裏切りの国

アルカリポン酢

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第0章

夏 最期

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 大切なトランペットを胸に引き寄せた。
 たぶん自分の人生最後の大舞台である。もっと息を深く吸いたいのに、緊張して上手く吸えない。隣で後輩たちをせわしなく「絶対大丈夫だから」となだめる彼女を見て、ため息に似た落ち着いた息を吐けた。きっと彼女自身が1番緊張している。この夏1番頑張ったのは紛れもなく彼女だった。誰かが手を貸してくれるわけでもなく、彼女はひとりぼっちで戦っていた。自分たちの努力もなしに何も悪くない彼女を蔑み、全てを彼女のせいにする群衆と、彼女の前に立ちはだかる目に見えない何かと。どうしてあの時手を差し伸べてやれなかったのかと今更後悔する。あの日彼女は人知れず泣いていたに違いない。自分だけが彼女の特別であったはずなのに、今や知らないことの方が多い。そんなことを考えていたら、なんとなく涙が出てきた。泣きたいのは彼女である。私ではない。ふと隣から声がかかる。「どうしたの、もしかして緊張してる?大丈夫、私だってソロ吹くんだよ」暗い舞台袖の中でどこからか光が当たり、彼女の持つ細くて長い楽器が煌びやかに相槌を打つ。あの日、2人で話をしたあの日、優しく彼女がしてくれたように。私のトランペットは彼女のそれに応えられるだろうか。
「…さん、出番です。準備してください」
 舞台裏の空気が一気に変わる。打楽器パートとお手伝いしにきてくれたメンバー外の1年生が担当の打楽器に触れて歩き出す。このホールの舞台袖は広いから、簡単に部員全員の顔が見える。座らされていた管楽器の部員がゆっくりと立ち上がる。「練習番号6、こっち見てね」彼女はそう私に言って、返事を待たずに歩いて行った。1人、また1人と舞台の方へ消えていく。私の番だ。落ち着いて、とみんなに声をかける指揮の先生を横目に私も舞台へ向かう。少し前には彼女の姿。彼女はフルートのトップだから誰よりも早く舞台に上がる。凛として自信のある彼女の歩くさまは、今まで何度も見てきたそれとは全く違い、希望と期待を自分のものにした、勝ち誇った雰囲気を纏っている。席について彼女の方を見る。ステージライトが点くまでは各々準備を進める。その中でさえ彼女は不安がる後輩に笑いかけている。彼女から目を離し、まっすぐと前を見る。
 じわじわとステージの明かりが点く。
「プログラム14番…」
 思えばあの日、1年前のこの日、それはまるで夢を見ているかのようだった、とも言えるし、現実をただただ見せられていた、とも言える日だった。
 去年の演奏の出来は最悪。まぐれで次の大会に駒を進めた私たちの演奏は未熟で、あまりにも他団体に失礼で、吹いていて恥ずかしかった。1年の時はそもそも予選止まり。高校のレベルはどんなものだろうと期待したのに、公立高校の限界を知った気がした。中学の時にこのホールに来れなかった私はそんなこと言えないのかもしれない。けど私は確実に成長している。そして今年は、本当に実力でこのホールに来た。死ぬ気で練習して、きっと公立高校の常識を覆してやろうと。なんだか自分たちなら絶対いける。夢の全国大会はすぐそこだった。
 指揮の先生はみんなに微笑んでいる。口を「いつも通り」としきりに動かし、なんとか私たちを落ち着けようとしている。拍手がやみ、先生は私たちに背を向けお辞儀をする。“公立高校の下克上をとくとご覧あれ”自信に満ちた背中が愛おしくてかっこいい。今まで見たことのない彼の姿だった。再び彼が振り返り、また部員全員の顔を見回す。課題曲のテンポを胸に刻むように、心臓が跳ねる。
 そして彼のタクトがすっと上がる。楽器を構えるかすかな音。空気が揺れ、小さなキイやピストン、みんなの熱気がじんわりと、目が覚めていくように共鳴する。
 深く息を吐き、そして、テンポとタクトに合わせて全員が息を吸う。
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