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<7・チャーハンと味覚の記憶。>
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お昼ごはんは、チャーハンだった。
佳代子への聴きこみ、ついでに近所のスーパーでちょっと買い物をして戻ってくると、久遠が再びキッチンに立っている。いつの間にかベランダで洗濯物もはためいていた。多分掃除機もかけてくれたのだろう。――正直、申し訳ないほどである。いや、自分の部屋に勝手に憑いていた地縛霊にそんなことを言うのもなんだが。
「なんか、久しぶりかも」
「んー」
「誰かの手料理とかさ。実家出てから食べてないし。自分ではちょっとだけ料理するけど、自分しか食べないと思うとやっぱり手ぇ抜くじゃん?」
スーパーで買ってきた牛乳や卵を冷蔵庫にしまいながら、久遠に話しかける。卵は大事だ。食べるものが全然ない時でも、卵ひとつあれば大抵なんとかなる。目玉焼き、卵焼き、天津飯、オムライス。卵があるだけで作れる料理は多い。だからこそ、休みの日はなるべくセール商品が残っている午前中に卵を買わなければいけないのだが。
「そういうこと、別の誰かが言ってた気がする」
フライパンの中でハム、卵、ピーマンなどとご飯をまぜあわせながら、久遠が言った。
「料理って、生きる為に必要なものだけどさ。生きるためだけのものじゃないじゃん?だから、誰か自分の料理を食べて喜んでくれる人がいないと、やる気が出ないってことはあるあるだって。だから料理できる人でも一人暮らしをすると、カップ麺や弁当ですませてしまいがちになるって。まあ、手間も時間もかかるしね」
「……そうだな。今思うと、おふくろが毎日料理作ってくれてたの、それが続いたのって……俺達のためだもんな」
「そういうこと。美味しいって言ってくれる人の顔が、何より料理人の栄養になるの。多分、俺も一人暮らししたら、毎日料理しようとか思わない気がするよ。……ってことは、俺は一人暮らしじゃなかったのかなあ」
「…………」
どうなんだろう、と仁は思う。
『あ、気になることといえば。その先生のところにはよく、学校の生徒さんが出入りしてたってことね。勉強を教えてるんだと言ってたわ』
佳代子の言葉を思い出す。303号室に、二十年ほど前に住んでいたという高校教師、鹿島雄二。その人物のところに出入りしていたという男子高校生――もしそれが久遠であったなら、同居していたわけではないはずだ。一緒に住んでいるのなら、佳代子も“出入りしていた”なんて言い方はしないだろう。というか、多分こういうアパートで単身者のところにもう一人転がり込んだら、管理者に通達しなければいけなかったのではないだろうか?そのへんの規約を仁はうろ覚えなのだが。
「……お前は、誰かにいつも料理を作ってたのか?」
冷蔵庫をパタンと閉じて尋ねれば、わかんない、と久遠は首を振った。
「でも、その可能性は高そうかなあと自分では思ってるかな。……変だね。自分のこと全然覚えてないのに、見た映画だとか、料理の作り方とかは普通に覚えてるっていう。体が覚えてる、ってかんじ?俺もう体ないのにねえ!」
「ブラックジョークやめろ」
「あはは、ごめん。……うん、ざっくりだけどこれでいいかな。あ、仁。牡蠣醤油今度買ってきてよ、あれ超便利だから。ちょっと料理に入れるだけでものすごく美味しくなるよ。あと、冷奴にぶっかけるだけでマジで美味い。おすすめ」
「マジか」
本人はもう、料理の味見もできないはずだ。それなのに、何が美味しいか、に関しては覚えてるんだなあとぼんやり思う。
もう本当にあっためるくらいの段階だったようだ。料理が出来上がるまでさほど時間はかからなかった。
テーブルに置かれたチャーハンとお茶。それを前に、いただきます、と両手を合わせて座る。座ってから両手を合わせた方がマナーが良かったかと思ったが、久遠はまったく気にしていないようだった。
「ありがとな、昼飯まで」
「いいっていいって。好きでやってるし。あ、好きっていうのは仁がって意味と、料理するのがって意味の両方ね!」
「わ、わざわざ言わなくてもいいんだっつの!」
スプーンにすくって、一口。卵、ピーマン、ハムまでは予想通りだったが、なんと使いかけのキャベツまで入っていた。キャベツとチャーハンってどうなんだろうと思いきや、意外と甘くてしゃきしゃきしていて美味しい。味付けは多分、鶏がらスープあたりを使ったのだろう。胡椒も入っているが、ほどほどの量に収めているのか辛すぎない。
口の中いっぱいに広がる、野菜とご飯のハーモニー。端的に言って、美味い。
「美味しい」
「良かった!」
久遠は破顔する。
「俺、幽霊だからさ。フライパンとか具材を持つことはできるけど……味見は全然できないんだよね。だから、勘に頼って作るしかなくて。うん、美味しいなら良かったよ」
思わず、仁はまじまじと久遠の顔を見つめる。今更ながら、彼が料理が食べられないという事実を実感したのだ。それで料理を作るというのは、大変であると同時に――苦痛には思わないのか。
そりゃ、人に食べて貰って、喜ぶ顔が見たいという気持ちは理解できる。でもやっぱり、自分で作った料理は自分でも食べたいと思うのが普通の心理だ。
「……辛くねえの?」
思わず、素直に口にしていた。
「その、せっかく作っても味見一つできないわけだろ。自分も食べたかったのに、とか。生きていれば食べられたのにって……料理って、するたびに思ったりしないのか?」
「んー」
仁の言葉に、久遠は困ったように笑った。
「そりゃ、思うよ。俺やっぱり死んじゃってるんだなあって実感する」
「それでも作ってくれるのは、俺が好きだからか?何でだ?だって、お前俺のことなんかまだ全然知らないだろうがよ」
「そうだね」
「見た目が好みってだけか?それだけで、自分のトラウマ抉るようなこともできるってか?」
厳しい質問をしているのかもしれない、と思う。でも、それでも尋ねようと思った理由は何より、仁自身ももっと久遠のことを知りたいと思ったからに他ならない。
まだ数日の付き合いだ。幽霊だから怖いという気持ちもなくはないし、不信感もゼロではない。それでも。
美味しい料理を食べればわかる。その笑顔を見ればなんとなく想像もつく。
こいつは、悪い奴ではない。少なくとも今の段階では。
「……見た目が好みなのは本当だけど、それだけって言うとそれだけじゃないかも。なんだろうな、仁を見ていると大事な人を思い出すような気がするってのも、あるのかも。変だね、その人の顔も、本当にいたのかどうかもわからないのに」
『名前は、鹿島雄二さん。結構筋肉質で、大柄な先生だったわね。教師よりも、スポーツマンって言われた方が納得がいくほど』
この部屋に住んでいた、鹿島雄二という男は屈強な大柄の教師だったという。具体的な身長がどれくらいかなんてことは訊かなかったが(そもそも二十年前だ、いくら佳代子の記憶力がよくてもそこまではっきり覚えてはいないだろう)、スポーツマンにも見えるほどの体型というからには仁とも共通点があると言えなくはない。
やっぱり、久遠の“大切な人”というのは。
「……その、いくつか訊きたいんだけどさ」
お腹がすいていたこともあって、チャーハンはあっという間に平らげてしまった。二人分近く作ってくれたはずなのに、我ながらなんとも大食いである。いや、本当はもっと食べれてしまう気もしないではないが。
「実は、さっき管理人の佳代子さんに話訊いてきたんだ。管理人小屋にいるおばーちゃんな」
「うん?俺のこと何かわかった?」
「わかったっていうか。お前、たまに怪奇現象として報告されてたみたいだぞ。空家なのに、上の階から泣き声が聞こえるとか言われてたらしい。お前じゃないのか、泣いてたの」
「え」
尋ねると、久遠は目を見開いて固まった。チョットマテ、と仁は思う。何だその反応。
「え、ひょっとしてお前じゃないの?え、え、このアパート実はお前以外にも幽霊がいらっしゃる?心の底から勘弁してほしいのですけども?」
「ご、ごめん。それはわかんないっていうか、俺かどうかもわかんないっていうか」
早口で問う仁に、やや動揺したように視線を逸らす久遠。
「その、俺……結構記憶が飛ぶときがあるから、その時に泣いてた可能性があるかもしれなくて、だから俺かどうかもわからないというか……うん」
記憶がないだけじゃなくて、記憶が飛ぶって。それは結構ヤバい状態なのでは、と仁は青ざめる。オカルト系に関する知識などほとんどないが、それが良くない兆候であろうということは想像がつく。
そう、それこそ時間が経ちすぎて、悪霊になりかかっているとか。
「お前、大丈夫かよ」
冷や汗を掻く仁。久遠に対して、ちょっといいやつだなとか、一緒にいるのも悪くないかもなんて思い始めていた矢先にこれである。
「記憶がなくなりかけてるってことは、本当に悪霊になりかけてるんじゃないのか。本格的に、記憶を取り戻して成仏する道を探さないと駄目なんじゃ」
「だ、大丈夫だよ、多分」
「何でそう言い切れる!?」
「ていうか、仁はそんなに、俺にさっさと成仏してほしいの?いなくなってほしいの?」
「――っ」
そう言われてしまうと、言葉に詰まる。確かに、元々はそうだった。幽霊と同居なんてごめんだと思って、彼の正体を探ろうとしていたのは確かだ。
でも、今はそれだけかというと、そういうわけではない。イイヤツだなとか、可哀想だなとか、ちょっと一緒にいて居心地が良いかもしれないなんてことは思ってしまっている。恋愛的に、好きであるかどうかは別として。
「はっきり言って、俺は……成仏したいと思えないんだ。この部屋にいたい。何もかも、忘れちゃうのが怖い。それが、悪霊になりかかっている証拠なのかもしれないけど……」
久遠は泣きそうな顔で、椅子の上でうずくまった。
「成仏したらきっと俺、生きてた頃のことも全部忘れちゃうだろ。それこそ、仁のことだってわからなくなるかもしれない。それは嫌だ。やっと、俺と話してくれて、俺のことを覚えてくれる人が現れたのに……」
成仏したらどうなるか。そんなこと、生きている人間である仁にはわからない。だから下手な慰めは言えなかった。人は死んだら魂だけになって、いつか生まれ変わるという話は聞いたことがある。生きていた頃の自分の全てを忘れてしまう時は――きっと、いつかは訪れるのだろう。
ひょっとしてそれが嫌で、久遠はこの世に留まってしまっているのだろうか。
「……二十年前、303号室に高校教師が住んでたっていうんだ。そこに、高校生の男子が何度も出入りしてたって。それ、お前のことじゃないのか?」
彼が本当に忘れたくないこととは。その鹿島という教師のことなのか?
「なあ、その高校生ってお前なんじゃないのか?お前……その鹿島雄二って教師との間に、何があったんだ?」
瞬間。
ぶわり、と――久遠がまとう空気が変わったのを、仁は感じ取ったのである。
佳代子への聴きこみ、ついでに近所のスーパーでちょっと買い物をして戻ってくると、久遠が再びキッチンに立っている。いつの間にかベランダで洗濯物もはためいていた。多分掃除機もかけてくれたのだろう。――正直、申し訳ないほどである。いや、自分の部屋に勝手に憑いていた地縛霊にそんなことを言うのもなんだが。
「なんか、久しぶりかも」
「んー」
「誰かの手料理とかさ。実家出てから食べてないし。自分ではちょっとだけ料理するけど、自分しか食べないと思うとやっぱり手ぇ抜くじゃん?」
スーパーで買ってきた牛乳や卵を冷蔵庫にしまいながら、久遠に話しかける。卵は大事だ。食べるものが全然ない時でも、卵ひとつあれば大抵なんとかなる。目玉焼き、卵焼き、天津飯、オムライス。卵があるだけで作れる料理は多い。だからこそ、休みの日はなるべくセール商品が残っている午前中に卵を買わなければいけないのだが。
「そういうこと、別の誰かが言ってた気がする」
フライパンの中でハム、卵、ピーマンなどとご飯をまぜあわせながら、久遠が言った。
「料理って、生きる為に必要なものだけどさ。生きるためだけのものじゃないじゃん?だから、誰か自分の料理を食べて喜んでくれる人がいないと、やる気が出ないってことはあるあるだって。だから料理できる人でも一人暮らしをすると、カップ麺や弁当ですませてしまいがちになるって。まあ、手間も時間もかかるしね」
「……そうだな。今思うと、おふくろが毎日料理作ってくれてたの、それが続いたのって……俺達のためだもんな」
「そういうこと。美味しいって言ってくれる人の顔が、何より料理人の栄養になるの。多分、俺も一人暮らししたら、毎日料理しようとか思わない気がするよ。……ってことは、俺は一人暮らしじゃなかったのかなあ」
「…………」
どうなんだろう、と仁は思う。
『あ、気になることといえば。その先生のところにはよく、学校の生徒さんが出入りしてたってことね。勉強を教えてるんだと言ってたわ』
佳代子の言葉を思い出す。303号室に、二十年ほど前に住んでいたという高校教師、鹿島雄二。その人物のところに出入りしていたという男子高校生――もしそれが久遠であったなら、同居していたわけではないはずだ。一緒に住んでいるのなら、佳代子も“出入りしていた”なんて言い方はしないだろう。というか、多分こういうアパートで単身者のところにもう一人転がり込んだら、管理者に通達しなければいけなかったのではないだろうか?そのへんの規約を仁はうろ覚えなのだが。
「……お前は、誰かにいつも料理を作ってたのか?」
冷蔵庫をパタンと閉じて尋ねれば、わかんない、と久遠は首を振った。
「でも、その可能性は高そうかなあと自分では思ってるかな。……変だね。自分のこと全然覚えてないのに、見た映画だとか、料理の作り方とかは普通に覚えてるっていう。体が覚えてる、ってかんじ?俺もう体ないのにねえ!」
「ブラックジョークやめろ」
「あはは、ごめん。……うん、ざっくりだけどこれでいいかな。あ、仁。牡蠣醤油今度買ってきてよ、あれ超便利だから。ちょっと料理に入れるだけでものすごく美味しくなるよ。あと、冷奴にぶっかけるだけでマジで美味い。おすすめ」
「マジか」
本人はもう、料理の味見もできないはずだ。それなのに、何が美味しいか、に関しては覚えてるんだなあとぼんやり思う。
もう本当にあっためるくらいの段階だったようだ。料理が出来上がるまでさほど時間はかからなかった。
テーブルに置かれたチャーハンとお茶。それを前に、いただきます、と両手を合わせて座る。座ってから両手を合わせた方がマナーが良かったかと思ったが、久遠はまったく気にしていないようだった。
「ありがとな、昼飯まで」
「いいっていいって。好きでやってるし。あ、好きっていうのは仁がって意味と、料理するのがって意味の両方ね!」
「わ、わざわざ言わなくてもいいんだっつの!」
スプーンにすくって、一口。卵、ピーマン、ハムまでは予想通りだったが、なんと使いかけのキャベツまで入っていた。キャベツとチャーハンってどうなんだろうと思いきや、意外と甘くてしゃきしゃきしていて美味しい。味付けは多分、鶏がらスープあたりを使ったのだろう。胡椒も入っているが、ほどほどの量に収めているのか辛すぎない。
口の中いっぱいに広がる、野菜とご飯のハーモニー。端的に言って、美味い。
「美味しい」
「良かった!」
久遠は破顔する。
「俺、幽霊だからさ。フライパンとか具材を持つことはできるけど……味見は全然できないんだよね。だから、勘に頼って作るしかなくて。うん、美味しいなら良かったよ」
思わず、仁はまじまじと久遠の顔を見つめる。今更ながら、彼が料理が食べられないという事実を実感したのだ。それで料理を作るというのは、大変であると同時に――苦痛には思わないのか。
そりゃ、人に食べて貰って、喜ぶ顔が見たいという気持ちは理解できる。でもやっぱり、自分で作った料理は自分でも食べたいと思うのが普通の心理だ。
「……辛くねえの?」
思わず、素直に口にしていた。
「その、せっかく作っても味見一つできないわけだろ。自分も食べたかったのに、とか。生きていれば食べられたのにって……料理って、するたびに思ったりしないのか?」
「んー」
仁の言葉に、久遠は困ったように笑った。
「そりゃ、思うよ。俺やっぱり死んじゃってるんだなあって実感する」
「それでも作ってくれるのは、俺が好きだからか?何でだ?だって、お前俺のことなんかまだ全然知らないだろうがよ」
「そうだね」
「見た目が好みってだけか?それだけで、自分のトラウマ抉るようなこともできるってか?」
厳しい質問をしているのかもしれない、と思う。でも、それでも尋ねようと思った理由は何より、仁自身ももっと久遠のことを知りたいと思ったからに他ならない。
まだ数日の付き合いだ。幽霊だから怖いという気持ちもなくはないし、不信感もゼロではない。それでも。
美味しい料理を食べればわかる。その笑顔を見ればなんとなく想像もつく。
こいつは、悪い奴ではない。少なくとも今の段階では。
「……見た目が好みなのは本当だけど、それだけって言うとそれだけじゃないかも。なんだろうな、仁を見ていると大事な人を思い出すような気がするってのも、あるのかも。変だね、その人の顔も、本当にいたのかどうかもわからないのに」
『名前は、鹿島雄二さん。結構筋肉質で、大柄な先生だったわね。教師よりも、スポーツマンって言われた方が納得がいくほど』
この部屋に住んでいた、鹿島雄二という男は屈強な大柄の教師だったという。具体的な身長がどれくらいかなんてことは訊かなかったが(そもそも二十年前だ、いくら佳代子の記憶力がよくてもそこまではっきり覚えてはいないだろう)、スポーツマンにも見えるほどの体型というからには仁とも共通点があると言えなくはない。
やっぱり、久遠の“大切な人”というのは。
「……その、いくつか訊きたいんだけどさ」
お腹がすいていたこともあって、チャーハンはあっという間に平らげてしまった。二人分近く作ってくれたはずなのに、我ながらなんとも大食いである。いや、本当はもっと食べれてしまう気もしないではないが。
「実は、さっき管理人の佳代子さんに話訊いてきたんだ。管理人小屋にいるおばーちゃんな」
「うん?俺のこと何かわかった?」
「わかったっていうか。お前、たまに怪奇現象として報告されてたみたいだぞ。空家なのに、上の階から泣き声が聞こえるとか言われてたらしい。お前じゃないのか、泣いてたの」
「え」
尋ねると、久遠は目を見開いて固まった。チョットマテ、と仁は思う。何だその反応。
「え、ひょっとしてお前じゃないの?え、え、このアパート実はお前以外にも幽霊がいらっしゃる?心の底から勘弁してほしいのですけども?」
「ご、ごめん。それはわかんないっていうか、俺かどうかもわかんないっていうか」
早口で問う仁に、やや動揺したように視線を逸らす久遠。
「その、俺……結構記憶が飛ぶときがあるから、その時に泣いてた可能性があるかもしれなくて、だから俺かどうかもわからないというか……うん」
記憶がないだけじゃなくて、記憶が飛ぶって。それは結構ヤバい状態なのでは、と仁は青ざめる。オカルト系に関する知識などほとんどないが、それが良くない兆候であろうということは想像がつく。
そう、それこそ時間が経ちすぎて、悪霊になりかかっているとか。
「お前、大丈夫かよ」
冷や汗を掻く仁。久遠に対して、ちょっといいやつだなとか、一緒にいるのも悪くないかもなんて思い始めていた矢先にこれである。
「記憶がなくなりかけてるってことは、本当に悪霊になりかけてるんじゃないのか。本格的に、記憶を取り戻して成仏する道を探さないと駄目なんじゃ」
「だ、大丈夫だよ、多分」
「何でそう言い切れる!?」
「ていうか、仁はそんなに、俺にさっさと成仏してほしいの?いなくなってほしいの?」
「――っ」
そう言われてしまうと、言葉に詰まる。確かに、元々はそうだった。幽霊と同居なんてごめんだと思って、彼の正体を探ろうとしていたのは確かだ。
でも、今はそれだけかというと、そういうわけではない。イイヤツだなとか、可哀想だなとか、ちょっと一緒にいて居心地が良いかもしれないなんてことは思ってしまっている。恋愛的に、好きであるかどうかは別として。
「はっきり言って、俺は……成仏したいと思えないんだ。この部屋にいたい。何もかも、忘れちゃうのが怖い。それが、悪霊になりかかっている証拠なのかもしれないけど……」
久遠は泣きそうな顔で、椅子の上でうずくまった。
「成仏したらきっと俺、生きてた頃のことも全部忘れちゃうだろ。それこそ、仁のことだってわからなくなるかもしれない。それは嫌だ。やっと、俺と話してくれて、俺のことを覚えてくれる人が現れたのに……」
成仏したらどうなるか。そんなこと、生きている人間である仁にはわからない。だから下手な慰めは言えなかった。人は死んだら魂だけになって、いつか生まれ変わるという話は聞いたことがある。生きていた頃の自分の全てを忘れてしまう時は――きっと、いつかは訪れるのだろう。
ひょっとしてそれが嫌で、久遠はこの世に留まってしまっているのだろうか。
「……二十年前、303号室に高校教師が住んでたっていうんだ。そこに、高校生の男子が何度も出入りしてたって。それ、お前のことじゃないのか?」
彼が本当に忘れたくないこととは。その鹿島という教師のことなのか?
「なあ、その高校生ってお前なんじゃないのか?お前……その鹿島雄二って教師との間に、何があったんだ?」
瞬間。
ぶわり、と――久遠がまとう空気が変わったのを、仁は感じ取ったのである。
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