の一言に、虎宗の眉尻がピクッと撥ねた。
「チンピラみたいな男に禮とられて、悔しくてしゃあないんやろ」
「…………」
「ずっと昔から知っとったクセに今頃んなってノコノコ出てきよって。何が兄貴同然や、アホか。俺に横からかっ攫われるまで今まで何しとんねん、この愚図が」
渋撥はフンッと嘲笑した。虎宗の表情は変わらなくても背負うオーラがピリリッと緊張したのが分かった。腹が立つのは図星だからだろう。
「オウ。オドレみたいなヘタレに禮が惚れるワケあれへんわ」
ザンッ。――虎宗が一歩足を前方に出した。
渋撥はまたコクンと喉越しの悪い物を嚥下し、虎宗の爪先が地面から離れるところを見た。そこまでは目視できた。だが次の瞬間、虎宗の足がフッと掻き消えた。
ガガァンッ! ――虎宗の上段蹴りを、渋撥は咄嗟にガードした。
「!」
虎宗は驚愕して目を見開いた。
完全に決まると思ったスピードに乗り切った一撃を防がれたのは、意外だった。
鍛錬を重ねた虎宗の攻撃を、武道に関してまったく無知蒙昧な渋撥が処理できるという事実。渋撥の反応速度は尋常ではなく、反射神経も身体能力もずば抜け、素質だけならば虎宗に引けを取らないという証左だ。
渋撥は虎宗の足をグイッと片手で押し返し、拳を握った。
「ウラァ!」
虎宗は上半身を仰け反り、渋撥のパンチはブンッと大きく宙を切った。
渋撥は虎宗が拳を振りかぶるのを目視し、舌打ちして身構えた。しかし、次なる虎宗の動作は渋撥の意表を突いた。
ストン。――渋撥の固い胸板の上に、虎宗の手の平が触れた。
「?」
渋撥は一瞬呆気に取られた。到底攻撃とは思えない感触で静かに触れられるなど、意味が分からなかった。
次の瞬間、虎宗は肺を最大限膨張させるように大きく深く息を吸いこんだ。
「はぁあッ‼」
虎宗が全開の肺活量と共に渾身の気合いを放った瞬間、真綿のような気魄の壁が押し寄せ、駆け抜けた。
ズドォンッ!
肉体の中心を〝何か〟が貫通した。分厚い筋肉を通過して身体の奥が爆発した。心臓を打ち貫き、肉体の芯を打ち貫き、背中から衝撃が発散してゆく。
「ガッ……グァハッ⁉」
ズドン、と渋撥は地面に両膝を突いた。必死に呼吸しようとするが儘ならず、胸を掻き毟るように握り締めた。
心臓が――――潰れた。
「カハッ! ガッ……!」
ベチャベチャッビチャッ。――渋撥は唾液と共に大量の血を吐き出した。やや浅黒い液体が玉となって飛び散り、地面にぶつかってシャボンが割れるように破裂した。
渋撥はその巨体ごとズシャアッと地面に倒れこんだ。心臓が跳ねまくって弾みまくって胸骨の中を暴れ回る。胸を突き破って外に飛び出しそうな心臓の躍動を抑えこむように、胸の上を握り締めた。
不規則で無尽蔵な鼓動が体中に響き渡り、さらには鼓膜を反響し、虎宗の声が随分遠くからやって来る。
「黒い、血……」
虎宗は渋撥が造った血溜まりを見下ろしてボソッと呟いた。ビクンッビクンッと大きく痙攣する渋撥の背中を見て目を細めた。
「ホレ見てみぃ。言わんこっちゃない。……もう少しで内臓破れんで」
熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
まるで、死神を後ろに背負うてるみたいやって、ほんまに思た。
ああ、めっちゃ縁起悪いこと考えてしもた。
渋撥と虎宗は、互いにいつでも殴りかかれる間合で対峙した。
禮には、渋撥の顔色にいつもよりも血の気がなく見えた。肌の色が濃いから顔色は分かりにくいはずなのに、何故だかそのように見えた。病院から半ば脱走して出てきたばかりだから、血色が悪いのは仕方がないのかもしれないが、それを差し引いても、まるで死体のようだった。
禮は息苦しさを感じて自分の喉に触れた。
屋外なのに嫌な空気が充満する。喉渇いて全身が重たくなる。
「お前、大人しゅう寝といたほうがええんちゃうか」
「あァ?」
渋撥は悪態で返した。心底気に入らない虎宗相手にゆっくりとお喋りする気など毛頭なかった。
「キッショイ顔色しよって。いま無理したら命縮めるかもしれへんで」
「オウ。ほなワレェぶっ殺すのに俺の命懸けたるァ」
渋撥は迷いなく直ぐさま言い返し、虎宗は少し驚いたように目を見開いた。
潔い男だと、思った。
強い男だと、思った。
手負いの獣のようだとも思った。
しかしながら、どれにしても渋撥が引かないというのなら虎宗が引導を渡さなければならない事実に変わりはない。向こうがそれほどの覚悟を持ち合わせているなら却って好都合だ。
コクンッ。――虎宗は神経を鋭敏に研ぎ澄まし、渋撥が生唾を嚥下する音すら聞こえた。
虎宗がジリッと一歩前に出たのと同時に、渋撥も足を前に踏み出した。野の獣は臭いを嗅いで、気配を噛んで、視線を読んで、敵の動きを察知する。これといった合図は要しない。
コクン。――何度も何度も生唾を嚥下する音が聞こえる。
虎宗は深く踏みこんで拳を振りかぶった。
獣と獣が牙を剥き合い、爪を立て合い、額をぶつけ合う瞬間。
ガギィインッ!
§ § §
大志朗と美作との戦い――――。
ゴガァンッ! ドッボォッ!
「アッ……カ……ッ?」
大志朗は腹部に走る痛みに驚きながら後退った。
大志朗が繰り出したパンチは正確に美作の顔面を捕らえた。しかし、美作は大志朗に殴られた一瞬後に、大志朗の鳩尾に蹴りを決めた。
(なんちゅうヤツや。殴られる前提で突っこんできよる。殴られた瞬間にケリ出す反射神経も大したモンや)
大志朗は痛む鳩尾を押さえて敵を見た。
美作は悪戯が成功した幼稚な子どものようにニッと笑った。大志朗と同様にダメージを負ったはずなのに、その素振りは微塵も見せなかった。
「オラァッ!」
美作は声を上げながら拳を振り上げた。
大志朗は美作の大振りのパンチを難なく躱したのに、チッと舌打ちした。
「クソッ。我流はやりにくいで」
「ああ。オマエ、禮ちゃんと同じ道場なんやっけ? 何やったかな、えーと……なんとか流っちゅう立派な名前の。俺もそーゆーキチンとしたモンちったあ囓っとけばよかったなー」
美作は大志朗を指差して暢気に笑った。
そのような気もないのに軽口を叩くのが、大志朗の癇に障った。金髪の彼にとっては冗談程度。しかし、大志朗にとっては至極真剣に費やした時間だ。それを軽んじられたような気がした。
「ケンカ屋が」
大志朗はまた言い捨て、禮と同じ重心を低くした横半身の構えを取った。
美作のほうは型も何もあったものではない、ありがちなファイティングポーズで待ち受ける。彼にとっては構えなどどうでもよい。どう手足を揃えるかなど問題ではない。最重要の問題は、一瞬でも速く、一発でも多く敵に攻撃を喰らわせること。そして、敵よりも一分一秒でも長く自分の足で立っていられること。
大志朗には、構えを見れば、拳を交えれば、金髪の男が何に師事したこともないずぶの素人であるとは分かった。しかし、実力はそこらの経験者を優に凌ぐ。身体能力や反射神経、動きのキレは自分に匹敵すると言ってもよい。だから、ケンカ屋と揶揄しつつも、手を抜くつもりは一切なかった。
ジャリッ。――大志朗が美作に向かって全力で駆け出した。
美作が身動きするより速く地面を蹴り、大志朗の身体は軽やかに宙を舞った。
ガキィンッ! ――大志朗の跳び蹴りが美作の顔面を捉えた。
「ブハァッ!」
美作は咄嗟に腕を構えたが、跳び蹴りの威力に押されてガードを崩された。
ズバァンッ! ――大志朗は間髪入れずに美作の太腿を蹴り飛ばした。
美作はわずかにぐらりと体勢を崩した。
大志朗はその隙に拳を振りかぶった。渾身の力でもって打ちこんでやろうとした瞬間、美作の目がギランと光った。
美作は顎を引き上げて大志朗のパンチを回避した。一呼吸置く間もなく直ぐさま大志朗に反撃を繰り出した。
大志朗は攻撃直後の不安定な姿勢でありながら、美作のパンチをどうにか身を捩って躱した。
(やっぱコイツ、反射神経だけはハンパない!)
大志朗は美作の反射神経を警戒して数歩下がった。
美作が大志朗に蹴られた跡を手の甲で拭うとやや熱を持っていた。これは腫れるのだろうなと思うと、大志朗は綺麗な顔のままでいることが少し面白くなかった。
「すばしっこいヤツやな」
大志朗は賛辞のつもりで言ったのだが、美作は悔しそうに口を尖らせて睨みつけてくる。
美作は膝を曲げて腰を落とし、瞬発力だけでガジャッと踏み切って跳び上がった。瞬間、大志朗もできるだけ高く跳んだ。ふたりが空中で蹴りを繰り出したのは、ほぼ同じタイミングだった。
ガキィンッ! ――大志朗の蹴りが一瞬早く美作の脇腹を捉えた。
「グアッ」と美作は着地すると同時に片膝を突いた。
「クソ! 俺のが先に動いたのにッ」
「ケンカ屋風情が、足技で真っ当な武術家に勝とうなんざ思わんことや」
美作が膝を突いている間に大志朗は眼前まで迫っていた。
「お前もセンスはかなりええけどな」
大志朗の片足が地面から浮き、美作はピクッと反応した。ゴロゴロゴロッと素早く地面を転がってその場から退避して大志朗の前蹴りを躱した。
(い、今のは〝情けない様〟に入らんかな……?)
美作がドキドキしながらチラッと鶴榮の様子を窺った。
鶴榮は体ごと渋撥のほうを向いており、此方などチラ見してもいなかった。
――そうですか、そうですよね。そっちのほうが見応えがありますよね。
「…………」
美作は無言で立ち上がってパンパンッと服を叩いて土埃を払った。
「さあ来い!」
「あ。スマン」
すでに面前で大志朗が拳を振りかぶっていた。殴り合いの最中に余所見をするほうが過失だ。大志朗は一応軽率な謝罪を口にして美作の顔面に全力で拳を叩きつけた。
バキィンッ!
殴られても美作はその場から一歩も退かなかった。大志朗の胸座を掴んで力いっぱい自分のほうへ引き寄せた。
大志朗はハッとした。金色のかたまりが迫ってくる。掴まれているから回避しようがない。
ガキャアンッ!
美作は自らの額を大志朗の顔面に打ち付けた。
大志朗はかなり強烈な頭突きを喰らい、視界に火花が散って一瞬両目を瞑ってしまった。
美作はその瞬間を狙い澄まし、腰を捻って大志朗の脇腹目がけて蹴りを繰り出した。大志朗は足を引き上げて美作の蹴りをガードした。
ガスッ。――大志朗は流れるような動作で美作の顎に掌打を打ちこんだ。
対象との距離に充分な隙間を作りだし、一歩強く踏みこんだ。
美作は、飛び上がった大志朗の膝が鼻先に直撃寸前、ギョッとした。
「うわあーッ!」
美作が反射的に半歩ずれ、大志朗の膝蹴りは空を切った。
大志朗は美作と擦れ違うように着地し、すぐに美作のほうへ向き直った。
「外したか。ほんますばしっこいヤツや」
「危ないやろコラァッ! 鼻潰れたらどうすんねんッ」
「お返しや」
大志朗は自分の顔を指差した。美作がよくよく見てみると頭突きを喰らわした跡がうっすらと残っている。
「ケンカ屋相手にここまで手こずらされるとはな」
大志朗は溜息を吐いた。
美作は血の味のする唾をペッと地面に吐き捨てた。
「人のことケンカ屋ケンカ屋てエッラソーに。オマエがなんぼのモンやねん。一遍ケンカ始めたら道場通いもシロートも関係あれへん。ケンカで勝たれへんのやったら武術家なんか、こっちから願い下げじゃ」
美作は大志朗にケンカ屋と罵られる度、お前では役不足だと言われている気分だった。大志朗にそのつもりはなくとも、本来なら大志朗の敵は鶴榮であったこと、鶴榮に機会を譲られたのだということ、様々なことが美作を卑下させる。
否、自分がケンカ屋であるかどうかなどどうでもよいし、是非を論ずる気もない。ケンカ屋の是非も自身を卑下する最悪の気分も、瑣末なことだ。美作が重要視しているのはもっと別のことである。
自分が鶴榮から譲渡され、自分が鶴榮から委任され、自分が鶴榮から信頼されたのだ。敬愛する人物からの評価と信頼、これ以上に守らなければいけないものなどあるか。何としてもそれに応えなければならない。今の美作にとってそれ以上に重要なことなどない。
「ケンカに勝てるんならケンカ屋でも何でもええ。俺は情けないカッコだけはでけへんねん!」
美作は両脚で踏ん張って胸を張り、敵を真っ直ぐに見据えた。
その目には幾度殴られても蹴られても燃え続ける闘志が宿る。この金髪の青年には自分とはまた異なる義心があるのだろうと、大志朗は悟った。
「喋るのも体力使うし……ぼちぼち終いにしよか」
大志朗はそう言うと、お決まりの横半身の構えを取った。
美作は、構えたきり少しも揺るがず見事な姿勢を維持する大志朗をジーッと観察した。
武道の覚えなどないのに、隙が無いと感じた。街の破落戸とはまったく異なる存在であるというのは間違いない。自信満々に喧嘩屋と武術家という線引きを明確にするくらい、完璧に武術家らしい男だと思った。
美作は相手にあまりに隙がないので、ガッカリしたように溜息を吐いた。
それから「ヨシ」と顔を上げ、手の平を上に向けてクイックイッと手招きした。
「打ってこい」
何を言っているのかと、大志朗は目を大きくした。
「遠慮せんと打ってこい。武術家の本気っちゅうモン、見せてくれ」
そう言われてすんなり信じられるほど大志朗は単純ではなかった。戦場で敵の言を頭から信用するなど愚かだ。
美作は、さあ、とばかりに拳を解いて両手を広げた。
(……マジか、コイツ。ほんまに隙だらけや。どのタイミングで仕掛けてもええくらい、ほんまに待っとる。こんなもん、目ェ瞑っとるのと同じや)
美作は仁王立ちになって不敵な笑みを湛えた。
大志朗の大きな黒眼は動揺してやや揺れた。美作の言動は不可解すぎる。何が狙いだ、何をしようとして、何を考えている。
「そんな難しく考えんでもええやん。たかがケンカやで」
そう言って美作はニヤッと笑った。似たような台詞を、サングラスをかけた男にも言われた気がする。
――この世はパラダイス。好きなようにケンカして好きなように生きて死んで。たかがケンカの為に。
お前たちにとってケンカとは何なのだ。〝たかがケンカ〟と言いながら、何の為に己の身を削る。骨を懸け、腱を懸け、血を懸け、命を懸け〝たかがケンカ〟の為にそうまでするお前たちは一体何なのだ。
「早よ来いやーッ!」
美作の呼び声に応じるように、大志朗が動いた。
(これだけ隙だらけやったらどんな小細工しとったかて入る!)
大志朗が一歩迫り二歩迫り、眼前まで迫っても美作は微動だにしなかった。その反射神経で捉えられないはずはないのに、不敵な笑みを湛えたまま大志朗を待ち構えた。
大志朗が拳を振り、美作と目が合った。美作の目には裏切りの色はなく、此方を真っ直ぐに見据え続けていた。
バキィインッ!
大志朗の渾身の一撃が美作の顔面に決まった。その一撃は、大志朗にとってはこの上なくよいタイミングで入った。想定どおり、美作は威力に押されて大きく上体を仰け反らせた。
しかしながら、美作はその場から一歩も動かなかった。
大志朗は表情に困惑を色濃く浮かべた。驚愕したのか途惑ったのか、大志朗自身にも定かではない。しかし、何かを受け入れなければいけない予感はした。美作が大志朗の全力を受け止めたように、大志朗も美作から与えられる何かを受け止めなければいけない気分に、させられた。
「くあーーッ。サスガに効くゥ。せやけどこちとら《不死身》がウリやねん」
美作は大志朗の胸座を掴んだ。
大志朗は固定された視界のなかで、ニヤリと口の端を高く吊り上げる美作を見た。
「お返しや」
ガゴォオンッ!
美作はこれ以上ないと言うくらい力を振り絞り、大志朗の顔面に拳を叩きこんだ。
ザシャァアアッ。
大志朗は美作に殴られて吹っ飛び、地面をゴロゴロと転がって俯せの体勢で停止した。
「ぶはッ!」
大志朗にはどうにか意識があった。しかし、脳がぐわんぐわんと揺れて視界が歪んだ。指を動かして懸命に拳を握ろうとするが、指先にまで力が伝わらない。
視界の外から「っはぁー、っはぁー、っはー」と美作の荒い吐息が聞こえてくる。あ。視界の端に美作の靴が見えた。立ち上がらなくてはと、戦わなくてはと、懸命に命令するがやはり足腰どころか指の一本さえも満足に言うことを聞いてくれない。
「クソ……」
大志朗は悪態を吐くのが精いっぱいだった。
美作は思いっ切り肩で息をしつつ大志朗の傍まで寄ってきて見下ろした。地面に伏した大志朗には、立ち上がる気配はなかった。
「まだやるか?」
美作の声が降ってきた。
大志朗は自らの心臓が胸を叩くのを感じた。
戦いたい。負けたくない。コイツに勝ちたい。そのような単純な感情ばかりが次から次へと湧いてくる。単純で強烈な感情が、懸命に心臓を拍動させる。
――やっと気づいた。俺は、限界の見えた武術家なんかちゃう。
自分で諦めたフリしとっただけや。いつもトラの背中を見とるから、トラを追い越すことはでけへんて自分で決めつけとった。
やっと気づいた。ほんまは俺もトラみたいになりたい。ほんまはトラを越えてみたいんや。
大志朗は地面に手をついてヨロヨロと上体を引き起こし、俯せの体勢からゴロンと仰向けになった。
「そうしたいトコやけどな……体、動けへんねん」
美作は大志朗の傍にしゃがみこんだ。しゃがんだ膝の上に頬杖を突いて大志朗の顔を覗きこみ、得意満面でニッと笑った。
「俺もなかなかのモンやろ」
大志朗は、厭味ったらしい台詞の割には悪びれない笑顔だと思った。敗北は悔しいはずなのに不思議と憎くはなかった。
「……勝ったら気分ええんやろな」
「なに当たり前のこと言うてんねん。オマエやったらその辺のヤンキーなんかチョロイもんやろ」
大志朗は美作から目を逸らし、その向こう側に拡がる空を眺めた。
夜空には大小様々な星がチカチカと輝いている。この程度のことで感傷に浸るなどしないが、今夜は随分と高く遠く感じた。
「勝っても負けてもこんなスッキリした気分なんは……えらい久し振りや」
勝っても負けても、寝ても覚めても、どうしようもなく気分が晴れなかったのは、腹を決めきれなかった、諦めた振りをして諦めきれなかった、曖昧で未熟な自分への罰だったのだろう。あのような最悪の気分を味わう羽目になるから、攘之内は腹を決めてしまえと忠言をくれたのかもしれない。
「……お前、名前は」
「俺は美作――……」
美作は急にクラッと眩暈のような感覚に襲われた。「あれ?」と零してバランスを崩して尻餅をついた。クラクラする頭蓋を手で支えても視界の揺れが一向に収まらず、背中から仰向けに倒れこんだ。
「ガーッ……グラグラするゥ」
夜空を仰ぐ美作の視界を、鶴榮の顔が遮った。
「《不死身の美作》にここまで喰らわすとは、やっぱあの兄ちゃんやるのォ」
美作は腫れ上がった顔を歪めて笑みを造った。
鶴榮もそれに応えるようにニイッと笑って見せた。
「オマエもカッコ付けやな。ケンカの最中にわざわざ相手に殴らせたるとはな。撥や曜至に似てきたんちゃうか」
「いやー……俺なんかがまだまだ畏れ多い」
§ § §
バキンッ!
虎宗の強烈なハイキックが、渋撥の側頭部を捉えた。
「クッ……!」
渋撥の視界には火花が散ったが踏み留まった。
虎宗は足を引き戻し、また構えながら渋撥を真っ直ぐに見た。
渋撥の気魄は凄まじいが無論、圧されはしなかった。その辺の三下とは段違いであり、只の破落戸にはあまる気魄。しかし、決して武人というわけではない。むしろ、尋常な人間ですらない。
近江渋撥という男は野獣。獣たちの頂点に超然と君臨する百獣の王。そして、自分がそうであることを本能的に知っている根っからの獣の性だ。
「……確かに、大きな口叩くだけあるわ」
虎宗は独り言のようにボソリと零した。
渋撥は「あァ?」と悪態を吐き、虎宗に蹴られた蟀谷辺りをグイッと手の甲で拭った。その拍子に触れた太い血管が薄気味悪いくらいにドクンッドクンッと脈打った。
「この前のダメージ残っとるやろにまだ倒れへん。ほんま化け物並の頑丈さや」
「ケンカの最中に相手の心配か、ボケが。お行儀ええ振りなんかキッショイ」
……コクンッ。――渋撥は先ほどから何度も何度も生唾を嚥下した。
何度押し戻しても押し戻しても、少々酸の味のする唾液が臓腑から込み上げてきては喉を突く。酸味と苦みを併せ持った、体温と同じ温度の生温かい液体が喉に絡みつくのは不快で仕方がない。
「こっちはワレェぶっ殺すのに命懸けてんねん。オドレも殺す気で来い、クサレ坊主」
虎宗は渋撥の挑発をハッと鼻で笑い飛ばした。
「俺なんかの為に命張ってくれんのか。……禮ちゃんの願いも聞いてやれへんくせに」
「あァッ⁉」
「オドレは、禮ちゃんより自分のクソみたいなプライドとる最低のドサンピンや」
――そうや。
俺は自分のオンナより、自分のプライドをとる男や。ほな俺からプライド取ったら何が残んねん。プライド以外に何があんねん。力尽く以外に何がでけんねん。
何も持ってへん、何もでけへん、何も思わへん、何も感じへん。それこそクソみたいな俺に、禮が惚れてくれんのか。ンなワケないやろ、ボケが。
渋撥は虎宗の言葉に反感を覚えなかったのは自分でも意外だった。思ったよりも冷静に指摘を受け止めていた。虎宗の言を何の根拠もない挑発だと思わなかったのは、自覚があるからに他ならない。
禮がやめてくれと涙ながらに乞うても振り切った。掴まれた袖を無下に振り払った。呼び止める悲鳴に背中を向けた。すべての所業は、何よりも自分のプライドを優先させたからだ。
禮をどうしようもなく好きだ。心底惚れていると、とうに気づいている。自分から少しでも離れるのが許せないくらい独占したいとも思う。けれども野獣の本能は、愛情よりも暴虐が勝る。
本能が脳内で叫ぶ。本能が胸を叩く。本能がこの肉体を突き動かす。この男をそのままにするなと。この男だけは決して許してはならないと。
――殴れ、壊せ、ぶっ殺せ。グチャグチャに踏み拉いてしまえ!
「ワレェ、ほんまは悔しいんやろ」
渋撥の一言に、虎宗の眉尻がピクッと撥ねた。
「チンピラみたいな男に禮とられて、悔しくてしゃあないんやろ」
「…………」
「ずっと昔から知っとったクセに今頃んなってノコノコ出てきよって。何が兄貴同然や、アホか。俺に横からかっ攫われるまで今まで何しとんねん、この愚図が」
渋撥はフンッと嘲笑した。虎宗の表情は変わらなくても背負うオーラがピリリッと緊張したのが分かった。腹が立つのは図星だからだろう。
「オウ。オドレみたいなヘタレに禮が惚れるワケあれへんわ」
ザンッ。――虎宗が一歩足を前方に出した。
渋撥はまたコクンと喉越しの悪い物を嚥下し、虎宗の爪先が地面から離れるところを見た。そこまでは目視できた。だが次の瞬間、虎宗の足がフッと掻き消えた。
ガガァンッ! ――虎宗の上段蹴りを、渋撥は咄嗟にガードした。
「!」
虎宗は驚愕して目を見開いた。
完全に決まると思ったスピードに乗り切った一撃を防がれたのは、意外だった。
鍛錬を重ねた虎宗の攻撃を、武道に関してまったく無知蒙昧な渋撥が処理できるという事実。渋撥の反応速度は尋常ではなく、反射神経も身体能力もずば抜け、素質だけならば虎宗に引けを取らないという証左だ。
渋撥は虎宗の足をグイッと片手で押し返し、拳を握った。
「ウラァ!」
虎宗は上半身を仰け反り、渋撥のパンチはブンッと大きく宙を切った。
渋撥は虎宗が拳を振りかぶるのを目視し、舌打ちして身構えた。しかし、次なる虎宗の動作は渋撥の意表を突いた。
ストン。――渋撥の固い胸板の上に、虎宗の手の平が触れた。
「?」
渋撥は一瞬呆気に取られた。到底攻撃とは思えない感触で静かに触れられるなど、意味が分からなかった。
次の瞬間、虎宗は肺を最大限膨張させるように大きく深く息を吸いこんだ。
「はぁあッ‼」
虎宗が全開の肺活量と共に渾身の気合いを放った瞬間、真綿のような気魄の壁が押し寄せ、駆け抜けた。
ズドォンッ!
肉体の中心を〝何か〟が貫通した。分厚い筋肉を通過して身体の奥が爆発した。心臓を打ち貫き、肉体の芯を打ち貫き、背中から衝撃が発散してゆく。
「ガッ……グァハッ⁉」
ズドン、と渋撥は地面に両膝を突いた。必死に呼吸しようとするが儘ならず、胸を掻き毟るように握り締めた。
心臓が――――潰れた。
「カハッ! ガッ……!」
ベチャベチャッビチャッ。――渋撥は唾液と共に大量の血を吐き出した。やや浅黒い液体が玉となって飛び散り、地面にぶつかってシャボンが割れるように破裂した。
渋撥はその巨体ごとズシャアッと地面に倒れこんだ。心臓が跳ねまくって弾みまくって胸骨の中を暴れ回る。胸を突き破って外に飛び出しそうな心臓の躍動を抑えこむように、胸の上を握り締めた。
不規則で無尽蔵な鼓動が体中に響き渡り、さらには鼓膜を反響し、虎宗の声が随分遠くからやって来る。
「黒い、血……」
虎宗は渋撥が造った血溜まりを見下ろしてボソッと呟いた。ビクンッビクンッと大きく痙攣する渋撥の背中を見て目を細めた。
「ホレ見てみぃ。言わんこっちゃない。……もう少しで内臓破れんで」
熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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