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#06:少女孵化
Moth burn away 02
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同日。禮のマンションにて。
いまだに禮の身体を案じている渋撥は、また当然のように部屋を訪れていた。全校合同交流会以来、可能な限り禮の部屋を訪れるようにしていた。
夕飯を済ませたあと、渋撥はソファに沈みこんで煙草を深く吸いこんでいた。
禮は渋撥の隣にちょこんと座り、じーっと渋撥の横顔を見詰める。禮に煙草の味は分からないが、渋撥はリラックスしているようなのでタイミングを見計らうことにしたのだ。
渋撥は禮の視線に気づいていた。禮とは反対側に顔を向けてフーッと白い煙を吐き出したあと、「何や」と禮に声をかけた。
「あのね、族抜けの制裁て……知ってる? ボコボコにされるってほんま?」
「まァ、大概はそんなんちゃうか」
まさか禮の口から脈絡もなくそのような話が出てくるとは思っていなかった。渋撥は煙草を銜えてジッと禮を見た。禮の不安そうな表情を見て、これは何処かで聞き囓った故の気軽な会話ではないのだなとピンと来た。禮は脳裏に具体的に人物を思い浮かべている様子だった。
「誰が族抜けや」
「隣のクラスの……アンちゃん」
渋撥は本来、その名前を記憶するほど他人に関心があるわけがなかった。しかし、禮と一緒にいた目付きの鋭い金髪の少女が頭を過ぎった。杏から滲み出る、追い立てられるような危なっかしい焦燥を、渋撥は野性的な本能で敏感に感じ取っていたのかもしれない。
「今日アンちゃんの雰囲気がちょお変で……クラスの友だちが、アンちゃんが族抜けするかもって言うてて……」
禮が目を逸らしてボソボソと話し出し、渋撥は嫌な予感がした。禮が次に言い出しそうなことなど予想が付く。その予想は渋撥にとっては都合がよろしくないものだった。
「それ今夜かもしれへんし、ウチちょお探してこよかな」
「あかん。行くな」
禮がソファから立ち上がり、渋撥はチッと舌打ちして禮の腕を捕まえた。
「禮が行ってどうする。大体、こんな夜に探し出せるわけあれへん」
「せやけどアンちゃん放っとけへんもん」
「放っとけ。族抜けなんざ禮は知らんでええことや。俺がおって、みすみす禮を危ない目に遭わせるわけないやろ」
渋撥は普段、禮の言うことは大抵のことは承諾してくれる。何でも言うことをきくというルールを敷かずともそもそもがそうなのだ。それなのに今日に限って渋撥が頑なであることが禮にはやや怪訝だった。
「アンちゃん探しに行くだけでそんな危ないことあれへんよ」
「こっちにそんな気あれへんでも相手までそうとは限れへんねん」
「ちょっと危なかったとしても、それくらいでアンちゃんがケガするて分かってるのに放っとかれへんやん」
今日はよく引き留められる日だ。できない、無理だ、やめておけ。虎徹や大鰐、渋撥までもがやめておけと禮を諫める。やはり彼らと共通の認識を持っていない自分だけが不理解で暗愚なのだろうか。
そうだとしても、禮はそれを素直に受け容れる気はなかった。何と言われても心配なものは心配だ。この気持ちは自分で制御できるものではない。
渋撥は禮の腕をグイッ引いた。禮がぼすんっとソファに尻をつけ、渋撥は禮を引き寄せて抱き締めた。こうなってしまうと禮の身動きは容易に封じられてしまう。禮がジタバタと藻掻いても純然たる腕力の差は逆転しがたく、渋撥は禮を腕ごと抱き締めたままビクともしなかった。
「ハッちゃん離して」
渋撥の力がぎゅうと強くなり、禮は「もうっ」と苦情を零した。
「何であのジャリの為に禮がそこまでせなあかんねん。そんな義理あれへんやろ。オマエいま、自分のアバラおかしなってること忘れてへんか」
抱き締められて耳許で囁かれた言葉には、自分を案じてくれる気持ちだけが乗っかっていた。その言葉から、この人に必要とされていると純粋にそう信じられた。
禮は、渋撥に指摘されて思い出したように腹部がズキッと痛んだ。
「それはもうだいじょぶ」
いつまでも渋撥が気に病んでいるのが嫌だから、禮は慌てて否定した。
「ハッちゃんがウチの心配してくれてんのよう解るよ」
禮は「ふう」と息を吐き、脱力して渋撥の胸板の上に頭を置いた。そうすると渋撥の鼓動が傍近くに聞こえてきた。こんなにも近くに自分以外の誰かの存在を感じることができるのは、きっと幸福で幸運なことなのだ。
だから、禮は杏にもそのような存在が必要だと思った。渋撥が禮の身を案じて引き留めるように、杏にも危険に身を投じようとしたときに引き留める存在が必要なのだ。容易に危険に晒されてよい命なんて、大切にされなくてよい存在なんて、この世にないのだから。
「ハッちゃんがウチを心配してくれてんのと同じくらいに、ウチもアンちゃんが心配なんやもん。危ないことせえへんて約束するから……ええ?」
甘えるような声で言ったところで禮の意志は固い。そして、禮の本気の願いには渋撥は逆らうことができない。
渋撥は否定したり反論したりする代わりに、禮の細い体をさらにギュッと強く抱き締めた。
§ § §
――顔が、熱い…………。
手も足も指も動かなくて、頭は生きていても手足は壊れてしまったみたいだ。このまま瞼を閉じて眠りに就いたら燃え尽きて灰になって消えてしまいそう。焔に焼かれる蛾のように、一瞬で闇に溶けてしまいそう。
ゆらゆらと、ふらふらと、瞼が閉じかけて半分になった朧気な視界を蛍が横切った。
あの光を掴めたらあの光になれるなら、燃え尽きてしまってもいいね。
「禮……」
杏の口からポロリと零れたのは、親の名前でも初恋の人の名前でもついこの間まで付き合っていた彼氏の名前でもなかった。
頬に直に感じるアスファルトの感触、口の中は砂だらけ血だらけ、瞼を閉じてみれば、無惨に地べたに這い蹲る自分を容易に想像することができた。無様な姿ではあるが、いつもいつも四六時中休む間なく胸をせっついていた居心地の悪い焦燥感は跡形もなく消えていた。その代わりと言わんばかりに穏やかな虚脱感に襲われている。
ゆっくりと瞼を閉じ、脳裏には禮の姿が浮かんできた。それははっきりと人の形をしているものではなく、真っ暗な闇のなかで蛍のように淡い光輝。
もう立ち上がれない。枷は無くなったのに、鎖は断ち切れたのに、心は軽くなったのに、手足は言う事を聞いてくれない。本当は早く早くあの子の許へ駆けていって言わなければならないことがあるのに。伝えなければならないことがあるのに。あの子の顔が見たいのに。
ウチ頑張ったで、禮。本気で、命懸けで、変わろうとしたんや。
誰もウチを救ってくれへんのなら、ウチがウチを救ってやるしかない。こんな当たり前の覚悟決めるのにエライ時間かけてしもたけど。
ウチが変われたら、生まれ変われたら、笑えるようになったら、そん時はウチを友だちと呼んで。
途方もなく遠くて、眩しくて目が潰れそうで、喉から手が出そうなほど欲しいのに届かない、そんな願いを、もう立ち上がれないから、心のなかで呟いた。
§ § §
次に目を開けたとき、眩しくて一瞬顔を顰めた。じんわりと視界が明確になってきて、見知らぬ照明と天井の模様が見えた。
杏はのんびりと此処は何処だろうと考えた。病院にしては閉塞感がない。何にせよ大勢で取り囲まれて殴る蹴るされていた情況よりは危機は少ないはずだ。
「アンちゃん。おはよ」
その声を聞いた瞬間、泣きたくなった。涙が溢れそうになり、それでも咄嗟に押しこめた。無理矢理締めつけた涙腺が痛い。
「おは、よう…………っ」
声を出したら熱いものが堪えきれなくなった。声を出したら感情まで滲み出た。
杏は顔を両手で覆い隠して声を殺して涙を流した。本当は今すぐにでも禮に飛びつきたいのに、声の限りに「ありがとう」と伝えたいのに、泣き顔を見られることに慣れていなくて。
禮は、杏の肩をポン、ポン、ポンと一定のテンポで撫でた。母親が幼子に子守唄を歌うほど優しく叩き続けた。何も言わず、何も訊かなかった。
杏を探しに行くという禮の意志は固く、結局は渋撥のほうが折れる羽目になった。夜の街で禮を単独行動させるわけにはいかない。禮なら最悪の場合、乱闘に割って入るくらいはしかねない。渋撥は自分も禮について部屋を出た。
探し始めてしばらくして、渋撥は何らかのツテを用いて杏らしき少女の情報を得た。渋撥と禮はふたりで情報の場所へ向かい、真夜中を過ぎた頃、街灯も差さぬ街の死角の闇苅で、紫色の衣服に身を包んだ金色の髪の毛の少女を発見した。
杏は、捨てられたゴミのようにアスファルトの上に転がっていた。まさにそれは力尽きた蛾の死骸。華美な毒々しい羽を広げて地に落ちた憐れな蛾。
「禮……」
「なぁに」
「禮」
「アンちゃん」
「禮ッ……」
杏は幾度も繰り返し禮の名前を呼んだ。続く言葉が出てこないのは、涙の所為か、それとも臆病な所為か。無事にもう一度その顔に出逢うことができたなら、最初に伝えようと決めていたことがあるのに。
「ウチ、アンタにっ……言わなあかんこと……っ」
「うん?」
「ウチをアンタのッ……」
杏はずるっと鼻を啜った。このような様で泣いているのを隠せているわけがない。途轍もなく格好悪いと思いながらも、杏は禮の前で虚勢を張るのは辞めた。もう肩肘を張って、周囲を睨みつけて、警戒して敵視して生きる必要はないのだ。
「もうケガ、せんといてね。心配するやん。……友だちなんやから……」
禮は杏の肩を優しく叩き続けながらそう言った。
身体が自由に機敏に動くならすぐさま禮に飛びつきたかった。禮から差し出される手を取り握り締めたかった。嗚呼、自分はひとりで立つことなどできやしないのだと、思い知らされた。
ウチは変わるから、生まれ変わるから、何も恐れずに素直に笑えるようになるから、その時はウチを友だちと呼んで。
そして蛾は、蝶へと転生する。
いまだに禮の身体を案じている渋撥は、また当然のように部屋を訪れていた。全校合同交流会以来、可能な限り禮の部屋を訪れるようにしていた。
夕飯を済ませたあと、渋撥はソファに沈みこんで煙草を深く吸いこんでいた。
禮は渋撥の隣にちょこんと座り、じーっと渋撥の横顔を見詰める。禮に煙草の味は分からないが、渋撥はリラックスしているようなのでタイミングを見計らうことにしたのだ。
渋撥は禮の視線に気づいていた。禮とは反対側に顔を向けてフーッと白い煙を吐き出したあと、「何や」と禮に声をかけた。
「あのね、族抜けの制裁て……知ってる? ボコボコにされるってほんま?」
「まァ、大概はそんなんちゃうか」
まさか禮の口から脈絡もなくそのような話が出てくるとは思っていなかった。渋撥は煙草を銜えてジッと禮を見た。禮の不安そうな表情を見て、これは何処かで聞き囓った故の気軽な会話ではないのだなとピンと来た。禮は脳裏に具体的に人物を思い浮かべている様子だった。
「誰が族抜けや」
「隣のクラスの……アンちゃん」
渋撥は本来、その名前を記憶するほど他人に関心があるわけがなかった。しかし、禮と一緒にいた目付きの鋭い金髪の少女が頭を過ぎった。杏から滲み出る、追い立てられるような危なっかしい焦燥を、渋撥は野性的な本能で敏感に感じ取っていたのかもしれない。
「今日アンちゃんの雰囲気がちょお変で……クラスの友だちが、アンちゃんが族抜けするかもって言うてて……」
禮が目を逸らしてボソボソと話し出し、渋撥は嫌な予感がした。禮が次に言い出しそうなことなど予想が付く。その予想は渋撥にとっては都合がよろしくないものだった。
「それ今夜かもしれへんし、ウチちょお探してこよかな」
「あかん。行くな」
禮がソファから立ち上がり、渋撥はチッと舌打ちして禮の腕を捕まえた。
「禮が行ってどうする。大体、こんな夜に探し出せるわけあれへん」
「せやけどアンちゃん放っとけへんもん」
「放っとけ。族抜けなんざ禮は知らんでええことや。俺がおって、みすみす禮を危ない目に遭わせるわけないやろ」
渋撥は普段、禮の言うことは大抵のことは承諾してくれる。何でも言うことをきくというルールを敷かずともそもそもがそうなのだ。それなのに今日に限って渋撥が頑なであることが禮にはやや怪訝だった。
「アンちゃん探しに行くだけでそんな危ないことあれへんよ」
「こっちにそんな気あれへんでも相手までそうとは限れへんねん」
「ちょっと危なかったとしても、それくらいでアンちゃんがケガするて分かってるのに放っとかれへんやん」
今日はよく引き留められる日だ。できない、無理だ、やめておけ。虎徹や大鰐、渋撥までもがやめておけと禮を諫める。やはり彼らと共通の認識を持っていない自分だけが不理解で暗愚なのだろうか。
そうだとしても、禮はそれを素直に受け容れる気はなかった。何と言われても心配なものは心配だ。この気持ちは自分で制御できるものではない。
渋撥は禮の腕をグイッ引いた。禮がぼすんっとソファに尻をつけ、渋撥は禮を引き寄せて抱き締めた。こうなってしまうと禮の身動きは容易に封じられてしまう。禮がジタバタと藻掻いても純然たる腕力の差は逆転しがたく、渋撥は禮を腕ごと抱き締めたままビクともしなかった。
「ハッちゃん離して」
渋撥の力がぎゅうと強くなり、禮は「もうっ」と苦情を零した。
「何であのジャリの為に禮がそこまでせなあかんねん。そんな義理あれへんやろ。オマエいま、自分のアバラおかしなってること忘れてへんか」
抱き締められて耳許で囁かれた言葉には、自分を案じてくれる気持ちだけが乗っかっていた。その言葉から、この人に必要とされていると純粋にそう信じられた。
禮は、渋撥に指摘されて思い出したように腹部がズキッと痛んだ。
「それはもうだいじょぶ」
いつまでも渋撥が気に病んでいるのが嫌だから、禮は慌てて否定した。
「ハッちゃんがウチの心配してくれてんのよう解るよ」
禮は「ふう」と息を吐き、脱力して渋撥の胸板の上に頭を置いた。そうすると渋撥の鼓動が傍近くに聞こえてきた。こんなにも近くに自分以外の誰かの存在を感じることができるのは、きっと幸福で幸運なことなのだ。
だから、禮は杏にもそのような存在が必要だと思った。渋撥が禮の身を案じて引き留めるように、杏にも危険に身を投じようとしたときに引き留める存在が必要なのだ。容易に危険に晒されてよい命なんて、大切にされなくてよい存在なんて、この世にないのだから。
「ハッちゃんがウチを心配してくれてんのと同じくらいに、ウチもアンちゃんが心配なんやもん。危ないことせえへんて約束するから……ええ?」
甘えるような声で言ったところで禮の意志は固い。そして、禮の本気の願いには渋撥は逆らうことができない。
渋撥は否定したり反論したりする代わりに、禮の細い体をさらにギュッと強く抱き締めた。
§ § §
――顔が、熱い…………。
手も足も指も動かなくて、頭は生きていても手足は壊れてしまったみたいだ。このまま瞼を閉じて眠りに就いたら燃え尽きて灰になって消えてしまいそう。焔に焼かれる蛾のように、一瞬で闇に溶けてしまいそう。
ゆらゆらと、ふらふらと、瞼が閉じかけて半分になった朧気な視界を蛍が横切った。
あの光を掴めたらあの光になれるなら、燃え尽きてしまってもいいね。
「禮……」
杏の口からポロリと零れたのは、親の名前でも初恋の人の名前でもついこの間まで付き合っていた彼氏の名前でもなかった。
頬に直に感じるアスファルトの感触、口の中は砂だらけ血だらけ、瞼を閉じてみれば、無惨に地べたに這い蹲る自分を容易に想像することができた。無様な姿ではあるが、いつもいつも四六時中休む間なく胸をせっついていた居心地の悪い焦燥感は跡形もなく消えていた。その代わりと言わんばかりに穏やかな虚脱感に襲われている。
ゆっくりと瞼を閉じ、脳裏には禮の姿が浮かんできた。それははっきりと人の形をしているものではなく、真っ暗な闇のなかで蛍のように淡い光輝。
もう立ち上がれない。枷は無くなったのに、鎖は断ち切れたのに、心は軽くなったのに、手足は言う事を聞いてくれない。本当は早く早くあの子の許へ駆けていって言わなければならないことがあるのに。伝えなければならないことがあるのに。あの子の顔が見たいのに。
ウチ頑張ったで、禮。本気で、命懸けで、変わろうとしたんや。
誰もウチを救ってくれへんのなら、ウチがウチを救ってやるしかない。こんな当たり前の覚悟決めるのにエライ時間かけてしもたけど。
ウチが変われたら、生まれ変われたら、笑えるようになったら、そん時はウチを友だちと呼んで。
途方もなく遠くて、眩しくて目が潰れそうで、喉から手が出そうなほど欲しいのに届かない、そんな願いを、もう立ち上がれないから、心のなかで呟いた。
§ § §
次に目を開けたとき、眩しくて一瞬顔を顰めた。じんわりと視界が明確になってきて、見知らぬ照明と天井の模様が見えた。
杏はのんびりと此処は何処だろうと考えた。病院にしては閉塞感がない。何にせよ大勢で取り囲まれて殴る蹴るされていた情況よりは危機は少ないはずだ。
「アンちゃん。おはよ」
その声を聞いた瞬間、泣きたくなった。涙が溢れそうになり、それでも咄嗟に押しこめた。無理矢理締めつけた涙腺が痛い。
「おは、よう…………っ」
声を出したら熱いものが堪えきれなくなった。声を出したら感情まで滲み出た。
杏は顔を両手で覆い隠して声を殺して涙を流した。本当は今すぐにでも禮に飛びつきたいのに、声の限りに「ありがとう」と伝えたいのに、泣き顔を見られることに慣れていなくて。
禮は、杏の肩をポン、ポン、ポンと一定のテンポで撫でた。母親が幼子に子守唄を歌うほど優しく叩き続けた。何も言わず、何も訊かなかった。
杏を探しに行くという禮の意志は固く、結局は渋撥のほうが折れる羽目になった。夜の街で禮を単独行動させるわけにはいかない。禮なら最悪の場合、乱闘に割って入るくらいはしかねない。渋撥は自分も禮について部屋を出た。
探し始めてしばらくして、渋撥は何らかのツテを用いて杏らしき少女の情報を得た。渋撥と禮はふたりで情報の場所へ向かい、真夜中を過ぎた頃、街灯も差さぬ街の死角の闇苅で、紫色の衣服に身を包んだ金色の髪の毛の少女を発見した。
杏は、捨てられたゴミのようにアスファルトの上に転がっていた。まさにそれは力尽きた蛾の死骸。華美な毒々しい羽を広げて地に落ちた憐れな蛾。
「禮……」
「なぁに」
「禮」
「アンちゃん」
「禮ッ……」
杏は幾度も繰り返し禮の名前を呼んだ。続く言葉が出てこないのは、涙の所為か、それとも臆病な所為か。無事にもう一度その顔に出逢うことができたなら、最初に伝えようと決めていたことがあるのに。
「ウチ、アンタにっ……言わなあかんこと……っ」
「うん?」
「ウチをアンタのッ……」
杏はずるっと鼻を啜った。このような様で泣いているのを隠せているわけがない。途轍もなく格好悪いと思いながらも、杏は禮の前で虚勢を張るのは辞めた。もう肩肘を張って、周囲を睨みつけて、警戒して敵視して生きる必要はないのだ。
「もうケガ、せんといてね。心配するやん。……友だちなんやから……」
禮は杏の肩を優しく叩き続けながらそう言った。
身体が自由に機敏に動くならすぐさま禮に飛びつきたかった。禮から差し出される手を取り握り締めたかった。嗚呼、自分はひとりで立つことなどできやしないのだと、思い知らされた。
ウチは変わるから、生まれ変わるから、何も恐れずに素直に笑えるようになるから、その時はウチを友だちと呼んで。
そして蛾は、蝶へと転生する。
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