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1-2 勇者の
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目が覚めたら、知らない場所だった。
自分を取り巻く空間の異質さに、ロエはひとまず寝ていた台から上半身を起こした。かけられていた毛布が落ちる。
見渡せばその場が部屋であることはわかる。ただロエの知る部屋より整然としていて、飾り気も生活感もない。
台から下りて立ち上がると、タイル張りの床は裸足にひんやりと冷たい。敷き詰められた正方形の連なりは一部の乱れもなく、人間味が薄い。乗っていた台の構造は金属部品が多く、足の先には小さい車輪が付いている。その割に先程下りた時も、今左右に揺すっても、固定されたかのように動かない。
壁際の棚まで金属製だ。加工技術の巧みさに、ロエは感嘆する。全体的に、明らかに自分の知る領域を超えた技術を感じる。
ロエは部屋を出て歩いた。辿り着いた廊下と思しき空間は広く、壁には扉がいくつもある。
「あっ」
人の声にロエは振り返った。白っぽい衣装を纏った女が、ロエを驚きの表情で見ている。ロエは身を引いた。女は追いすがるように腕を伸ばす。
「ちょっ、待って!」
女にはどうやら自分を引き留める意志があるらしいと見て、ロエは走り出した。状況が不明な以上、屋内での邂逅は敵であった場合、不利だ。
敵。それが何であったかは曖昧だ。
今の敵とは、何か。
建物の外を目指す。途中、やはり白っぽい服の数人とすれ違うが、ロエに追いつける者はいない。
日の差している明るさを感じ、ロエはやたらと透明度の高いガラスの扉を押し開いて外に出た。
風が強く、冷気が身体を覆う。それでも確かに開放感があって、ロエは少し視線を高めに上げた。空の明るさに太陽の気配を感じ、ぐるりと首を巡らす。
その視界に、大きな赤い建造物を捉えて驚愕に動きを止める。少し距離があるというのに、その赤い物体は空の一部を遮る巨大さで横たわっている。
さすがに生じた驚きに、ロエは体ごと向き直った。
「ワーオ。サボってる時に限って事件出くわすんだよなぁ」
唐突に聞こえた声に、ロエは視線を下げ、近くに焦点を結んだ。何やら大きな車輪が四つついた長四角の箱に、随分色黒な肌の男がもたれて立っている。箱の天板に乗せた紙袋から、丸い輪っか型の食べ物を取り出しながら食べている途中だったようだ。
「ニーサン、たいそうご立派サマだが、自慢のマグナムの披露しどころは選ぼうや」
敵意、害意はすぐさま感じず、ロエは次の行動を思案する。
一旦さらなる逃亡を試みるか。そこらで長物の類を調達した上で、対話を試みるか。元より対話が成立するのか。
「──やぁデイブ、君は何も見ていないね」
その思案が隙となったのか、背後から近づいた気配にロエは反応できなかった。肩にかけられた服で、寒さが和らぐ。
「グレーズドのうまさに気ぃ取られて、俺の目はドーナツの穴より節穴だよ。健やかな朝に猥褻物陳列罪なんざ取り締まってられっか」
「優秀で助かるよ。……はぁ、俺のボーナスで買ったコートが」
「ご愁傷さま。男前の生肌温もり付きでお得に返してもらえ」
ロエは、動けなかった。身体を拘束されたわけではない。ただその声に、姿に、動けなくなった。
肩にかけたコートの前を申し訳程度に留め、顔を上げて男はロエと向き合った。
男の歳は、この街では四十前に見られている。ただ癖毛がちな黒髪はオールバックに撫でつける世の流行りに習わず、短いがふわふわとなるがままにまとまりなく目元を隠していた。その上髭も無精で整えていないので、一般的な四十前よりは軽薄な印象を持たれがちだ。実際浮かべる笑みはヘラヘラと緩い。
「やぁ、勇者サマ」
目前にした顔に、ロエは瞠目する。それから仔細を確認するように視線をあちこち彷徨わせた。
「身一つで大立ち回りとは、さすがの君でも心もとないんじゃないかなぁ」
口から出る言葉も呑気に。そう、雰囲気は作られている。
けれど、笑みの奥の深緑の瞳は、沼が如き淀みを孕んでいる。
その暗さに、ロエは確かに覚えがあった。
「カキア……?」
ロエは声を絞り出した。
「そうだよ。邪悪にして不遜、この世の悪の象徴、おぞましきエーテル食い、君達の憎っくき魔王カキアだよ。まぁ、色々思うとこはあるだろうけど今は矛を収めて事情説明を──ぎゃあああ!」
カキアはロエに急に抱きしめられて思わず全力で叫んだ。上だけ留めた肩がけのコートは役に立たないマント状態になり、ほぼ全裸で抱きつかれていることになる。
「……猥褻罪、いっとく?」
「心の底から頼みたいんだけどゲストなんでね! それはそれとして引き剥がすの助けてくれ! ってか、力強いな!」
病院前での騒動に、人が集まりだすまで今しばらく。
※ ※ ※
「それでパトカーでここまで連行ですか。対象者の尊厳を軽視した判断と思われます」
「送迎と言ってくれないかな。変態的格好で注目の的になるよりマシでしょう」
「同意のない移送は拉致、誘拐に分類されます」
「勘弁してよぉ、僕も焦ってたんだって」
容赦のない指摘に、カキアはしおしおになりながらキラから渡されたマグカップ二つと砂糖壺、ミルクポットを受け取った。給湯室から事務所の一角、パーテーションに仕切られた空間に戻る。簡単な来客対応の場となっているそこには、二人掛けの茶色の革張りソファが、間にローデスクを挟んで向かい合わせに二つ置かれている。
その片方に、落ち着かない様子のロエが座っている。格好は未だもってカキアのコート一枚で足など裸足だ。
間仕切りからカキアが姿を見せた途端、ロエが嬉しげに笑みを見せる。
カキアにはそれが解せない。
「えーっと、とりあえず君が置かれてる状況を説明します。ので、一通りは黙って聞いててね。……冷えてるでしょ、口に合いそうならこれは好きに飲んで。甘いのが良いならコレ入れて調整して」
それでも業務は業務、マグカップ一つと砂糖とミルクの容器をロエの前に置き、自分も向かいに腰掛ける。
伺う視線を感じながら、自分専用の白い無地のマグカップからまだ湯気の濃いコーヒーを啜る。
しっかり飲むのを観察してから、ロエも同じようにマグカップに口をつける。熱さか、苦さか、すぐさま弾かれたように口を離す。
疑問の視線に、カキアは今度は指差して砂糖とミルクを示した。ロエはその指示に、一式を不思議そうに眺める。
それを見つつ、カキアは口を開いた。
「──さて、一言で言うと君は死にました」
それなりの重さで言葉を発したつもりが、ロエからは特に反応がなく、砂糖の均一な粒子を興味深そうに匙で弄っている。
「……それでここは死後の世界みたいなもので、君は選択の尊重を約束されています。僕らは──あそこの黒髪美人さんと僕と今不在のクソ上司の三人は、そういったゲストをサポートする市庁舎の地域生活課、ゲスト対応室の人間です」
ロエが砂糖をすくって、さらさらと流れ落ちるのを観察している。
「……いや君ね。時代設定にあった基礎知識は頭に植え付けられてるでしょ。子供みたいな真似しないで……」
ロエが鼻を近づけ、砂糖の匂いを嗅いでいる。
カキアは嫌な予感がした。
「ロエ」
呼びかければ、ロエは顔を上げた。
目を合わす。じっと見つめていれば、ロエは首を傾げる。
カキアが何も言わないことに、今度はロエが口を開いた。音が、その口で紡がれる。
その発された言葉に、カキアは瞑目してソファの背にもたれかかる。そのまま頭まで預けて天を仰いだ。
「……今の、何語ですか?」
異変を察したらしい優秀なキラが、顔を覗かせる。
カキアは現実逃避で視界を閉ざしたまま、苦渋に満ちた声音で、記憶の深いところで眠っていた言語を発した。
「《嘘だろ、お前》」
「《何がだ? やっと分かる言葉使ったと思ったら急に何だ?》」
成立してしまった会話に、カキアは額に手を当てた。
※ ※ ※
外出から戻ったところ、ソファに対面で座る二人にキラは変化を感じられなかった。
「《よし、言え》」
「《そのまま言えばいいのか? えー……》たんとう、ほか、カエル、オネガイ」
「……私が外出していた間の成果がこれなら、上司として軽蔑いたします」
洋品店の紙袋を手に事務所へと戻ったキラは、メガネの奥から言葉通り冷たく蔑みの視線をカキアに向けた。
その眼差しの攻撃力に、カキアは降参を示して両手を胸の前で上げる。
「ゴメンナサイ、冗談です。時間が余ったんで、ちょっと英語の練習」
「現状の共有を願います」
「対象者ロエ。僕と同時代の生没。全裸で漂着。病院での身体検査では異常なし。さっき病院に謝罪の電話した時聞いたけど、血液検査の結果なども健康そのもの。目を離した隙に覚醒して騒動になったんでこちらに移送。どうやら基礎知識の定着に問題あり。言語も──何語だ、ヘラス語? いや、グリース語……古代ギリシャ語って感じか? まぁ、英語が通じない。ここまではキラちゃんが、外出する前で分かってたこと」
「はい」
「至急市長に問い合わせ回したかったけど、鉄壁の秘書止まり。確認は早急にするが、身体的、精神的に問題なければゲスト対応室として通常業務通り保護、支援せよとの仰せだ」
「なるほど」
「いつもの決まり文句は再度、説明済み。ここが死後なこと。ゲストには選択の尊重が約束されていること。暮らしも含めた、その支援を僕らがすること。ただし今は異常が出てるってことも。その上で対象者は落ち着いてるんで、上の言う通りの対応が丸い」
「では担当はこのまま室長代理ですね」
「それだけなんとかならないかなー!」
「適性について議論いたしましょう。私はギリシャ語を履修しておりません。以上」
「言っとくけどコレ敵国の言語で別に僕も母国語じゃないんだからね!」
「ご心痛お察しいたします」
嘆きに淡々と返し、キラはローテーブルに紙袋を置いた。マチの開きが悪かったのか倒れ、中から衣類が溢れる。別の紙袋から取り出した靴は、そのままロエの足元近くに出す。
「何はともあれまずは身支度から整えていただきましょう。一式だけ買い揃えてまいりました。以降は店頭でご本人様に選んでいただく方がよろしいかと。この分の経費申請はこちらで行っておきます」
「はいよ。《おい、着替えろ》」
「《服か? このままじゃ駄目なのか?》」
「あー……《俺らの時代的には充分だが、ここでは駄目だ。大体寒いだろ。後、その外套は俺のだからさっさと着替えて返せ》」
カキアは袋から取り出し、服をロエの方へと寄せた。
それを前に、ロエはソファから立ち上がった。
「あっ、馬鹿ッ」
カキアの焦りは遅く、ロエはガバリとコートを裾からめくり上げて脱ぎ捨てた。
完全に直視してピシリと一瞬硬直した後、キラは眼鏡の位置を調整する素振りで俯く。
「《女の前で平然と脱ぐな!》」
「《言われた通りにしただけだろ……》」
「お二人の時代は……随分開放的でいらっしゃったご様子で」
「風評被害!」
言われた通りに行動した上での非難に、ロエは不満顔だった。
自分を取り巻く空間の異質さに、ロエはひとまず寝ていた台から上半身を起こした。かけられていた毛布が落ちる。
見渡せばその場が部屋であることはわかる。ただロエの知る部屋より整然としていて、飾り気も生活感もない。
台から下りて立ち上がると、タイル張りの床は裸足にひんやりと冷たい。敷き詰められた正方形の連なりは一部の乱れもなく、人間味が薄い。乗っていた台の構造は金属部品が多く、足の先には小さい車輪が付いている。その割に先程下りた時も、今左右に揺すっても、固定されたかのように動かない。
壁際の棚まで金属製だ。加工技術の巧みさに、ロエは感嘆する。全体的に、明らかに自分の知る領域を超えた技術を感じる。
ロエは部屋を出て歩いた。辿り着いた廊下と思しき空間は広く、壁には扉がいくつもある。
「あっ」
人の声にロエは振り返った。白っぽい衣装を纏った女が、ロエを驚きの表情で見ている。ロエは身を引いた。女は追いすがるように腕を伸ばす。
「ちょっ、待って!」
女にはどうやら自分を引き留める意志があるらしいと見て、ロエは走り出した。状況が不明な以上、屋内での邂逅は敵であった場合、不利だ。
敵。それが何であったかは曖昧だ。
今の敵とは、何か。
建物の外を目指す。途中、やはり白っぽい服の数人とすれ違うが、ロエに追いつける者はいない。
日の差している明るさを感じ、ロエはやたらと透明度の高いガラスの扉を押し開いて外に出た。
風が強く、冷気が身体を覆う。それでも確かに開放感があって、ロエは少し視線を高めに上げた。空の明るさに太陽の気配を感じ、ぐるりと首を巡らす。
その視界に、大きな赤い建造物を捉えて驚愕に動きを止める。少し距離があるというのに、その赤い物体は空の一部を遮る巨大さで横たわっている。
さすがに生じた驚きに、ロエは体ごと向き直った。
「ワーオ。サボってる時に限って事件出くわすんだよなぁ」
唐突に聞こえた声に、ロエは視線を下げ、近くに焦点を結んだ。何やら大きな車輪が四つついた長四角の箱に、随分色黒な肌の男がもたれて立っている。箱の天板に乗せた紙袋から、丸い輪っか型の食べ物を取り出しながら食べている途中だったようだ。
「ニーサン、たいそうご立派サマだが、自慢のマグナムの披露しどころは選ぼうや」
敵意、害意はすぐさま感じず、ロエは次の行動を思案する。
一旦さらなる逃亡を試みるか。そこらで長物の類を調達した上で、対話を試みるか。元より対話が成立するのか。
「──やぁデイブ、君は何も見ていないね」
その思案が隙となったのか、背後から近づいた気配にロエは反応できなかった。肩にかけられた服で、寒さが和らぐ。
「グレーズドのうまさに気ぃ取られて、俺の目はドーナツの穴より節穴だよ。健やかな朝に猥褻物陳列罪なんざ取り締まってられっか」
「優秀で助かるよ。……はぁ、俺のボーナスで買ったコートが」
「ご愁傷さま。男前の生肌温もり付きでお得に返してもらえ」
ロエは、動けなかった。身体を拘束されたわけではない。ただその声に、姿に、動けなくなった。
肩にかけたコートの前を申し訳程度に留め、顔を上げて男はロエと向き合った。
男の歳は、この街では四十前に見られている。ただ癖毛がちな黒髪はオールバックに撫でつける世の流行りに習わず、短いがふわふわとなるがままにまとまりなく目元を隠していた。その上髭も無精で整えていないので、一般的な四十前よりは軽薄な印象を持たれがちだ。実際浮かべる笑みはヘラヘラと緩い。
「やぁ、勇者サマ」
目前にした顔に、ロエは瞠目する。それから仔細を確認するように視線をあちこち彷徨わせた。
「身一つで大立ち回りとは、さすがの君でも心もとないんじゃないかなぁ」
口から出る言葉も呑気に。そう、雰囲気は作られている。
けれど、笑みの奥の深緑の瞳は、沼が如き淀みを孕んでいる。
その暗さに、ロエは確かに覚えがあった。
「カキア……?」
ロエは声を絞り出した。
「そうだよ。邪悪にして不遜、この世の悪の象徴、おぞましきエーテル食い、君達の憎っくき魔王カキアだよ。まぁ、色々思うとこはあるだろうけど今は矛を収めて事情説明を──ぎゃあああ!」
カキアはロエに急に抱きしめられて思わず全力で叫んだ。上だけ留めた肩がけのコートは役に立たないマント状態になり、ほぼ全裸で抱きつかれていることになる。
「……猥褻罪、いっとく?」
「心の底から頼みたいんだけどゲストなんでね! それはそれとして引き剥がすの助けてくれ! ってか、力強いな!」
病院前での騒動に、人が集まりだすまで今しばらく。
※ ※ ※
「それでパトカーでここまで連行ですか。対象者の尊厳を軽視した判断と思われます」
「送迎と言ってくれないかな。変態的格好で注目の的になるよりマシでしょう」
「同意のない移送は拉致、誘拐に分類されます」
「勘弁してよぉ、僕も焦ってたんだって」
容赦のない指摘に、カキアはしおしおになりながらキラから渡されたマグカップ二つと砂糖壺、ミルクポットを受け取った。給湯室から事務所の一角、パーテーションに仕切られた空間に戻る。簡単な来客対応の場となっているそこには、二人掛けの茶色の革張りソファが、間にローデスクを挟んで向かい合わせに二つ置かれている。
その片方に、落ち着かない様子のロエが座っている。格好は未だもってカキアのコート一枚で足など裸足だ。
間仕切りからカキアが姿を見せた途端、ロエが嬉しげに笑みを見せる。
カキアにはそれが解せない。
「えーっと、とりあえず君が置かれてる状況を説明します。ので、一通りは黙って聞いててね。……冷えてるでしょ、口に合いそうならこれは好きに飲んで。甘いのが良いならコレ入れて調整して」
それでも業務は業務、マグカップ一つと砂糖とミルクの容器をロエの前に置き、自分も向かいに腰掛ける。
伺う視線を感じながら、自分専用の白い無地のマグカップからまだ湯気の濃いコーヒーを啜る。
しっかり飲むのを観察してから、ロエも同じようにマグカップに口をつける。熱さか、苦さか、すぐさま弾かれたように口を離す。
疑問の視線に、カキアは今度は指差して砂糖とミルクを示した。ロエはその指示に、一式を不思議そうに眺める。
それを見つつ、カキアは口を開いた。
「──さて、一言で言うと君は死にました」
それなりの重さで言葉を発したつもりが、ロエからは特に反応がなく、砂糖の均一な粒子を興味深そうに匙で弄っている。
「……それでここは死後の世界みたいなもので、君は選択の尊重を約束されています。僕らは──あそこの黒髪美人さんと僕と今不在のクソ上司の三人は、そういったゲストをサポートする市庁舎の地域生活課、ゲスト対応室の人間です」
ロエが砂糖をすくって、さらさらと流れ落ちるのを観察している。
「……いや君ね。時代設定にあった基礎知識は頭に植え付けられてるでしょ。子供みたいな真似しないで……」
ロエが鼻を近づけ、砂糖の匂いを嗅いでいる。
カキアは嫌な予感がした。
「ロエ」
呼びかければ、ロエは顔を上げた。
目を合わす。じっと見つめていれば、ロエは首を傾げる。
カキアが何も言わないことに、今度はロエが口を開いた。音が、その口で紡がれる。
その発された言葉に、カキアは瞑目してソファの背にもたれかかる。そのまま頭まで預けて天を仰いだ。
「……今の、何語ですか?」
異変を察したらしい優秀なキラが、顔を覗かせる。
カキアは現実逃避で視界を閉ざしたまま、苦渋に満ちた声音で、記憶の深いところで眠っていた言語を発した。
「《嘘だろ、お前》」
「《何がだ? やっと分かる言葉使ったと思ったら急に何だ?》」
成立してしまった会話に、カキアは額に手を当てた。
※ ※ ※
外出から戻ったところ、ソファに対面で座る二人にキラは変化を感じられなかった。
「《よし、言え》」
「《そのまま言えばいいのか? えー……》たんとう、ほか、カエル、オネガイ」
「……私が外出していた間の成果がこれなら、上司として軽蔑いたします」
洋品店の紙袋を手に事務所へと戻ったキラは、メガネの奥から言葉通り冷たく蔑みの視線をカキアに向けた。
その眼差しの攻撃力に、カキアは降参を示して両手を胸の前で上げる。
「ゴメンナサイ、冗談です。時間が余ったんで、ちょっと英語の練習」
「現状の共有を願います」
「対象者ロエ。僕と同時代の生没。全裸で漂着。病院での身体検査では異常なし。さっき病院に謝罪の電話した時聞いたけど、血液検査の結果なども健康そのもの。目を離した隙に覚醒して騒動になったんでこちらに移送。どうやら基礎知識の定着に問題あり。言語も──何語だ、ヘラス語? いや、グリース語……古代ギリシャ語って感じか? まぁ、英語が通じない。ここまではキラちゃんが、外出する前で分かってたこと」
「はい」
「至急市長に問い合わせ回したかったけど、鉄壁の秘書止まり。確認は早急にするが、身体的、精神的に問題なければゲスト対応室として通常業務通り保護、支援せよとの仰せだ」
「なるほど」
「いつもの決まり文句は再度、説明済み。ここが死後なこと。ゲストには選択の尊重が約束されていること。暮らしも含めた、その支援を僕らがすること。ただし今は異常が出てるってことも。その上で対象者は落ち着いてるんで、上の言う通りの対応が丸い」
「では担当はこのまま室長代理ですね」
「それだけなんとかならないかなー!」
「適性について議論いたしましょう。私はギリシャ語を履修しておりません。以上」
「言っとくけどコレ敵国の言語で別に僕も母国語じゃないんだからね!」
「ご心痛お察しいたします」
嘆きに淡々と返し、キラはローテーブルに紙袋を置いた。マチの開きが悪かったのか倒れ、中から衣類が溢れる。別の紙袋から取り出した靴は、そのままロエの足元近くに出す。
「何はともあれまずは身支度から整えていただきましょう。一式だけ買い揃えてまいりました。以降は店頭でご本人様に選んでいただく方がよろしいかと。この分の経費申請はこちらで行っておきます」
「はいよ。《おい、着替えろ》」
「《服か? このままじゃ駄目なのか?》」
「あー……《俺らの時代的には充分だが、ここでは駄目だ。大体寒いだろ。後、その外套は俺のだからさっさと着替えて返せ》」
カキアは袋から取り出し、服をロエの方へと寄せた。
それを前に、ロエはソファから立ち上がった。
「あっ、馬鹿ッ」
カキアの焦りは遅く、ロエはガバリとコートを裾からめくり上げて脱ぎ捨てた。
完全に直視してピシリと一瞬硬直した後、キラは眼鏡の位置を調整する素振りで俯く。
「《女の前で平然と脱ぐな!》」
「《言われた通りにしただけだろ……》」
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