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5-2 冷静に
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テレビの小さな画面を、食い入るようにロエは見つめる。
大袈裟な動作で笑いを誘うコメディアン、淡々と世情不安のニュースを読み上げるキャスター、もどかしいラブロマンスを演じる女優と男優。
この最新技術で眺める白黒の映像体験は、ロエの視座と驚くほど似通っている。悲しむことも笑うこともある。多少心に何か残ることもある。だが、それだけだ。この画面の中の世界は、ロエとは繋がらない。ロエはただ、隔絶された場所から他を俯瞰し、感想を抱いている。
西部劇の銃の早打ち勝負など、最たるものだ。物語を動かすために、訳の分からない制約付きで殺し合わされてる。
滑稽で、意味不明で、憐れだ。
顔を上げ、時計を見た。昼を過ぎているが、料理は元より食事をする気にもならない。
昨晩、あの後カキアは逃げた。
まさかそんな事態が起こるとは予想できておらず、ロエはみすみすカキアを逃した。
せっかく、ちゃんと意思を伝えたというのに、応えてはもらえなかった。
しょうがなく一人帰宅して以降、カキアの姿を見ていない。ランニングの先にもいなかった。何か間違っていただろうかと、ロエは出来事を反芻する。
力なくソファに倒れ込む。そこにはカキアの就寝用という設定の毛布がある。それを抱き締めて、ロエは深く息を吸った。鼻腔をくすぐるのは煙草の匂いばかりで、カキアの臭いと思えそうなものはない。予想通りで、ロエは残念な心地で毛布に顔を埋める。
カキアは食べない。だから排泄もない。それから代謝もないので匂いもろくにない。呼吸と熱はあるが、それもどこまで本来の機能を果たしているのか。
だからロエはそういうのはいらないと伝えてあげたつもりだった。
好きだと伝えたくなったのは、カキアに繰り返し問われたからだ。好きも嫌いも、特別の別称。嫌いなものは遠ざけたいもので、好きなものは近くに置きたいもの。それが生前の判断基準。ただそれは、心の中での話であり、周りに働きかけることはしない。
なのにここでは、好きなものを欲しがることを促された。カキアにそうしろと。
ならば、何より一緒にいたいのはカキアで、カキアを好きで、カキアが欲しい。
その上でロエはカキアを好きだから、面倒なことはしなくていいと。どんなカキアでも側にいれればいいと。
なのに、逃げられてしまった。
なぜ、どうして、何が間違ったのか。
思いを巡らせて──急激に膨れ上がった違和感にロエは反射的に身を起こした。
捉えきれぬほどの巨大さで力が動く。カキアのエーテル操作の比ではない。何かを動かす力などではなく、すべてを押し流す圧力。心地良さなどなく、ただただ圧倒的な力の前に膝を屈する。
けれど、ロエは目を逸らさず世界の変化を目に焼き付け続けた。何が起こるのか、ただ冷静に、冷徹に、観察を続ける。
薄っぺらな定義が剥がされ、別の定義が世界を形作っていく。
世界が、造り変えられていく。
──気づけば、崖縁でロエは座っていた。
眼下には森が広がり、それを左右の大きな川が挟んでいる。おそらくは中州形状。空を見慣れないカラフルな鳥が群れで飛んでいる。そこに、あの街のどこででも存在を主張していた赤い橋はない。
自分の身体を見れば、服装も変わっている。下肢を毛皮で覆うだけの格好で、ロエは立ち上がった。靴がなく裸足なのは心許ないが、窮屈だったティーシャツよりは身軽で、ロエは即座に行動を開始する。
ひとまずは硬さとしなりを備えた手頃な枝を拾う。先端を石に擦り付けて尖らせ、槍の要領で手元に備える。
裸の胸元を過ぎる風が暖かく湿っている。植生も見たことのないものばかりで、ロエは自分の知識へ頼るのを止める。ただ五感と勘を頼りに、崖下へ通じる地形を探す。
踏み締める草は豊かに茂り、足音は消さずともあまり立たない。
それは、敵対生物にも同じで。
茂みから飛び出してきた獣に、ロエは木の棒をかざした。噛みつきを横に構えた枝で防ぎ、蹴りを見舞う。四つ足の獣は吹き飛び、草をなぎ倒した。
態勢を立て直す獣を、ロエはわざと待った。こちらを注視する獣に、泰然と相対す。
吠えもせず、威嚇もせず、ただ無感動に目を向ける。
獲物だった生物の超然とした佇まいに、獣は二の足が踏めなくなる。
硬直を、匂いが解いた。ロエには嗅ぎ覚えのある、文明の匂い。物の焼ける匂い。
「ロエ様!」
現れた人物が振り回した松明の炎に、四つ足の獣は怯んだ。一瞬の逡巡の後、獣は振り返って藪に消える。
「お会いできて幸いです。安全な場所までご案内いたしますのでご同行ください。道中、説明もお聴きいただければ」
早口に英語でまくし立て、現れた人物はロエの腕を引いた。黒髪、黒い瞳、小柄な女だ。
「あぁ、申し訳ございません。キラです」
戸惑いを察したのか、キラは名乗った。眼鏡はなく、髪も下ろされたままで、キラの印象はかなり変わって見えた。毛皮に包まれた割と豊満な胸元がなければ子供のようにも見える。
「室長代理にお聴きになっておられると思いますが、世界設定はあくまで創造主の気分次第、お考え次第です。どうやら気まぐれで、かなり遡ったようです」
手を引かれたままで急ぎ足に移動し、ロエはキラの説明を聞く。
「原始の時代、言語体系のない時代への定着はほぼありえませんので一時的になるとは思われますが、もう一度変遷が起きるまではどなたも堪えていただくことに」
説明の半ばで、ロエは足を止めた。キラが進めずにつんのめりかける。キラの振り返った視線の先で、ロエは森の奥、どこか遠くを見ている。
「カキア」
呟いて、ロエは駆け出した。
キラが手を掴んでおられずに、離して置いていかれる。
ロエは一直線に走った。
血の匂い、闘争の気配、──エーテルの騒がしさ。
駆け込んだ場所には、血塗れで佇むカキアがいた。服はロエと変わりない毛皮だ。仕留めた獣を足蹴に、剣を片手に立っている。ゆっくりと向けられた顔に、ロエは高揚した。
「《またエーテルの動きでも追ってきたのか?》」
強くロエは頷く。
「《食料調達でいくらかこんな感じだ。喜べ》」
「《手伝う》」
提案してくるロエを、カキアはじっと見つめた。それが善性の発露ではないことは、もう明らかになっている。
「《戦う俺の横にいたいのか?》」
カキアは微かにさえ笑わずに問う。二人の会話は古代語だ。意図せず、カキアの雰囲気は生前の、魔王と呼ばれた時のものに近づいている。
「《お前といたい》」
その変化を気にはせず、ロエは訴える。
じっと見つめ合った後、カキアはロエに歩み寄った。ロエの剥き出しの肩に手の平を置く。
「《ろくな得物がない。持ってこい》」
触れられている。風が吹く。ロエは棒を捨てた。
促されるままに、ロエは手の中に剣を生じさせた。ものの数秒足らずで実行してみせたロエに、カキアは陰鬱な笑みを浮かべる。
「いっそもう一回殺されりゃ終わるのかね」
自分を殺した剣を前に、カキアは時代の残響で英語を舌から滑らせた。
「《ついてこい》」
手を離し、背を向けて歩き出したカキアを、ロエは追った。
※ ※ ※
木の葉に包んだ生肉と泥を落とした芋、それからいくらかの木の実を積み上げ、カキアはキラを振り返った。
「数足りるかい?」
「食欲が湧く、という状況でもございませんのでおそらく充分です」
「水は?」
「洞窟の奥に湧水が」
「そっか。現地人との接触は?」
「一切」
「だろうね。集団の総数が少なすぎてゲストだけで定員なんだろ。これじゃ時代設定じゃなくてただのサバイバル体験だろうに、お偉方ってのは想像力が欠如してる」
単純に体験ならばまだしも、文明社会と原始時代の常識を並列で植え付けられる側の混乱を世界の主はまったく考慮に入れていない。十万年以上の隔絶を、受け止めきれる人間はそういない。過渡期の一時的でも、その差は人の精神に混乱と──下手すれば狂気をもたらす。
戸惑いなく業務を遂行しているキラは、人間として最高峰の柔軟性を有している。
「一日で巻き戻すに一賭け」
「不謹慎です。賭けるものもございませんよ」
「ちゅーしてくれてもいいよ」
「髭を整えてくださるなら、三日で戻るに一口」
「冗談です、ごめんなさい。キラちゃんのキスに匹敵するものとか、負けたら僕すかんぴんになっちゃう」
怖い怖いとわざとらしく身を震わせる。
「ま、短期間はお互い共通認識だ。お偉方の血迷いが少しでも早く終わることを祈ろうか。とりあえず日も暮れるし、今日はここらで」
去ろうとするカキアの手を、キラが取る。
「ご一緒に休まれないので?」
「ちょっと血生臭すぎるしね。文化人の方々とは距離を取ろうかと」
言葉通り、狩りから解体までこなした手は、すでに乾いた血で赤く染まっている。やんわりと綺麗なままのキラの手を離させた。
「緊急時は狼煙でも上げて。それほど離れはしないから」
大袈裟な動作で笑いを誘うコメディアン、淡々と世情不安のニュースを読み上げるキャスター、もどかしいラブロマンスを演じる女優と男優。
この最新技術で眺める白黒の映像体験は、ロエの視座と驚くほど似通っている。悲しむことも笑うこともある。多少心に何か残ることもある。だが、それだけだ。この画面の中の世界は、ロエとは繋がらない。ロエはただ、隔絶された場所から他を俯瞰し、感想を抱いている。
西部劇の銃の早打ち勝負など、最たるものだ。物語を動かすために、訳の分からない制約付きで殺し合わされてる。
滑稽で、意味不明で、憐れだ。
顔を上げ、時計を見た。昼を過ぎているが、料理は元より食事をする気にもならない。
昨晩、あの後カキアは逃げた。
まさかそんな事態が起こるとは予想できておらず、ロエはみすみすカキアを逃した。
せっかく、ちゃんと意思を伝えたというのに、応えてはもらえなかった。
しょうがなく一人帰宅して以降、カキアの姿を見ていない。ランニングの先にもいなかった。何か間違っていただろうかと、ロエは出来事を反芻する。
力なくソファに倒れ込む。そこにはカキアの就寝用という設定の毛布がある。それを抱き締めて、ロエは深く息を吸った。鼻腔をくすぐるのは煙草の匂いばかりで、カキアの臭いと思えそうなものはない。予想通りで、ロエは残念な心地で毛布に顔を埋める。
カキアは食べない。だから排泄もない。それから代謝もないので匂いもろくにない。呼吸と熱はあるが、それもどこまで本来の機能を果たしているのか。
だからロエはそういうのはいらないと伝えてあげたつもりだった。
好きだと伝えたくなったのは、カキアに繰り返し問われたからだ。好きも嫌いも、特別の別称。嫌いなものは遠ざけたいもので、好きなものは近くに置きたいもの。それが生前の判断基準。ただそれは、心の中での話であり、周りに働きかけることはしない。
なのにここでは、好きなものを欲しがることを促された。カキアにそうしろと。
ならば、何より一緒にいたいのはカキアで、カキアを好きで、カキアが欲しい。
その上でロエはカキアを好きだから、面倒なことはしなくていいと。どんなカキアでも側にいれればいいと。
なのに、逃げられてしまった。
なぜ、どうして、何が間違ったのか。
思いを巡らせて──急激に膨れ上がった違和感にロエは反射的に身を起こした。
捉えきれぬほどの巨大さで力が動く。カキアのエーテル操作の比ではない。何かを動かす力などではなく、すべてを押し流す圧力。心地良さなどなく、ただただ圧倒的な力の前に膝を屈する。
けれど、ロエは目を逸らさず世界の変化を目に焼き付け続けた。何が起こるのか、ただ冷静に、冷徹に、観察を続ける。
薄っぺらな定義が剥がされ、別の定義が世界を形作っていく。
世界が、造り変えられていく。
──気づけば、崖縁でロエは座っていた。
眼下には森が広がり、それを左右の大きな川が挟んでいる。おそらくは中州形状。空を見慣れないカラフルな鳥が群れで飛んでいる。そこに、あの街のどこででも存在を主張していた赤い橋はない。
自分の身体を見れば、服装も変わっている。下肢を毛皮で覆うだけの格好で、ロエは立ち上がった。靴がなく裸足なのは心許ないが、窮屈だったティーシャツよりは身軽で、ロエは即座に行動を開始する。
ひとまずは硬さとしなりを備えた手頃な枝を拾う。先端を石に擦り付けて尖らせ、槍の要領で手元に備える。
裸の胸元を過ぎる風が暖かく湿っている。植生も見たことのないものばかりで、ロエは自分の知識へ頼るのを止める。ただ五感と勘を頼りに、崖下へ通じる地形を探す。
踏み締める草は豊かに茂り、足音は消さずともあまり立たない。
それは、敵対生物にも同じで。
茂みから飛び出してきた獣に、ロエは木の棒をかざした。噛みつきを横に構えた枝で防ぎ、蹴りを見舞う。四つ足の獣は吹き飛び、草をなぎ倒した。
態勢を立て直す獣を、ロエはわざと待った。こちらを注視する獣に、泰然と相対す。
吠えもせず、威嚇もせず、ただ無感動に目を向ける。
獲物だった生物の超然とした佇まいに、獣は二の足が踏めなくなる。
硬直を、匂いが解いた。ロエには嗅ぎ覚えのある、文明の匂い。物の焼ける匂い。
「ロエ様!」
現れた人物が振り回した松明の炎に、四つ足の獣は怯んだ。一瞬の逡巡の後、獣は振り返って藪に消える。
「お会いできて幸いです。安全な場所までご案内いたしますのでご同行ください。道中、説明もお聴きいただければ」
早口に英語でまくし立て、現れた人物はロエの腕を引いた。黒髪、黒い瞳、小柄な女だ。
「あぁ、申し訳ございません。キラです」
戸惑いを察したのか、キラは名乗った。眼鏡はなく、髪も下ろされたままで、キラの印象はかなり変わって見えた。毛皮に包まれた割と豊満な胸元がなければ子供のようにも見える。
「室長代理にお聴きになっておられると思いますが、世界設定はあくまで創造主の気分次第、お考え次第です。どうやら気まぐれで、かなり遡ったようです」
手を引かれたままで急ぎ足に移動し、ロエはキラの説明を聞く。
「原始の時代、言語体系のない時代への定着はほぼありえませんので一時的になるとは思われますが、もう一度変遷が起きるまではどなたも堪えていただくことに」
説明の半ばで、ロエは足を止めた。キラが進めずにつんのめりかける。キラの振り返った視線の先で、ロエは森の奥、どこか遠くを見ている。
「カキア」
呟いて、ロエは駆け出した。
キラが手を掴んでおられずに、離して置いていかれる。
ロエは一直線に走った。
血の匂い、闘争の気配、──エーテルの騒がしさ。
駆け込んだ場所には、血塗れで佇むカキアがいた。服はロエと変わりない毛皮だ。仕留めた獣を足蹴に、剣を片手に立っている。ゆっくりと向けられた顔に、ロエは高揚した。
「《またエーテルの動きでも追ってきたのか?》」
強くロエは頷く。
「《食料調達でいくらかこんな感じだ。喜べ》」
「《手伝う》」
提案してくるロエを、カキアはじっと見つめた。それが善性の発露ではないことは、もう明らかになっている。
「《戦う俺の横にいたいのか?》」
カキアは微かにさえ笑わずに問う。二人の会話は古代語だ。意図せず、カキアの雰囲気は生前の、魔王と呼ばれた時のものに近づいている。
「《お前といたい》」
その変化を気にはせず、ロエは訴える。
じっと見つめ合った後、カキアはロエに歩み寄った。ロエの剥き出しの肩に手の平を置く。
「《ろくな得物がない。持ってこい》」
触れられている。風が吹く。ロエは棒を捨てた。
促されるままに、ロエは手の中に剣を生じさせた。ものの数秒足らずで実行してみせたロエに、カキアは陰鬱な笑みを浮かべる。
「いっそもう一回殺されりゃ終わるのかね」
自分を殺した剣を前に、カキアは時代の残響で英語を舌から滑らせた。
「《ついてこい》」
手を離し、背を向けて歩き出したカキアを、ロエは追った。
※ ※ ※
木の葉に包んだ生肉と泥を落とした芋、それからいくらかの木の実を積み上げ、カキアはキラを振り返った。
「数足りるかい?」
「食欲が湧く、という状況でもございませんのでおそらく充分です」
「水は?」
「洞窟の奥に湧水が」
「そっか。現地人との接触は?」
「一切」
「だろうね。集団の総数が少なすぎてゲストだけで定員なんだろ。これじゃ時代設定じゃなくてただのサバイバル体験だろうに、お偉方ってのは想像力が欠如してる」
単純に体験ならばまだしも、文明社会と原始時代の常識を並列で植え付けられる側の混乱を世界の主はまったく考慮に入れていない。十万年以上の隔絶を、受け止めきれる人間はそういない。過渡期の一時的でも、その差は人の精神に混乱と──下手すれば狂気をもたらす。
戸惑いなく業務を遂行しているキラは、人間として最高峰の柔軟性を有している。
「一日で巻き戻すに一賭け」
「不謹慎です。賭けるものもございませんよ」
「ちゅーしてくれてもいいよ」
「髭を整えてくださるなら、三日で戻るに一口」
「冗談です、ごめんなさい。キラちゃんのキスに匹敵するものとか、負けたら僕すかんぴんになっちゃう」
怖い怖いとわざとらしく身を震わせる。
「ま、短期間はお互い共通認識だ。お偉方の血迷いが少しでも早く終わることを祈ろうか。とりあえず日も暮れるし、今日はここらで」
去ろうとするカキアの手を、キラが取る。
「ご一緒に休まれないので?」
「ちょっと血生臭すぎるしね。文化人の方々とは距離を取ろうかと」
言葉通り、狩りから解体までこなした手は、すでに乾いた血で赤く染まっている。やんわりと綺麗なままのキラの手を離させた。
「緊急時は狼煙でも上げて。それほど離れはしないから」
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