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<20・矜持>

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「どんな罠が発動すんのかね?うまくいったら、俺らは無傷で鍵を手に入れられる。良かったなあ?」

 こいつは一体何を言っているのだろう。篠丸は唖然とする他ない。水車恭二は、相変わらずにこにこと笑うかりだ。何も知らない人間が見たら、きっとおおらかで優しそうな人物にも見えることだろう。元より、恭二は教師受けも悪くないのだ。成績だっていいし、教師にはそこそこ従順である。ただ、生徒達だけが本性を知っているのだ。彼は警察に捕まるようなヘマなどしない。ただ、バレないように上手く“酷いこと”をする。今のところ性犯罪の噂だけは聞かないが、悪い女との付き合いが耐えないとか、それこそ気に食わない奴は薬の売人だろうがヤクザだろうが叩きのめすと専ら評判である。
 ただの噂、ではないのだ。実際彼にカツアゲされている生徒、ボコられている現場などは――篠丸自身も含めて、多くの生徒が見ているのだから。
 ただ、被害者が尽く泣き寝入りするのである。恐らく、ただ殴られたり脅されるだけではなく、圧倒的な彼の“暴力”に心が折れるからなのだろう。一度戦ってしまうと、骨の髄まで恐怖を叩き込まれてしまう。これ以上被害に遭わないように、ただただ従順に頭を垂れるしかないと刷り込まれるのだと皆が予想している。触らぬ神に祟りなし、クラスで皆が彼に対して“当たり障りなく”しか接しないのはそのためである。
 そう、こんな事でも起きなければ――多くの生徒は、彼の狂気にこれ以上振り回されることなどなかったろうに。

「……自分が、何言ってるのかわかってるの」

 本能がガンガンに警鐘を鳴らす。自分が取るべき最善手は“逃げること”だと。こんな奴に、これ以上関わるべきじゃない。生き残るためなら、部屋に閉じ込められた三人を見捨てて明日葉と二人で逃げるのがいい。
 なんせ、あくまで恭二の目的は、罠のある部屋に隠された鍵を入手することである。罠の発動が終了すれば、鍵を手に入れられるチャンスがある。そう思っているなら、恭二は中の騒ぎが収まるまで此処から動かないはずだ。自分達を追いかけてくる可能性は、限りなく低いだろう。勿論、それさえも無視してこの場で自分達を殺そうとしないなら、だが。それならそれで、もう自分達に抗う術はない。
 彼は素の状態でも、恐ろしい喧嘩スキルを誇っている。そこに加えて、さきほどちらりと見えた“重量”の文字。恐らく、彼に与えられた能力は、自分の全身か一部の重量を自在に変えることができるとか、そういうものの類ではないだろうか。喧嘩スキルと合わせると殆ど無敵だと言っていい。強そうな能力だから、多分回数制限はあるのだろうが――それでも、まだ余裕がありそうな恭二の様子からして、あと何回かは能力発動の余裕を残していると見て間違いなさそうだ。
 戦って、勝てる相手ではない。
 逃げられないならもう、自分達に勝目はない。わかりきった話だ。あとは、向こうの気分次第だということは。

「適当に誰か投げ込んで、って。……クラスメートだよ。一緒に勉強したり遊んだりした仲間だろ。その仲間を、平気で犠牲にできる神経が信じられないんだけど」
「さすが、優等生の小倉篠丸クン。いいこと言うなあ~」

 恭二は大げさに、パチパチと手を叩きながら言った。

「うんうん、いいと思うよ?仲間を大切にして、友達を大事にして、素敵な学校生活を満喫する!素晴らしい青春って奴だ、俺もそういうのは別に嫌いじゃぁない。けどな?あくまでそういう理想を追いかけられるのは、“日常”の中に限定されるっていうのをわかっていた方がいい。今は?バリッバリの非日常だ。数分、数十分ごとに当たり前のように人が死んでいくんだぜ?忘れたとは言わせない、既に何人のクラスメートが死んだのか」
「そのうち三人は、あんたが殺したくせに」
「おお、怖い怖い」

 篠丸の隣で、明日葉がぎろりと恭二を睨みつける。物静かで大人しい印象の明日葉だが、気持ちは篠丸と同じであるようだった。
 こいつの存在は、根本的に受け入れられない、受け付けることもできない。いくら生き延びるため、という大義名分があるとしてもだ。こいつの言い分を認めたら、人として失ってはならないものを失ってしまうと揃って理解しているからである。
 人間は、その気になれば人間を殺せる。
 それこそ道端を歩いていて、信号待ちに引っかかって。興味を持ったら、その場で目の前に立っている赤の他人を、道路の真ん中に突き飛ばして、自動車に轢き殺させることもできるのかもしれない。真っ赤な血が飛び散る光景、絶望に染まる顔、骨や肉が砕ける凄惨な現場――そういうものを間近で見てみたいと思い、その衝動を抑えられない者がその場にひとりでもいたとしたら。あっという間に、当たり前の日常が粉々に砕け散ることだろう。阿鼻叫喚の現場で、死ぬ人間はひょっとしたら最初に突き飛ばされたひとりだけでは済まないかもしれない。
 だが、そんな凄惨な事件などそうそう起きるものではないのだ。起きたらまずニュースになって全国に知れ渡るだろうが、少なくともマスコミがそういった事件を報道する機会はそうそうない。何故なら、多くの人間は、仮に人が死ぬことに興味を持つことがあっても――理性という蓋で、そういった残酷な行動を起こさないように自制するからである。人生を棒に振りたくない、というのもある。同時に“何もしていないのに殺される人が可哀想”だとか、“きっととても痛くて恐ろしい思いをするんだろう”という想像が働き、悪いことをしようとする己の身体に大きくブレーキをかけるからだ。
 空想の世界でそういうものを見たいと思うことがあっても、現実で望まない人間の方が圧倒的多数を占めている。だからこそ、この世界は比較的平穏に、多くの人々が余計な警戒など抱くこともなく普通に生活することができるのだ。それこそ、後ろから人に刺されるかもしれない、突き飛ばされるかもしれないなんて警戒を本当にしなくてはならないのなら――多くの人々はぼんやりと信号待ちをすることさえもできなくなってしまうだろう。待ち時間に携帯を見ることは勿論、今日の御飯のメニューや、仕事の内容に思いを馳せる余裕もない。むしろ、常に警戒しながら、己の身を守る武器を携帯することさえ考えなければならなくなるだろう。
 そうしなくていいのは、多くの人間が正しく“人”であることを守っているからだ。守ることができるからだ。クラスメートを殺したくない、なんてこと以前に。人を殺すのが恐ろしいと思えること、そのものが人間の証明ではないのか。

「生き延びるためなら、みんなで協力して生き残るってことも考えられるはずだろ。特に、お前の舎弟三人は……お前を慕って、集合に応じなかったんじゃないのか。お前と一緒に、此処から脱出したいって思ってたんじゃないのか!それなのに、どうしてそんな奴らを殺せる?人を平気で傷つけられるんだよ、なあ!?」

 こんな問答をするよりもやるべきことはあるはずだった。とにかく逃げるとか、戦うとか、ドアを壊してみんなを助けるとか。だが。
 自分は、“通信”の能力しかない。明日葉は“二択”の力しかない。特別な力のない自分達に、取れる選択肢のなんと少ないことか。
 否――否。そんなことよりも今か、感情が優ってしまっている。
 この男が、許せない。存在を、認められないのだ。

「そういう質問は、誰かにされるとは思ってたけどさ。俺としては不思議でしょーがない。だって俺、大半の人間より自分が強いって自覚あったしさ。言うなればそうだなあ……草食動物の群れに、ライオン一匹放り込まれてる感覚っつーの?草食動物のフリしてた方が溶け込めるからそうしてるけど、いっつも疑問ではあったんだよな。いつでもみんな食い殺せるのに、そんな弱い奴らばっかりなのに、なんで俺はそいつらに合わせないといけないのかなーって」
「何、言って……」
「脱出のためにさ、武藤達がいい能力持ってて、俺を全力で生かすためにサポートしてくれるっていうなら生かしておいてもいいかなと思ったよ?でもあいつら、役に立たない能力か、あるいは命懸けで俺を助けるような甲斐性なんてない奴らばっかりだったんだ。そんな奴ら、引き連れてても意味ないじゃん?普段は邪魔にならないなら一緒にいてやってもいいかなって思ってたけど、今野状況は足でまといって致命的じゃん?だからいい機会だし、ここらで捨ててもいいかなって。ちょうど、ブレスレットの能力の試し打ちもしたかったしさ。……今から思うと、あいつら程度に能力使ったのもったいなかった気もするけど」

 ダメだ、と篠丸は絶望的な面持ちで思った。まるで菩薩か聖母のように微笑んでいる恭二なのに、まるで話が通じる気配がない。言った言葉が全部、するすると彼の中を空気のように通り抜けていくばかりだということがわかるのだ。
 彼は本気で、自分が悪いことをしているとは思っていない。むしろ、“今まで善意で人間社会に合わせてやっていたのに”としか思っていない。いっそ、悪意があって、あるいは生き残るためだけに必死になっているならいかようにも出来たというのに――そんな奴に一体どうして、自分みたいな“普通”の人間が対応できるのだろう?

――こいつは、生かしておいたらだめだ。

 そっと、ポケットの中にねじ込んであるメスを手に取る。たまたま、少し前に探索した部屋で見つけたものだ。

――ここで、退場させないと……いくらでも次の犠牲が出る!でも、喧嘩なんかしたことのない、身体も小さい僕に……この化物を殺すことなんかできるのか……!?

「お?」

 その時、不意に恭二がドアの方を見て呟いた。

「中、結構大変なことになってるな。へえ、スライムの化物が襲ってくる罠だったのか」
「!」
「ひとり死んでるっぽいなあ。あれがどんどん大きくなって、部屋を全部埋め尽くしたら終わりなのかもな?あるいは、触っただけで溶けるタイプとか?わかんねーけど。あいつら、うまく倒してくれるといいなあ?」
「お、お前っ!!」

 ドアの硝子部分を覗いて、篠丸は頭の中が真っ赤になった。スライムのような怪物相手に、必死で戦う英佑と明日葉。彼らの足元には、頭から血を流して動かない晴哉の姿がある。
 早く彼らを脱出させなければ。二人とも強い能力を持っているが、回数制限付きだ。弾数が尽きてしまえば、なすすべもなくやられてしまう。ましてや、あのスライムのような敵に、銃や砲弾が効くのかどうか。

「くっ!」
「あ、明日葉!」

 すると、無言で明日葉が動いた。彼女は恥も外聞もなく、思い切りドアに体当たりを始めたのである。

「おいおい、無駄だって」

 呆れたように笑う恭二に、明日葉は今までで一番強い声で告げた。

「やってみなければ、わからない!お前はそこで黙って見てろ!!」

 そうだ。恭二が邪魔しないというのなら――まず自分達がやるべきことは、仲間を助けることではないか。

「ぼ、僕もやる!鍵を壊すんだ!」

 一縷の望みをかけて、明日葉と共に篠丸は体当たりを始めた。仲間を見捨てない。それが人間としての、己の矜持を守ることでもあると知っているがゆえに。
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