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<1・Encounter>

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 人間には感情がある。それはけして、悪い事でもなんでもない。
 ただ人は時として、感情に振り回されてあまりにも愚かな選択をする。自分達は理性的だ、自分達は正しい、そう信じている者ほど己の激情のために瞳が曇っていたりもする。
 例えば、白い肌の人間が嫌いな者達は、白い肌の人間達が犯した犯罪を捏造する。
 例えば、男性が嫌いな者達は、彼らが横暴な振る舞いをしたのだと自分が被害に遭ってもいないのに吹聴する。
 例えば、同性愛者が嫌いな者達は、異性愛者たちがやった多くの失敗を棚上げして彼らの小さなミスを揚げ連ねる。
 例えば、魔物が嫌いな者達は、真実かもわからない魔物が起こした惨劇を今日昨日身近で起きたかのように思い込んだりもする。
 人間は感情があるからこそ強く、同じだけ脆い。
 多くの者達は気づかない。――真実を見つけたいと言いながら、実際己にとって都合の良い真実しか求めていないという事実に。

「出て行け!」

 かつん!と投げられた石が少年の灰色のフードに当たった。少年は痛みを堪えて、それでも妹を守るように細腕に力をこめた。手の中で、妹が恐怖と寒さで震えていると知っているからこそ。

「バケモノの子め!出て行け!お前達がいるから、この村は不幸になるんだ!」

 子供達が石を投げるのを見ても、その親達はけして止めない。何故なら、彼らと同じ意見だからだ。射殺すような眼で兄妹を見る村人たち。彼らは気づいていない。自分達が思い込んでいる思想がどれほど偏っていて、根拠がないものであるかなど。
 遠くの地から引っ越してきた、異人の一家。兄妹とその両親はみんな、この土地の人々とはまるで違う容姿をしていた。
 特に目を引くのは、鮮やかな赤い瞳だろう。この土地に暮らす人々は、魔物が人間に化けて村にやってきたと思い込んだらしい。それも無理のないことではある。この近隣の森には赤い瞳を持った魔物が多く、彼らと争って人が死んだことは少なくないからだ。
 しかし遠い土地の戦火から逃れてこの村にやってきた一家が、そのようなことを知るはずがない。何故自分達が気味悪がられるのか、引っ越してきて早々村八分に近い扱いを受けるのかさっぱりわからなかった。
 決定打となったのは、病気にかかった両親が、村人たちに見殺しにされたこと。
 そして、それと同時期に村を凶作が襲ったことだった。
 村人たちは死んだ両親の祟りだと恐れた。そして、この一家が村に病と凶作を持ちこんだと思い込んだのだ。
 ゆえに、幼い息子と娘は今、村から追い出されようとしている。こんな雪の降る、寒い季節に。

「俺たち、なんもしてない!お願いします、ルチルだけは家に入れてください!」

 兄は、命と引き換えにしてでも妹を守ろうとした。
 自分は兄だ。兄は妹を守るために生まれてきたのだと心の底から信じていた。自分はどうなってもいい。でも、まだ五歳の妹だけは何が何でも救わなければ。この雪原に放り出されたら、八歳の自分のか細い腕では到底守り切れる気がしなかったのである。しかし。

「駄目だ駄目駄目だ、その妹も魔物の子なんだろう!だったら、森でだって生きていけるはずだ、さっさと消えろ!」

 村人たちは、凶作と病、そして妄執に狂っていた。猟銃を向けられて脅されてしまってはもう従う他ない。少年は歯を食いしばって妹の手を引き、雪道を歩きだしたのである。あの怖い人達の姿が見えなくなるまで。恐ろしく暗い、夜の森の方へ。
 雪原の向こうの森ならば、木陰がある分きっと雪を凌げる場所もあるはずだ。そう信じる他なかった。ボロボロのブーツと、ぼろきれのような服、水も食料も武器も何も持っていない。それでも、もはや自分達は人間の明かりの下で暮らすことを許されていないのだ。
 助けてくれた両親ももはやいない。
 森に居場所を求めるしかなかった。それがどれほど、か細い希望であったとしても。

「お兄ちゃん……」

 鼻水や涙さえ凍りそうな寒さの中、妹が嗚咽を貰しながら言う。

「森は、怖いから……ママとパパ、入っちゃ駄目だって言ってたよ。どうして、行かないといけないの?なんで、村の人はルチルたちを追い出すの?」
「……ごめんな、ルチル」
「どうして、お兄ちゃんが謝るの?」
「あの人たちは、俺たちのことが嫌いなんだ。ルチルだけでも助けてくれって、お兄ちゃんがもっと上手にお話できれば良かったのにな……」

 誰か助けて。
 誰か、誰か、誰か。
 自分達にはもはや、呼ぶ名前もなかった。
 このままでは仮に恐ろしい魔物に出くわすことがなかったとしても、兄妹が飢えて死ぬのは明白だった。冬の森は、木の実さえまともに生らない。そもそも生っていたところで、弱った体力と幼い手足ではまともに木に登ることも叶わないのは明白だった。
 それでも、兄は心の中で願い続けた。
 誰か、神様、お願い助けて。
 自分の命と引き換えにしてもいいから、妹だけは。妹の命だけは、どうか。

「神様……」

 気づけば、声に出していた。
 人の手が入らない獣道。木の根に躓きそうになりながら、小枝を踏みしめながら、しもやけだらけの手で妹の手を握りしめて。

「神様、どうか、助けて……」

 そう、まさにその時だったのである。

「神など、この世のどこにもいない」

 低く、穏やかな声が降った。最初は幻聴かと思ったのである。その男性の声は父に似てどこまでも美しく響き渡るものであったから。少年は知っていた。人は窮地に追い込まれると、己にとって最も都合の良い幻を見たり、聴いたりするのだと。
 しかし、それはまやかしなどではなかった。
 ゆっくりと、枝を踏みしめながら歩いてくる足音がする。ローブがはためく音、剣が擦れる微かな金属音を聴きとる。そして。

「何故ならば神などがいるならば……このような幼い子供達を放り出すような不平等をするはずがあるまい。そのような不公平な神など、この世に存在しない方がマシであろう?」

 森の奥から現れたその人を、少年は最初天使かと思ったのである。
 何故ならば、月明かりに照らされた長い金色の髪はキラキラと輝いて眩しく、その両目には自分達のそれよりもっと鮮やかなルビーの瞳が嵌っていたから。

「あ……」

 思わず、感嘆の息が漏れた。
 屈強な体躯に臙脂のローブを纏ったその男は、今まで見たどんな人間よりも美しく力に満ち溢れていたのである。従者を従えた青年は、慈愛に満ちた目で幼い兄妹を見つめていた。

「天使さま?」

 兄が何かを言うよりも先に、妹が口を開く。すると、従者がぷっと噴出した。そのまま、肩を震わせて笑いを堪えている。青年も青年で一瞬ぽかんとした後、豪快に体を震わせて笑い始めたのだった。

「ふ、ははは、はははは!我が天使か!そ、そなたは非常に良いセンスの持ち主だな、はははは、はははははっ!」

 暫く大笑いしたあと、二十歳そこそこに見える青年はその剛腕で二人を抱え上げて言ったのだった。

「我が名は、アーク・コルネットである!人間達には魔王などと呼ばれている……この森の主よ」



 ***



 魔物の森の奥には、魔王の城がある。そこで魔物たちが人間の肉をメインディッシュに、血をワインにして毎晩パーティを楽しんでいるのだ。――村では、そんな噂がまことしなやかに囁かれていた。ほぼ都市伝説のようなものだったが、保守的な村の人達は信じこんでいたようだ。森の向こうの町へ商売に行く時も、多少面倒があってなお森を迂回して谷の方の道を通っていたほどなのだから。
 しかし、少年と少女が連れて行かれた城とやらは、想像していたものと随分違っていた。
 確かに、魔物だと一目で分かるような見た目の者達もいる。紫色の肌に一本角がある者、下半身が蛇で出来ている者、そもそも四足で歩く獣にしか見えない者まで様々と。
 しかし、その中には人間にしか見えない者も混ざっており、彼らは一応に城の中であくせくと働いているのだった。村人たちと、さほど変わらない様子で。

「アーク様ー!今夜はさらに吹雪が酷くなるそうで!暖房の火、もっと強くしますか?」
「そうだな。特に、事務室を強めにしてくれ。あそこは北向きだし、今日も皆少し寒そうであったぞ」
「アーク様ぁ、地下の栽培室で白菜がいい具合なんですけど、収穫してもいいですかねえ?」
「無論だ、その判断はそなたに任せよう。温室のトマトができているなら、今夜のスープに入れてくれ。この子らに食わせようぞ」
「了解です!」
「ああ、そうだアーク様!この間絨毯を新調したでしょう?余った布なんですが……」
「丁度良い!この子らの服が非常に寒そうなのだ。何か急ぎ見繕っては貰えんか?どうしても間に合わないのならば毛布でもいい」
「かしこまりました!」

 城に入るやいなや声をかけてくる者達に、アークと名乗った魔王はてきぱきと指示を出す。みんな、この二十歳そこそこにしか見えない青年を慕っている様子だった。そして、都市伝説とは違い、恐ろしい見た目の者達も自分達兄妹を見ても涎を垂らしてきたりしない。アークと一緒にいるから食糧と見なされていないだけなのか、それとも。

「そんなに怯えなくてもいいぞ。取って食ったりはせんからな」

 アークは戸惑う兄妹の頭をぽんぽんと撫でて言ったのだった。

「魔物や魔族の殆どは、人を食ったりはせん。ましてやこの城にいる者達がお前達を食べるようなことはない。それよりも、そろそろお前達の名を教えては欲しいのだがな。我はもう名乗ったぞ」
「あ……」

 確かに、名前を名乗らないのは礼儀に反する。両親にも教えられたことだ。
 少年は妹の手を握りつつ、おずおずと答えたのだった。

「お、俺は……ジル。妹はルチル。よ、よろしく」
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