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自宅、リビングにて 〜認知をごちゃ混ぜにすると寝られる〜
しおりを挟むふとした瞬間に秋を感じる時期になってきた。
夕方、半袖で外に出ると肌寒さを覚える、8月の終わり。
長かった夏休みが終わりを迎えようとしている。
「はあ……」
わたしは盛大なため息をつきながら、テキストに書いてある英文をひたすらにノートに書き写していた。
夏休みの課題を片付けているところなのだが、この課題が一体何の役に立つのかが全くわからない。10ページほどの英文で書かれている小冊子を手渡され、その文を全てノートに書き写してこいというものだった。日本語訳バージョンも配布されているため、ノートの見開きでいう左側に英文を、右側に日本語文を書いて提出しろとのお達しだ。わりと細かい文字でびっしりと書いてある冊子だったので、書き写すとなると結構な時間とノートのページ数を消費する。
改めて思うがこれが何の役に立つのだろう。面倒臭さが勝ってしまって話の内容はおろか、文法や単語が何を表現しているのかすら頭に入ってこない。
うー、と小さな呻き声を上げつつ、気持ちを殺してひたすらにシャーペンの芯を消費し続けるわたしのもとに、兄の湊人が現れた。
「これ夏休みの課題か」
部屋着の半袖短パンに安物の棒アイスを口に咥えた兄の姿は、およそ20代とは思えないほど子供っぽい。
「そうだよ、これをただただこのノートに書き写すの」
「何の役に立つんだろうな、そんなの」
「あ、お兄ちゃんもやりたい?」
「今その課題の存在意義を問うてたおれが?」
「半分くらいだったらいいよ」
「頼んでもないのに譲歩されちゃったよ、自分でやりなよ」
「分け合おうよ! Let's share!」
「課題に影響されて言語変わってるぞ」
わたしはバタッと机に突っ伏した。「だって疲れるんだもん」と呟く。顔の下敷きになったノートからは、シャーペンの芯から漂う独特なあの匂いがした。
◆◇◆
課題を楽しめる新しい方法を考えようと湊人が提案してきたのはその時だ。
漢字の書き取り練習など、ただ文字を書き写すだけ、みたいな課題は意外とある。そういった課題を楽に乗り越えるためにも、上手に気を紛らわしながらできる方法を考えようという発想だ。
「でもそれだと、課題は楽に終わっても何も身に付かなくない?」
「そんなもんだよ。課題で出された漢字を無理やり覚えるより、本に出てきた難しい漢字を自分から調べたほうがよっぽど覚えるだろ。身につくかどうかは置いといて、課題をやらないといけないっていう重圧から逃げる方が先決だ」
それは確かに。まずもって『やらされている』という感覚でいる時点でそこまでの効果は得られなさそうだ。
「じゃあ、どうしよっか。まずは基本的なところで、音楽を聴きながらやるとか」
「まあ最初に出てくる手法だよなー」
音楽を聴きながら課題をやる、なんて、やったことがない人の方が少ないだろう。もちろん、兄がそんなもので満足するはずがない。案の定「でも一般的すぎて面白くないなー」と言ってきた。
「音楽を聴くにしても、わけわからないやつ聴いててほしいよな。認知シャッフル睡眠法のASMRとか」
認知シャッフル睡眠法とは、『焼肉、スリッパ、美術展……』などと全く関連性のない言葉を一定の時間を空けて聴くことにより、いつのまにか入眠しているという睡眠法のことだ。さすがに攻めすぎている。
「身につかないどころか課題がそもそも終わらないじゃない。寝ちゃうもん」
「寝ている間に小人が終わらせてくれてるかもしれないぞ」
「急に童話の世界にご招待されても」
話しながら、湊人には申し訳ないがわたしはずっとノートと向き合って英文を書き写していた。こうしている間にもどんどん進めないと、本当に終わらない。だが話しながらやっているからか、適度に気が紛れてさっきより進みがいい気がする。
「お兄ちゃん、この感じいいかもしれない」
「この感じ?」
「誰かとずっと話しながら、みたいな。オートモードで手だけは動かしながら、そこまで混み合ってない話をするのっていい感じに気が紛れるよ」
ここで話が少し複雑だったりすると、おそらく手が止まってしまう。そこまで大事ではない話をしながらであるからこそ、バランスよく両方に意識を向けられているようだ。そしてそこからヒントを得た。
「しりとりしながら課題をやるのはどうだろう」
「おお、それは確かに面白いかもしれない。脳の活性化にもなりそうだ」
余計なルール(3文字のものしか言ってはいけないなど)さえつけなければ、これはかなりの単純作業だ。もちろんしりとりなら大事な内容になるわけもなく、これなら安心して気を紛らわせることができる。
「よし、わたしから行くね。じゃあしりとりの『り』」
言いながらわたしはノートから顔を上げない。しりとりの効果を検証する意味でも、課題は続けながら行わなくては。湊人は「よしきた」と、腕を組んで考え始める。
「単純な方がいいもんな。じゃあ……理科室の『つ』」
「えーと、積み木」
「き……き……期末テスト」
「と……トリガー」
お、これは想像以上にいいかもしれない。しりとりは別に迷うことなく単語が浮かんでくるし、課題は相変わらず写し続けるだけなのでほとんど支障がない。精神的負担も少なそうだ。
「トリガーだから、『ガ』でいいか。学内模試」
「神経」
「一夜漬け」
「……剣士」
「進路指導」
「…………うに」
「二者面談」
「負けてまでわたしを追い詰めたいか!」
期末テストが出てきたあたりからおかしな空気は感じていたのだ。的確に夏休み明けに起こる嫌なイベントを並べ立てるなんて!
目の前の湊人は随分と満足そうにニヤついている。しりとりをしようなんて思いつきで言ったことなのに、それを逆手に取られるとは思わなかった。もうしりとり作戦はやめにしよう。
もうすぐ夏休みが終わってしまうという現実に直面しつつも、今のやりとりの間にも課題が少し進んでくれたのは助かった。
この調子でやれば今夜あたりには終わるはず。
はずなのだが。単純作業をやり続けていたせいなのか。
「……眠い」
なぜかこのしりとりをしたことをピークに、わたしの眠気は一瞬で高まった。ついこの前、不眠に悩んでいた自分が嘘みたいだ。単純作業と単純作業を組み合わせるというのはこうも効果的なのか。
少し寝たっていいんじゃないか、という兄の声も遠くに聞こえて、わたしはそのまま机に伏して、寝る体勢に入った。
◆◇◆
ふっと目が覚めた。ぼんやりした頭のまま部屋の中を見回すと、カーテンが閉まっていて電気がついている。
カーテンの隙間から見える外は真っ暗だ。さっきまでは確実に明るかったはず……ということは。
「完全に寝過ごした……!!」
頭の中が一気にクリアになる。最悪だ。さっきのあのペースでさえ終わらないかもしれなかった課題が、これにて間違いなく終わらないものとなった。
「わたしは一体何時間ムダにしてしまったんだろ……あれ?」
あるべきものがそこにないことに、ようやく気づいた。ノートがない。なんならシャーペンもない。
記憶をたどる。
えーと、寝るときに机に伏して、そのときは間違いなくわたしの頭の下にノートはあったはずで……というかよく見たら湊人もいない。
思い立ち、2階の自室へ向かった。もしかしたらわたしがあまりに熟睡しているものだから、気を利かせて湊人が部屋に片付けてくれたのかもしれない。
案の定、わたしの勉強机の上にノートとシャーペンがきれいにまとまって置いてあった。「バイトに行ってきます」というメモ付きだった。
湊人は古本屋でバイトをしていて、夕方頃に家を出て遅い時は23時頃に帰ってくる。その時間ならわたしも起きているし、帰ってきてからお礼を言おう。
まだ少し時間があるし、湊人が帰って来るまで少しでも課題を進めようとノートを開いた瞬間。
「え……?」
驚いた。ノートに、びっしりと文字が書き込まれている。
左のページに英文、右のページに日本文が、ノートのページがなくなるギリギリまで書かれて、埋め尽くされている。
とっさにテキストの最後の1文と、ノートの最後のページを見比べてみた。書いてある文字が一致している。つまり。
「終わってる……」
課題が、完璧に終わっていた。わたしがやった?いや、間違いなくやり終わる前に寝てしまったはずだ。ということは、これをやったのは。
と、そこまで考えた時、ノートから小さなメモ用紙がヒラっと落ちてきた。つまみ上げてみてみると、文字が書かれている。
『寝ている間に小人さんが……なーんてな⭐︎』
「気持ちわるっ!!」
わたしはメモ用紙を全力で床に叩きつけた。
そう、わたしが居眠りをしている間に、湊人が代わりに課題を進めてくれていたのだ。驚くべき速筆。明らかにまだ3分の2くらいは残っていたのに全て終わらせるとは。
わたしが課題の文句を明け透けに言っていたから、兄なりに気を遣ってくれたのだろう。こうしてわたしの夏休みの課題は、寝ている間に完了するというなんとも斬新な終わりを遂げたのであった。
だが。
嬉しいのだが。
ありがたいんだが。
「……字が違すぎるよ!!」
わたしは誰にいうともなく叫ぶ。わたしと湊人の筆跡はあからさまに違う。湊人は実はやたらと字がうまいのだ。
あるページを境に字の完成度が別物級だ。硬筆教室に通った人のビフォーアフターみたいになっている。
これ、このまま提出して「なるほど、このタイミングで櫻子は書字に目覚めたのか!」と前向きに捉えてくれる先生はどれほどいるだろうか。
かといってこれをわざわざ全部消してやり直すというのはいかがなものか。湊人の好意を無駄にするのはもちろん、わたし自身もシンプルにきつい。
とりあえず、現状思いついた対応策は、わたしが書いた文字を全て消して、
『寝ている間に小人さんが……なーんちゃって⭐︎』
という文字を残して湊人の枕元に置いておくことだけだった。
そうすればきっと、また別の小人さんが消えた分の文章を書き足してくれることだろう。
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