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2-3 チョコレート派?
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信号が赤色に変わり、途絶えた車列の先頭で緩やかに車を停止させる。交差点で前方を色とりどりの原色な車が横切っていく。待ち時間に気を緩めてシートに身をもたれさせ、カキアはそこで初めてロエの表情に気付いた。
「え、なに、すっごい皺。《どうした?》」
カキアの右側、助手席に座るロエの眉間に、深く濃く皺が刻まれている。
「《臭い。いつも臭いけどもっと臭い》」
両の手ひらで鼻から口元を抑えながら、くぐもった声でロエは言う。
「あぁ、時間移動も難儀だねぇ」
流行りのSF言葉でカキアはロエの現状を例えた。古代ギリシャ規格から、西暦基準で20世紀半ばへの移動だ。技術的な進歩には少しずつ触れて追いつけばいいが、環境的な違いには急に放り出されることになる。
その一つが、自動車の普及甚だしいこの時代の空気であり、匂いだ。石油燃料から、油、皮、ゴム、接着剤、塗料。この時代の工業製品の権化とも言える車は、その名に相応しい人工的な匂いに満ちている。
「《窓開けるか? 寒いが》」
「《開ける》」
「《そこのやつ回せ》」
躊躇わない同意に、カキアはドアの内側についている取っ手を示した。そうしながら、自分の方も取っ手を回して窓を開ける。途端に冬の風が社内に滑り込み、ハンドルに置く手の先が冷え出す。走り出した時の寒さも予測できるが、カキアは特に何も言わなかった。
むしろ心地よく、開いた窓枠に肘を置いて風を受ける。
「アリガトウ」
車側の赤信号を見込んで道路を渡る老人に気を取られていたカキアは、隣から聞こえた言葉に咄嗟に反応できなかった。拙い言葉を咀嚼して、それから横目を向ける。
「《他人に礼は求めない癖に、自分は言うんだな》」
幾分かマシになったのか、ロエは両手を下ろしていた。
「《言わないと不愉快にさせる。後が面倒臭い》」
経験を、ロエは口にした。
向けたカキアの視線に写るのは後頭部だけで、表情は見えなかった。けれどいつもと変わらないであろうことは声音から推測がつく。新鮮な空気を求め、窓に顔を向けている。
そのまま顔を出す勢いに、カキアは信号を気にしながらロエの首根っこを掴んだ。
「危ないから止めなね。《窓から出すな》」
信号が変わった。カキアはハンドルに手を戻したが、アクセルを踏まなかった。騒々しく後方からクラクションが響く。杖をつく老人が渡り切ったところで、カキアはブレーキから足を上げた。
市庁舎周りの整然としたオフィス街から離れ、小売店が立ち並ぶ地域でカキアはアクセルを緩めた。
「ちょっと待ってて。《待ってろ》」
指示にロエはカキアを追わずに車に残る。手持ち無沙汰に眺めるのは、窓から見える店の作りだ。派手な赤のネオンサインが陽気に店名を描いており、その背面の黄色い二重丸が特徴的だ。
カキアが、その店から白い紙袋と横長の箱を持って出てきた。
「はいよ」
足取りは真っ直ぐに、カキアは紙袋を助手席のロエに向けて差し出した。言葉は通じないが、ロエは受け取る。
カキアはそれからぐるりと回って後部座席に横長の箱を置き、手ぶらになってから運転席に戻った。
ロエはわたされた紙袋を、ただじっと膝上で見つめている。
「《……忘れ物の礼だ。食べろ》」
促されてやっと、白い紙袋を開ける。中には見覚えがあるような物体が三つ入っていた。一つを取り出して見ると、真ん中に穴の空いた茶色い食べ物だ。表面はテカテカしていて、香りからして甘い。
ロエは、ポケットからしわくちゃなメモ紙を取り出した。カキアに向けて掲げる。
「なぁに? あぁ、デイブったらお茶目さんだねぇ。《それだ》、ドーナッツ」
「どーなっつ」
道順のメモの端に描かれた、ドーナッツ。
答えに、ロエはいそいそと紙をもう一度ポケットにしまった。それから大きく口を開いて食いつく。
両目を見開いた。
「《うまい!》」
一口で半分ほどになった残りも、すぐに食べきる。次と思って、紙袋を覗く。
「アリガト!」
二個目にかぶりつきかけて、慌ててロエはカキアを見た。
一部始終を見ていたカキアは、その感謝に普段上げている口の端を下げる。
「……君さ、《お前、生い立ちを俺に教える気はあるか?》」
問いかけながら、カキアは前方に顔を向けた。ハンドルへ前傾に身体を預ける。
「《話せって言うなら》」
「《支援業務の遂行としては情報がある方が順調に行く。俺個人としてはどっちでも》」
向けない視線で、浮かべない表情で、ロエの感覚を拒絶する。ロエが判断に使うであろう要素をできるだけ消す。
「で、《お前の意思は?》」
違和感は確かにあった。成り行きに従順で、命令に従順で、空気にも従順で。降り積もった違和感は無視できない領域に達した。戦場にあっては感じ取れない宿敵の質の悪さを、カキアはこの場所で理解することになった。
おぞましき魔王を打ち倒す、勇猛果敢、清廉潔白な勇者。その姿が偶像であることは、人間という生き物を知っていれば分かる。
ロエの歳は、カキアが知る頃と大して変わりない。あの戦いを終えてなお、それほど早く命を落とす環境にロエはいたということだ。
ゲストの尊重すべき選択。中間に招かれたゲストは、みな選択を許される。みな自ら在り方を選ばされる。
それを阻害する要素があるのならば、判明させなければならない。それがゲスト対応室の業務だ。
ロエは戸惑った。
けたたましいクラクションが響いて顔を道路に向ける。無理矢理道路を渡ろうとした歩行者が、車の波を堰き止めて小走りに走っている。
「《話しといた方が、役に立つなら話す》」
雰囲気に、答えは小声になった。
沈黙が、一度落ちる。
「あーあ、嫌だねぇ、お役所勤めってのはっ」
静寂を壊したのはカキアの無駄に大きな一声だ。シートに背を深く預け、伸びをしている。
「《横で勝手に話したらいいか?》」
「いいよぉ。《いらない》」
ロエの方を向いたカキアは、いつも通りの薄ら笑いを張り付けていた。
「そういうまどろっこしいの、僕いらないんだよね」
伸びた手が、ロエの紙袋を持つ左の手首を握った。
何事かと、ロエはカキアを見る。
カキアもロエを見る。
そうして──そのまま、結構な秒数が経った。
「あれ?」
ロエの表情には疑問符が浮かぶ。同じ現象がカキアにも起きている。
「え、何で? 守り固過ぎない、君。なんかもう、変則にも程があるでしょ。しょうがないなぁ」
何かを諦めたらしいカキアが、運転席から助手席へ身を乗り出した。それから手首にあった手を、今度はロエの首裏に回し、後頭部を掴む。
引き寄せる動きに、ロエも身体を傾けた。
顔が近づく。前髪の隙間から深緑の瞳が視認できる距離になって、ロエは驚いて目を見開く。
額が重なって──その瞬間、繋がった。
垣根が、世界にあったはずの境界が、自己を包む壁が、一か所、一部分、ほんの僅かなくなった。けれどいつか感じた絶望的に巨大な質量に襲われることもなく、その小さな小さな穴の先から、風が吹いてくる。
風が記憶を、吹き過ぎる。
紫色の衣を纏う貴婦人が一人、毛皮を敷いた長椅子に寝そべり、上半身だけ緩く起こしている。髪はきらびやかな紐で結い上げられ、少し年齢を感じさせる手首には黄金の腕輪が輝いている。
「お前が戦場に出なさい」
唯一の嫡子を惜しみ、代わりに貴婦人は少年に命じる。
出自も知れぬ少年を、大人は誰も受け入れない。
それでは代わりに戦場に出たことにはならない。
剣で、槍で、一人でも多く敵を屠る。味方を助け、窮地を救い、一人でも多く生かして返す。その繰り返しで、信頼と尊敬を得る。貴婦人の家に恥じない武勲を立てる。
「お前が討ち取りなさい」
何度遠征を繰り返しても崩せぬ壁に、国は英雄を求め、貴婦人はその役割を少年に課した。戦場で向き合った魔王──敵国の王は別にいるというのにその邪法によって黒髪の男はそう呼ばれていた──は強く、少年では太刀打ちできない。
これでは討ち取ることは叶わない。
未熟な肉体を成長させ、経験を重ね、何度も死にかけて強くなる。魔王の行動を読み、その力に何度も死線をくぐり、最後に首級をあげる。
「お前が死になさい」
黄金の杯に満ちる葡萄酒を飲み干せと、少年でなくなった勇者に貴婦人は命じた。
勇者を讃えて担ぎ上げようとする混乱に、本家の嫡男を弑しようと分家の一派が乗じた。企みは未遂で終わっても、混乱はなお勇者がいる限り続く。
重く、冷たい、黄金の杯。舌の上に広がる味は渋みばかり強く、酒気は苦しみを和らげない。臓腑を焼く痛みに、血を吐き、倒れ込む。
最期に見上げた貴婦人は、こちらに顔を向けてすらいなかった。
そうやって──ロエの生は終わった。
そんな記憶が、今そこにある。
それらは頭が行う回想ではなく、質感も匂いも味も今確かに、カキアと見つめ合うロエと同列に存在している。
それから。
風の向こう。
薄く緑がかった癖毛な白髪の、儚いような容貌にそぐわない、深緑の瞳で目前を睨む少年も。
カキアが浅くついたため息が、ロエの唇をくすぐる。
「《だから人間は嫌いだ》」
低い呟きの後、カキアは身を引いた。
風が止み、穴が閉じる。途端に、あったはずの自分の過去も、見知らぬ少年もいなくなり、ロエは後者を寂しく思った。
「あーヤダヤダ。常識の定着関係なしでこれ付きっきり対応じゃん。ババ引いたぁ」
カキアはサイドミラーに目を向けた。後続車が途切れるのを待ち、発進する。
車列の流れに乗り、カキアは車を走らせる。
「《俺も、嫌いか?》」
ロエは少し遅れて、尋ねた。
「《俺を殺しといてよく聞くな》」
恨み言にしては軽い口振りでカキアは応じる。
その横顔をじっと見つめ、ロエは口を開いた。
「──《でもお前は笑ってた》」
指摘に、カキアは笑みを凍らせる。
「《俺が殺した時、お前は嬉しそうに笑ってた》」
「……あの戦場でよく見てるよ」
ロエの指先で、二個目に取ったチョコドーナッツのコーティングが溶け、ズルリと滑った。
「え、なに、すっごい皺。《どうした?》」
カキアの右側、助手席に座るロエの眉間に、深く濃く皺が刻まれている。
「《臭い。いつも臭いけどもっと臭い》」
両の手ひらで鼻から口元を抑えながら、くぐもった声でロエは言う。
「あぁ、時間移動も難儀だねぇ」
流行りのSF言葉でカキアはロエの現状を例えた。古代ギリシャ規格から、西暦基準で20世紀半ばへの移動だ。技術的な進歩には少しずつ触れて追いつけばいいが、環境的な違いには急に放り出されることになる。
その一つが、自動車の普及甚だしいこの時代の空気であり、匂いだ。石油燃料から、油、皮、ゴム、接着剤、塗料。この時代の工業製品の権化とも言える車は、その名に相応しい人工的な匂いに満ちている。
「《窓開けるか? 寒いが》」
「《開ける》」
「《そこのやつ回せ》」
躊躇わない同意に、カキアはドアの内側についている取っ手を示した。そうしながら、自分の方も取っ手を回して窓を開ける。途端に冬の風が社内に滑り込み、ハンドルに置く手の先が冷え出す。走り出した時の寒さも予測できるが、カキアは特に何も言わなかった。
むしろ心地よく、開いた窓枠に肘を置いて風を受ける。
「アリガトウ」
車側の赤信号を見込んで道路を渡る老人に気を取られていたカキアは、隣から聞こえた言葉に咄嗟に反応できなかった。拙い言葉を咀嚼して、それから横目を向ける。
「《他人に礼は求めない癖に、自分は言うんだな》」
幾分かマシになったのか、ロエは両手を下ろしていた。
「《言わないと不愉快にさせる。後が面倒臭い》」
経験を、ロエは口にした。
向けたカキアの視線に写るのは後頭部だけで、表情は見えなかった。けれどいつもと変わらないであろうことは声音から推測がつく。新鮮な空気を求め、窓に顔を向けている。
そのまま顔を出す勢いに、カキアは信号を気にしながらロエの首根っこを掴んだ。
「危ないから止めなね。《窓から出すな》」
信号が変わった。カキアはハンドルに手を戻したが、アクセルを踏まなかった。騒々しく後方からクラクションが響く。杖をつく老人が渡り切ったところで、カキアはブレーキから足を上げた。
市庁舎周りの整然としたオフィス街から離れ、小売店が立ち並ぶ地域でカキアはアクセルを緩めた。
「ちょっと待ってて。《待ってろ》」
指示にロエはカキアを追わずに車に残る。手持ち無沙汰に眺めるのは、窓から見える店の作りだ。派手な赤のネオンサインが陽気に店名を描いており、その背面の黄色い二重丸が特徴的だ。
カキアが、その店から白い紙袋と横長の箱を持って出てきた。
「はいよ」
足取りは真っ直ぐに、カキアは紙袋を助手席のロエに向けて差し出した。言葉は通じないが、ロエは受け取る。
カキアはそれからぐるりと回って後部座席に横長の箱を置き、手ぶらになってから運転席に戻った。
ロエはわたされた紙袋を、ただじっと膝上で見つめている。
「《……忘れ物の礼だ。食べろ》」
促されてやっと、白い紙袋を開ける。中には見覚えがあるような物体が三つ入っていた。一つを取り出して見ると、真ん中に穴の空いた茶色い食べ物だ。表面はテカテカしていて、香りからして甘い。
ロエは、ポケットからしわくちゃなメモ紙を取り出した。カキアに向けて掲げる。
「なぁに? あぁ、デイブったらお茶目さんだねぇ。《それだ》、ドーナッツ」
「どーなっつ」
道順のメモの端に描かれた、ドーナッツ。
答えに、ロエはいそいそと紙をもう一度ポケットにしまった。それから大きく口を開いて食いつく。
両目を見開いた。
「《うまい!》」
一口で半分ほどになった残りも、すぐに食べきる。次と思って、紙袋を覗く。
「アリガト!」
二個目にかぶりつきかけて、慌ててロエはカキアを見た。
一部始終を見ていたカキアは、その感謝に普段上げている口の端を下げる。
「……君さ、《お前、生い立ちを俺に教える気はあるか?》」
問いかけながら、カキアは前方に顔を向けた。ハンドルへ前傾に身体を預ける。
「《話せって言うなら》」
「《支援業務の遂行としては情報がある方が順調に行く。俺個人としてはどっちでも》」
向けない視線で、浮かべない表情で、ロエの感覚を拒絶する。ロエが判断に使うであろう要素をできるだけ消す。
「で、《お前の意思は?》」
違和感は確かにあった。成り行きに従順で、命令に従順で、空気にも従順で。降り積もった違和感は無視できない領域に達した。戦場にあっては感じ取れない宿敵の質の悪さを、カキアはこの場所で理解することになった。
おぞましき魔王を打ち倒す、勇猛果敢、清廉潔白な勇者。その姿が偶像であることは、人間という生き物を知っていれば分かる。
ロエの歳は、カキアが知る頃と大して変わりない。あの戦いを終えてなお、それほど早く命を落とす環境にロエはいたということだ。
ゲストの尊重すべき選択。中間に招かれたゲストは、みな選択を許される。みな自ら在り方を選ばされる。
それを阻害する要素があるのならば、判明させなければならない。それがゲスト対応室の業務だ。
ロエは戸惑った。
けたたましいクラクションが響いて顔を道路に向ける。無理矢理道路を渡ろうとした歩行者が、車の波を堰き止めて小走りに走っている。
「《話しといた方が、役に立つなら話す》」
雰囲気に、答えは小声になった。
沈黙が、一度落ちる。
「あーあ、嫌だねぇ、お役所勤めってのはっ」
静寂を壊したのはカキアの無駄に大きな一声だ。シートに背を深く預け、伸びをしている。
「《横で勝手に話したらいいか?》」
「いいよぉ。《いらない》」
ロエの方を向いたカキアは、いつも通りの薄ら笑いを張り付けていた。
「そういうまどろっこしいの、僕いらないんだよね」
伸びた手が、ロエの紙袋を持つ左の手首を握った。
何事かと、ロエはカキアを見る。
カキアもロエを見る。
そうして──そのまま、結構な秒数が経った。
「あれ?」
ロエの表情には疑問符が浮かぶ。同じ現象がカキアにも起きている。
「え、何で? 守り固過ぎない、君。なんかもう、変則にも程があるでしょ。しょうがないなぁ」
何かを諦めたらしいカキアが、運転席から助手席へ身を乗り出した。それから手首にあった手を、今度はロエの首裏に回し、後頭部を掴む。
引き寄せる動きに、ロエも身体を傾けた。
顔が近づく。前髪の隙間から深緑の瞳が視認できる距離になって、ロエは驚いて目を見開く。
額が重なって──その瞬間、繋がった。
垣根が、世界にあったはずの境界が、自己を包む壁が、一か所、一部分、ほんの僅かなくなった。けれどいつか感じた絶望的に巨大な質量に襲われることもなく、その小さな小さな穴の先から、風が吹いてくる。
風が記憶を、吹き過ぎる。
紫色の衣を纏う貴婦人が一人、毛皮を敷いた長椅子に寝そべり、上半身だけ緩く起こしている。髪はきらびやかな紐で結い上げられ、少し年齢を感じさせる手首には黄金の腕輪が輝いている。
「お前が戦場に出なさい」
唯一の嫡子を惜しみ、代わりに貴婦人は少年に命じる。
出自も知れぬ少年を、大人は誰も受け入れない。
それでは代わりに戦場に出たことにはならない。
剣で、槍で、一人でも多く敵を屠る。味方を助け、窮地を救い、一人でも多く生かして返す。その繰り返しで、信頼と尊敬を得る。貴婦人の家に恥じない武勲を立てる。
「お前が討ち取りなさい」
何度遠征を繰り返しても崩せぬ壁に、国は英雄を求め、貴婦人はその役割を少年に課した。戦場で向き合った魔王──敵国の王は別にいるというのにその邪法によって黒髪の男はそう呼ばれていた──は強く、少年では太刀打ちできない。
これでは討ち取ることは叶わない。
未熟な肉体を成長させ、経験を重ね、何度も死にかけて強くなる。魔王の行動を読み、その力に何度も死線をくぐり、最後に首級をあげる。
「お前が死になさい」
黄金の杯に満ちる葡萄酒を飲み干せと、少年でなくなった勇者に貴婦人は命じた。
勇者を讃えて担ぎ上げようとする混乱に、本家の嫡男を弑しようと分家の一派が乗じた。企みは未遂で終わっても、混乱はなお勇者がいる限り続く。
重く、冷たい、黄金の杯。舌の上に広がる味は渋みばかり強く、酒気は苦しみを和らげない。臓腑を焼く痛みに、血を吐き、倒れ込む。
最期に見上げた貴婦人は、こちらに顔を向けてすらいなかった。
そうやって──ロエの生は終わった。
そんな記憶が、今そこにある。
それらは頭が行う回想ではなく、質感も匂いも味も今確かに、カキアと見つめ合うロエと同列に存在している。
それから。
風の向こう。
薄く緑がかった癖毛な白髪の、儚いような容貌にそぐわない、深緑の瞳で目前を睨む少年も。
カキアが浅くついたため息が、ロエの唇をくすぐる。
「《だから人間は嫌いだ》」
低い呟きの後、カキアは身を引いた。
風が止み、穴が閉じる。途端に、あったはずの自分の過去も、見知らぬ少年もいなくなり、ロエは後者を寂しく思った。
「あーヤダヤダ。常識の定着関係なしでこれ付きっきり対応じゃん。ババ引いたぁ」
カキアはサイドミラーに目を向けた。後続車が途切れるのを待ち、発進する。
車列の流れに乗り、カキアは車を走らせる。
「《俺も、嫌いか?》」
ロエは少し遅れて、尋ねた。
「《俺を殺しといてよく聞くな》」
恨み言にしては軽い口振りでカキアは応じる。
その横顔をじっと見つめ、ロエは口を開いた。
「──《でもお前は笑ってた》」
指摘に、カキアは笑みを凍らせる。
「《俺が殺した時、お前は嬉しそうに笑ってた》」
「……あの戦場でよく見てるよ」
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