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#05:Sign of Recurrence
The world in my mind rains. 02
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禮は荒菱館高校の正門の斜め前の方角、ガードレールに腰かけていた。授業が終わるとすぐに急行し、下校時間が過ぎて生徒の人通りが途切れるまでずっと此処で待っている。もう一週間以上も続けているのに、あの人には出逢えない。
一週間も待ち惚けをする羽目になっているのは、偶然ではなくて必然としか思えなかった。初対面で襲いかかり、次に会ったときには告白するだなんて妙な女は、気味悪がられて避けられているに決まっている。もう一度会ったってまたあの身を裂くような台詞を浴びせられるに違いない。
それでも禮には待つしかできなかった。だってこうして待つことを已めてしまったら、あの人との繋がりは本当に途切れてしまう。自分のこんなにも未練がましい一面なんて知らなかった。往生際が悪い、みっともないと思いながらも愚かな行為をとめられない。
恋の正体は多分、熱だ。何をしていても脳内や胸の内に居座ってぐるぐる回転する熱だ。この熱を知ってしまったら、もう知らない頃には戻れない。もう以前の自分には戻れない。出逢う前には後戻りできない。
ぽつっんと冷たい水が頬にぶつかり、禮は顔を上げた。そういえば朝の天気予報で「曇りのち雨」と言っていたっけ。朝はいつも駆け抜けるように用意を済ませて家を出るから傘を持ってゆくことなど考えも付かなかった。
ぽつぽつぽつ……。
すぐに細い糸のような小雨が打ちつけ始めた。髪がドンドン濡れてきて、毛先から水滴がピチャンと落ちた。吐く息が白くなって指先が冷たくなって、徐々に体が冷えてゆく。真っ暗な夜、窓のカーテンを閉めるように、禮は静かに瞳を閉じた。
サァァアアアー…………。
瞳を閉じると雨音がやたら大きく聞こえた。体にぶつかる雨粒が大きくなった気がするから、実際に段々と雨足が強くなっているのだろう。人気はとうに途絶えており、雨音によって周囲の雑音が消えると、まるで世界には自分ひとりだけのように感じた。
(避けられてんのは……やっぱきつい)
どれほど待ってもあの人には関係のないこと。会えたとしても迷惑そうにされるのだろうなと想像するとキュウと心臓が縮んだ。初めて街角で目にしたとき、初めて対峙したとき、初めて胸を貫く言葉を言われたとき、あの人はちっとも優しくなかったね。完膚なきまでに叩きのめされた。
――あの人にとってウチは、そこいらに転がる石ころと同じなんやと、理解した。それがどんだけキツイことかも理解した。
今まで生きてきてこんなにツライんは初めて。こんなにウチを苦しめるモンがこの世界にあるなんて思いもせんかった。ウチは、少なくともウチの世界のなかでは誰に文句を言われることもなく最強で、ウチを挫けさせるモンなんか何ひとつあれへんと思うてたのに。
「なあ」
禮は不意に声をかけられてバッと顔を上げた。上げてすぐにガッカリして視線を逸らした。声をかけてきたのは待ち人ではなかった。これまでのパターンで学習していたはずなのに一瞬でも期待してしまった。期待しては裏切られ、期待しては落胆し、何度も何度もその繰り返し。
荒菱館の学生服を着た男がふたり立っていた。ひとりの男が禮にビニール傘をさしてくれた。
「俺たち傘持ってるし、駅まで送ってやるよ」
「もうスゲー濡れてるじゃん。雨、これからどんどん強なるらしいぜ。行こ行こ」
「イエ、結構です。ウチ、人待ってますし」
禮は心は草臥れているけれど、できる限りの愛想笑いで返した。
男たちは顔を見合わせて「でもなあ」と続けた。
「人待ってる言ったって、ガッコの中もう誰も残ってねーよ。俺たちが最後だよなあ」
それを聞いた禮の顔から笑みがすうっと消え、視線が足許に落ちた。
(今日も会われへんかった……。ほんまにもう、潮時なんかな……)
そう思った瞬間、胸の奥が冷える感触がした。やはり、自分が終わりだと認めてしまったら本当に終わるのだ、この恋は。
一旦絶対零度まで下がったのに、反動みたいに熱いものが突き上げてきて、禮は反射的に口を手で押さえた。熱いものが、目から口から飛び出してしまいそう。もう充分すぎるほど泣いたはずなのに、どうしてこの体は枯れ果ててしまわないのだろう。あの人を思い出すだけでいくらでも涙が湧いてくる。
(もうほんまカッコ悪い……)
禮は唇を噛んでどうにか涙を堪えた。
「キミ、最近毎日ここに来てんじゃん。誰待ってんの? カレシ?」
「カレシじゃないです」
唐突な質問だったが、禮は素直にふるふるっと首を左右に振った。
「じゃあ、フリー? むっちゃカワイイのにマジか」
「今からヒマ? 服乾かしがてら、どっか寄らね? 待ってたってどーせもう誰もいねーしさー」
男は禮の肩にトンと手を置いた。
鶴榮の言うとおり、近隣からの評判は最悪と言っても過言ではない上にほぼ男子校の荒菱館校舎に、女がひとりで現れるなど注目を集めて当然だ。しかも曜至のお眼鏡にかなう美少女ともなれば、女に飢えている生徒たちがチェックしていないはずがなかった。
「もう誰もいてへんならウチ帰ります」
「まー、まー、まー。変なトコ行かねーし、ちょっとだけだから」
男はガッと突然肩を捕まえられ、グインッと後方に引かれた。蹌踉けそうになりながら背後を振り返った。
「ワレ何すッ……」
悪態を吐こうとした男の顔色がサーッと一変した。彼が噛みつこうとした相手は、彼らの上に絶対的に君臨する王様・渋撥だった。
弱い群れが強い獣に淘汰されることが自然の摂理であるように、男たちは渋撥から自然と一定の距離を取った。
「近江さん。今日休みだったんじゃ……」
「どっか行け」
渋撥は男たちを一瞥もせず言い放った。
それは明確な命令だ。近江渋撥が此処の絶対的な帝王なのだから、彼らは逆らうどころか理由を問うことすらできない。「失礼しましたッ」と素早く頭を下げてその場を後にした。
サァァアアアーーーー。
禮と渋撥は、ふたりだけしかいないのに黙って立っていた。雨足はますます強くなり、雨粒が弾ける音以外は何も聞こえなかった。まるで、ふたりとそれ以外とを遮るカーテン。
渋撥はそっぽを向き、とんでも無く遠くを見ていた。目の前にいる禮を視界に入れない為に遠くに視線を逃がしたのだ。鶴榮から禮がいると聞いて、自分の足で此処までやって来たというのに、莫迦なことをしている。自分でも馬鹿げていると思うが、かける言葉が見つからず口を閉ざしているしかなかった。
渋撥を見詰める禮には、何も聞こえていなかった。こんなにも強い雨の中、アスファルトに叩きつける雨音も、自分の鼓動も、渋撥の息遣いも、何も。この沈黙は神様に与えられた二度目のチャンスなのではないだろうか。もう一度、否、今度こそ、世界で一番あなたが好きだと伝える為に。
「あ……」
禮の唇からは言葉になりきれない声だけが零れた。好きだと、言葉にしてしまえば短いものなのに、それだけが上手く伝えられない。渋撥は当然、何も応えず顔も上げず禮のほうを見もせずピクリともしなかった。目が合ったとしても道端の石ころに向けるようにされるのならば、それは刺し殺されるような痛みだ。あんなにも逢いたくて堪らなかったのに、禮は想像したその視線が恐ろしくて遂に目を背けてしまった。
どれだけあなたを見詰めても、あなたを恋しく想っても、あなたに焦がれても、あなたが何を考えて今此処に現れたのか、今まさに何を考えているのか、わたしには分からない。わたしにとっては待ち侘びた再会でも、あなたにとっては何の意味もないことだろうから。
「オマエ、何してんねん」
頭上に低い声が降ってきて、禮はキュッと唇を噛んだ。渋撥のことをよく知らないけれど、非常に不機嫌な声だと思った。
「なに考えて一週間以上もこんなトコ突っ立っとんねん。何がしたいんや」
渋撥が乱暴に言い放ち、禮の肩がビクッと跳ねた。初めて見たとき、初めて対峙したとき、何も恐れなかったのに今は声だけでこんなにも恐い。
「何て……」
ようやく搾り出した声が震えていた。自分でも気づいたが震えを止めることができない。何か言わなくてはと思い詰めるほど体が強張り、胸が締めつけられ、喉が詰まり、声が出なかった。
渋撥は「クソッ」と叱咤して後頭部をガジガジガジッと荒々しく掻き毟った。上手い言葉が思い浮かばないのは渋撥も同じだった。此方は相手の反応に怯えるではなく、己の愚かさに苛々しているのだけれど。
「……俺に、何か言いたいことあるんちゃうんか」
渋撥は声のトーンを極力抑えて言った。言い方はまだまだ粗暴だが、彼にできる最大限の思い遣りのようなものだった。
渋撥のほうからそのような申し出があるとは思っていなかったから、禮は弾かれたように顔を上げた。
「その為に一週間以上も俺を待っとったんやろ。聞いたるさかい、話せ」
禮は、渋撥が何を促しているのかすぐに分かった。眼を交わせば、すべてが通じた。初めてそうした時のように、すべての想いは眼に宿っていたのだ。
「…………うん」
禮は小さく頷いた。
サァァアアアーーーー。
嗚呼ほら、雨のカーテンが降りてきてふたりとそれ以外とを遮断する。さっきは雨音しか聞こえなかったのに今となってはそれさえも消失した。ふたりとも互いの声だけを聞き漏らさないように耳を澄ませていた。
「アンタが好き」
「そーか」
渋撥の答は素っ気なかったが、禮は満足そうににっこりと微笑んだ。
言葉は滑るように自然に出た。言ってしまったあとでは、もう何も恐くはなかった。きっと今わたしは、ちゃんとあなたの目に映っている。あなたの世界に存在する価値をわたしに与えられるのはあなただけ。
渋撥は禮の手首を掴んだ。禮は頭上に「?」を浮かべながら、渋撥に手を引かれるままついて行った。渋撥は、禮にとって境界線であった校門のラインを易々と踏み越え、校舎へと一直線に進んでいく。
渋撥が何を考えているのか、禮には一切分からない。知らない場所へ引っ張っていかれているというのに、不思議と安心していた。乱暴に繋がった手が、温かかったからかもしれない。
渋撥は校舎の玄関口、エントランスまで禮を引き入れた。
広いエントランスの端っこ、壁際まで来て渋撥からようやく手首を離され、禮はきょろっと周りを見渡した。先ほどふたり組の生徒がもう人が残っていないと言っていたのは嘘ではなかったようで、開放的なエントランスなのに人の気配はまったくなかった。
渋撥は禮の頭の上に手を置き、髪の毛に指を通してがしがしがしっと乱暴に撫でた。禮は「なに?」とキョトンとして渋撥を見上げた。渋撥の撫で方は正直ちょっと痛かった。
「女がこんなびしょ濡れになるまで外で突っ立っとってアホちゃうか」
「あー……。朝は急いでるから傘持って出てなくて。降っても走ればええかな~って……」
渋撥は禮の頭を撫でる手を停め、禮の顔をじっと見た。鶴榮が黄昏過ぎの悪魔を見て街角の美少女と気づかなかった理由が少し分かった。あの悪魔とは別人のようにぼーっとしている少女だと思った。
渋撥が「名前は?」と尋ねると、少女からは「禮」と返ってきた。高くて涼やかな風鈴のような声は明らかに可憐な少女の持ち物だ。とても姿に似合っている声音だと思った。
「お兄はんは?」
「オマエ、俺が誰かもしらんと……」
渋撥は壁に手を突き、脱力して頭を下げて「はあーっ」と深い溜息を吐いた。世間知らずだとは思っていたが、事実そうらしい。
「何で俺がええねん。オマエが付き合うよな男ちゃうで」
「何で言われても自分でもよう分からんくて…………は、初めてやから」
「は?」
渋撥が顔を引き上げると、禮は眉を八の字にして両頬を赤くしていた。
「せやけど……好き」
(コイツ――……)
虚を突かれ不意なカウンターを喰らった渋撥はゴホゴホッと咳きこんだ。禮は「大丈夫?」と心配そうに渋撥を下から覗きこんだ。
「一週間も放っとって悪かったな。学校行ってへんかったさかいな」
「そう、やったん」
「風邪で寝こんどった」
禮は安堵の息を吐き、両肩を落とした。
「よかったー……」
一週間以上も待ち惚けさせられたのによかったとは如何なることかと、渋撥は怪訝な表情。
「避けられてるんやと、思てたから……」
禮の両目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。涙腺は禮自身も制御することができないもの。制服の袖で拭っても拭っても次から次へと溢れ出てくる。
渋撥のなかで初めての感情が一瞬メラッと沸き上がった。
(コイツ、さっきから計算ちゃうやろな。バッチバチにカワイイやろが!)
渋撥が衝動に突き動かされるままに禮との距離を縮めた。禮は反射的に後退しようとしたが、すぐに背中が硬いものに触れた。そうだ、後ろは壁だった。
禮は頬に手を添えられ、ギクリと体を跳ね上げた。経験もないのに予感がして体が強張る。
「冷えとるな」
「あ、ウチ……」
「俺のオンナになるんやろ」
目の前にある事実だけを突きつけるような言い方。至近距離で三白眼を覗きこみ、これは敵意や嫌悪ではなくて癖なのだと知る。
互いの吐く息が白かった。制服越しに背中に触れるコンクリートが冷たい。反対に、渋撥の手の平は熱かった。
「意味は分かるて言うてたな」
「うん……せやけど」
「ほな黙れ」
奪い取るような口吻だった。
震える唇を割って強引にねじこまれた舌が熱い。舌で感じる他人の温度。吐く息から熱が口内に流れこんでくる。
禮は息が苦しくなって渋撥の服をぎゅっと握ったり引っ張ったりしたが、腕ごと抱き締められて押さえつけられてしまった。渋撥が一度離してくれた隙にやっとの思いで呼吸した。それからまた唇を塞がれた。熱い舌が角度を変えて何度でも侵入してきて、禮はそれを拒む手段も知らなかった。
「はぁっ……」
唇が解放されると、禮は真っ赤な顔で必死に呼吸をした。心臓が苦しいのは上手く息が吸えなかったからだけじゃない。心臓が破れそう。痛い。苦しい。
「これで、オマエは俺のモンや」
禮はこの時初めて、渋撥がニヤリと笑うところを見た。
一週間も待ち惚けをする羽目になっているのは、偶然ではなくて必然としか思えなかった。初対面で襲いかかり、次に会ったときには告白するだなんて妙な女は、気味悪がられて避けられているに決まっている。もう一度会ったってまたあの身を裂くような台詞を浴びせられるに違いない。
それでも禮には待つしかできなかった。だってこうして待つことを已めてしまったら、あの人との繋がりは本当に途切れてしまう。自分のこんなにも未練がましい一面なんて知らなかった。往生際が悪い、みっともないと思いながらも愚かな行為をとめられない。
恋の正体は多分、熱だ。何をしていても脳内や胸の内に居座ってぐるぐる回転する熱だ。この熱を知ってしまったら、もう知らない頃には戻れない。もう以前の自分には戻れない。出逢う前には後戻りできない。
ぽつっんと冷たい水が頬にぶつかり、禮は顔を上げた。そういえば朝の天気予報で「曇りのち雨」と言っていたっけ。朝はいつも駆け抜けるように用意を済ませて家を出るから傘を持ってゆくことなど考えも付かなかった。
ぽつぽつぽつ……。
すぐに細い糸のような小雨が打ちつけ始めた。髪がドンドン濡れてきて、毛先から水滴がピチャンと落ちた。吐く息が白くなって指先が冷たくなって、徐々に体が冷えてゆく。真っ暗な夜、窓のカーテンを閉めるように、禮は静かに瞳を閉じた。
サァァアアアー…………。
瞳を閉じると雨音がやたら大きく聞こえた。体にぶつかる雨粒が大きくなった気がするから、実際に段々と雨足が強くなっているのだろう。人気はとうに途絶えており、雨音によって周囲の雑音が消えると、まるで世界には自分ひとりだけのように感じた。
(避けられてんのは……やっぱきつい)
どれほど待ってもあの人には関係のないこと。会えたとしても迷惑そうにされるのだろうなと想像するとキュウと心臓が縮んだ。初めて街角で目にしたとき、初めて対峙したとき、初めて胸を貫く言葉を言われたとき、あの人はちっとも優しくなかったね。完膚なきまでに叩きのめされた。
――あの人にとってウチは、そこいらに転がる石ころと同じなんやと、理解した。それがどんだけキツイことかも理解した。
今まで生きてきてこんなにツライんは初めて。こんなにウチを苦しめるモンがこの世界にあるなんて思いもせんかった。ウチは、少なくともウチの世界のなかでは誰に文句を言われることもなく最強で、ウチを挫けさせるモンなんか何ひとつあれへんと思うてたのに。
「なあ」
禮は不意に声をかけられてバッと顔を上げた。上げてすぐにガッカリして視線を逸らした。声をかけてきたのは待ち人ではなかった。これまでのパターンで学習していたはずなのに一瞬でも期待してしまった。期待しては裏切られ、期待しては落胆し、何度も何度もその繰り返し。
荒菱館の学生服を着た男がふたり立っていた。ひとりの男が禮にビニール傘をさしてくれた。
「俺たち傘持ってるし、駅まで送ってやるよ」
「もうスゲー濡れてるじゃん。雨、これからどんどん強なるらしいぜ。行こ行こ」
「イエ、結構です。ウチ、人待ってますし」
禮は心は草臥れているけれど、できる限りの愛想笑いで返した。
男たちは顔を見合わせて「でもなあ」と続けた。
「人待ってる言ったって、ガッコの中もう誰も残ってねーよ。俺たちが最後だよなあ」
それを聞いた禮の顔から笑みがすうっと消え、視線が足許に落ちた。
(今日も会われへんかった……。ほんまにもう、潮時なんかな……)
そう思った瞬間、胸の奥が冷える感触がした。やはり、自分が終わりだと認めてしまったら本当に終わるのだ、この恋は。
一旦絶対零度まで下がったのに、反動みたいに熱いものが突き上げてきて、禮は反射的に口を手で押さえた。熱いものが、目から口から飛び出してしまいそう。もう充分すぎるほど泣いたはずなのに、どうしてこの体は枯れ果ててしまわないのだろう。あの人を思い出すだけでいくらでも涙が湧いてくる。
(もうほんまカッコ悪い……)
禮は唇を噛んでどうにか涙を堪えた。
「キミ、最近毎日ここに来てんじゃん。誰待ってんの? カレシ?」
「カレシじゃないです」
唐突な質問だったが、禮は素直にふるふるっと首を左右に振った。
「じゃあ、フリー? むっちゃカワイイのにマジか」
「今からヒマ? 服乾かしがてら、どっか寄らね? 待ってたってどーせもう誰もいねーしさー」
男は禮の肩にトンと手を置いた。
鶴榮の言うとおり、近隣からの評判は最悪と言っても過言ではない上にほぼ男子校の荒菱館校舎に、女がひとりで現れるなど注目を集めて当然だ。しかも曜至のお眼鏡にかなう美少女ともなれば、女に飢えている生徒たちがチェックしていないはずがなかった。
「もう誰もいてへんならウチ帰ります」
「まー、まー、まー。変なトコ行かねーし、ちょっとだけだから」
男はガッと突然肩を捕まえられ、グインッと後方に引かれた。蹌踉けそうになりながら背後を振り返った。
「ワレ何すッ……」
悪態を吐こうとした男の顔色がサーッと一変した。彼が噛みつこうとした相手は、彼らの上に絶対的に君臨する王様・渋撥だった。
弱い群れが強い獣に淘汰されることが自然の摂理であるように、男たちは渋撥から自然と一定の距離を取った。
「近江さん。今日休みだったんじゃ……」
「どっか行け」
渋撥は男たちを一瞥もせず言い放った。
それは明確な命令だ。近江渋撥が此処の絶対的な帝王なのだから、彼らは逆らうどころか理由を問うことすらできない。「失礼しましたッ」と素早く頭を下げてその場を後にした。
サァァアアアーーーー。
禮と渋撥は、ふたりだけしかいないのに黙って立っていた。雨足はますます強くなり、雨粒が弾ける音以外は何も聞こえなかった。まるで、ふたりとそれ以外とを遮るカーテン。
渋撥はそっぽを向き、とんでも無く遠くを見ていた。目の前にいる禮を視界に入れない為に遠くに視線を逃がしたのだ。鶴榮から禮がいると聞いて、自分の足で此処までやって来たというのに、莫迦なことをしている。自分でも馬鹿げていると思うが、かける言葉が見つからず口を閉ざしているしかなかった。
渋撥を見詰める禮には、何も聞こえていなかった。こんなにも強い雨の中、アスファルトに叩きつける雨音も、自分の鼓動も、渋撥の息遣いも、何も。この沈黙は神様に与えられた二度目のチャンスなのではないだろうか。もう一度、否、今度こそ、世界で一番あなたが好きだと伝える為に。
「あ……」
禮の唇からは言葉になりきれない声だけが零れた。好きだと、言葉にしてしまえば短いものなのに、それだけが上手く伝えられない。渋撥は当然、何も応えず顔も上げず禮のほうを見もせずピクリともしなかった。目が合ったとしても道端の石ころに向けるようにされるのならば、それは刺し殺されるような痛みだ。あんなにも逢いたくて堪らなかったのに、禮は想像したその視線が恐ろしくて遂に目を背けてしまった。
どれだけあなたを見詰めても、あなたを恋しく想っても、あなたに焦がれても、あなたが何を考えて今此処に現れたのか、今まさに何を考えているのか、わたしには分からない。わたしにとっては待ち侘びた再会でも、あなたにとっては何の意味もないことだろうから。
「オマエ、何してんねん」
頭上に低い声が降ってきて、禮はキュッと唇を噛んだ。渋撥のことをよく知らないけれど、非常に不機嫌な声だと思った。
「なに考えて一週間以上もこんなトコ突っ立っとんねん。何がしたいんや」
渋撥が乱暴に言い放ち、禮の肩がビクッと跳ねた。初めて見たとき、初めて対峙したとき、何も恐れなかったのに今は声だけでこんなにも恐い。
「何て……」
ようやく搾り出した声が震えていた。自分でも気づいたが震えを止めることができない。何か言わなくてはと思い詰めるほど体が強張り、胸が締めつけられ、喉が詰まり、声が出なかった。
渋撥は「クソッ」と叱咤して後頭部をガジガジガジッと荒々しく掻き毟った。上手い言葉が思い浮かばないのは渋撥も同じだった。此方は相手の反応に怯えるではなく、己の愚かさに苛々しているのだけれど。
「……俺に、何か言いたいことあるんちゃうんか」
渋撥は声のトーンを極力抑えて言った。言い方はまだまだ粗暴だが、彼にできる最大限の思い遣りのようなものだった。
渋撥のほうからそのような申し出があるとは思っていなかったから、禮は弾かれたように顔を上げた。
「その為に一週間以上も俺を待っとったんやろ。聞いたるさかい、話せ」
禮は、渋撥が何を促しているのかすぐに分かった。眼を交わせば、すべてが通じた。初めてそうした時のように、すべての想いは眼に宿っていたのだ。
「…………うん」
禮は小さく頷いた。
サァァアアアーーーー。
嗚呼ほら、雨のカーテンが降りてきてふたりとそれ以外とを遮断する。さっきは雨音しか聞こえなかったのに今となってはそれさえも消失した。ふたりとも互いの声だけを聞き漏らさないように耳を澄ませていた。
「アンタが好き」
「そーか」
渋撥の答は素っ気なかったが、禮は満足そうににっこりと微笑んだ。
言葉は滑るように自然に出た。言ってしまったあとでは、もう何も恐くはなかった。きっと今わたしは、ちゃんとあなたの目に映っている。あなたの世界に存在する価値をわたしに与えられるのはあなただけ。
渋撥は禮の手首を掴んだ。禮は頭上に「?」を浮かべながら、渋撥に手を引かれるままついて行った。渋撥は、禮にとって境界線であった校門のラインを易々と踏み越え、校舎へと一直線に進んでいく。
渋撥が何を考えているのか、禮には一切分からない。知らない場所へ引っ張っていかれているというのに、不思議と安心していた。乱暴に繋がった手が、温かかったからかもしれない。
渋撥は校舎の玄関口、エントランスまで禮を引き入れた。
広いエントランスの端っこ、壁際まで来て渋撥からようやく手首を離され、禮はきょろっと周りを見渡した。先ほどふたり組の生徒がもう人が残っていないと言っていたのは嘘ではなかったようで、開放的なエントランスなのに人の気配はまったくなかった。
渋撥は禮の頭の上に手を置き、髪の毛に指を通してがしがしがしっと乱暴に撫でた。禮は「なに?」とキョトンとして渋撥を見上げた。渋撥の撫で方は正直ちょっと痛かった。
「女がこんなびしょ濡れになるまで外で突っ立っとってアホちゃうか」
「あー……。朝は急いでるから傘持って出てなくて。降っても走ればええかな~って……」
渋撥は禮の頭を撫でる手を停め、禮の顔をじっと見た。鶴榮が黄昏過ぎの悪魔を見て街角の美少女と気づかなかった理由が少し分かった。あの悪魔とは別人のようにぼーっとしている少女だと思った。
渋撥が「名前は?」と尋ねると、少女からは「禮」と返ってきた。高くて涼やかな風鈴のような声は明らかに可憐な少女の持ち物だ。とても姿に似合っている声音だと思った。
「お兄はんは?」
「オマエ、俺が誰かもしらんと……」
渋撥は壁に手を突き、脱力して頭を下げて「はあーっ」と深い溜息を吐いた。世間知らずだとは思っていたが、事実そうらしい。
「何で俺がええねん。オマエが付き合うよな男ちゃうで」
「何で言われても自分でもよう分からんくて…………は、初めてやから」
「は?」
渋撥が顔を引き上げると、禮は眉を八の字にして両頬を赤くしていた。
「せやけど……好き」
(コイツ――……)
虚を突かれ不意なカウンターを喰らった渋撥はゴホゴホッと咳きこんだ。禮は「大丈夫?」と心配そうに渋撥を下から覗きこんだ。
「一週間も放っとって悪かったな。学校行ってへんかったさかいな」
「そう、やったん」
「風邪で寝こんどった」
禮は安堵の息を吐き、両肩を落とした。
「よかったー……」
一週間以上も待ち惚けさせられたのによかったとは如何なることかと、渋撥は怪訝な表情。
「避けられてるんやと、思てたから……」
禮の両目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。涙腺は禮自身も制御することができないもの。制服の袖で拭っても拭っても次から次へと溢れ出てくる。
渋撥のなかで初めての感情が一瞬メラッと沸き上がった。
(コイツ、さっきから計算ちゃうやろな。バッチバチにカワイイやろが!)
渋撥が衝動に突き動かされるままに禮との距離を縮めた。禮は反射的に後退しようとしたが、すぐに背中が硬いものに触れた。そうだ、後ろは壁だった。
禮は頬に手を添えられ、ギクリと体を跳ね上げた。経験もないのに予感がして体が強張る。
「冷えとるな」
「あ、ウチ……」
「俺のオンナになるんやろ」
目の前にある事実だけを突きつけるような言い方。至近距離で三白眼を覗きこみ、これは敵意や嫌悪ではなくて癖なのだと知る。
互いの吐く息が白かった。制服越しに背中に触れるコンクリートが冷たい。反対に、渋撥の手の平は熱かった。
「意味は分かるて言うてたな」
「うん……せやけど」
「ほな黙れ」
奪い取るような口吻だった。
震える唇を割って強引にねじこまれた舌が熱い。舌で感じる他人の温度。吐く息から熱が口内に流れこんでくる。
禮は息が苦しくなって渋撥の服をぎゅっと握ったり引っ張ったりしたが、腕ごと抱き締められて押さえつけられてしまった。渋撥が一度離してくれた隙にやっとの思いで呼吸した。それからまた唇を塞がれた。熱い舌が角度を変えて何度でも侵入してきて、禮はそれを拒む手段も知らなかった。
「はぁっ……」
唇が解放されると、禮は真っ赤な顔で必死に呼吸をした。心臓が苦しいのは上手く息が吸えなかったからだけじゃない。心臓が破れそう。痛い。苦しい。
「これで、オマエは俺のモンや」
禮はこの時初めて、渋撥がニヤリと笑うところを見た。
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※【カクヨム】にて編掲載中。【ネオページ】にて序盤のみお試し掲載中。【Nolaノベル】【Tales】にて完全版を公開中。
イラスト担当:さんさん
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