上 下
26 / 26

<26・Days>

しおりを挟む
 例えばの話。
 突然、自分の目の前に神様的な存在が現れたとして。好きな世界に異世界転移、あるいは異世界転生させてくれると言い出したとしよう。
 望むのは中世ヨーロッパ風の、夢と魔法に溢れた世界?古代中国の後宮のような、お洒落で苛烈な恋の世界?それとも近未来の、特別なルールのもと最新の科学技術に溢れ、宇宙人とも戯れることのできる世界?
 ひょっとしたら、一緒にチート能力をもつけてくれるかもしれない。気に食わない奴を一瞬で殺せる能力や、戦闘で無双できる能力。あるいはイケメンや美女に無条件で溺愛されまくる能力、ひたすら農業などに特化してスローライフできる能力や、現世のコンビニから好きなものを取り寄せられる能力――なんてものを望む人もいるかもしれない。
 ただし、神様はただ一つ、絶対的な条件を言うのだ。

『お前の望む全てを叶えよう。その代り、今日まで生きてきたお前の全てを捨てて貰う。名前も、姿も、家族も、友人も全て』

 親ガチャに失敗して毒親に苦しめられ、今まさに自殺を考えている人。学校でいじめられ、まったく友達もいないし家族の理解も得られないと感じている人。あるいは自分の容姿も平凡すぎる能力も何もかも嫌いでたまらない人――だから全てを捨てて生まれ変わってもなんの未練もないと言い切れる人ならば乗ってもいいだろう。
 しかし、朝香は思うのだ。
 果たしてその提案に、即座にOKが出せる人間が何人いるのかと。
 漫画やアニメ、ライトノベルなら主人公はノリノリでその異世界転生に乗るかもしれない。でも、本当に自分がそうなった時、迷いなく“行きます”なんて言える人は、存外少ないのではないかと思うのだ。親と揉めていても、自分が嫌いでも、己の姿にコンプレックスがあっても。自分を取り巻く世界の全てが憎い、捨てても構わないと思えるほど嫌なことしかない、なんて人はごく少数であるはずである。みんなどこかしら、例え些細なことであっても愛や希望を必死で抱いて生きているものだから。それがあるからこそ、どれほど現実が退屈だったり苦痛でも生きて行こうとするものだから。
 このまま自分がいなくなったら、今日まで自分を一生懸命育ててくれた両親が悲しむだろう。
 ここで死んでしまったら、いつか夢を叶えようと思ってたくさん描いてきた漫画は全部パーになってしまうだろう。
 友達は、親戚は、先生は、同僚は。
 ああ、それこそ毎週楽しみにしていたアニメの続きも、これで一生見られなくなってしまう。
 生きる目的、自分が自分でいたいと願う理由など、そんな些細なものでいいのだ。それは、多くの人が苦しくても歯を食いしばり、自殺をせず生きる理由を模索し続ける者とよく似ているはずである。
 どれほど嫌いでも、コンプレックスやトラウマがあっても、人はそう簡単に自分という存在を捨てられない。どれほどネガティブを自称する人であっても、大抵はどこかしら自分であることにプライドがあったり、譲れない信念を持ち合わせていたりするものだ。

「もうちょっとミスを減らして欲しいなあ」

 課長に相変わらず渋い顔で言われる朝香であっても、それは同じ。

「入力してから次に送るまで、もう少し丁寧にチェックしよう?あんまり速度が遅くなられても困るけど、再チェックの人に負担がかかるわけだから」
「すみません」
「……まあ、前よりはマシになったと思うけどね」

 多分、褒めたつもりもないだろう。なんせ厳しいお人であるのは、この数年嫌というほど理解しているのだから。それでも。

「本当ですか……?」

 ちょっとだけ、嬉しくなってしまったのは確かだ。
 失敗だらけの人生でも、凡庸な自分でも、報われないことが多くても。
 積み重ねてきたものはきっと、無駄にはならない。
 確かに自分の一部として、未来に繋がる糧となるのだ。



 ***




 朝香と瑠子は、二人揃って駅で倒れていたことになった。救急車で病院に担ぎ込まれて眠り続け、二日後の朝に目覚めたと言う形である。飛んできた家族に本気で泣かれて説教され、わりと本気でどうすればいいのかわからなくなったほどだ。彼等彼女等から見れば、酒の飲み過ぎで倒れたとしか思えない状態だったから尚更である。暫く自重するように、と言われてしまった。――お酒は飲んでも呑まれるな。間違ってはいない。アルコール中毒なんて笑えもしないのだから。
 異世界に行っていました、なんて話はお互い以外の誰にもしていない。どうせ信じても貰えないだろう。
 あの世界がどうなったのかはわからないままである。恐らくは、異物であった転生者二人がいなかくなったことで、世界の物語は本来あるべきそれの通りに動いていくのだろうということだけだ。
 もう二度と、実験者と会うようなことなどごめんである。
 今の朝香にできることはただ、あの世界の登場人物たちの幸せを祈り、今の自分に相応しいささやかな幸福を享受することのみである。

「推しが!尊い!!」

 それで、今現在。再び居酒屋。
 ジョッキをテーブルに叩きつけ、今日も今日とてシャウトする朝香である。お酒はジョッキ二杯まで。貴重なお酒をちみちみと飲んで、いつもの店で瑠子と語り合っているわけだ。

「ロイヤル・ウィザードのメディア展開はもうないだろうなって油断してたところでこれだよおおお!ギルバート主人公のスピンオフ来るなんて聞いてないし嬉しすぎる!ジュリアンはかっこいいしギルバートもかっこいいし、ギルバートはなんかもう予想外にあっちこっちとフラグ立ってるしマジサイコー!」
「朝香の次推しって、ギルバートだったの?」
「ジュリアン一択だったんだけど、今回のゲームでギルバートにも惚れちゃったパターンだね!妄想の中ではフィリップとくっつけて萌えてるとこ。フィリギルいいぞう!」
「それはいいけど、朝香に推されるなんてギルバートも気の毒だなあ。そのうち死ぬんじゃないの、いつもの法則通りに」
「やめて!?」

 やめてマジでやめてそれは冗談にもなりゃしない。朝香は己の推しの異様な死亡率を思い出して青ざめる。ジュリアンが死ぬことだけでも未だにトラウマ引きずっているというのに。
 ちなみに今回発売されたスピンオフゲームは、ギルバートがこの屋敷にやってきてから、最終戦争に参加するところまでの成長を描いた物語である。ゆえに、最終戦争の決着と同時に死ぬことになる、ジュリアンの最期に関しては描かれていない。ひょっとしたらスピンオフの世界では、ジュリアンは死なずに済むのかもしれなかった――なんていうのは、さすがに希望的観測だとは思うのだけど。
 魔法が使えないキャラクターであるギルバートだが、その代わりにいくつもの“秘技”を備えており、それを習得しつつ任意のステータスを上げていくことでミッションをこなしていくことができるのである。最後のパーティもコーデリアの本編より縛りが少なく、キャラの個性を生かしつつも面白い育成ができるということもあり発売当初からかなり好評を博しているようだった。初回特典のアクスタと一緒に入手できた朝香はニッコニコである(ちなみに瑠子もニッコニコ組だ)。

「もう終わったと思った物語の世界が、予想外に広がっていく。いいよね、そういうの。そういえば、世の中には十五年過ぎてから続編が出たゲームとかもあるらしいわよ」

 うんうん、と頷きながら言う瑠子。

「作りたい気持ちがスタッフにあっても、条件やら予算やら整わないとどうにもならないもんね。アニメ化とかに至っては、ゲーム製作者の熱意だけじゃどーにもならんし」
「そうなんだよなー。あー、このままアニメ化もしてほしいしコミカライズもしてほしいし、ノベライズの続きも出してくれーい」
「全文同意」

 うい、と二人揃ってジョッキを仰ぐ。朝香はピーチサワー、瑠子はレモンサワー。ビールもいいが、甘いお酒もたまらない。しゅわしゅわと弾ける泡と、ピーチの甘さが口の中で弾ける。本当はもっと一気にぐびっと行きたいけれどここは我慢だ。また飲み過ぎて両親を心配させてはいけない――まあ、自分達が倒れたのはお酒のせいではなかったわけだけど、飲みすぎということになってしまった以上は従う他あるまい。

「あのさ、朝香。一つだけ、訊きたかったんだよね」

 ふと、瑠子がぽつりと口にした。

「あの実験者やらが作った、ロイヤル・ウィザードの世界。あたしは、自分がジュリアンに愛されてハッピーエンドになるのを目論んでたけど……ジュリアンと結婚することだけじゃなくて、もう一つ考えてたことがあってさ。それがまあ、ジュリアンの死の運命を回避するってことなんだけど」
「あの世界では、最終的にジュリアンはコーデリアを庇って死んじゃうもんね」
「そう。……朝香はさ。コーデリアとしてあの世界で生き続けることは望んでなかったでしょ。帰る方法が見つかったら、即座にその体をコーデリア本人に返して、元の世界に戻るつもりだったみたいだけど。……ジュリアンと恋愛するうんぬんは抜きにしてもさ、考えなかったの?ジュリアンの死を、今の自分なら回避できるかもしれないって。そうしたいって」

 それは、いずれ訊かれるかもしれないなと思っていた質問ではあった。お互い、ゲームに望む“夢”の種類は違っていたが――それでも、ただ一つ共通した願いはあったはずだからである。
 推しの死を回避したい。
 そう願うことはけして、間違ってはいなかったはずである。
 しかし。

「……思ったこと、ないわけじゃないけど」

 朝香はじっと、ジョッキの中、ピンク色の液体の中で揺れる氷を見つめて思う。

「あの状況で、ジュリアンを守ろうと思ったら。戦争を回避するか、ジュリアンの代わりにコーデリアが撃たれるくらいしかないんだよね。でも、設定上戦争を回避するのは至難の技だったし、物語上回避できるルートもない。でもって、コーデリアが代わりに撃たれたら、ジュリアンは死ぬほど後悔して苦しんだと思う。推しにそんな想い、させたくはないでしょ」
「それが、ジュリアンが死ぬことであっても?」
「うん。……たとえ、二人が結婚して幸せになる未来を閉ざすことであっても。……ていうかさ、私はジュリアンがそこまで不幸だったとは思ってないもの。死んじゃったのは悲しいけど、彼は一生懸命自分の信念を貫いて、最期まで生き抜いたからこそ彼なんだろうなって思って」

 そして、エピローグ。コーデリアはジュリアンがいなくなった世界でも、復興を目指して生き抜くことを誓って終わる。
 その悲劇を無理やり回避することは、そうやって頑張ろうとするコーデリアの努力を無駄にすることにもなりかねないのではないか。
 少なくとも。第三者の、成り代わった異世界転生人がどうこうしていいことではない。朝香の存在は、そこにいるだけでジュリアンを騙し、その大切な幸せを奪っているようなものであったのだから。

「現実でも、妄想でも。悲劇を回避したいと願うのは罪ではなくても……悲劇があったからこそ、見つけられたはずの大切なものまで見失っちゃいけないと思うんだよね。……私達があのクソッタレ実験者の異世界転生によって、確かに見つけたものもあったように」

 朝香の言葉に。瑠子はただ一言、“そっか”と頷き――それ以上何も言わなかった。
 あの事件から一カ月。自分達は何も変わらなかったようで、確かに何かを掴んで此処にいる。少なくとも朝香はそう思っている。ヒロインでもモブでも悪役令嬢でもなく、ただ一人小森朝香という人間が主人公の物語を生きるために。

「よし、じゃあ次は……あ、この日本酒美味しそう!ド根性戦艦ってなんか面白い名前じゃない!?」
「ちょ、朝香朝香朝香!それ度数ヤバイやつ!それはまずいってば!!」

 明日はきっと、今日よりちょこっとだけいい日だ。
 そう信じて、自分達は前を向いて歩いて行く。
 小さくて、それでも確かにそこにあるキラキラしたものを、一生懸命拾い集めながら。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...