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<10・見えないけれどそこにいる>
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角を曲がると、人形が上へ登っていくのが見えた。追いかけるまで時間がかかったのに、まるで待っていてくれたかのようだ。くすくす、という笑い声も断続的に響いている。やはり、自分に追いかけて来いと導いているのだろうか。
――そういえば、人形に纏わる七不思議も、あったんじゃなかったっけ。どういうのかチラ聞きしただけで全然覚えてないけど。
燕は、兄ほど七不思議に関して詳しくはない。むしろ、そこまでオカルトに興味が強いわけではないのだ。言うのも虚しくなるが、とにかく恐怖が先立ってしまうのである。そしてその原因は、当の兄である梟にあると言っても過言ではないのだった。
兄がどうやら“見える”人であるらしいと悟ったのは、自分が幼稚園児で、兄が小学生であった頃のことである。見えると言ってもうっすらぼんやりが基本だし、中には気配だけ感じて何も見えない時もあると言っていた。ただし、兄の感覚は恐らく百発百中で、特に“悪いもの”を見逃したことは今まで一度たりともなかったのである。そしてそれは、幽霊に限った話でもない。
こんなことがあった。
母と兄弟で、スーパーに行った時のこと。レジに並んでいる時、燕はどうしてもトイレに行きたくなってしまったのだった。この時、二人ともまだ小学生。本来ならば燕が我慢するか、母がレジを抜けて一緒にトイレについていくかするべきだったのかもしれない。ただ、母も散々長い列に並んだあとで、今更抜けるのは嫌だったのだろう。自分達も、また最初から振り出しに戻るのはあまり気が進まなかった。そこで、兄が“俺が燕をトイレまで連れていくよ”と言い出したのである。
人をすぐからかうような一面もあるが、黙っていればクールで美形、いざという時は冷静な判断力を発揮する頼りがいのある兄である。その評価は、父母からも同じであったはずだ。彼が一緒なら、すぐそこのトイレに男の子二人で行くくらい大丈夫だろう、と思ったのだろう。母は“じゃあ梟、燕をお願いね”と言って、自分達だけ列から抜けることになったのである。
三階建ての、大きなスーパーだった。一階に食料品、二階には衣料品、三階には雑貨などが売っている場所である。一番近いトイレは当然一階で、燕はまっすぐ一階のトイレに向かおうとしたのだが。
『待て、燕。ちょっとだけ我慢してくれないか』
『はへっ!?』
『二階のトイレにしよう』
何で、と理由を尋ねても梟は教えてくれなかった。ただその顔が、今まで見たこともないくらい怒りに満ちたものであったので、それ以上何も言うことはできなかったのである。
少々ギリギリな思いをしたが、二階で無事トイレを済ませ、自分達は母のいるレジのところまで戻ることができたのだった。――恐ろしい事実を知るのは、この翌日のことである。
『ちょっと、燕、梟!あんた達大丈夫だった!?何もなかったのよね!?』
母がニュースを見て、仰天したように言ったのだ。
『メルマートの一階トイレで、変質者が出たって……しかも、男の子も狙われたんですって……!逮捕されたみたいだから良かったけど、小学生や幼稚園の女の子や男の子に酷いことしようとするとか……最低!気持ち悪い!!』
彼女が動揺するのは当然だったし、正直燕も完全に“ぽかーん”の状態だった。強制猥褻、強制性交換罪――そんな難しい言葉の意味はその時の自分にはわからなかったが(後で兄がやんわりと意味を教えてくれた。それを聞いて燕が母と同じ感想を持ったのは言うまでもない)、一番驚いたのはその変質者が一番最後に犯行を行ったとされるのが、自分達が丁度一階のトイレを使おうとしたその日のその時間帯であったということである。
六十代の変態男は、メルマートのトイレが奥まっていて見えづらいのをいいことに、繰り返し犯行に及んでいたそうだ。あの場所だとなるほど、同じように親から離れて一人でトイレに行く子供もいたことだろう。そんな子供達のうち、小学生以下の子供ばかりを狙って犯行に及んだのだそうだ。スカートやズボン、下着を強引に脱がせて下半身を触ったり胸を触ったり、あるいはもっと直接触ってきたり――それ以上に酷いことをされた子供もいたという。
その殆どはあまりの恐怖と嫌悪感で抵抗できず、親にも言うこともできずに泣き寝入りしてしまっていた。
だが最後の被害者である男の子が、酷い怪我をして病院に担ぎ込まれ、男の子が泣きながら被害を訴えたことから事態が発覚したのだという。男の子は心身に酷い傷を負っていたが、それでも男の特徴をきっちり覚えていて冷静に話せるような状態ではあった。その容疑者にストーカーの前科があったので、逮捕まではかなり早く進んだということらしい。
『兄ちゃん、あのトイレに変態が出るって知ってたの?』
兄は、何故燕が――あるいは梟も――被害に遭うことを予見できたのだろうか。変態男がトイレの方に歩いていくのを仮に見たとて、彼が“そう”であるということはあの時の梟も知らなかったはずである。
というか、そんな不審者がトイレ方面に消えていくタイミングであったなら、一緒にいた燕も目撃していない筈がないというのに。
『知らなかったけど、見たんだ。胸糞悪いモンを』
その時の、兄の。怒りを通り越して憎悪に近い顔は、今でも忘れられないものだ。
『くそっ……俺達が回避したら別のやつが被害に遭うとかマジかよ。それなら突撃していって、ぶっつぶしてやれば良かったか……!』
一体どのように、何を見たのか。それ以上のことを詳しく尋ねることは叶わなかった。
兄の能力は“霊能力”と呼ばれるものと“予知能力”に該当するものがあると知っている。どちらもけして強い能力ではないし、特に後者は“いつ”“どこで”“何を”見るのか全くコントロールがきかないものだと聞いている。本人も、それを直前の危機回避に使えることは希なのだと言っていた。ただ、普段は滅多なことで怒らない兄があそこまで激怒したのである。よほど気色悪いものを見たのだろう、としかわからなかった。それこそ、燕が変態に襲われる光景、だとか。
何にせよ、世の中には知らない方がいいことが多いのも事実だ。
特に自分のように、ちょっとした怪談でさえ怖いと感じてしまうような人間に、霊感なんてものは絶対ない方がいいに決まっているのである。
二人で家に帰る時に、兄が突然左右の分かれ道をじっと見て“いつもと違うけど今日は右に行こう”なんて言い出した時。大抵、その左の道の方に、後日良くないことが起きている。すぐ隣の家で火事があったとか、交通事故があったとか。
あとは、兄が燕ではなく、燕の後ろをじーっと見ているなんてこともあった。何か見えるの!?と尋ねると兄はこう言うわけだ。
『あーいや……多分だけど、認識しなけりゃ大丈夫なタイプだわ。しばらくは振り向くなよー燕』
そんなことが繰り返されたら、そりゃ燕の怖がりが加速するのも無理からぬことではなかろうか。
まあ、そんな怖がりである自覚があるのに、兄に言われるまま恋のおまじないを試してしまった自分が言うのもなんではあるけれど。
――だって、英玲奈ちゃんと仲良くなりたかったんだもん。……このままじゃずっと、仲の良いお友達ってだけで終わるじゃんか。
階段を登る。なんだか妙に足が重い。体力には自信がある方だったのに、随分と息が切れるような気がする。
五階へ到達し、人形はそのまま左へ。その姿を、ぜえぜえと息をしながらどうにか追いかける燕。上履きがきゅっきゅと廊下のタイルを擦る音さえ、耳障りで酷く不快だ。
――きっと、男の子としてなんか意識してもらってないだろうけど。でも、どうせなら、って思っちゃうのしょうがないじゃん。
英玲奈。彼女はきっと、今日も何も知らないで普通に家に帰り、とっくに美味しいご飯を食べて宿題でもしていることだろう。
彼女はきっと知るまい。小学校一年生出会った時、既に自分が彼女に夢中になってしまっていたことなど。
きっかけは些細なことだった。小学校一年生の時、燕は今よりもずっと泣き虫であったのである。転んで擦り傷を作ってはすぐ泣いて、そのたびに母や祖父母に呆れられていたのだった。彼女らの言い分は決まっている。“男の子が、そんなに簡単に泣くなんてみっともない”だ。
燕はそれがずっと納得がいかなかったのである。何で、女の子は泣いてもいいのに、男の子は駄目なのだろう。男の子は大きな怪我をしないとか、転んでも痛くないというのならわかる。でも、男の子だって転んだら痛い。苦しい時は苦しい。なのに男だというだけで泣いたら恥ずかしいだなんて言われるのは、あまりにも理不尽なことではないか。そもそも、それを女である母や祖母が言うのがいくらなんでも不平等というものである。
納得がいかなくても、男のくせに、と言う声は耐えない。だから泣かないようにしなければと思うのに、転んだ痛みが勝手に涙を引き出してしまう。
その日もそうだった。学校から帰ろうと下駄箱を出たところで、足がもつれて転んでしまって。いつものように目から溢れてくる雫を止められなくて困っていた時――目の前にす、と佇む影があったのである。
『だいじょうぶ?』
それが、英玲奈だった。
丸顔、ふわふわのボブヘアーにカチューシャをつけて、心配そうにこちらを覗き込んでいた彼女。他の子達が素通りしていくのに、彼女だけは転んで泣いている燕に手を差し伸べてくれたのである。
彼女は水場まで燕を連れていくと、転んだ膝を洗い流してくれ、ティッシュやハンカチを貸してくれた。そして、保健室へ一緒に行ってくれたのである。
『……おこらないの?おれ、男の子なのに泣いちゃったのに』
保健室に行く道すがら、燕は英玲奈に尋ねたのだった。彼女も女の子だ。転んだくらいで泣いてしまう男の子は恥ずかしいしみっともない!と怒るだろうと思ったのである。それなのに。
『え、なんで?』
彼女は不思議そうに振り返って、こう告げたのだ。
『なんで、男の子は泣いちゃだめなの?男の子だって、いたい時はいたいでしょ?泣いてもしかたないよ。わたしだって、転んで泣いちゃうことあるよ?』
それだけ、と言えばそれだけだ。
けれどあの時の燕にとって、彼女は後光が指した――そう、まるで天使様か何かのように見えたのである。
それだけ、のことで。燕は救われたような気になったのだ。そして思ったのである。自分は、この子のような子を助けられる男になりたいと。そのために、泣かないように頑張らなければいけないと。
燕が少しずつ泣き虫を卒業できたのも、全ては英玲奈のためであったのである。
――……そうだよな。物は、考えようだ。
人形は、五階の東端の部屋に入ったらしい。西端の空き教室とは真逆の方向だ。そこには何があっただろうか、と思いつつも追いかける。
――こんな恐ろしいことに巻き込まれたのが、英玲奈ちゃんじゃなくて俺で良かった。……そう思うんだ。
そして、人形を追いかけ、燕はその部屋に飛び込むのである。
そこに何があるのか、知る由もなく。
――そういえば、人形に纏わる七不思議も、あったんじゃなかったっけ。どういうのかチラ聞きしただけで全然覚えてないけど。
燕は、兄ほど七不思議に関して詳しくはない。むしろ、そこまでオカルトに興味が強いわけではないのだ。言うのも虚しくなるが、とにかく恐怖が先立ってしまうのである。そしてその原因は、当の兄である梟にあると言っても過言ではないのだった。
兄がどうやら“見える”人であるらしいと悟ったのは、自分が幼稚園児で、兄が小学生であった頃のことである。見えると言ってもうっすらぼんやりが基本だし、中には気配だけ感じて何も見えない時もあると言っていた。ただし、兄の感覚は恐らく百発百中で、特に“悪いもの”を見逃したことは今まで一度たりともなかったのである。そしてそれは、幽霊に限った話でもない。
こんなことがあった。
母と兄弟で、スーパーに行った時のこと。レジに並んでいる時、燕はどうしてもトイレに行きたくなってしまったのだった。この時、二人ともまだ小学生。本来ならば燕が我慢するか、母がレジを抜けて一緒にトイレについていくかするべきだったのかもしれない。ただ、母も散々長い列に並んだあとで、今更抜けるのは嫌だったのだろう。自分達も、また最初から振り出しに戻るのはあまり気が進まなかった。そこで、兄が“俺が燕をトイレまで連れていくよ”と言い出したのである。
人をすぐからかうような一面もあるが、黙っていればクールで美形、いざという時は冷静な判断力を発揮する頼りがいのある兄である。その評価は、父母からも同じであったはずだ。彼が一緒なら、すぐそこのトイレに男の子二人で行くくらい大丈夫だろう、と思ったのだろう。母は“じゃあ梟、燕をお願いね”と言って、自分達だけ列から抜けることになったのである。
三階建ての、大きなスーパーだった。一階に食料品、二階には衣料品、三階には雑貨などが売っている場所である。一番近いトイレは当然一階で、燕はまっすぐ一階のトイレに向かおうとしたのだが。
『待て、燕。ちょっとだけ我慢してくれないか』
『はへっ!?』
『二階のトイレにしよう』
何で、と理由を尋ねても梟は教えてくれなかった。ただその顔が、今まで見たこともないくらい怒りに満ちたものであったので、それ以上何も言うことはできなかったのである。
少々ギリギリな思いをしたが、二階で無事トイレを済ませ、自分達は母のいるレジのところまで戻ることができたのだった。――恐ろしい事実を知るのは、この翌日のことである。
『ちょっと、燕、梟!あんた達大丈夫だった!?何もなかったのよね!?』
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彼女が動揺するのは当然だったし、正直燕も完全に“ぽかーん”の状態だった。強制猥褻、強制性交換罪――そんな難しい言葉の意味はその時の自分にはわからなかったが(後で兄がやんわりと意味を教えてくれた。それを聞いて燕が母と同じ感想を持ったのは言うまでもない)、一番驚いたのはその変質者が一番最後に犯行を行ったとされるのが、自分達が丁度一階のトイレを使おうとしたその日のその時間帯であったということである。
六十代の変態男は、メルマートのトイレが奥まっていて見えづらいのをいいことに、繰り返し犯行に及んでいたそうだ。あの場所だとなるほど、同じように親から離れて一人でトイレに行く子供もいたことだろう。そんな子供達のうち、小学生以下の子供ばかりを狙って犯行に及んだのだそうだ。スカートやズボン、下着を強引に脱がせて下半身を触ったり胸を触ったり、あるいはもっと直接触ってきたり――それ以上に酷いことをされた子供もいたという。
その殆どはあまりの恐怖と嫌悪感で抵抗できず、親にも言うこともできずに泣き寝入りしてしまっていた。
だが最後の被害者である男の子が、酷い怪我をして病院に担ぎ込まれ、男の子が泣きながら被害を訴えたことから事態が発覚したのだという。男の子は心身に酷い傷を負っていたが、それでも男の特徴をきっちり覚えていて冷静に話せるような状態ではあった。その容疑者にストーカーの前科があったので、逮捕まではかなり早く進んだということらしい。
『兄ちゃん、あのトイレに変態が出るって知ってたの?』
兄は、何故燕が――あるいは梟も――被害に遭うことを予見できたのだろうか。変態男がトイレの方に歩いていくのを仮に見たとて、彼が“そう”であるということはあの時の梟も知らなかったはずである。
というか、そんな不審者がトイレ方面に消えていくタイミングであったなら、一緒にいた燕も目撃していない筈がないというのに。
『知らなかったけど、見たんだ。胸糞悪いモンを』
その時の、兄の。怒りを通り越して憎悪に近い顔は、今でも忘れられないものだ。
『くそっ……俺達が回避したら別のやつが被害に遭うとかマジかよ。それなら突撃していって、ぶっつぶしてやれば良かったか……!』
一体どのように、何を見たのか。それ以上のことを詳しく尋ねることは叶わなかった。
兄の能力は“霊能力”と呼ばれるものと“予知能力”に該当するものがあると知っている。どちらもけして強い能力ではないし、特に後者は“いつ”“どこで”“何を”見るのか全くコントロールがきかないものだと聞いている。本人も、それを直前の危機回避に使えることは希なのだと言っていた。ただ、普段は滅多なことで怒らない兄があそこまで激怒したのである。よほど気色悪いものを見たのだろう、としかわからなかった。それこそ、燕が変態に襲われる光景、だとか。
何にせよ、世の中には知らない方がいいことが多いのも事実だ。
特に自分のように、ちょっとした怪談でさえ怖いと感じてしまうような人間に、霊感なんてものは絶対ない方がいいに決まっているのである。
二人で家に帰る時に、兄が突然左右の分かれ道をじっと見て“いつもと違うけど今日は右に行こう”なんて言い出した時。大抵、その左の道の方に、後日良くないことが起きている。すぐ隣の家で火事があったとか、交通事故があったとか。
あとは、兄が燕ではなく、燕の後ろをじーっと見ているなんてこともあった。何か見えるの!?と尋ねると兄はこう言うわけだ。
『あーいや……多分だけど、認識しなけりゃ大丈夫なタイプだわ。しばらくは振り向くなよー燕』
そんなことが繰り返されたら、そりゃ燕の怖がりが加速するのも無理からぬことではなかろうか。
まあ、そんな怖がりである自覚があるのに、兄に言われるまま恋のおまじないを試してしまった自分が言うのもなんではあるけれど。
――だって、英玲奈ちゃんと仲良くなりたかったんだもん。……このままじゃずっと、仲の良いお友達ってだけで終わるじゃんか。
階段を登る。なんだか妙に足が重い。体力には自信がある方だったのに、随分と息が切れるような気がする。
五階へ到達し、人形はそのまま左へ。その姿を、ぜえぜえと息をしながらどうにか追いかける燕。上履きがきゅっきゅと廊下のタイルを擦る音さえ、耳障りで酷く不快だ。
――きっと、男の子としてなんか意識してもらってないだろうけど。でも、どうせなら、って思っちゃうのしょうがないじゃん。
英玲奈。彼女はきっと、今日も何も知らないで普通に家に帰り、とっくに美味しいご飯を食べて宿題でもしていることだろう。
彼女はきっと知るまい。小学校一年生出会った時、既に自分が彼女に夢中になってしまっていたことなど。
きっかけは些細なことだった。小学校一年生の時、燕は今よりもずっと泣き虫であったのである。転んで擦り傷を作ってはすぐ泣いて、そのたびに母や祖父母に呆れられていたのだった。彼女らの言い分は決まっている。“男の子が、そんなに簡単に泣くなんてみっともない”だ。
燕はそれがずっと納得がいかなかったのである。何で、女の子は泣いてもいいのに、男の子は駄目なのだろう。男の子は大きな怪我をしないとか、転んでも痛くないというのならわかる。でも、男の子だって転んだら痛い。苦しい時は苦しい。なのに男だというだけで泣いたら恥ずかしいだなんて言われるのは、あまりにも理不尽なことではないか。そもそも、それを女である母や祖母が言うのがいくらなんでも不平等というものである。
納得がいかなくても、男のくせに、と言う声は耐えない。だから泣かないようにしなければと思うのに、転んだ痛みが勝手に涙を引き出してしまう。
その日もそうだった。学校から帰ろうと下駄箱を出たところで、足がもつれて転んでしまって。いつものように目から溢れてくる雫を止められなくて困っていた時――目の前にす、と佇む影があったのである。
『だいじょうぶ?』
それが、英玲奈だった。
丸顔、ふわふわのボブヘアーにカチューシャをつけて、心配そうにこちらを覗き込んでいた彼女。他の子達が素通りしていくのに、彼女だけは転んで泣いている燕に手を差し伸べてくれたのである。
彼女は水場まで燕を連れていくと、転んだ膝を洗い流してくれ、ティッシュやハンカチを貸してくれた。そして、保健室へ一緒に行ってくれたのである。
『……おこらないの?おれ、男の子なのに泣いちゃったのに』
保健室に行く道すがら、燕は英玲奈に尋ねたのだった。彼女も女の子だ。転んだくらいで泣いてしまう男の子は恥ずかしいしみっともない!と怒るだろうと思ったのである。それなのに。
『え、なんで?』
彼女は不思議そうに振り返って、こう告げたのだ。
『なんで、男の子は泣いちゃだめなの?男の子だって、いたい時はいたいでしょ?泣いてもしかたないよ。わたしだって、転んで泣いちゃうことあるよ?』
それだけ、と言えばそれだけだ。
けれどあの時の燕にとって、彼女は後光が指した――そう、まるで天使様か何かのように見えたのである。
それだけ、のことで。燕は救われたような気になったのだ。そして思ったのである。自分は、この子のような子を助けられる男になりたいと。そのために、泣かないように頑張らなければいけないと。
燕が少しずつ泣き虫を卒業できたのも、全ては英玲奈のためであったのである。
――……そうだよな。物は、考えようだ。
人形は、五階の東端の部屋に入ったらしい。西端の空き教室とは真逆の方向だ。そこには何があっただろうか、と思いつつも追いかける。
――こんな恐ろしいことに巻き込まれたのが、英玲奈ちゃんじゃなくて俺で良かった。……そう思うんだ。
そして、人形を追いかけ、燕はその部屋に飛び込むのである。
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