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#08:My shameful lines
My shameful lines 02
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喫茶ブラジレイロ。
荒菱館高校と深淵高校の丁度中間地点に位置し、どちらの王様も御用達にしているという、因果な喫茶店であった。両校はかつて激しく対立し、今尚友好関係ではないが、双方ともにこの店ではもめ事を起こさないことが暗黙の了解となっており、ひとつの緩衝地帯であった。
カウンター席で制服姿の一組の男女が教科書を広げ、学生特有のプチ勉強会の真っ最中。男子学生のほうが女子学生に教えを請うているようで、男子学生は教科書と睨めっこをして頭を抱えていた。
マスターはカウンターのなかで黙々とコップを磨いていた。今は他に客もいないので若干騒がしくとも看過してくれる寛容な人だ。
下総 蔚留[シモウサ シゲル]――――
市立深淵高等学校三年生。顎には無精髭を生やし、右の耳にはゴールドのピアス。少々長めの襟足がピンピンとあちこちの方向へと跳ねている。
彼はしばらく前まで深淵高校で多くの信奉を集め〝キング〟として君臨し、学内で絶大なる権力を揮っていた。しかし、最上級生に進級するや否や早々に引退を表明。現在では卒業を目指して日々勉学に勤しんでいる。
川澄 真珠[カワスミ マタマ]――――
同じく市立深淵高等学校三年生。キューティクルなボブカットと大きな目が特徴的な小柄な女の子。成績は席次上位に数えられるほど優秀であり、恋人の下総にいつも勉強を教えてあげている。
「あ。また間違えた。さっきと同じ問題だよ」
「ゲッ!」
「蔚留くん同じ問題で間違えるの三回目。ちゃんと授業に出ないし嫌々やってるから同じ間違いしちゃうんだよ。ていうかこっちのコレは例題だよ。先生、授業で説明してたでしょ」
真珠は「やれやれ」というように頭を横に振りながら深い溜息を吐いた。
「授業聞いて解るならわざわざオマエに教えてもらわへんッ」
「蔚留くん普通はね、授業を聞いて理解するんだよ」
「くあ~っ‼💢💢 もうちょお優しい言い方してくれ。ヤル気失せるッ」
蔚留は怒りと悔しさで、力いっぱいシャーペンを握った。
「そんなんだからいつまで経っても社会人になれないんだよ、蔚留くんは」
バッキィッ!
真珠の歯に衣着せない罵声に耐えられなくなった下総は、握っていたシャープペンシルを怒りに任せて真っ二つに折ってしまった。
「ちょーっ! ソレ真珠がお気に入りのシャーペン!」
「ガミガミガミガミ言うてるけどなァ、オマエかて俺と同じ高三やろがタマ!」
「真珠は蔚留くんみたいにバカだから留年したわけじゃないもんっ」
「バカって言うなや~~っ!」
チャリリンッ。
店の扉が開いてベルが鳴り、下総と真珠はそちらのほうへ顔を向けた。
真っ白の詰め襟の学生服を着たふたりの男が入店してきた。あまりにも特徴的で人目を引くその制服はこの街の住人ならば知らぬ者はいない、荒菱館高等学校のものだ。
下総は何も言わずカウンターの上に拡げてある教科書に顔を引き戻した。
しかしながら、真珠は素直に関心のままにふたり組を目で追った。荒菱館高校の制服は悪目立ちするから一目見れば大概の人間は忘れられない。真珠も例外ではなかった。
「ねぇ蔚留くん、あの制服って荒菱館だよね? やっぱスゴイ目立つね」
下総は真珠の質問を意図的に無視して無関心・無関係を装おうとしたが、真珠は荒菱館高校のふたり組からいつまでも目を離そうとしないかった。
「あんれ~。そこにいるのは深淵の下総クンじゃねェの」
自分を名指ししたその声には、下総も聞き覚えがあった。しかし彼は顔を上げず、やはり無視しようとした。
真珠は下総を肘で控え目につんつんと突いた。
「蔚留くん、知ってる人?」
下総は真珠にも何も応えず、ペラッと教科書のページを捲った。真珠は、下総の表情を見て、苛ついているのでも怒っているのでもないということは分かったが、同時に「無視しろ」と言っているのも察した。優等生の真珠は、下総たちの世界の常識や正しい振る舞い方など知らない。だから下総の言うとおりに行動することにした。ササッと下総と同じように教科書へと顔を向けた。
声の主は下総に覆い被さるようにしてドサッと肩を組んだ。その人物とは澤木曜至だ。
「へー珍しいこともあるモンだな。勉強中?」
声の主は下総が無視を決めこんでいる割にはフレンドリーだったから、真珠はつい顔を上げてしまった。その人物は真珠と目が合い、ニカッと微笑みかけてきた。
(あ。カッコイイ人だー✨)
そう、曜至は見目がよいのだ。数え切れないほどの女を渡り歩いてきただけはある。
「下総のカノジョ?」
曜至から直球で尋ねられ、真珠は小さな声で「う、うん」と答えた。
「へー。カワイイじゃん」
下総は肩を回して曜至の腕を振り払った。自分が無視を決めこんだら人の良さそうな真珠から懐柔しようとするのが忌々しい。
「俺は今忙しい。邪魔すんなや、どっか行け」
「ンな邪険にすんなよー。俺とお前の仲じゃん」
「オマエと仲良うした覚えはあれへん」
「長い付き合いには違いねェだろ」
曜至が迷惑そうにしている下総に絡んでいると「曜至君」と呼ばれた。彼が振り返ると、同じ真っ白の学生服を着た金髪の男がテーブル席から手招きしていた。
「女連れのときは勘弁したりぃな」
「美作ァ。お前も下総と仲よくしてやれよ。深淵のキングだぞ、キング」
「オマエがキング言うなっ」
下総は曜至に向かってがなった。
美作は呆れ顔だった。曜至は大方、下総が女連れでいたことが少々気に入らなかったのであろう。その程度のことで美作は人に絡む気にはなれないし、曜至には付き合いきれない。
「もう少ししたら近江さんも来はるさかい大人しく待っとこーや」
下総は「ゲエッ!」と声を上げて顔を顰めた。そして苦虫を噛み潰したような表情。
「何でよりによって俺らが来とるときに来よんねん~、あのデカブツ」
「オマエの店ちゃうやろが」
美作からサラッと言い返され、下総は「あ?」と美作を睨んだ。
「オマエんとともちゃうやろが。偉そーな口叩くなジャリ」
普段は温厚な美作も、高圧的に言い返されればムッとして当然だ。美作は下総を睨み返し、下総も黙って美作を睨み続けた。
真珠には、下総と美作の間に流れるピリッと張り詰めた空気がとても居心地悪かった。「蔚留くん」と下総の制服の袖を掴んでツンツンと引っ張った。それはやめようよという合図。下総はチッと舌打ちして美作から目を離した。
曜至はカウンタに手を突き、下総と真珠が広げている教科書を覗きこんだ。
「カレシと勉強会?」
人のよい真珠は話しかけられれば無視をすることなどできず、小さな声で「う、うん」と答えた。
「涙ぐましいねえ。卒業する気あるんだな、お前」
「あるに決まっとるやろ」
曜至にフッと笑われ、下総は気分がよくなかったがぶっきら棒に答えた。
曜至は下総の前の教科書をトントンと指で叩いた。
「この問題もできねェんじゃ難しいんじゃねェの。俺でも分かるぞコレ。ああ、卒業するのって来年の話?」
「ンなわけあるか~~ッ」
「キングでもサスガにこれ以上ダブったら恥ずかしいもんなァ。二十歳で学ラン、嫌だもんなあ」
「ガッチャガチャじゃかしいんじゃ! ダブリにダブリ言われる筋合いあれへんねん。どんなぶっとい神経しとったらそんな偉そーな口叩けんねんッ」
ドンッ、と下総はカウンターの上に拳を落とした。
「ムキになんなよ~。どんだけ熱くなってもお前がダブリっつう事実は変わんねェぞ♪」
「せやから! オマエは何でそんな他人事やねん! オイ、ダブりーーッ!」
下総に怒鳴られても曜至は余裕。数多の女を堕としてきた見事な顔でニッと笑った。
「顔面の違い?」
「ブッ殺す!」
下総はカウンター席から立ち上がって曜至の胸座に掴みかかった。
真珠も慌てて立ち上がって下総の袖を握り締めた。
「蔚留くん! お店で暴れちゃダメだよっ」
チャリリンッ。
お客様の入店を知らせる呼び鈴。マスターはガラの悪い高校生が掴み合いをしているのを余所目に、冷静に「いらっしゃいませ」と告げた。
真っ白の学生服を着た巨体が頭を下げて鴨居を避け、ぬっと店の中に入ってきた。渋撥だと分かった途端、下総は「ゲッ」と一声漏らした。
「近江さん、アンタひとりで……」
曜至は言いかけて停まった。渋撥の巨体に隠されて、その背後に細い白い足がチラチラと見えた。
曜至がカウンターから離れ近づいてきても、渋撥は動じなかった。もしも曜至が禮の正体に気づいた場合、そして禮を攻撃対象とした場合、渋撥は曜至を殴り倒そうと考えをまとめた。
曜至は渋撥の背中を覗きこんだ。そこにはセーラー服の少女。
禮は曜至と目が合うとすぐに逸らし、少々おどおどしながら半歩距離を取った。曜至が恐ろしいのではなく、禮は若干人見知りなのだ。
曜至はそのような禮の性格など知る由もなく、無遠慮にズイッと顔を近づけてジーッと凝視した。
「この女……」
渋撥は片腕を曜至の前に伸ばして禮と隔てた。残りの手で拳を握った。
曜至はガバッと頭を上げ、くわっと眼光を強くして渋撥の顔を見た。
「マジでむちゃくちゃカワイイじゃねェかーーッ!」
渋撥はピタッと停止し、片方の瞼を引き上げた。
「……は?」
「アンタ、俺に黙ってこんなイケてる女喰ったのかよ! この鬼畜ッ! ズリイッ! マジでズリーぞ! 今まで散々俺に世話になったクセに肝心なことは黙ってやがる!」
曜至の脳内では禮と去年の事件は結びつかなかったらしい。確かに察しのよい鶴榮でさえ、スイッチオン・オフの禮が同一人物であると判じるのに時間がかかっていた。
渋撥は禮の身を案じたが取り越し苦労で済み、「ふう」と息を吐いて腕を引っこめた。
「アンタ昔からそういうところあんだよなー」
曜至はチェッと口を尖らせ、視線を渋撥から禮のほうへ移動させた。禮へ一歩近づいてまたジロジロと観察する。
「しっかし新入生ナンバーワンやべえな✨ 一般人レベルじゃねェじゃん。んー? この顔どこかで会ったこと……」
「近づきすぎや。禮が怖がるやろ」
渋撥は曜至の肩を掴み、禮から離れるようにグイッと押した。それから禮の頭に手を置いてポンポンと撫でた。
渋撥から「禮」と呼ばれ、禮は申し訳なさそうに眉尻を下げて上目遣いに渋撥を見上げた。
「ごめん……知らん人の前はちょお緊張して……。みんなウチより学年上の人やろし」
(何やコレ小動物か。子犬か子猫か、イヤ、天使か。俺の後ろでオドオドしとる禮はむちゃくちゃカワイイな。もうずっとオドオドしとってくれへんか。スイッチ入ったら別人みたいになるしな)
渋撥は大丈夫だと安心づけるように禮の頭を再びぐりぐりと撫でた。
禮は渋撥の制服を指で抓み、その背後からひょこっと顔を出した。
「相模……禮です。ヨロシクおねがいシマス……」
上目遣いに控えめに自己紹介をしてペコッと小さく頭を下げた。
下総は、渋撥の背後からようやく顔を出した禮を見て、目を丸くしてカパーッと下顎を開いた。
「……え。何やコレ」
「俺のオンナや」
「でぇぇえええーーっ⁉」
下総の驚愕の声が店内に響き渡った。
真珠はカウンター席から背を伸ばし、禮を見て「へー」と零した。
「脅迫、ダメ、絶対!」
下総は指を差して渋撥を批難したが、渋撥は無視した。四谷も下総も言うことは同レベル。真面に相手にするつもりはなかった。
渋撥は店の奥へと足を動かし出し、禮もいそいそとそのあとに続いた。
渋撥と禮が通りかかり、真珠はカウンター席のチェアから降りた。そして禮の前に立った。真珠は禮よりもかなり小柄だった。
禮は目線を下げてキョトンとした。
「こんにちは。蔚留くんのカノジョです」
「こ、こんにちは。シゲルくん……?」
真珠は自分の隣に立っている下総を指差し、禮は下総にペコッとお辞儀した。
「ぜんぜん近江くんのカノジョぽくないね」
真珠は大きなくりくりの目に禮を映してそう言った。不意打ちを食らった禮は「え」と零した。悪意はなさそうだが、否、だからこそどういう意味合いで面と向かってそのようなことを言ったのだろう。
真珠は背伸びをして禮に顔と顔を近づけた。禮は後退ろうとしたが、すぐに背中が渋撥にぶつかってそれ以上真珠から離れることができなかった。
「はあーお人形さんみたーい✨ 顔ちっちゃいし肌キレエだし睫毛長ーい。全部羨ましー」
「オマエ。下総のオンナにしては分かる女やな」
禮が賛辞を受けるのは渋撥も気分がよい。
真珠は禮の手をパシッと捕まえ、渋撥を見上げた。
「ちょっと女の子同士でお話ししていーい?」
渋撥は了承して美作が座っている店の最奥のテーブルへ向かった。
禮は半ば呆気に取られ、真珠に手を引かれて一番近くのテーブル席に座らされた。真珠は禮を奥へと押し遣り、自分も禮の隣に座った。それからチラリと渋撥を見て、彼が丁度テーブル席につくところであり、此方を特段意識していないことを確認した。
真珠は禮のほうへ顔を引き戻し、体が引っ付きそうなほどさらに間を詰めた。
「わたし、真珠です。深淵高校の三年生」
「相模禮デス。一年、デス」
「一年生なのっ? なんか初々しくてカワイイなあとは思ったけど」
禮は若干人見知りな性格もあり真珠の押しの強さに気圧され、肩を縮めて恐縮してしまった。
「あ、さっきの気を悪くしないでね。悪い意味じゃないの。近江くんと違ってあなたがとってもいい子そうだから……イヤ、これも言い方よくないか。えーと、何て言えばいいかな……要するに、近江くんって不良じゃない」
真珠は自分でも思った以上に大きな声でハッキリと言ってしまった。
これは流石に店内の全員の耳に届いた。渋撥の動作が一瞬ピクッと停止し、美作はプッと噴き出した。
「真珠もね、蔚留くんもアレだから人のこと言えないんだけどー」
アレとはどういう意味だろう、と禮はチラッとカウンター席のほうを見た。長めの襟足がピンピンと撥ねた後ろ姿。片耳のゴールドのピアスがキラッと光った。いまだ以て曜至と何かしら喧嘩にもならない言い合いをしている様子だ。
「会ったばっかりでこういうこと聞くのアレなんだけどね。真珠のこと変な人だと思わないでね。……付き合ってみた感じ近江くんって、どう?」
「え?」
禮は真珠へと意識を引き戻した。
「近江くんって荒菱館で一番エライ人なんでしょ。そういう人たちって恐い人多いじゃない。近江くんは特に見た目もホラ……感情が無さそうというか、取って食いそうというか、人間を人間と思ってなさそうというか……ハッキリ言っちゃうとだいぶ恐いじゃない?」
真珠の歯に衣着せない物言いに禮は苦笑した。荒菱館高校の王様は他校生からも随分な言われようだ。
「そんな恐い、ですか?」
「人に優しくしているところが微塵も想像できない」
真珠はキッパリと言い切った。
「だからカレシとしてはどうなのかなーって。付き合っててカップルっぽいかんじになる? 普段あんなだけどカノジョさんには優しかったりするの?」
「うん。ハッちゃん優しいデス」
「へえ~~。近江くんでもカノジョさんには優しいんだあ」
禮には真珠の言うカップルぽいというのがどういう雰囲気なのか分からなかったが、自分に対する渋撥の接し方は充分に優しいと思う。できる限り傍にいてくれて、話を聞いてくれて、傷つけないように触れてくれる。それで想いが通じ合っていれば充分じゃあないか。
「あとね、これが一番聞きたかったんだけど」
真珠はさらに禮に顔を近づけてきて、ついに体が引っ付いた。同性だし真珠から悪意は感じないし、禮は無理に離れようとはしなかった。
「蔚留くんもなんだけど……ああいう人たちって何故かモテるでしょ? 浮気されたことない?」
「浮気?」
禮は反射的に聞き返したあと、はてと考えこんだ。
(ハッちゃんてモテるのかなあ?)
高校入学前、渋撥の交友関係と言えば鶴榮と美作しか知らなかった。入学後、渋撥を目にする機会も一緒に過ごす時間も多くなったものの、荒菱館高校はほぼ男子校状態であるから彼の周囲は男ばかりだ。杏とは一悶着あったが、あれは杏自身に恋愛感情の好きではなかったと宣言された。従って、渋撥が異性に好意を持たれているところや、むしろ一緒にいるところすら、禮にはほぼイメージできなかった。
禮がそのようなことを考えている最中、曜至と話していたはずの下総がクルリと此方に体を向けた。
「オイ、タマ。オマエまた余計なこと言うてるやろ。さっきからチョイチョイ聞こえてんで。オマエ自分で思てるより声デカイからな」
「何も言ってませんけどー」
真珠はツンと下総とは反対方向に顔を向けた。
下総は禮と真珠のテーブルに近づき、真珠の向こうにいる禮の顔をジーッと凝視した。
「ちゅうかほんまに近江と付き合うてるんか? 弱味握られとるんか?」
曜至もやって来てテーブルに手を突いた。
「それがよー、こんな人畜無害そうな見た目して、近江さんとガチで殴り合いしたらしいぜ。交流会で近江さん指名したんだって?」
「人前でカレシどつくんか。カワイイ顔してえげつなッ」
「そ、それはそういう行事やよって言われたから……」
「それでも切れてねェってことは近江さんが許してるってことだもんな。あの人がこういうのがタイプだったとはねー」
禮は弁明しようとしたが、腕組みをした曜至が首を伸ばしてきて遮られた。曜至は斜め上から、斜め下から、横から、様々な角度から禮の顔を観察した。
禮は、下総と曜至から値踏みするかのようにジロジロと見られるのは流石に居心地が悪かった。チラッと横目で曜至を見た。
「ハッちゃんて、モテますカ?」
「モテるぜ。俺の次に」
曜至はニヤッと笑って自信満々で断言した。下総は「ケッ」と言い捨てた。
「何たって《荒菱館の近江》だからな。だが、あの人絶望的に愛想ねェから、実は俺のお陰っていう部分がかなりデカイ。これまでだって俺がどれだけオンナ回して――」
ズガァンッ!
店の奥から何かが高速で飛んできて曜至の側頭部にぶち当たった。
投げたのは勿論渋撥だ。美作は心のなかでフフフと笑いながらコーヒーを啜った。
(曜至君ほんまアホやな)
曜至は頭を手で押さえて渋撥をキッと睨んだ。
「何すんだよ! こんな硬ェモン投げんなッ」
渋撥が放り投げたのはジッポーライター。曜至の足許に転がっていた。
「禮。こっち来い」
渋撥は曜至を無視して禮をチョイチョイと手招きした。悪意のあるなしは不明だが黙って聞いていれば曜至は余計なことを禮に吹きこむ。これ以上は一秒たりとも会話させないほうが吉だと判断した。
禮は「ゴメンナサイ」と言って真珠に退いてもらいテーブル席から出た。曜至の靴の傍に転がっているシルバーのジッポーライターを拾い上げ、渋撥と美作がいる店の最奥のテーブルへとやや小走りで辿り着いた。
渋撥が手の平を出し、禮はジッポーライターを置いた。それから禮は渋撥の隣に座った。渋撥は、この時禮がホッとしたように小さな息を吐いたことを見逃さなかった。これは禮が自分に対しては圧倒的に気を許している、信頼を置いている証拠に違いない。曜至に害された気分が少しだけよくなった。
「下総のオンナに何言われた」
「近江くんてめちゃめちゃ悪い不良やでー、とか?」
美作は笑いながら冗談で言ったのだが、渋撥にジロッと睨まれた。グッと口を噤んでコーヒーカップを唇に押しつけた。
「ハッちゃんも蔚留くんもモテるんやよって。浮気されてないかって」
「分かる女やと思たのにロクなこと言わんな」
渋撥は眉間に皺を寄せて煙を深く吸いこんだ。
「オンナがそんなこと禮ちゃんに訊いてくるっちゅうことは下総はしたんでっしゃろなー、浮気」
美作はそう言って、下総と真珠がいるテーブルのほうを振り返った。
荒菱館高校と深淵高校の丁度中間地点に位置し、どちらの王様も御用達にしているという、因果な喫茶店であった。両校はかつて激しく対立し、今尚友好関係ではないが、双方ともにこの店ではもめ事を起こさないことが暗黙の了解となっており、ひとつの緩衝地帯であった。
カウンター席で制服姿の一組の男女が教科書を広げ、学生特有のプチ勉強会の真っ最中。男子学生のほうが女子学生に教えを請うているようで、男子学生は教科書と睨めっこをして頭を抱えていた。
マスターはカウンターのなかで黙々とコップを磨いていた。今は他に客もいないので若干騒がしくとも看過してくれる寛容な人だ。
下総 蔚留[シモウサ シゲル]――――
市立深淵高等学校三年生。顎には無精髭を生やし、右の耳にはゴールドのピアス。少々長めの襟足がピンピンとあちこちの方向へと跳ねている。
彼はしばらく前まで深淵高校で多くの信奉を集め〝キング〟として君臨し、学内で絶大なる権力を揮っていた。しかし、最上級生に進級するや否や早々に引退を表明。現在では卒業を目指して日々勉学に勤しんでいる。
川澄 真珠[カワスミ マタマ]――――
同じく市立深淵高等学校三年生。キューティクルなボブカットと大きな目が特徴的な小柄な女の子。成績は席次上位に数えられるほど優秀であり、恋人の下総にいつも勉強を教えてあげている。
「あ。また間違えた。さっきと同じ問題だよ」
「ゲッ!」
「蔚留くん同じ問題で間違えるの三回目。ちゃんと授業に出ないし嫌々やってるから同じ間違いしちゃうんだよ。ていうかこっちのコレは例題だよ。先生、授業で説明してたでしょ」
真珠は「やれやれ」というように頭を横に振りながら深い溜息を吐いた。
「授業聞いて解るならわざわざオマエに教えてもらわへんッ」
「蔚留くん普通はね、授業を聞いて理解するんだよ」
「くあ~っ‼💢💢 もうちょお優しい言い方してくれ。ヤル気失せるッ」
蔚留は怒りと悔しさで、力いっぱいシャーペンを握った。
「そんなんだからいつまで経っても社会人になれないんだよ、蔚留くんは」
バッキィッ!
真珠の歯に衣着せない罵声に耐えられなくなった下総は、握っていたシャープペンシルを怒りに任せて真っ二つに折ってしまった。
「ちょーっ! ソレ真珠がお気に入りのシャーペン!」
「ガミガミガミガミ言うてるけどなァ、オマエかて俺と同じ高三やろがタマ!」
「真珠は蔚留くんみたいにバカだから留年したわけじゃないもんっ」
「バカって言うなや~~っ!」
チャリリンッ。
店の扉が開いてベルが鳴り、下総と真珠はそちらのほうへ顔を向けた。
真っ白の詰め襟の学生服を着たふたりの男が入店してきた。あまりにも特徴的で人目を引くその制服はこの街の住人ならば知らぬ者はいない、荒菱館高等学校のものだ。
下総は何も言わずカウンターの上に拡げてある教科書に顔を引き戻した。
しかしながら、真珠は素直に関心のままにふたり組を目で追った。荒菱館高校の制服は悪目立ちするから一目見れば大概の人間は忘れられない。真珠も例外ではなかった。
「ねぇ蔚留くん、あの制服って荒菱館だよね? やっぱスゴイ目立つね」
下総は真珠の質問を意図的に無視して無関心・無関係を装おうとしたが、真珠は荒菱館高校のふたり組からいつまでも目を離そうとしないかった。
「あんれ~。そこにいるのは深淵の下総クンじゃねェの」
自分を名指ししたその声には、下総も聞き覚えがあった。しかし彼は顔を上げず、やはり無視しようとした。
真珠は下総を肘で控え目につんつんと突いた。
「蔚留くん、知ってる人?」
下総は真珠にも何も応えず、ペラッと教科書のページを捲った。真珠は、下総の表情を見て、苛ついているのでも怒っているのでもないということは分かったが、同時に「無視しろ」と言っているのも察した。優等生の真珠は、下総たちの世界の常識や正しい振る舞い方など知らない。だから下総の言うとおりに行動することにした。ササッと下総と同じように教科書へと顔を向けた。
声の主は下総に覆い被さるようにしてドサッと肩を組んだ。その人物とは澤木曜至だ。
「へー珍しいこともあるモンだな。勉強中?」
声の主は下総が無視を決めこんでいる割にはフレンドリーだったから、真珠はつい顔を上げてしまった。その人物は真珠と目が合い、ニカッと微笑みかけてきた。
(あ。カッコイイ人だー✨)
そう、曜至は見目がよいのだ。数え切れないほどの女を渡り歩いてきただけはある。
「下総のカノジョ?」
曜至から直球で尋ねられ、真珠は小さな声で「う、うん」と答えた。
「へー。カワイイじゃん」
下総は肩を回して曜至の腕を振り払った。自分が無視を決めこんだら人の良さそうな真珠から懐柔しようとするのが忌々しい。
「俺は今忙しい。邪魔すんなや、どっか行け」
「ンな邪険にすんなよー。俺とお前の仲じゃん」
「オマエと仲良うした覚えはあれへん」
「長い付き合いには違いねェだろ」
曜至が迷惑そうにしている下総に絡んでいると「曜至君」と呼ばれた。彼が振り返ると、同じ真っ白の学生服を着た金髪の男がテーブル席から手招きしていた。
「女連れのときは勘弁したりぃな」
「美作ァ。お前も下総と仲よくしてやれよ。深淵のキングだぞ、キング」
「オマエがキング言うなっ」
下総は曜至に向かってがなった。
美作は呆れ顔だった。曜至は大方、下総が女連れでいたことが少々気に入らなかったのであろう。その程度のことで美作は人に絡む気にはなれないし、曜至には付き合いきれない。
「もう少ししたら近江さんも来はるさかい大人しく待っとこーや」
下総は「ゲエッ!」と声を上げて顔を顰めた。そして苦虫を噛み潰したような表情。
「何でよりによって俺らが来とるときに来よんねん~、あのデカブツ」
「オマエの店ちゃうやろが」
美作からサラッと言い返され、下総は「あ?」と美作を睨んだ。
「オマエんとともちゃうやろが。偉そーな口叩くなジャリ」
普段は温厚な美作も、高圧的に言い返されればムッとして当然だ。美作は下総を睨み返し、下総も黙って美作を睨み続けた。
真珠には、下総と美作の間に流れるピリッと張り詰めた空気がとても居心地悪かった。「蔚留くん」と下総の制服の袖を掴んでツンツンと引っ張った。それはやめようよという合図。下総はチッと舌打ちして美作から目を離した。
曜至はカウンタに手を突き、下総と真珠が広げている教科書を覗きこんだ。
「カレシと勉強会?」
人のよい真珠は話しかけられれば無視をすることなどできず、小さな声で「う、うん」と答えた。
「涙ぐましいねえ。卒業する気あるんだな、お前」
「あるに決まっとるやろ」
曜至にフッと笑われ、下総は気分がよくなかったがぶっきら棒に答えた。
曜至は下総の前の教科書をトントンと指で叩いた。
「この問題もできねェんじゃ難しいんじゃねェの。俺でも分かるぞコレ。ああ、卒業するのって来年の話?」
「ンなわけあるか~~ッ」
「キングでもサスガにこれ以上ダブったら恥ずかしいもんなァ。二十歳で学ラン、嫌だもんなあ」
「ガッチャガチャじゃかしいんじゃ! ダブリにダブリ言われる筋合いあれへんねん。どんなぶっとい神経しとったらそんな偉そーな口叩けんねんッ」
ドンッ、と下総はカウンターの上に拳を落とした。
「ムキになんなよ~。どんだけ熱くなってもお前がダブリっつう事実は変わんねェぞ♪」
「せやから! オマエは何でそんな他人事やねん! オイ、ダブりーーッ!」
下総に怒鳴られても曜至は余裕。数多の女を堕としてきた見事な顔でニッと笑った。
「顔面の違い?」
「ブッ殺す!」
下総はカウンター席から立ち上がって曜至の胸座に掴みかかった。
真珠も慌てて立ち上がって下総の袖を握り締めた。
「蔚留くん! お店で暴れちゃダメだよっ」
チャリリンッ。
お客様の入店を知らせる呼び鈴。マスターはガラの悪い高校生が掴み合いをしているのを余所目に、冷静に「いらっしゃいませ」と告げた。
真っ白の学生服を着た巨体が頭を下げて鴨居を避け、ぬっと店の中に入ってきた。渋撥だと分かった途端、下総は「ゲッ」と一声漏らした。
「近江さん、アンタひとりで……」
曜至は言いかけて停まった。渋撥の巨体に隠されて、その背後に細い白い足がチラチラと見えた。
曜至がカウンターから離れ近づいてきても、渋撥は動じなかった。もしも曜至が禮の正体に気づいた場合、そして禮を攻撃対象とした場合、渋撥は曜至を殴り倒そうと考えをまとめた。
曜至は渋撥の背中を覗きこんだ。そこにはセーラー服の少女。
禮は曜至と目が合うとすぐに逸らし、少々おどおどしながら半歩距離を取った。曜至が恐ろしいのではなく、禮は若干人見知りなのだ。
曜至はそのような禮の性格など知る由もなく、無遠慮にズイッと顔を近づけてジーッと凝視した。
「この女……」
渋撥は片腕を曜至の前に伸ばして禮と隔てた。残りの手で拳を握った。
曜至はガバッと頭を上げ、くわっと眼光を強くして渋撥の顔を見た。
「マジでむちゃくちゃカワイイじゃねェかーーッ!」
渋撥はピタッと停止し、片方の瞼を引き上げた。
「……は?」
「アンタ、俺に黙ってこんなイケてる女喰ったのかよ! この鬼畜ッ! ズリイッ! マジでズリーぞ! 今まで散々俺に世話になったクセに肝心なことは黙ってやがる!」
曜至の脳内では禮と去年の事件は結びつかなかったらしい。確かに察しのよい鶴榮でさえ、スイッチオン・オフの禮が同一人物であると判じるのに時間がかかっていた。
渋撥は禮の身を案じたが取り越し苦労で済み、「ふう」と息を吐いて腕を引っこめた。
「アンタ昔からそういうところあんだよなー」
曜至はチェッと口を尖らせ、視線を渋撥から禮のほうへ移動させた。禮へ一歩近づいてまたジロジロと観察する。
「しっかし新入生ナンバーワンやべえな✨ 一般人レベルじゃねェじゃん。んー? この顔どこかで会ったこと……」
「近づきすぎや。禮が怖がるやろ」
渋撥は曜至の肩を掴み、禮から離れるようにグイッと押した。それから禮の頭に手を置いてポンポンと撫でた。
渋撥から「禮」と呼ばれ、禮は申し訳なさそうに眉尻を下げて上目遣いに渋撥を見上げた。
「ごめん……知らん人の前はちょお緊張して……。みんなウチより学年上の人やろし」
(何やコレ小動物か。子犬か子猫か、イヤ、天使か。俺の後ろでオドオドしとる禮はむちゃくちゃカワイイな。もうずっとオドオドしとってくれへんか。スイッチ入ったら別人みたいになるしな)
渋撥は大丈夫だと安心づけるように禮の頭を再びぐりぐりと撫でた。
禮は渋撥の制服を指で抓み、その背後からひょこっと顔を出した。
「相模……禮です。ヨロシクおねがいシマス……」
上目遣いに控えめに自己紹介をしてペコッと小さく頭を下げた。
下総は、渋撥の背後からようやく顔を出した禮を見て、目を丸くしてカパーッと下顎を開いた。
「……え。何やコレ」
「俺のオンナや」
「でぇぇえええーーっ⁉」
下総の驚愕の声が店内に響き渡った。
真珠はカウンター席から背を伸ばし、禮を見て「へー」と零した。
「脅迫、ダメ、絶対!」
下総は指を差して渋撥を批難したが、渋撥は無視した。四谷も下総も言うことは同レベル。真面に相手にするつもりはなかった。
渋撥は店の奥へと足を動かし出し、禮もいそいそとそのあとに続いた。
渋撥と禮が通りかかり、真珠はカウンター席のチェアから降りた。そして禮の前に立った。真珠は禮よりもかなり小柄だった。
禮は目線を下げてキョトンとした。
「こんにちは。蔚留くんのカノジョです」
「こ、こんにちは。シゲルくん……?」
真珠は自分の隣に立っている下総を指差し、禮は下総にペコッとお辞儀した。
「ぜんぜん近江くんのカノジョぽくないね」
真珠は大きなくりくりの目に禮を映してそう言った。不意打ちを食らった禮は「え」と零した。悪意はなさそうだが、否、だからこそどういう意味合いで面と向かってそのようなことを言ったのだろう。
真珠は背伸びをして禮に顔と顔を近づけた。禮は後退ろうとしたが、すぐに背中が渋撥にぶつかってそれ以上真珠から離れることができなかった。
「はあーお人形さんみたーい✨ 顔ちっちゃいし肌キレエだし睫毛長ーい。全部羨ましー」
「オマエ。下総のオンナにしては分かる女やな」
禮が賛辞を受けるのは渋撥も気分がよい。
真珠は禮の手をパシッと捕まえ、渋撥を見上げた。
「ちょっと女の子同士でお話ししていーい?」
渋撥は了承して美作が座っている店の最奥のテーブルへ向かった。
禮は半ば呆気に取られ、真珠に手を引かれて一番近くのテーブル席に座らされた。真珠は禮を奥へと押し遣り、自分も禮の隣に座った。それからチラリと渋撥を見て、彼が丁度テーブル席につくところであり、此方を特段意識していないことを確認した。
真珠は禮のほうへ顔を引き戻し、体が引っ付きそうなほどさらに間を詰めた。
「わたし、真珠です。深淵高校の三年生」
「相模禮デス。一年、デス」
「一年生なのっ? なんか初々しくてカワイイなあとは思ったけど」
禮は若干人見知りな性格もあり真珠の押しの強さに気圧され、肩を縮めて恐縮してしまった。
「あ、さっきの気を悪くしないでね。悪い意味じゃないの。近江くんと違ってあなたがとってもいい子そうだから……イヤ、これも言い方よくないか。えーと、何て言えばいいかな……要するに、近江くんって不良じゃない」
真珠は自分でも思った以上に大きな声でハッキリと言ってしまった。
これは流石に店内の全員の耳に届いた。渋撥の動作が一瞬ピクッと停止し、美作はプッと噴き出した。
「真珠もね、蔚留くんもアレだから人のこと言えないんだけどー」
アレとはどういう意味だろう、と禮はチラッとカウンター席のほうを見た。長めの襟足がピンピンと撥ねた後ろ姿。片耳のゴールドのピアスがキラッと光った。いまだ以て曜至と何かしら喧嘩にもならない言い合いをしている様子だ。
「会ったばっかりでこういうこと聞くのアレなんだけどね。真珠のこと変な人だと思わないでね。……付き合ってみた感じ近江くんって、どう?」
「え?」
禮は真珠へと意識を引き戻した。
「近江くんって荒菱館で一番エライ人なんでしょ。そういう人たちって恐い人多いじゃない。近江くんは特に見た目もホラ……感情が無さそうというか、取って食いそうというか、人間を人間と思ってなさそうというか……ハッキリ言っちゃうとだいぶ恐いじゃない?」
真珠の歯に衣着せない物言いに禮は苦笑した。荒菱館高校の王様は他校生からも随分な言われようだ。
「そんな恐い、ですか?」
「人に優しくしているところが微塵も想像できない」
真珠はキッパリと言い切った。
「だからカレシとしてはどうなのかなーって。付き合っててカップルっぽいかんじになる? 普段あんなだけどカノジョさんには優しかったりするの?」
「うん。ハッちゃん優しいデス」
「へえ~~。近江くんでもカノジョさんには優しいんだあ」
禮には真珠の言うカップルぽいというのがどういう雰囲気なのか分からなかったが、自分に対する渋撥の接し方は充分に優しいと思う。できる限り傍にいてくれて、話を聞いてくれて、傷つけないように触れてくれる。それで想いが通じ合っていれば充分じゃあないか。
「あとね、これが一番聞きたかったんだけど」
真珠はさらに禮に顔を近づけてきて、ついに体が引っ付いた。同性だし真珠から悪意は感じないし、禮は無理に離れようとはしなかった。
「蔚留くんもなんだけど……ああいう人たちって何故かモテるでしょ? 浮気されたことない?」
「浮気?」
禮は反射的に聞き返したあと、はてと考えこんだ。
(ハッちゃんてモテるのかなあ?)
高校入学前、渋撥の交友関係と言えば鶴榮と美作しか知らなかった。入学後、渋撥を目にする機会も一緒に過ごす時間も多くなったものの、荒菱館高校はほぼ男子校状態であるから彼の周囲は男ばかりだ。杏とは一悶着あったが、あれは杏自身に恋愛感情の好きではなかったと宣言された。従って、渋撥が異性に好意を持たれているところや、むしろ一緒にいるところすら、禮にはほぼイメージできなかった。
禮がそのようなことを考えている最中、曜至と話していたはずの下総がクルリと此方に体を向けた。
「オイ、タマ。オマエまた余計なこと言うてるやろ。さっきからチョイチョイ聞こえてんで。オマエ自分で思てるより声デカイからな」
「何も言ってませんけどー」
真珠はツンと下総とは反対方向に顔を向けた。
下総は禮と真珠のテーブルに近づき、真珠の向こうにいる禮の顔をジーッと凝視した。
「ちゅうかほんまに近江と付き合うてるんか? 弱味握られとるんか?」
曜至もやって来てテーブルに手を突いた。
「それがよー、こんな人畜無害そうな見た目して、近江さんとガチで殴り合いしたらしいぜ。交流会で近江さん指名したんだって?」
「人前でカレシどつくんか。カワイイ顔してえげつなッ」
「そ、それはそういう行事やよって言われたから……」
「それでも切れてねェってことは近江さんが許してるってことだもんな。あの人がこういうのがタイプだったとはねー」
禮は弁明しようとしたが、腕組みをした曜至が首を伸ばしてきて遮られた。曜至は斜め上から、斜め下から、横から、様々な角度から禮の顔を観察した。
禮は、下総と曜至から値踏みするかのようにジロジロと見られるのは流石に居心地が悪かった。チラッと横目で曜至を見た。
「ハッちゃんて、モテますカ?」
「モテるぜ。俺の次に」
曜至はニヤッと笑って自信満々で断言した。下総は「ケッ」と言い捨てた。
「何たって《荒菱館の近江》だからな。だが、あの人絶望的に愛想ねェから、実は俺のお陰っていう部分がかなりデカイ。これまでだって俺がどれだけオンナ回して――」
ズガァンッ!
店の奥から何かが高速で飛んできて曜至の側頭部にぶち当たった。
投げたのは勿論渋撥だ。美作は心のなかでフフフと笑いながらコーヒーを啜った。
(曜至君ほんまアホやな)
曜至は頭を手で押さえて渋撥をキッと睨んだ。
「何すんだよ! こんな硬ェモン投げんなッ」
渋撥が放り投げたのはジッポーライター。曜至の足許に転がっていた。
「禮。こっち来い」
渋撥は曜至を無視して禮をチョイチョイと手招きした。悪意のあるなしは不明だが黙って聞いていれば曜至は余計なことを禮に吹きこむ。これ以上は一秒たりとも会話させないほうが吉だと判断した。
禮は「ゴメンナサイ」と言って真珠に退いてもらいテーブル席から出た。曜至の靴の傍に転がっているシルバーのジッポーライターを拾い上げ、渋撥と美作がいる店の最奥のテーブルへとやや小走りで辿り着いた。
渋撥が手の平を出し、禮はジッポーライターを置いた。それから禮は渋撥の隣に座った。渋撥は、この時禮がホッとしたように小さな息を吐いたことを見逃さなかった。これは禮が自分に対しては圧倒的に気を許している、信頼を置いている証拠に違いない。曜至に害された気分が少しだけよくなった。
「下総のオンナに何言われた」
「近江くんてめちゃめちゃ悪い不良やでー、とか?」
美作は笑いながら冗談で言ったのだが、渋撥にジロッと睨まれた。グッと口を噤んでコーヒーカップを唇に押しつけた。
「ハッちゃんも蔚留くんもモテるんやよって。浮気されてないかって」
「分かる女やと思たのにロクなこと言わんな」
渋撥は眉間に皺を寄せて煙を深く吸いこんだ。
「オンナがそんなこと禮ちゃんに訊いてくるっちゅうことは下総はしたんでっしゃろなー、浮気」
美作はそう言って、下総と真珠がいるテーブルのほうを振り返った。
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