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#06:少女孵化
Rival 04 ✤
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禮が教室に戻ってくると、放課後にしてはかなりの人数が教室に残っていた。教室のドアを開けるなりクラスメイトの目が一斉に自分のほうへ向いたが、禮は別段気に留めなかった。平然とした足取りで自分の席に向かった。すでに帰り支度の済ませてある鞄を手に取った。
そのまま教室から出て行こうとしたところ、隣の席である大鰐から「オイ」と呼び止められた。
「ケンカ済ましてきた直後やっちゅうのにキレエなツラしてんなァ。なんぼケンカ慣れしたレディースちゅうても一対一じゃあ、オマエの相手にならへんかったか」
禮はやや口を尖らせた。冗談半分のような言い方をされたのが何だか癇に障った。
「女のコ同士のケンカ覗くなんて趣味が悪いよ、へーちゃん」
「見られたないんやったら見られへんトコでやれや」
大鰐は椅子の背もたれに体重を任せ、不貞不貞しい態度で「ケッ」と言い捨てた。
禮は大鰐を責める気は無かった。杏から屋上に呼び出されたことは皆知っているのだから興味を持つなと言うほうが無理だろう。
禮が通学鞄を肩にかけて帰ろうとすると、今度は背後から「なあなあ」と声をかけられた。振り返ると虎徹がニーッと笑っていた。
「アンズちゃんとはどうなったん?」
虎徹も教室に残っているということは大鰐と同様に観戦しており勝敗は知っているはずだ。敢えて当人に尋ねる意図が分からない。しかし、隠すようなことでもなし、禮は言ってやれと意を決した。
「友だち」
禮は聞き耳を立てている教室中に聞こえるようにわざと大きな声でハッキリと言い放った。考えてみればコソコソと様子を窺っているよりは、虎徹のように真正面から尋ねるほうが気分はよい。
「今更そんなモンになれるか」
大鰐は非常に素直にポーンと言い放ってしまった。即座に禮に拗ねた顔をされ、言う意味はなかったと気が付いた。
「ええやん、サイコーやんトモダチ。俺は禮ちゃんのそーゆーとこ大好きやで」
虎徹は禮にビシッと親指を立てて見せた。
「おおきに虎徹君」
「あ~、俺まだ虎徹君なん? へーちゃんやハルちゃんみたいに俺にもあだ名チョーダイ♪」
虎徹は席を立って禮の隣に回りこみ、ポンと手を置いて肩を抱いた。禮が嫌がらないのをよいことに、ピタッと身体を密着させた。
「う、うん。考えとく」
がしっ、と幸島が虎徹の腕を掴んだ。虎徹と視線をかち合わせ、無言で禮の肩から退けた。そして禮に顎でクイッと合図した。
「ほなまた明日な、禮」
「うん。バイバイ」
禮は小さく手を振って教室から出て行った。
そのあとで幸島は虎徹から手を離した。虎徹は手首をプラプラしながら幸島の顔を見た。
「……なんか今、ハルちゃんに邪魔された気ィするなァ。せっかく禮ちゃんと仲よくするチャンスやったのに」
幸島はジロッと虎徹を睨んだ。
「オマエ分かってんのか。禮は近江さんのオンナなんやぞ。手ェ出したらどうなる思てんねん。荒菱館で生きていかれへんどころかブチ殺されるで」
「ハルちゃんて……」
虎徹は幸島との距離を大股で一歩詰め、ズイッと顔を近づけた。幸島は鼻の頭に皺を寄せた。同性に顔を寄せられても不快なだけだ。
「ええ人やな✨」
虎徹はニカッと笑ったが、幸島はイラッとした。虎徹はヘラヘラしながら「なー?」と由仁と脩一に同意を求めた。
幸島は衝動的に殴りそうになったが理性で抑えこんだ。一瞬でも真剣に案じてやったのが莫迦らしい。
大鰐は、わなわなと肩を震わせている幸島に「なあ」と声をかけた。
「オマエ、面倒見ええやろ」
「別に面倒見たろなんか思てへんッ」
「フツーあんなアホ、マトモに相手せえへん。心配したってる時点で面倒見ええねん。オマエみたいなヤツが損するんやろなー」
幸島は眉尻をピクピクと痙攣させて苛立ちを抑えこみ、何も言い返さなかった。虎徹を案じてやった自分が愚かだったのだ。
§ § §
次の体育の時間は、前回とは比べ物にならないほど和やかなムードだった。
その要因は本日の天候が抜けるような快晴だったからではなく、前回剣呑なムードだった杏の機嫌が始終よかったからだ。禮と杏の屋上での衝突は、両名のクラスメイトのほぼ全員の知る処となった。しかし、当の本人たちはペアを組んで柔軟体操なり会話なりを何事もなかったように交わしており、クラスメイト諸君はその光景を見て不思議そうにするしかなかった。
「本当に女同士ケンカなんかしたのか~?」
たまたま休んでいて禮と杏の屋上対決を見逃してしまった生徒が、半信半疑で友人に言った。杏のほうが一方的に敵対心を剥き出しだったことは勿論知っているが、今日のふたりを見る限り、とても掴み合い殴り合いをしたとは思えなかった。
「何回同じこと言わせんだよ。相模と桜時はやり合って、キレ~エに相模の投げ勝ち」
「そこなんだよな。その投げ勝ちってのがなー。あんな細っこい体でどうやって投げんだよ。桜時とそうガタイ変わんねーんだぞ。女の力でそんな簡単に人投げれるかあ。もちっとリアリティーあるウソつけよ」
「ウソじゃねー。みんな言ってんだろ。相模がちょっと動いただけで、こう、上手い具合にクルッと桜時の体が回ったんだって」
彼は、自分に疑り深い目を向ける友人に対して手振り身振りを用いて先日の感動を説明した。しかし、彼自身どのようにして禮があの華奢な身体で杏を投げ、勝利し果せたのか理解できていないのだから、上手く説明することはできなかった。
半信半疑の彼はじーっと禮と杏を凝視した。ふたりは初めから仲がよかったかのように睦まじく談笑している。その様を見ても禮個人を見ても、人を殴ったり投げたりなどは想像が追いつかない。
「そりゃあ相模は近江さん相手にあんだけ動くんだから、相模のほうが勝ったってのはホントーなんだろうけどよォ。……イヤ、それもホントーにホントーか?」
「そっから疑うのかよ!」
「そもそも俺、お前のことそんなに信用してねーからなー」
「ぅオイ!」
「信じてほしけりゃ先週貸したジャンプ返せ」
「その前に先々週貸した300円返せよッ」
ついには彼らふたりは互いに体操着の掴み合いを始めてしまった。やいのやいのと野次を飛ばす連中や仲裁に入る者が入り乱れ、ちょっとした騒ぎになってしまった。体育教諭がとめに入る始末となった。
禮と杏も騒ぎのほうへ顔を向けた。
「なんやろアレ」
「さあ? このガッコはいっつもどこかで男どもが何か騒いどるな」
杏は騒ぎ自体にはさして興味がない様子で、床に転がっているバレーボールを拾い上げた。そして禮に向かってぽーんと浮かせて放り投げた。
「なァ、アンタは何で《荒菱館の近江》と付き合うことにしたん?」
禮はバレーボールを受け取り「え?」と聞き返した。
内容は少々気恥ずかしいけれど、杏から質問をされたこと自体は嬉しかった。相手に対して疑問を持つということは善くも悪くも興味があるということだから。頭ごなしに罵られていたことを思えば、馴れ初めを聞かれるなんて大した進展だ。
「す、好きやから」
禮は頬をやや赤くし、バレーボールで口許を隠して答えた。こうしていないとニヤけているのがバレてしまう。
杏は目の前で照れている禮の顔をジッと見た。そういう大雑把な回答を期待したわけではないのだが。
「どっちから告ったん?」
「ウチ」
「アンタからあ?」
杏は鼻がくっつきそうなくらい顔を近づけて禮を凝視した。外見に関しては同性の目から見ても飛び抜けて愛らしい造形をしていると思う。性格も愛想がよく友好的で差し当たって問題はない。唯一欠点を上げるとするならば、彼らの世界の〝常識〟に疎く、少々のほほんとしている点だが、致命的とは言えない。そのような禮が、自ら好き好んで悪評高い《荒菱館の近江》に告白する理由が、杏には思い当たらなかった。
「ハッちゃんのほうから告ったりすると思う?」
「確かに。あの《荒菱館の近江》がそんなんしとるトコ想像でけへんな」
杏はウンウンと頷いた。禮に言われて想像してみると確かに上手くいかなかった。杏の想像力が不足しているのではなく、渋撥が真摯に想いを告げているシーンなどこの学校の誰にも想像ができない。
「アンタは何で告ろうと思たん? 相手あの《荒菱館の近江》やで」
「せやから、好きやからやよ」
禮の回答は早かったが、杏は黙った。問答が堂々巡りの様相を呈してきたので軌道修正を試みようと次の一言をじっくりと考えこんだ。禮に悪気がないことは分かっているが、如何せん回答が期待どおりにいかない。
「アンタは《荒菱館の近江》のどこが好きなん? アンタ風に言うなら《荒菱館の近江》の価値っちゅうの。アンタからしたら《荒菱館の近江》の価値はケンカの強さちゃうんやろ。ほな、どういう風に価値があんの?」
杏は真顔で尋ねたが、禮の顔は一気にカーッと赤くなった。
「ウチそんなこと言うたっけ?」
「ハッキリ言うてた」
禮が口を一文字に噤んで赤い顔のまま押し黙っている間中、杏は真っ直ぐに見据えて待った。杏は《荒菱館の近江》に暴力や権力という価値しか見出さなかった。禮は同じ男に対してまったく異なる価値を見出したというのなら純粋に興味が湧いた。どのような目で見たら、どのような角度で見上げたら、異なるものが見えるの。少し何かが違っていたとしたら自分にも見ることができたのならば見てみたいと思った。
杏のやや吊り上がった目にいつまでも赤い顔を晒しているのが耐えられなくなった禮は、バレーボールで顔を完全に隠してしまった。
「ごめん。パスで」
「なんやソレ」
杏はプッと噴き出し、禮の顔の前にあるバレーボールをパンッと叩いた。
杏は禮を嘘吐きとは罵らなかった。好きな人を思い浮かべてこんなにも素直に頬を染められる人物が、その想いを寄せる対象に関して嘘を吐くわけがない。欲しい回答は得られなかったが、不思議と胸は満ちていた。
禮は「そういえば」と切り出した。
「何でアンちゃんはハッちゃんのこと《荒菱館の近江》て言うん? 何かそれってハッちゃんちゃうみたい」
杏は禮から指摘されて一瞬驚いた顔をした。禮から目を逸らしてフフッと笑った。
「……そうやな、ハッちゃんちゃうのかもしれへんな」
「?」
「ウチは結局、アンタのカレシがリアルにどんな人間かなんて知れへんてこと。ウチは所詮《荒菱館の近江》のウワサや人伝の話しか知らん」
事実は唯一でも、真実は見る者によって変容させられる。その者のイメージによって脚色され、その者にとって都合のよい形へと捻じ曲げられてゆく。
禮の知っている〝ハッちゃん〟と杏が見ている《荒菱館の近江》ではすでに別物だ。
「ほな今から知ってけばええやん」
その言葉に引き寄せられるように禮を見た。禮は顔からバレーボールを退かしてニッコリと微笑んでいた。
「ウチかて今はまだアンちゃんのこと何も知らへんけど、友だちやから今からなんぼでも知ってけるやん」
禮の笑顔は杏を励まそうと意図的に作ったものではなかったと思う。だからこそ杏はその笑顔に日溜まりのような暖かさを感じた。胸のなかに、煽るではなく焚きつけるではなく、焼けつくような焦がれるような衝動。嗚呼、またこの名前の付かない感情。
憧憬と軽蔑、期待と諦念、羨望と嫉妬が同居する。相反する感情同士がぶつかり合って混じり合って杏は口を噤んだ。禮を見ていると、諦めたものを取り返せそうな、見失ってしまった目的地をもう一度目指せそうな、よく分からない気分になる。禮を自分とは異なる生き物と定義して隔絶したくも思うのに、羨ましくも感じる。
いっそのこと突き放してくれれば、無視してくれれば、心が平静でいられる距離を保つことができるのに、禮は無遠慮に手を差し伸べてくる。その手を取って引かれていけば、遙か遠くの何処かへと辿り着けそうな気分になる。目的地なんて、ずっと以前に見失ってしまったはずなのに。
鍵穴の位置も分からない、鍵も手にしていない、それなのにずっと辿り着きたかった場所。大嫌いな自分を脱ぎ捨てて素直になることができる楽園。
アンタは軽々しく友だちとか口にする。アンタは当たり前のよに手を差し伸べる。
アンタは〝そんな〟やのに、ウチとは全然ちゃう生き物やのに、何でウチと友だちになるなんて簡単に言えるんや。何でそんなこと考えられんねん。
アンタは夢見がちやね。
せやけどそれは、ウチの夢かと思うくらい、めっちゃええ夢やと思うた。
そのまま教室から出て行こうとしたところ、隣の席である大鰐から「オイ」と呼び止められた。
「ケンカ済ましてきた直後やっちゅうのにキレエなツラしてんなァ。なんぼケンカ慣れしたレディースちゅうても一対一じゃあ、オマエの相手にならへんかったか」
禮はやや口を尖らせた。冗談半分のような言い方をされたのが何だか癇に障った。
「女のコ同士のケンカ覗くなんて趣味が悪いよ、へーちゃん」
「見られたないんやったら見られへんトコでやれや」
大鰐は椅子の背もたれに体重を任せ、不貞不貞しい態度で「ケッ」と言い捨てた。
禮は大鰐を責める気は無かった。杏から屋上に呼び出されたことは皆知っているのだから興味を持つなと言うほうが無理だろう。
禮が通学鞄を肩にかけて帰ろうとすると、今度は背後から「なあなあ」と声をかけられた。振り返ると虎徹がニーッと笑っていた。
「アンズちゃんとはどうなったん?」
虎徹も教室に残っているということは大鰐と同様に観戦しており勝敗は知っているはずだ。敢えて当人に尋ねる意図が分からない。しかし、隠すようなことでもなし、禮は言ってやれと意を決した。
「友だち」
禮は聞き耳を立てている教室中に聞こえるようにわざと大きな声でハッキリと言い放った。考えてみればコソコソと様子を窺っているよりは、虎徹のように真正面から尋ねるほうが気分はよい。
「今更そんなモンになれるか」
大鰐は非常に素直にポーンと言い放ってしまった。即座に禮に拗ねた顔をされ、言う意味はなかったと気が付いた。
「ええやん、サイコーやんトモダチ。俺は禮ちゃんのそーゆーとこ大好きやで」
虎徹は禮にビシッと親指を立てて見せた。
「おおきに虎徹君」
「あ~、俺まだ虎徹君なん? へーちゃんやハルちゃんみたいに俺にもあだ名チョーダイ♪」
虎徹は席を立って禮の隣に回りこみ、ポンと手を置いて肩を抱いた。禮が嫌がらないのをよいことに、ピタッと身体を密着させた。
「う、うん。考えとく」
がしっ、と幸島が虎徹の腕を掴んだ。虎徹と視線をかち合わせ、無言で禮の肩から退けた。そして禮に顎でクイッと合図した。
「ほなまた明日な、禮」
「うん。バイバイ」
禮は小さく手を振って教室から出て行った。
そのあとで幸島は虎徹から手を離した。虎徹は手首をプラプラしながら幸島の顔を見た。
「……なんか今、ハルちゃんに邪魔された気ィするなァ。せっかく禮ちゃんと仲よくするチャンスやったのに」
幸島はジロッと虎徹を睨んだ。
「オマエ分かってんのか。禮は近江さんのオンナなんやぞ。手ェ出したらどうなる思てんねん。荒菱館で生きていかれへんどころかブチ殺されるで」
「ハルちゃんて……」
虎徹は幸島との距離を大股で一歩詰め、ズイッと顔を近づけた。幸島は鼻の頭に皺を寄せた。同性に顔を寄せられても不快なだけだ。
「ええ人やな✨」
虎徹はニカッと笑ったが、幸島はイラッとした。虎徹はヘラヘラしながら「なー?」と由仁と脩一に同意を求めた。
幸島は衝動的に殴りそうになったが理性で抑えこんだ。一瞬でも真剣に案じてやったのが莫迦らしい。
大鰐は、わなわなと肩を震わせている幸島に「なあ」と声をかけた。
「オマエ、面倒見ええやろ」
「別に面倒見たろなんか思てへんッ」
「フツーあんなアホ、マトモに相手せえへん。心配したってる時点で面倒見ええねん。オマエみたいなヤツが損するんやろなー」
幸島は眉尻をピクピクと痙攣させて苛立ちを抑えこみ、何も言い返さなかった。虎徹を案じてやった自分が愚かだったのだ。
§ § §
次の体育の時間は、前回とは比べ物にならないほど和やかなムードだった。
その要因は本日の天候が抜けるような快晴だったからではなく、前回剣呑なムードだった杏の機嫌が始終よかったからだ。禮と杏の屋上での衝突は、両名のクラスメイトのほぼ全員の知る処となった。しかし、当の本人たちはペアを組んで柔軟体操なり会話なりを何事もなかったように交わしており、クラスメイト諸君はその光景を見て不思議そうにするしかなかった。
「本当に女同士ケンカなんかしたのか~?」
たまたま休んでいて禮と杏の屋上対決を見逃してしまった生徒が、半信半疑で友人に言った。杏のほうが一方的に敵対心を剥き出しだったことは勿論知っているが、今日のふたりを見る限り、とても掴み合い殴り合いをしたとは思えなかった。
「何回同じこと言わせんだよ。相模と桜時はやり合って、キレ~エに相模の投げ勝ち」
「そこなんだよな。その投げ勝ちってのがなー。あんな細っこい体でどうやって投げんだよ。桜時とそうガタイ変わんねーんだぞ。女の力でそんな簡単に人投げれるかあ。もちっとリアリティーあるウソつけよ」
「ウソじゃねー。みんな言ってんだろ。相模がちょっと動いただけで、こう、上手い具合にクルッと桜時の体が回ったんだって」
彼は、自分に疑り深い目を向ける友人に対して手振り身振りを用いて先日の感動を説明した。しかし、彼自身どのようにして禮があの華奢な身体で杏を投げ、勝利し果せたのか理解できていないのだから、上手く説明することはできなかった。
半信半疑の彼はじーっと禮と杏を凝視した。ふたりは初めから仲がよかったかのように睦まじく談笑している。その様を見ても禮個人を見ても、人を殴ったり投げたりなどは想像が追いつかない。
「そりゃあ相模は近江さん相手にあんだけ動くんだから、相模のほうが勝ったってのはホントーなんだろうけどよォ。……イヤ、それもホントーにホントーか?」
「そっから疑うのかよ!」
「そもそも俺、お前のことそんなに信用してねーからなー」
「ぅオイ!」
「信じてほしけりゃ先週貸したジャンプ返せ」
「その前に先々週貸した300円返せよッ」
ついには彼らふたりは互いに体操着の掴み合いを始めてしまった。やいのやいのと野次を飛ばす連中や仲裁に入る者が入り乱れ、ちょっとした騒ぎになってしまった。体育教諭がとめに入る始末となった。
禮と杏も騒ぎのほうへ顔を向けた。
「なんやろアレ」
「さあ? このガッコはいっつもどこかで男どもが何か騒いどるな」
杏は騒ぎ自体にはさして興味がない様子で、床に転がっているバレーボールを拾い上げた。そして禮に向かってぽーんと浮かせて放り投げた。
「なァ、アンタは何で《荒菱館の近江》と付き合うことにしたん?」
禮はバレーボールを受け取り「え?」と聞き返した。
内容は少々気恥ずかしいけれど、杏から質問をされたこと自体は嬉しかった。相手に対して疑問を持つということは善くも悪くも興味があるということだから。頭ごなしに罵られていたことを思えば、馴れ初めを聞かれるなんて大した進展だ。
「す、好きやから」
禮は頬をやや赤くし、バレーボールで口許を隠して答えた。こうしていないとニヤけているのがバレてしまう。
杏は目の前で照れている禮の顔をジッと見た。そういう大雑把な回答を期待したわけではないのだが。
「どっちから告ったん?」
「ウチ」
「アンタからあ?」
杏は鼻がくっつきそうなくらい顔を近づけて禮を凝視した。外見に関しては同性の目から見ても飛び抜けて愛らしい造形をしていると思う。性格も愛想がよく友好的で差し当たって問題はない。唯一欠点を上げるとするならば、彼らの世界の〝常識〟に疎く、少々のほほんとしている点だが、致命的とは言えない。そのような禮が、自ら好き好んで悪評高い《荒菱館の近江》に告白する理由が、杏には思い当たらなかった。
「ハッちゃんのほうから告ったりすると思う?」
「確かに。あの《荒菱館の近江》がそんなんしとるトコ想像でけへんな」
杏はウンウンと頷いた。禮に言われて想像してみると確かに上手くいかなかった。杏の想像力が不足しているのではなく、渋撥が真摯に想いを告げているシーンなどこの学校の誰にも想像ができない。
「アンタは何で告ろうと思たん? 相手あの《荒菱館の近江》やで」
「せやから、好きやからやよ」
禮の回答は早かったが、杏は黙った。問答が堂々巡りの様相を呈してきたので軌道修正を試みようと次の一言をじっくりと考えこんだ。禮に悪気がないことは分かっているが、如何せん回答が期待どおりにいかない。
「アンタは《荒菱館の近江》のどこが好きなん? アンタ風に言うなら《荒菱館の近江》の価値っちゅうの。アンタからしたら《荒菱館の近江》の価値はケンカの強さちゃうんやろ。ほな、どういう風に価値があんの?」
杏は真顔で尋ねたが、禮の顔は一気にカーッと赤くなった。
「ウチそんなこと言うたっけ?」
「ハッキリ言うてた」
禮が口を一文字に噤んで赤い顔のまま押し黙っている間中、杏は真っ直ぐに見据えて待った。杏は《荒菱館の近江》に暴力や権力という価値しか見出さなかった。禮は同じ男に対してまったく異なる価値を見出したというのなら純粋に興味が湧いた。どのような目で見たら、どのような角度で見上げたら、異なるものが見えるの。少し何かが違っていたとしたら自分にも見ることができたのならば見てみたいと思った。
杏のやや吊り上がった目にいつまでも赤い顔を晒しているのが耐えられなくなった禮は、バレーボールで顔を完全に隠してしまった。
「ごめん。パスで」
「なんやソレ」
杏はプッと噴き出し、禮の顔の前にあるバレーボールをパンッと叩いた。
杏は禮を嘘吐きとは罵らなかった。好きな人を思い浮かべてこんなにも素直に頬を染められる人物が、その想いを寄せる対象に関して嘘を吐くわけがない。欲しい回答は得られなかったが、不思議と胸は満ちていた。
禮は「そういえば」と切り出した。
「何でアンちゃんはハッちゃんのこと《荒菱館の近江》て言うん? 何かそれってハッちゃんちゃうみたい」
杏は禮から指摘されて一瞬驚いた顔をした。禮から目を逸らしてフフッと笑った。
「……そうやな、ハッちゃんちゃうのかもしれへんな」
「?」
「ウチは結局、アンタのカレシがリアルにどんな人間かなんて知れへんてこと。ウチは所詮《荒菱館の近江》のウワサや人伝の話しか知らん」
事実は唯一でも、真実は見る者によって変容させられる。その者のイメージによって脚色され、その者にとって都合のよい形へと捻じ曲げられてゆく。
禮の知っている〝ハッちゃん〟と杏が見ている《荒菱館の近江》ではすでに別物だ。
「ほな今から知ってけばええやん」
その言葉に引き寄せられるように禮を見た。禮は顔からバレーボールを退かしてニッコリと微笑んでいた。
「ウチかて今はまだアンちゃんのこと何も知らへんけど、友だちやから今からなんぼでも知ってけるやん」
禮の笑顔は杏を励まそうと意図的に作ったものではなかったと思う。だからこそ杏はその笑顔に日溜まりのような暖かさを感じた。胸のなかに、煽るではなく焚きつけるではなく、焼けつくような焦がれるような衝動。嗚呼、またこの名前の付かない感情。
憧憬と軽蔑、期待と諦念、羨望と嫉妬が同居する。相反する感情同士がぶつかり合って混じり合って杏は口を噤んだ。禮を見ていると、諦めたものを取り返せそうな、見失ってしまった目的地をもう一度目指せそうな、よく分からない気分になる。禮を自分とは異なる生き物と定義して隔絶したくも思うのに、羨ましくも感じる。
いっそのこと突き放してくれれば、無視してくれれば、心が平静でいられる距離を保つことができるのに、禮は無遠慮に手を差し伸べてくる。その手を取って引かれていけば、遙か遠くの何処かへと辿り着けそうな気分になる。目的地なんて、ずっと以前に見失ってしまったはずなのに。
鍵穴の位置も分からない、鍵も手にしていない、それなのにずっと辿り着きたかった場所。大嫌いな自分を脱ぎ捨てて素直になることができる楽園。
アンタは軽々しく友だちとか口にする。アンタは当たり前のよに手を差し伸べる。
アンタは〝そんな〟やのに、ウチとは全然ちゃう生き物やのに、何でウチと友だちになるなんて簡単に言えるんや。何でそんなこと考えられんねん。
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異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜
のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、
偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。
水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは――
古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。
村を立て直し、仲間と絆を築きながら、
やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。
辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、
静かに進む策略と復讐の物語。
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