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■ヒーロー視点

こ く は く 1

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 これを勉強と呼ぶのはやっぱり無理があると思う。

 甘い香りのする身体をいつぞやのように背後から抱きしめて、鳴瀬は堪え性のないおのれの欲をあざ笑った。

 カタン。
 先生の手から落ちたボールペンがダイニングテーブルの上を転がる。

「先生、ペンが」

 ほつれた髪を耳にかけてやると、真っ赤に染まった耳があらわになる。

「白石先生は、耳が弱い?」

 ならば攻めてみようか。ちょうどこの作品のヒーローのように。
 そう思って抱き寄せる腕に力をこめると、先生は慌ててペンを握り直してメモを書いた。真面目な先生にとっては、これも大事な勉強会のワンシーンだ。

 このネームは、どこまでたどればいいだろう。自分にとっては限界ぎりぎりの我慢大会の真っ最中。どんなことにも恥じらう彼女を見ているのは愉しいけれど、腹の中では罪悪感と背徳感とどうしようもない欲望がぐるぐる渦巻いている。

 ──この熱を、どうしてくれよう。

 ソファに押し倒した彼女はそんなことに気づきもしないで、とろりとした目で鳴瀬を見上げている。

(そんな目、して……期待させるなら……最後まで付き合ってくれるんですか、先生)

 追い詰めているようで追い詰められているのは自分のほうだ。
 彼女の首元に顔を埋めるようにして嘆息。ふわりと香る匂いに気づいて、鳴瀬はふと顔を上げた。

「なにか……いい匂いがしますね」
「あ、ボディクリーム……? 汗、かいちゃったからかも……ごめんなさい、匂いますかっ」
「いや……? なんか、パンケーキみたいな香りっすね……うまそうだ」
「あっ、な、鳴瀬さんっ……? ちょっ、それ、ネームと違いま、あっ、やぁっ……」

 耳元でする甘い声。それがまた、ずんと腰にくる。

「はぁ、困った」

 鳴瀬は小さく頭を振った。

「この間よりやばいかもしれません、俺」

 わかりやすい男の欲が、じくじくと熱を持って疼く。密着しているから、たぶん彼女にもバレてしまっている。

「そ、そんな」

 声音に怯えはみられない、ように思える。
 なら、表情は? 顔を隠そうとする琴香の腕を、鳴瀬は両手でソファに縫い付けた。

「や、やめて、見ないで……!」

 熱っぽく潤んだ瞳を隠すようにぎゅっと閉じられてしまった。ほつれて乱れた髪がソファの上に散っている。まるで情事のさなかのように。

「あー、これはまずいっすよね……わかってるんですけど……いい加減、俺もちょっと……我慢の限界っていうか……」

 鳴瀬は目を伏せて、彼女の耳元に顔を埋めた。この期に及んでまだ、最後の一押しを決めきれないのは、なけなしの理性が訴えかけてくるせいだ。先生は、推しで、神で、そして……。

「……せんせ、」

 助けを求めるように呼べば、彼女は「ひえっ」と息をのんだ。

「なにこれすごい、コレやっぱ、だめですっ!」
「ぶっ!?」

 びたん! と顔面を叩かれて、驚いた鳴瀬は鼻先を押さえた。

「ってぇ~~……」
「ひぃぃごめんなさいごめんなさいっ鳴瀬さん、でも聞いてください~っ、私、わたし、これもう勉強じゃないんです……!」

 涙目の視界のなかで揺れる姿。顔を覆ったままの彼女は、何かに耐えるように浅く呼吸を繰り返している。勉強じゃなくて。じゃあなんなのか。

「白石先生?」
「ごめんなさいッ、わたし鳴瀬さんのことっ、好きです……!!」

 白石先生らしからぬ力強い響きで。
 わたし、なるせさんのこと、すきです、と。

「──……え?」

 耳から入ってくる言葉が、頭の中で像を結んでくれない。すきって、なんだ? 困惑のまま先生を見つめる。

「好きに、なっちゃいました……! だからもう、親切心で私にお付き合いするの、やめてください……! 鳴瀬さんの人のよさにつけこんでるんです私は!」
「え……いや、え?」

 琴香の突然の暴露を、鳴瀬はぽかんとして聞いている。
 体を起こし、二人はソファの上で向き合った。先生は顔を覆ったまま「ごめんなさい」と小さく呟く。どうして謝る。つけこんでいるのはどっちだと思って。

(先生が、俺のことを好き……? い、いつから?)

 鳴瀬がほうけてある間にも、彼女は「言わなきゃよかったと思ってる」「仕事が、生活がかかっているのに」と、わぁわぁ言い募っている。その通りだ。だから自分も、最後の一線をこえられなかったのだから。

(お、おお……せんせ、この状態で言うー……?)

 自分を棚にあげて、鳴瀬はあぜんと目の前の彼女を見つめた。
 先生、俺のこと好きだってよ。──それって男として?

(つまり……? つ、続きは? いや、俺がまず、返事?)

 大人の告白のお作法がわからない。最近読んだ漫画では……どうだっけ。
 真っ赤な顔の先生は、なにかがふっきれたようにこちらをじっと見つめてくる。

「いま私の気持ち伝えたんで、正々堂々と誘惑するのは許されますか? ますよね? こここ告白のあとなら大人として大丈夫ですよね?」

 鳴瀬の返事も聞かず、彼女はふわもこルームウェアのボタンに手をかけた。

「鳴瀬さん、おっぱい好きですか?」
(なにて??)

 もうわけがわからない。鳴瀬がぽかんとしているあいだにも、先生は自分の上着のボタンをひとつずつ、見せつけるように外していく。まず鎖骨が見えて、胸の谷間があらわになって……

(って、これ見とれてる場合じゃないなー!)

 あわてて視線を逸らす。ちらりと見えた白いふくらみが目に焼きついて離れない。

「じょ、冗談は……いや、そうじゃなくて、本気……? え、いや、せんせ、なんでこんなことに」
「好き、だからです! でも、どうやったら好きになってもらえるかわからないからっ……」

 その力強い訴えは、鳴瀬の胸にがつんと突き刺さった。

(本気、で……?)

 涙目で一生懸命な姿は、鳴瀬のことをからかっているようには思えない。
 これが先生の本気だとして。じゃあ、自分はどうすればいいのか。予想外の告白に動揺しすぎて、目の前の彼女の勢いに流されるまま、されるがままになっている。彼女自身も似たような状況らしい。
 ペンだこのある小さな手が、鳴瀬の手をつかんだ。

「も、息できないくらいどきどきしてるんですっ、好き、なんです……!」

 人肌のあたたかさ、形容しがたいやわらかさが指に触れる。あろうことか先生が自分から、鳴瀬の指をそこへと導いたのだ。もっと深く暴いてほしいと言って。

「『初めて』は、好きな人とって、鳴瀬さんが言ったんですよ……!」

 ぐい、と体重をかけられて、背中からソファに倒れ込む。眼鏡も上着も脱ぎ捨てた先生は、鳴瀬の腹の上に馬乗りになって思い詰めた表情をしている。
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