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第1章
2年 秋
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あたしは隣にいる彼女が抱いている楽器を見つめた。ピストンのふちを丁寧に撫でるその指先を。秋の朝の柔らかい朝日は私たちをふたりきりにしてくれる。手先は冷たいけれど、心だけはいつまでも沸騰している。
今は夏に誓った「一緒にアンコンに出る」に向けてメンバー招集をしているところである。あたしはソロコンの練習と並行してやらないといけないから、そっちの練習もちまちまと進めていた。
「一回でいいから最初から最後まで吹いてみてよ」
隣に座る彼女が言う。
「嫌だよ。まだ全然読めてないし回ってないし」
「でももうすぐ本番でしょ。さっきもある程度仕上がってたし」
きらきらとした目で見つめてくるから罪である。本当にこいつってやつは。ため息に似た息を吐き、セッティングを見直す。彼女がさらに目をきらきらさせてこちらを眺めるので、正気かと見つめながら息を吐いて、吸う。
なんとか一通り吹き終え、楽器を膝に下ろす。口を拭い水筒を手に取りながら彼女の方を見た。
彼女ははにかんだような、ぼんやりしたような、夢見心地な表情をしてあたしを眺めている。なんだか眠そうで、どこか興味はなさそうで、けれど頬は紅潮している。普段よりも肩で息をして、興奮している様子がみてとれる。来年の今頃にはお互い違う場所にいるんだよ、そういう事実を突きつけてくるこの寒さは本当に残酷で甘ったるい。
彼女は何を思って聴いていたのか、彼女があたしの音を聴いてどう思ってくれたのかはわからないが、まあ悪くはなかったかと思った。あたしは「アンコンの曲どうしようか」と苦笑いしながら言った。何も言い出さない彼女からの言葉を待つ前にこの気まずさを破りたかった。あたしが感想を待っているみたいで嫌だったから。彼女は答えなかった。代わりに、
「これいつから練習してるの?」
とあたしに問いた。
「まあ、9月とか10月とか」
「1ヶ月2ヶ月でこんなできるもんなんだ」
「まあね、去年よりは簡単だし」
「あたしにかかれば余裕、って言おうとしたでしょ?」
彼女は嘲笑うように、あたしを試すように聞いた。
「そんなことない」
「嘘だ」
まあまあ核心をついてくる彼女の言葉ひとつひとつが折り重なって、明日は味わえない正体不明の寂しさを紛らわす。もし来年ソロコンに出るとしてもこうして聴いてもらえることはないし、そもそも出ないかもしれない。あたしは音大に行こうとなんとなく思っているけど、このままでいけるはずもないし、でも音楽は続けたいし、そんな葛藤の中であたしを認めてくれる彼女の存在は大きかった。
「まあ、嘘じゃない、とも言い切れないか」
「案外あっさり認めちゃって~」
恥ずかしいとは思う。あたしだからできる譜読みのスピードではある。あたしだからできる音楽がここにある。でもこんなの、高校の籠を出てしまえば広い広い大空があたしを飲み込んで、あたしの存在などチリと同じにしてしまうだろう。あたしは羽を持っていたとしても飛べない。大空が美しすぎて、太陽に目が眩むから。
「だから、アンコンの曲どうするの」
できるだけ話の方向を変えたいあたしは意地悪な彼女に言った。
「どうしようか。曲が決まらないことには編成も組みにくいよね。私とやるなら管打か管弦か管楽かだよね」
「別にあんたが金管やりたいならあたし以外と組めばいいだけでしょ」
「私はせっかくだから一緒にやりたいんだけど」
予想外の彼女の言葉に少しはにかむ。あたしがうまいのはわかってるけど、彼女もなかなかの腕の持ち主。彼女はかなり謙遜するけど謙遜なんてするもんじゃないと思う。だからソロコンとか出ればよかったと思うし、音大だって今からでも遅くないと思うし、むしろあたしよりピアノも弾けるから行くべきだと思ったのに。
「最後だし、管打がいい」
まさかこんなところでハモると思っていなかった。そうと決まれば曲を探して、編成を決めて、手続きである。去年あたしがアンコンに出た時は部内からもうひと団体立候補していたから、オーディションをした。オーディション当日、ギリギリまでメンバーが来なくてヒヤヒヤしたっけ、と思い出してはあの苦い記憶を思い出す。メンバーが最悪だったから、メンバーはちゃんと決める必要があるな、と改めて思う。
「今年はどの団体も立候補していないみたいだからオーディションはなしかな」
「それはラッキー、今のうちに曲決めちゃお」
そうして楽器を片付けて、教室に向かう。肩に背負うリュックサックが異様に重い。吹奏楽部として最後の冬なんだと思うと、アンコンもソロコンも頑張らないと、と背負わなくていいプレッシャーまで背負ってしまう。空が明るくなってきて、鍵を閉めて職員室に返して、渡り廊下のところで手を振る。光に消えていく彼女をみるのがなんだか最後のような気がした。もう会えなくなるんじゃないか。来年の今頃には勉強で忙しい彼女を横目にあたしはきっと練習でもしているんだろう。あたしのことを羨ましいと思う彼女と、なんとなく生きにくいあたしがすれ違って喧嘩でもしないかな。それだけは絶対に嫌だな、なんて考えながら、自分の教室に入っていく。
今は夏に誓った「一緒にアンコンに出る」に向けてメンバー招集をしているところである。あたしはソロコンの練習と並行してやらないといけないから、そっちの練習もちまちまと進めていた。
「一回でいいから最初から最後まで吹いてみてよ」
隣に座る彼女が言う。
「嫌だよ。まだ全然読めてないし回ってないし」
「でももうすぐ本番でしょ。さっきもある程度仕上がってたし」
きらきらとした目で見つめてくるから罪である。本当にこいつってやつは。ため息に似た息を吐き、セッティングを見直す。彼女がさらに目をきらきらさせてこちらを眺めるので、正気かと見つめながら息を吐いて、吸う。
なんとか一通り吹き終え、楽器を膝に下ろす。口を拭い水筒を手に取りながら彼女の方を見た。
彼女ははにかんだような、ぼんやりしたような、夢見心地な表情をしてあたしを眺めている。なんだか眠そうで、どこか興味はなさそうで、けれど頬は紅潮している。普段よりも肩で息をして、興奮している様子がみてとれる。来年の今頃にはお互い違う場所にいるんだよ、そういう事実を突きつけてくるこの寒さは本当に残酷で甘ったるい。
彼女は何を思って聴いていたのか、彼女があたしの音を聴いてどう思ってくれたのかはわからないが、まあ悪くはなかったかと思った。あたしは「アンコンの曲どうしようか」と苦笑いしながら言った。何も言い出さない彼女からの言葉を待つ前にこの気まずさを破りたかった。あたしが感想を待っているみたいで嫌だったから。彼女は答えなかった。代わりに、
「これいつから練習してるの?」
とあたしに問いた。
「まあ、9月とか10月とか」
「1ヶ月2ヶ月でこんなできるもんなんだ」
「まあね、去年よりは簡単だし」
「あたしにかかれば余裕、って言おうとしたでしょ?」
彼女は嘲笑うように、あたしを試すように聞いた。
「そんなことない」
「嘘だ」
まあまあ核心をついてくる彼女の言葉ひとつひとつが折り重なって、明日は味わえない正体不明の寂しさを紛らわす。もし来年ソロコンに出るとしてもこうして聴いてもらえることはないし、そもそも出ないかもしれない。あたしは音大に行こうとなんとなく思っているけど、このままでいけるはずもないし、でも音楽は続けたいし、そんな葛藤の中であたしを認めてくれる彼女の存在は大きかった。
「まあ、嘘じゃない、とも言い切れないか」
「案外あっさり認めちゃって~」
恥ずかしいとは思う。あたしだからできる譜読みのスピードではある。あたしだからできる音楽がここにある。でもこんなの、高校の籠を出てしまえば広い広い大空があたしを飲み込んで、あたしの存在などチリと同じにしてしまうだろう。あたしは羽を持っていたとしても飛べない。大空が美しすぎて、太陽に目が眩むから。
「だから、アンコンの曲どうするの」
できるだけ話の方向を変えたいあたしは意地悪な彼女に言った。
「どうしようか。曲が決まらないことには編成も組みにくいよね。私とやるなら管打か管弦か管楽かだよね」
「別にあんたが金管やりたいならあたし以外と組めばいいだけでしょ」
「私はせっかくだから一緒にやりたいんだけど」
予想外の彼女の言葉に少しはにかむ。あたしがうまいのはわかってるけど、彼女もなかなかの腕の持ち主。彼女はかなり謙遜するけど謙遜なんてするもんじゃないと思う。だからソロコンとか出ればよかったと思うし、音大だって今からでも遅くないと思うし、むしろあたしよりピアノも弾けるから行くべきだと思ったのに。
「最後だし、管打がいい」
まさかこんなところでハモると思っていなかった。そうと決まれば曲を探して、編成を決めて、手続きである。去年あたしがアンコンに出た時は部内からもうひと団体立候補していたから、オーディションをした。オーディション当日、ギリギリまでメンバーが来なくてヒヤヒヤしたっけ、と思い出してはあの苦い記憶を思い出す。メンバーが最悪だったから、メンバーはちゃんと決める必要があるな、と改めて思う。
「今年はどの団体も立候補していないみたいだからオーディションはなしかな」
「それはラッキー、今のうちに曲決めちゃお」
そうして楽器を片付けて、教室に向かう。肩に背負うリュックサックが異様に重い。吹奏楽部として最後の冬なんだと思うと、アンコンもソロコンも頑張らないと、と背負わなくていいプレッシャーまで背負ってしまう。空が明るくなってきて、鍵を閉めて職員室に返して、渡り廊下のところで手を振る。光に消えていく彼女をみるのがなんだか最後のような気がした。もう会えなくなるんじゃないか。来年の今頃には勉強で忙しい彼女を横目にあたしはきっと練習でもしているんだろう。あたしのことを羨ましいと思う彼女と、なんとなく生きにくいあたしがすれ違って喧嘩でもしないかな。それだけは絶対に嫌だな、なんて考えながら、自分の教室に入っていく。
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