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第1章 日本

07. 君が僕を知った ~迷子の子羊~

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 小学校にチャイムが鳴り響く。
 教室から見える空は、今朝までの大雨が嘘のように晴れ渡っている。
 いつもより早い時間での下校。
 帰り支度を終えた生徒達の足取りは軽く、明るい声がそこかしこから聞こえていた。
 一際たくさんの荷物を抱えながら下駄箱に向かう僕を、身軽な生徒が駆け足で追い越していく。
 計画性のない僕は、性懲りも無くそれを羨ましげに見送っていた。
 苦労して辿り着いた昇降口は、上履きも外靴も何も入っていない靴箱が整然と佇んでいる。
 この1年使い続けた靴箱なのに、しばらく自分の場所が分からず混乱する。
 何度も確認して、僕はようやくその事実に気が付いた。

 靴がない。

 今朝、ちゃんと靴箱に入れたはずのそこは空っぽだった。
 流石の僕でも、自分が靴を履いてきたかどうかぐらいは覚えている。
 あぁまただ、またやられた。
 こうして最後まで抜かりない彼らにうんざりとしてしまう。
 いつも僕が本当に嫌がりそうな事を、一番良いタイミングでして来るのだ。
 ある意味、僕の性格をよく理解している。
 気持ちを切り替え荷物をその場に置くと、校舎内を探し回る事にする。
 しばらく歩き回ったけれど、この大きな校舎を隈無く探すには限界があるだろう。
 最後のフロアを一通り見て、ここに無かったら諦めて上履きで帰ろうとそう思った時、ふと窓から校庭の片隅にできた大きな水溜に目が向いた。
 そこは人目につかないけれど、雨が降るたびに水が溜まる迷惑な場所だった。
 水の中に何か物影が見える。
 嫌な予感がして、上履きのまま急いで外に出て行った。
 近づけば近づくほど予感は確信に変わっていく。
 見覚えのある青とオレンジの配色は、まず間違いなく自分のスニーカーだろう。
 拾い上げると泥まみれの布地はしっかりと水を吸い込んでずっしりと重たい。
 目立たないように靴の内側にマジックで小さく書いた『大貫オオヌキ タケシ』という名前は、残念なことにはっきりと読み取れてしまった。
 憂鬱な気持ちでため息が零れる。

 (お母さんに、なんて言い訳しよう・・・。)

 今日は、修了式だった。
 次の登校日には4年生になる訳で、こんな嫌がらせが日常茶飯事の、今のクラスメイトともお別れだ。
 かと言って清々しい気持ちになれないのは、新しいクラスになってもきっと現状は大して変わらないだろうと思うから。
 毎年同じことの繰り返し、希望的観測は割と早くに捨て去った。

 「まぁ、どうせ今朝の雨で濡れていたし、遊んでるうちに間違えて水溜りに入ったことにすればいっか。」
  
 昔から、人とは馴染めなかった。
 家族は好きだし、幼い頃は友達もいた。
 けれど、いつも自分だけがどこか浮いていて、みんなと一緒に笑っていても本当に楽しんだ事なんて一度もなかった。
 毎日はまるでごっこ遊びをしているように現実味に欠けていて、ただ漠然としたままそこにいる。
 幸運な事に、愛情深い仲の良い家族は、当然のように僕を輪の内側に受け入れてくれる。
 出来るだけその愛情には答えているつもりだけど、気が付けばそれを俯瞰で眺める僕がいた。
 クラスメイトが僕に嫌がらせをするのは、単純に僕が頭の悪いのろまだからだろう。
 でも、もしかしたら何となしに感じ取っているのかもしれない。
 いつも人を穿った視点で眺める冷めた僕を。
 だったら、みんなが僕を軽蔑するのは、至極当然なことのように感じてしまう。 
 自分は人として、何か大切な物が欠けている。
 そんな後ろめたい気持ちがいつもどこかにあって、覚束のない僕の心を苦しめる。

 それでも幼い頃は地球の一部にはなっている気がしていた。
 植物を見れば美しいと感じ、動物を見ればその生命に癒されていた。
 なのに最近は、宇宙の一部にもなっていないように感じる。
 道端に咲く花すらも、素っ気ない。
 僕の心が壊れてしまったのだろうか。
 まるで知らない星で、永遠の迷子になったようだ。
 
 しばらく靴を持ち上げた状態でぼーっとしていたら、突然背中に衝撃が走った。
 気が付けば、僕は水溜りの中にダイブしていた。
 後方からは聞き覚えのある数人の笑い声が響いている。

 「どんくせぇ奴~!全然気づかないでやんのっ」

 そう言ってケラケラと腹を抱えて笑う少年たち。
 お馴染みのメンバーが5人揃っていた。

 「マジうける!こいつ自分の状況分かってねーんじゃないの?」
 「脳みそアリンコ並!」

 一体何がそんなに面白いのだろうか。

 「あはは、ビックリしたー。突然なんだもん。」

 とりあえず周りの雰囲気に合わせて笑ってみる。

 「うわっ、気持ちわり~。」
 「・・・何笑ってんだよ。」
 「ヘラヘラしやがってっ!」
 
 立ち上がりかけていた僕を、再び少年が蹴り倒す。
 全身ぐしょぐしょの泥まみれだ。
 いよいよお母さんに言い訳できないレベルになっていた。
 明日から春休みだと言うのに、面倒臭いな。
 あんまり過剰な嫌がらせをすれば、大人にバレるって分からないのだろうか?
 半身を起こし、泥に浸かった足元を見ながら無意識に溜息が漏れた。

 「・・・っ!」
 「お前っ、余裕だな。」
 「まだ浸かり足りないんじゃないか?」
 「特に顔面とかなっ。」
 「いいじゃん!俺たちが手伝ってやるよ。」

 苛立った様子の5人が、僕の後頭部を乱暴に掴み、顔面を水たまりに押し付ける。

 「わわっ・・・ん゛っ!?」

 驚いて口を開けてしまった僕の口内に、大量の泥水がに入って来る。
 むせそうになるのを必死で堪え、なんとか顔を上げようと抵抗するが、その度顔面を押さえ付けられる。

 「ははっ、そんなに嬉しいか!」
 「泥パックはお気に召したようだな!」
 「その汚いツラ、俺たちがキレイキレイしてやるぜ!」
 「お客様~、喜んでいただいて私共も大変嬉しく思います~。」
 「ハハハッ!傑作~!」

 上機嫌な彼らは興にのったのか、更に力を入れてくる。

 「んんんっ!・・・ゲホッ・・ブフ・・っ!」

 やばいっ、苦しい・・・息が出来ないっ・・。
 半狂乱になり、がむしゃらに暴れてみたが、ヒョロヒョロで力のない僕では、5人がかりで抑え込まれるとビクともしない。

 「グブブッ・・・グフッグハッ・・!」

 まじでヤバいかも・・、このまま死ぬのかな・・・水溜りで溺死なんてなかなかカッコ悪い死に方だ。
 せめてもう少し偶発的な死に方だったら両親も諦めもつくかもしれないけれど、この死に方だと騒動が起きるのは確実だ。
 まあ、死んだら関係ないのだけど。
 そう思った時、「グッ!」「ウッ!」「ガッ!」といった少年たちの呻きと共に、急に体が軽くなった。

 「ゲホッ!ゲホッ!グフッグッ・・ゲホッ・・・!」
 
 突然入ってきた空気に、僕は盛大にむせ返った。

 「大丈夫か?」

 誰かが僕の背中を優しく撫でてくれる。

 「・・ッ、痛って~・・・」

 周りからは、苦しげな少年たちの声が聞こえてきた。
 どこがどうなったのか分からないが、彼らは僕から2~3メートル離れたところで、吹き飛ばされたように倒れていた。

 「テメーっ、何すんだよ!」

 立ち上がったリーダー格の少年が、怒りをあらわにする。

 「お前ら、こんなの冗談じゃ済まされねーぞ。」

 声変わり前の、子供の声。
 けれど凜とした意志の強いその声に、なぜだか僕は安心してほっと息をついていた。

 「なっ・・・お前・・・。」

 勢いこんでいた少年が急に尻込みした。
 不思議に思い、僕もそっと振り返って相手の顔を確認する。

 「あっ・・・。」
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