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<8・嵐の中で君を呼ぶ。>
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「かしま、せんせい……?」
ぼそり、と久遠が呟いた。その途端、彼の顔から一気に感情が抜け落ちたのを仁は見てしまった。さっきまでの、料理を食べてくれて嬉しいと言っていた顔も。成仏したら何もかも忘れてしまうのが怖いと言っていた顔も。
何か、自分は大きな失敗を犯した。仁は気づかざるをえなかった。
「……なんで」
久遠の唇が動く。さながら、幼い子供のようなたどたどしい口調で。
「なんで、おれを、置いていったの?」
「く、久遠?」
「おれ、本気だったんだよ?先生のこと、本当に好きだったんだよ?なのに、先生にとっては、俺なんか、所詮、あ、ああ、あ」
肉体なんかもうないはずだ。それなのに、彼が己の髪をわしづかみにした後、顔を引っ掻くような強烈な音と気配が仁の全身を突き刺したのである。
「あ、あああああ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
久遠が絶叫した瞬間。突風が、部屋の中を吹き荒れた。仁は椅子ごと吹っ飛ばされて床を転がる。なんだなんだと思っているうちに、目の前をハンカチやら時計やらティッシュ箱やらスプーンやら――様々なものが飛んでいくのを見てしまった。
こんな強烈なものは見たことがないが、それでも既に経験しているので間違いない。ポルタ―ガイストだ。そういえば、ポルターガイストというものは人間の超能力、つまりサイコキネシスと同質のものだと聞いたことがある。生きた人間がやっているのがサイコキネシスと呼ばれ、誰がやっているかわからなかったり幽霊がやっているとされるものがポルタ―ガイストと呼ばれて区別されるだけなのだと。
――く、くそっ……!まるでゲームの超能力じゃねえか!
部屋の中に、久遠を中心に台風が生まれてしまったかのようだった。仁の体重と筋力があって、初めて地面につっぶしていられるほどの風。背中に、後頭部に吹っ飛んだいろんなものが当たっていったが気にする余裕はない。がしゃああん!とさっきまでシャーハンを食べていた皿がテーブルから墜落し、粉々になるのを見た。中身を食べ終わった後で良かったと心底思ってしまう。
「く、久遠……!」
あの、鹿島雄二という教師が本当に久遠の過去に関わっていたらしいということはわかった。やはり二十年前、彼と久遠の間には何かがあったのだ。ひょっとしたら、教師と生徒という関係でありながら付き合っていたのかもしれない。久遠ほど見目が良ければ、男でもいいやという人間もいるのかもしれなかった。無論、鹿島雄二の方もゲイだった可能性もあるだろうが。
――そいつに捨てられて、このアパートに置き去りにされたのか?それで死んだ?……いや、この303号室で人が死んだなんてことはないって、佳代子さんは言ってたはず。ってことは、久遠はこの部屋で死んだわけじゃないはずだが……。
何にせよ、このままでは部屋が滅茶苦茶になるだけでは済まない。窓がぎしぎしと言っているのを見てぎょっとした。硝子が粉々になったり棚が倒れたりしたら、いくら自分でも怪我は必至だろう。
そうなったら、きっと久遠は悲しむ。なんとなく、そんなことを思った。
――こういう状況を、招いたのは俺だ。俺が、なんとかしねえと……!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――っ!!」
髪の毛を掻きむしりながら、久遠は絶叫し続けている。恐らくは、仁にしか聞こえない声で。そう思ったらあまりにも悲しかった。
かつて、この部屋で泣いている人の声を聴いた人間がいたという。でも、その人物もきっと怯えるばかりで、この部屋に幽霊がいるかもしれないから対処しようなんてことはしなかったはずだ。というか、何かしていたら久遠がこのままの状態で放置されているはずがない。
その人物は、きっと僅かでも久遠とチャンネルが合う人間で、だから泣き声を聴くことができたのだろうけれど。大半の、零感もなく感応性も高くない多くの人間達は、久遠がいくら泣いても叫んでも気づくことさえままならなかったはずだ。
二十年。
少なくとも彼は二十年、まともに誰かと会話することもなくこのままだったのではないか。ちょっかいをかけた人間はいたのかもしれないが、その誰かに働きかけられることもなく。
記憶を削られながら、大切な人への想いだけ残したまま――それはなんて孤独で、胸をかきむしられるような時間だったことだろう。自分だったら耐えられるだろうか。この部屋から出ることもできず、たった一人で時間を消費していくことに。
『俺、君に一目惚れしちゃった!俺の恋人になって♪』
彼の告白を、仁は軽い気持ちで聞き逃した。でもあれは単に惚れたというだけではなく、嬉しかったのではないか。
初めて、まともに自分と話ができる人間が現れたから、それで。だからあんなにも驚いて――。
――畜生!俺は、どうして気づかなかった!
こちとらラインマンだ。屈強な壁を押し返し、仲間を守るのが自分の本業なのだ。仁は突風のなか、じりじりと這うようにして久遠のところへ向かう。
台風の目のようなものなのかもしれない。傍に近づくと、ほんの少しだけ風が弱くなったような気がした。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!嫌だ、嫌だ、嫌だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「久遠っ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「久遠!!」
叫び続ける彼に手を伸ばし――その時初めて、仁は少年の服を掴む感触を知った。本来なら幽霊である彼に、こちらから触ることなどできないはずだというのに。
それは、彼が誰かに触られたいと願っていたからこそ。
助けを求めているからこそ力が働いているのだと、仁はそう思った。
「その、鹿島ってやつのことは知らないけど!そいつがどうなったとか、お前とそいつがどうしたのか俺は全然知らねえけど、でも!!」
お世辞にも頭が良い人間だとは思っていない。どっちかというと、というよりもう完璧に肉体労働派である自覚がある。ミステリー小説を読んでも、推理しないで物語を流して名探偵が解決してくれるのをただ待っているタイプ。ホラー映画を見ても、殴って解決できるかできないかで恐怖度が変わってきてしまうほど脳筋タイプだ。
だから、説得とか、交渉人じみた真似なんて全然向いていない。だからこそこんな状況になっている。それでもだ。
「でも……俺はいる。俺が、いるぞ!」
自分なんかの存在が、どれだけこの少年の役に立てるかはわからない。それでも。
「俺が、今此処にいる!少なくとも……お前は、独りじゃねえぞ!!」
嵐の中、あらんかぎりの声で叫んだ瞬間。ゆっくりと、恐怖と狂気に彩られていた久遠の目がこちらを見たのがわかった。髪の毛を掻きむしっていた手が、ゆっくりと降りていく。風が、少しずつ弱まっていくのを感じた。
「じ、仁……」
「おう」
「仁、仁……俺、俺は……」
「言ってみろ。俺にできることなら、何でもやってやる」
「仁……」
その眼がまっすぐ仁を見て。その顔に、恐怖以外の感情が戻ってきたのがわかった。それは、焦燥と、希求。ふらふらとその右手の指先が仁の頬に伸びてきて、それから。
「た、すけ、て……」
そして。まるで人間が意識を失うかのように、その場に崩れ落ちたのだった。崩れ落ちる時にはもう、彼の能力のスイッチは切れていたらしい。その体は、仁の体をすり抜けて倒れる。途端、あれだけ吹いていた風が一気にやんだ。宙を待っていた文房具やらティッシュやらが支えを失ったように、バラバラと床に落ちる。それはもう盛大な物音に、びくりと思わず仁は体を震わせた。
「……なんだってんだよ、もう」
すりぬけるとはいえ、それでも彼の体を踏むのは気分が悪い。倒れた彼を踏まないように気を付けて距離を取りながら、滅茶苦茶になった部屋を見回した。
今日は部活がある。あるにはあるが、部屋の状態をこのままにして出かけるのははばかられた。椅子も道具も吹っ飛んでいるし、花瓶やコップのお茶も零れて一部は水浸しの状態。これを、出かけるまでのあと二時間ばかりで全部片づけられるだろうか。――正直、かなり難しそうである。
というか、仮に片付けが終わっても――なんとなく、この状態の久遠を置いていくのははばかられた。居候の地縛霊を相手に、何をこんなに気を使ってるんだと自分でも思わなくはなかったが。
「……あー、すみません、監督」
さっきまでチャーハンが乗っていた皿の残骸を空しい気持ちで見下ろしながら。真っ先に仁がやったのは、携帯で大学のアメフト部の監督に連絡を取ることだった。
「ちょっと、トラブルが起きたんで……今日の練習休みたいっす。ほんと、すんません」
ぼそり、と久遠が呟いた。その途端、彼の顔から一気に感情が抜け落ちたのを仁は見てしまった。さっきまでの、料理を食べてくれて嬉しいと言っていた顔も。成仏したら何もかも忘れてしまうのが怖いと言っていた顔も。
何か、自分は大きな失敗を犯した。仁は気づかざるをえなかった。
「……なんで」
久遠の唇が動く。さながら、幼い子供のようなたどたどしい口調で。
「なんで、おれを、置いていったの?」
「く、久遠?」
「おれ、本気だったんだよ?先生のこと、本当に好きだったんだよ?なのに、先生にとっては、俺なんか、所詮、あ、ああ、あ」
肉体なんかもうないはずだ。それなのに、彼が己の髪をわしづかみにした後、顔を引っ掻くような強烈な音と気配が仁の全身を突き刺したのである。
「あ、あああああ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
久遠が絶叫した瞬間。突風が、部屋の中を吹き荒れた。仁は椅子ごと吹っ飛ばされて床を転がる。なんだなんだと思っているうちに、目の前をハンカチやら時計やらティッシュ箱やらスプーンやら――様々なものが飛んでいくのを見てしまった。
こんな強烈なものは見たことがないが、それでも既に経験しているので間違いない。ポルタ―ガイストだ。そういえば、ポルターガイストというものは人間の超能力、つまりサイコキネシスと同質のものだと聞いたことがある。生きた人間がやっているのがサイコキネシスと呼ばれ、誰がやっているかわからなかったり幽霊がやっているとされるものがポルタ―ガイストと呼ばれて区別されるだけなのだと。
――く、くそっ……!まるでゲームの超能力じゃねえか!
部屋の中に、久遠を中心に台風が生まれてしまったかのようだった。仁の体重と筋力があって、初めて地面につっぶしていられるほどの風。背中に、後頭部に吹っ飛んだいろんなものが当たっていったが気にする余裕はない。がしゃああん!とさっきまでシャーハンを食べていた皿がテーブルから墜落し、粉々になるのを見た。中身を食べ終わった後で良かったと心底思ってしまう。
「く、久遠……!」
あの、鹿島雄二という教師が本当に久遠の過去に関わっていたらしいということはわかった。やはり二十年前、彼と久遠の間には何かがあったのだ。ひょっとしたら、教師と生徒という関係でありながら付き合っていたのかもしれない。久遠ほど見目が良ければ、男でもいいやという人間もいるのかもしれなかった。無論、鹿島雄二の方もゲイだった可能性もあるだろうが。
――そいつに捨てられて、このアパートに置き去りにされたのか?それで死んだ?……いや、この303号室で人が死んだなんてことはないって、佳代子さんは言ってたはず。ってことは、久遠はこの部屋で死んだわけじゃないはずだが……。
何にせよ、このままでは部屋が滅茶苦茶になるだけでは済まない。窓がぎしぎしと言っているのを見てぎょっとした。硝子が粉々になったり棚が倒れたりしたら、いくら自分でも怪我は必至だろう。
そうなったら、きっと久遠は悲しむ。なんとなく、そんなことを思った。
――こういう状況を、招いたのは俺だ。俺が、なんとかしねえと……!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――っ!!」
髪の毛を掻きむしりながら、久遠は絶叫し続けている。恐らくは、仁にしか聞こえない声で。そう思ったらあまりにも悲しかった。
かつて、この部屋で泣いている人の声を聴いた人間がいたという。でも、その人物もきっと怯えるばかりで、この部屋に幽霊がいるかもしれないから対処しようなんてことはしなかったはずだ。というか、何かしていたら久遠がこのままの状態で放置されているはずがない。
その人物は、きっと僅かでも久遠とチャンネルが合う人間で、だから泣き声を聴くことができたのだろうけれど。大半の、零感もなく感応性も高くない多くの人間達は、久遠がいくら泣いても叫んでも気づくことさえままならなかったはずだ。
二十年。
少なくとも彼は二十年、まともに誰かと会話することもなくこのままだったのではないか。ちょっかいをかけた人間はいたのかもしれないが、その誰かに働きかけられることもなく。
記憶を削られながら、大切な人への想いだけ残したまま――それはなんて孤独で、胸をかきむしられるような時間だったことだろう。自分だったら耐えられるだろうか。この部屋から出ることもできず、たった一人で時間を消費していくことに。
『俺、君に一目惚れしちゃった!俺の恋人になって♪』
彼の告白を、仁は軽い気持ちで聞き逃した。でもあれは単に惚れたというだけではなく、嬉しかったのではないか。
初めて、まともに自分と話ができる人間が現れたから、それで。だからあんなにも驚いて――。
――畜生!俺は、どうして気づかなかった!
こちとらラインマンだ。屈強な壁を押し返し、仲間を守るのが自分の本業なのだ。仁は突風のなか、じりじりと這うようにして久遠のところへ向かう。
台風の目のようなものなのかもしれない。傍に近づくと、ほんの少しだけ風が弱くなったような気がした。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!嫌だ、嫌だ、嫌だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「久遠っ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「久遠!!」
叫び続ける彼に手を伸ばし――その時初めて、仁は少年の服を掴む感触を知った。本来なら幽霊である彼に、こちらから触ることなどできないはずだというのに。
それは、彼が誰かに触られたいと願っていたからこそ。
助けを求めているからこそ力が働いているのだと、仁はそう思った。
「その、鹿島ってやつのことは知らないけど!そいつがどうなったとか、お前とそいつがどうしたのか俺は全然知らねえけど、でも!!」
お世辞にも頭が良い人間だとは思っていない。どっちかというと、というよりもう完璧に肉体労働派である自覚がある。ミステリー小説を読んでも、推理しないで物語を流して名探偵が解決してくれるのをただ待っているタイプ。ホラー映画を見ても、殴って解決できるかできないかで恐怖度が変わってきてしまうほど脳筋タイプだ。
だから、説得とか、交渉人じみた真似なんて全然向いていない。だからこそこんな状況になっている。それでもだ。
「でも……俺はいる。俺が、いるぞ!」
自分なんかの存在が、どれだけこの少年の役に立てるかはわからない。それでも。
「俺が、今此処にいる!少なくとも……お前は、独りじゃねえぞ!!」
嵐の中、あらんかぎりの声で叫んだ瞬間。ゆっくりと、恐怖と狂気に彩られていた久遠の目がこちらを見たのがわかった。髪の毛を掻きむしっていた手が、ゆっくりと降りていく。風が、少しずつ弱まっていくのを感じた。
「じ、仁……」
「おう」
「仁、仁……俺、俺は……」
「言ってみろ。俺にできることなら、何でもやってやる」
「仁……」
その眼がまっすぐ仁を見て。その顔に、恐怖以外の感情が戻ってきたのがわかった。それは、焦燥と、希求。ふらふらとその右手の指先が仁の頬に伸びてきて、それから。
「た、すけ、て……」
そして。まるで人間が意識を失うかのように、その場に崩れ落ちたのだった。崩れ落ちる時にはもう、彼の能力のスイッチは切れていたらしい。その体は、仁の体をすり抜けて倒れる。途端、あれだけ吹いていた風が一気にやんだ。宙を待っていた文房具やらティッシュやらが支えを失ったように、バラバラと床に落ちる。それはもう盛大な物音に、びくりと思わず仁は体を震わせた。
「……なんだってんだよ、もう」
すりぬけるとはいえ、それでも彼の体を踏むのは気分が悪い。倒れた彼を踏まないように気を付けて距離を取りながら、滅茶苦茶になった部屋を見回した。
今日は部活がある。あるにはあるが、部屋の状態をこのままにして出かけるのははばかられた。椅子も道具も吹っ飛んでいるし、花瓶やコップのお茶も零れて一部は水浸しの状態。これを、出かけるまでのあと二時間ばかりで全部片づけられるだろうか。――正直、かなり難しそうである。
というか、仮に片付けが終わっても――なんとなく、この状態の久遠を置いていくのははばかられた。居候の地縛霊を相手に、何をこんなに気を使ってるんだと自分でも思わなくはなかったが。
「……あー、すみません、監督」
さっきまでチャーハンが乗っていた皿の残骸を空しい気持ちで見下ろしながら。真っ先に仁がやったのは、携帯で大学のアメフト部の監督に連絡を取ることだった。
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