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6−2 今の記録
泥沼から這い上がる心地でカキアは覚醒した。個としての連続に安堵する心と、地獄の再開に苦しむ心は同時にある。
少し寒い。肩が冷えて手を滑らせる。剥き出しの肌が冷たい。横たわったまま、目も開けずにさする。温度感が二つあって、疑問に思う。背中や腹回りは温かいのに、手足は冷えている。毛布がずれているのだろうかといい加減目を開いて──全裸の腹に回る他人の腕に驚愕する。
反射的に起きようと腹筋に力を入れるが、絡む腕が思ったよりも重く、動作は叶わなかった。一度シーツに身体を戻して肘を付き、支えにして改めて上半身を軽く起こす。
少し高くなった位置で身を捻れば、金色の一房が気の抜けてなお完成された寝顔にかかる瞬間を見た。
カキアが動いたためか、その目蓋が震え、空色の瞳が覗いた。
「《おはよぉ……》」
語尾が欠伸に繋がる。硬直しているカキアを他所に、すべてに慣れた仕草でロエはカキアに回す腕を深めた。後ろから擦り寄られ、裸の背中に他人の吐息を感じるという初めての経験に、カキアは硬直が溶けない。
「《ちょっと寒いな。暖房ついてるか?》」
呟きも右から左に素通りする。
「《──どういうことだ》」
無反応過ぎてつまらなくなったロエが、あらぬところに手を伸ばしてようやく、カキアは思考を再開した。
回された腕を跳ね除けて反転し、片膝をロエの腹に乗せ、片手を首に添える。体勢としては優位だが、いまいち混乱は収まっていない。
「《何が?》」
「《この状況だ》」
「《覚えてないのか?》」
「《人の意識刈り取った奴が言う言葉か》」
敗北者に記憶を求めるには、ロエの所業は容赦なかった。お陰で耳縁にかさぶたが見えても、謝る気など起こらない。
「《見たかったから》」
「《どこをだっ、何した!》」
怒鳴るカキアにロエがぽかんと口を開いた。
少しの間の後、カキアの肩に両手を置き、押し返す勢いで上半身を起こす。
「《カキア、同衾の経験ないのか!?》」
「《微妙に話飛ばすな!!》」
有利な体勢はあっさりと崩れ、カキアが尻をついた衝撃でベッドが揺れる。
「《だって俺疑ってるだろ!》」
「《お前の言動に信じられる要素がない!》」
「《経験あったら何もなかったこと分かるだろ!》」
「《それは……そうなのか?》」
「《あと服着てないのは俺も何でか知らない!》」
「《心当たりのない全裸で何落ち着いてんだ、お前は!》」
「《だって》」
表で、クラクションが高く響いた。
はっと、カキアは世界の広がりを今更知覚した。揉み合っていたのは柔らかなスプリングの効いたベッドで、肌に当たるシーツは清潔で真っ白い。厚手のカーテンの向こうから、少し高めの陽射しが入ってきている。
カキアは素足で寝台を降りた。窓辺に走り寄り、カーテンを開ける。
「《世界が戻るなら、服ぐらいどうとでもなるだろ》」
カキアの視界に、見慣れた文明の街が広がった。抜けるような青空を鳩が一羽、羽ばたいていた。
※ ※ ※
ノックなしに開いた扉に、キラはデスクから顔を上げた。
「ごめん、キラちゃん。寝坊」
「先にご連絡いただいておりましたので、問題ございません。元々室長代理は付きっきり対応中ですし、一人で進めることも想定しておりました」
黒髪を引っ詰め、厚い眼鏡をかけたキラは、冷静に言葉を重ねる。
けれど業務状況を続けて報告しようとする口は、一度開いて閉じた。長い間を経て、カキアが首を傾げたところでようやくもう一度口を開く。
「……もしやキスをご所望でしょうか?」
カキアの、いつも無精に伸ばす髭が綺麗に剃られていた。剃り残しの多い顎下さえも完璧だ。
「違う違うっ。文明社会のありがたみを感じちゃっただけ。賭けは成立してないでしょ」
ほんのりと届くシャンプーの香料に、その言葉の実感が伝わった。よく見れば前髪の辺りが、少し湿っている。
「お風邪を召されますよ」
立ち上がり、キラはハンカチを取り出した。前髪に手を伸ばそうとしたところで、間に大きな影が割り込む。
「嫌だ」
立ち塞がるロエの表情は静かだ。強引さにキラは動きを止める。
何が。
言葉の先を読み取る事ができず、おずおずとキラは現状を告げる。
「室長代理の前髪が、濡れておられるので」
「わ、なに……っ」
ロエはキラに背を向けた。自分の袖で、濡れているカキアの前髪を拭ってしまう。
何が起こっているのか戸惑って、キラはハンカチを握った。前に立ったロエから、カキアと同じシャンプーの匂いがする。同じ家に住んでいるのだから当たり前ではある。
小さなことが気になり始めた意識は、寝坊という珍しい事態も拾う。カキアは一緒に住んでいたときもいつ寝ているのか分からない生活習慣で、朝は驚くほど早く見回りも兼ねた散歩に出掛けていた。
「痛い痛いっ、もういいでしょっ。キラちゃんに優しく拭いてもらいたかった……」
「冬場は体調を崩すきっかけになりかねませんのでご注意ください」
「はいよ。それでお仕事の話。ほら、君はあっち行ってて」
邪険に扱われ恨めしいような目をするが、ロエはいつもの定位置である衝立て向こうのソファに消えていく。
「……ロエ様お変わりになられましたか?」
「僕は変化を感じ取れるほど、彼のこと分かんないなぁ」
ため息と共にこぼされた愚痴めいた言葉に、キラは驚く。
「分かっていない事が分かるのは、関係性としては進歩では?」
「永遠に分かりたくないし、実際分かんない気がするなぁ」
カキアはあらぬ方向に視線を投げてぼやいた。
キラは確信した。一昨日、料理をしに行った日の二人と、今の二人は違うと。今まであった空々しさは鳴りを潜め、もっと剥き出しの感情で向き合っている。
キラはそれを良いことだと捉える。変わることは、悪いことではない。
「はい、お仕事、お仕事しよう、キラちゃん。彼はほっといても無敵だから」
「かしこまりました。現状、世界復帰による不具合は報告されておりません」
「単純に戻った?」
「時代呼称、住民数、所属者名、記憶にある限りでは、情報の齟齬は確認できませんでした」
「完全に選択失敗で、慌てて差し戻しってとこだね。いやぁ見事な無駄労働」
「この後はゲストの方々に状況を伺いに行く予定でした」
「一覧ある? ほとんど半日の夢みたいなもんだから、電話通じる人はまず電話でいいよ。そっちキラちゃん担当して。後の日中動き回ってそうな人は、僕が車で行くから」
少し寒い。肩が冷えて手を滑らせる。剥き出しの肌が冷たい。横たわったまま、目も開けずにさする。温度感が二つあって、疑問に思う。背中や腹回りは温かいのに、手足は冷えている。毛布がずれているのだろうかといい加減目を開いて──全裸の腹に回る他人の腕に驚愕する。
反射的に起きようと腹筋に力を入れるが、絡む腕が思ったよりも重く、動作は叶わなかった。一度シーツに身体を戻して肘を付き、支えにして改めて上半身を軽く起こす。
少し高くなった位置で身を捻れば、金色の一房が気の抜けてなお完成された寝顔にかかる瞬間を見た。
カキアが動いたためか、その目蓋が震え、空色の瞳が覗いた。
「《おはよぉ……》」
語尾が欠伸に繋がる。硬直しているカキアを他所に、すべてに慣れた仕草でロエはカキアに回す腕を深めた。後ろから擦り寄られ、裸の背中に他人の吐息を感じるという初めての経験に、カキアは硬直が溶けない。
「《ちょっと寒いな。暖房ついてるか?》」
呟きも右から左に素通りする。
「《──どういうことだ》」
無反応過ぎてつまらなくなったロエが、あらぬところに手を伸ばしてようやく、カキアは思考を再開した。
回された腕を跳ね除けて反転し、片膝をロエの腹に乗せ、片手を首に添える。体勢としては優位だが、いまいち混乱は収まっていない。
「《何が?》」
「《この状況だ》」
「《覚えてないのか?》」
「《人の意識刈り取った奴が言う言葉か》」
敗北者に記憶を求めるには、ロエの所業は容赦なかった。お陰で耳縁にかさぶたが見えても、謝る気など起こらない。
「《見たかったから》」
「《どこをだっ、何した!》」
怒鳴るカキアにロエがぽかんと口を開いた。
少しの間の後、カキアの肩に両手を置き、押し返す勢いで上半身を起こす。
「《カキア、同衾の経験ないのか!?》」
「《微妙に話飛ばすな!!》」
有利な体勢はあっさりと崩れ、カキアが尻をついた衝撃でベッドが揺れる。
「《だって俺疑ってるだろ!》」
「《お前の言動に信じられる要素がない!》」
「《経験あったら何もなかったこと分かるだろ!》」
「《それは……そうなのか?》」
「《あと服着てないのは俺も何でか知らない!》」
「《心当たりのない全裸で何落ち着いてんだ、お前は!》」
「《だって》」
表で、クラクションが高く響いた。
はっと、カキアは世界の広がりを今更知覚した。揉み合っていたのは柔らかなスプリングの効いたベッドで、肌に当たるシーツは清潔で真っ白い。厚手のカーテンの向こうから、少し高めの陽射しが入ってきている。
カキアは素足で寝台を降りた。窓辺に走り寄り、カーテンを開ける。
「《世界が戻るなら、服ぐらいどうとでもなるだろ》」
カキアの視界に、見慣れた文明の街が広がった。抜けるような青空を鳩が一羽、羽ばたいていた。
※ ※ ※
ノックなしに開いた扉に、キラはデスクから顔を上げた。
「ごめん、キラちゃん。寝坊」
「先にご連絡いただいておりましたので、問題ございません。元々室長代理は付きっきり対応中ですし、一人で進めることも想定しておりました」
黒髪を引っ詰め、厚い眼鏡をかけたキラは、冷静に言葉を重ねる。
けれど業務状況を続けて報告しようとする口は、一度開いて閉じた。長い間を経て、カキアが首を傾げたところでようやくもう一度口を開く。
「……もしやキスをご所望でしょうか?」
カキアの、いつも無精に伸ばす髭が綺麗に剃られていた。剃り残しの多い顎下さえも完璧だ。
「違う違うっ。文明社会のありがたみを感じちゃっただけ。賭けは成立してないでしょ」
ほんのりと届くシャンプーの香料に、その言葉の実感が伝わった。よく見れば前髪の辺りが、少し湿っている。
「お風邪を召されますよ」
立ち上がり、キラはハンカチを取り出した。前髪に手を伸ばそうとしたところで、間に大きな影が割り込む。
「嫌だ」
立ち塞がるロエの表情は静かだ。強引さにキラは動きを止める。
何が。
言葉の先を読み取る事ができず、おずおずとキラは現状を告げる。
「室長代理の前髪が、濡れておられるので」
「わ、なに……っ」
ロエはキラに背を向けた。自分の袖で、濡れているカキアの前髪を拭ってしまう。
何が起こっているのか戸惑って、キラはハンカチを握った。前に立ったロエから、カキアと同じシャンプーの匂いがする。同じ家に住んでいるのだから当たり前ではある。
小さなことが気になり始めた意識は、寝坊という珍しい事態も拾う。カキアは一緒に住んでいたときもいつ寝ているのか分からない生活習慣で、朝は驚くほど早く見回りも兼ねた散歩に出掛けていた。
「痛い痛いっ、もういいでしょっ。キラちゃんに優しく拭いてもらいたかった……」
「冬場は体調を崩すきっかけになりかねませんのでご注意ください」
「はいよ。それでお仕事の話。ほら、君はあっち行ってて」
邪険に扱われ恨めしいような目をするが、ロエはいつもの定位置である衝立て向こうのソファに消えていく。
「……ロエ様お変わりになられましたか?」
「僕は変化を感じ取れるほど、彼のこと分かんないなぁ」
ため息と共にこぼされた愚痴めいた言葉に、キラは驚く。
「分かっていない事が分かるのは、関係性としては進歩では?」
「永遠に分かりたくないし、実際分かんない気がするなぁ」
カキアはあらぬ方向に視線を投げてぼやいた。
キラは確信した。一昨日、料理をしに行った日の二人と、今の二人は違うと。今まであった空々しさは鳴りを潜め、もっと剥き出しの感情で向き合っている。
キラはそれを良いことだと捉える。変わることは、悪いことではない。
「はい、お仕事、お仕事しよう、キラちゃん。彼はほっといても無敵だから」
「かしこまりました。現状、世界復帰による不具合は報告されておりません」
「単純に戻った?」
「時代呼称、住民数、所属者名、記憶にある限りでは、情報の齟齬は確認できませんでした」
「完全に選択失敗で、慌てて差し戻しってとこだね。いやぁ見事な無駄労働」
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