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<11・ここでキスして。>

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 家に帰ると、ミートソースの匂いと共にテレビの音がしていた。派手な音楽から、ドラマかアニメだろうということはすぐに察しがつく。この時間帯に、どのようなテレビがやっているのかはあまり把握していなかったが。

――そういえば、俺がいない間、久遠ってどうやって過ごしてるんだろう。

 ただいま、と声をかけたが久遠は気づいていない様子だった。細い背中はちょこんとテレビの前で正座したまま、微動だにしない。仁が帰ってきたことに気づいていないようだった。キッチンには、ミートソースが入ったフライパンと、パスタをゆでる為だろう鍋が火を消した状態で置かれている。――ミートソーススパゲッティを作って待っていてくれたことは明白だった。ただし出来立てを食べさせるためには、パスタをゆでるタイミングは直前であった方がいい。まだ硬いパスタが調理台に乗ったままなのはそのためだと思われた。

――何見てるんだ?

 洗面所で手を洗って戻ってきても、彼はじーっとテレビを見たまま。後ろから覗きこんだところで、それが恋愛系ドラマだとわかった。駅のホームだろうか。若い男女が何やら揉めている。
 よく見れば俳優も女優も見覚えがあった。最近朝ドラのヒーローに抜擢された若いイケメン俳優と、月九で主演を務めた美人女優である。まだ社会人や学生が見るには早い時間帯に、こんな金のかかりそうなキャストのドラマを放送しているのは珍しい。ひょっとして、再放送だろうか。

『お願いだから、嘘つかないで!』

 長い髪の女優が、悲痛な声で叫ぶ。

『お願い、優しくしないで。私のことなんかもうどうでもいいなら素直にそう言って切り捨てて。そうしたら……そうしたら私だって諦めるから』
『何でそんな事言うんだ!俺はずっと……!』
『小夜子のこと、私が知らないとでも思ってるの?……好きなんでしょ?貴方の一番はもう、私じゃないんでしょ!』
『なっ……』
『私……自分が愛されてないのに、本当に大切な人が私じゃなくなっていくことに気づいているのに、目を背けて貴方と一緒にいるなんて出来ない。私には貴方しかいないのに、貴方はそうじゃない。そんな現実直視できない。だからお願い、もう終わりにして。こんな恋、最初から間違ってたってそう言って……!』

 彼女がそこまで言った途端、彼が思いきり彼女を抱き寄せていた。女性のサンダルを履いた足がつんのめり、転びそうになったところを強く抱きしめられる。
 こういう時、不思議だなあと思うのは明らかに修羅場を演じているカップルを誰も気に留めないということだ。電車の駅のホーム、立って電車を待っている通行人は多い。それなのに、不自然なくらいみんな彼等の方を見ないのである。――まあ、そこでひそひそされたら空気が台無しになるから仕方ないのかもしれないが。

『確かに、小夜子は俺にとって大切な人だ。でも、その大切っていうのは……君が思っているようなもんじゃない』

 きっと、感動的なシーンというやつなのだろう。多くの視聴者は、仁がするような野暮なツッコミなんかしないでじんわりと胸を熱くしながらこのシーンを見ているに違いない。
 泣きそうな顔で、彼は彼女を抱きしめて語る。

『そもそも、小さな頃からずっと一緒だった小夜子は……俺にとって、一緒にいすぎた人なんだ。家族も同然なんだよ。だから心から愛しているけど、それは妹に向ける愛情なんだ。……君への気持ちとは違う』
『……都合の良い言葉ね』
『わかってる。でも……こんな風に抱きしめたいと思うのも、キスしたいのも君だけなんだ。お願いだから、俺から離れていかないでくれ。君がいなくなったら、俺は本当にどうすればいいかわからない』
『……じゃあ』

 彼女はそっと、彼から体を離し。涙にぬれた美しい顔が、アップになった。

『じゃあ、今ここで……キス、できる?してくれる?』

 音楽が一気に盛り上がる。こういう演出はちょっと苦手だな、と仁は思ってしまった。いかにもここで泣いてください、と言わんばかり。多分、自分が恋愛映画や恋愛ドラマをろくに見られない理由はそこにあるのだろう。ついつい、余計なことばかり考えてしまうのである。
 男性が女性の肩に両手を置いて、ゆっくりと顔を近づける。キスをした瞬間に、わかりやすく止まる音楽。はいはいそのままお幸せにね、とやや苦笑するような気持ちで思った。どうせ、この後も浮気だなんだ、価値観がどうしたと揉めることになるだろうけど――なんて、思ってしまう自分はだいぶひねくれている。

――久遠は、こんなドラマが好きなのかねえ。

 ちらり、と久遠の方を見て。仁は、彼が正座した膝の上で、両手のぎゅっと握りしめていることに気づいた。手首が小さく震えている。生きた人間ならば、それこそ拳から血が出そうなほどに。

「久遠?」

 仁が呼びかけたところで、久遠はようやくこちらに気づいたようではっとして振り返った。そして、慌てたようにテレビをリモコンで消すと、笑顔を作って駆け寄ってくる。

「ちょ、どうしたんだよ仁ー!帰ってきたなら言ってくれればいいのに」
「ただいまって言ったぞ、俺は。気づかなかったのはお前」
「そ、そうなんだ?ごめんね、今パスタ茹でるよ。ソースはもうあっため直すだけだからさ」

 誤魔化すように立ち上がる久遠。ぱたぱたとそのままキッチンへ向かう。仁は、あのさ、とその背中に声をかけた。

「さっきみたいなドラマ、好きなのか?あんな有名な女優とか出てるドラマ、こんな時間にやってるんだな」

 最近では、ゴールデンタイムでさえテレビの前に座って見られない社会人と学生は多い。それより前の時間などもっと厳しいだろう。そのせいで、金のかかるキャストが出るようなドラマや視聴率が稼げるアニメは夜時間に行くことが多い。無論、深夜枠まで行くと多少事情が変わってくることになるのだろうが。

「あーうん……去年とか一昨年にやってたドラマの再放送?みたい」

 曖昧に返事をしてくる久遠。

「別に好きっていうわけじゃないよ。テレビつけてたらたまたまやってたっていう、それだけ」
「誰かを思い出してたのか?」
「!」
「……辛くなるなら、ああいうの見ない方がいいぞ。俺は……そりゃ、異性愛者だと感じてる俺が言うのもなんだけど。不平等なんだろうなって思うことは、俺だってあるし」

 久遠は、振り返らなかった。その代わりに、小さく拳を握ったのを、仁は見逃さなかった。

「……さっきのシーン、駅なんだよね」

 ぽつり、と雫が落ちるような言葉。

「何で、あの人たちは……人前で堂々と喧嘩して、好きだって言って、抱きしめたりキスしたりすることが許されるんだろう。俺……俺ちょっとだけ思い出したんだ。何人か付き合ったけど、どの人とも人前でキスなんかしてないんだよ。それどころか、手さえ繋いでない。気持ち悪いと思われるのが嫌だからやめてくれって言われてさ。俺はそのたびにショックを受けるんだけど……一番ショックなのは、俺も心のどこかで同じことを思ってるってことでさ」
「久遠……」
「いいよね、男の人と女の人でフツーな恋愛ができる人は。いちゃいちゃしやがってーって思われることはあるかもだけど、それだけじゃん。あいつら気持ち悪い!なんて思われないじゃん。……俺達同性カップルってさ、人前で手を繋ぐだけで迷惑だって言われたりするんだよ。気持ち悪いから来るなって言われたりするわけ。……なんで?俺だって、好きな人と好きなように恋愛したいよ。それが同性になったからって、男同士だからってそれだけでいけないこと?隠れてこそこそしないといけないのなんで?子供ができないから?マイノリティだから?それだけで罪なの、悪なの?」

 仁は、迷った。どんな言葉をかけても、きっと彼の慰めになることはないだろうとわかっていたから。
 それでも。

「あのさ、久遠。俺も思うんだ。……多数派であることを振りかざして、少数派を踏みつけようとするのは卑怯なやり方だ。そいつらは……弱いから、少数派の気持ちを蔑ろにしようとするんだって。自分がいつか、何かで少数派になるかもしれない、踏みつけられる側になるかもしれないってことから目を背けてな」

 子供の頃、学校でいつも思っていた。何で多数決なんて残酷なことをするのだろう。手を挙げられなかった少数派の子供達が、泣きそうな顔で俯いているのが先生には見えないのかと。
 少数派にだって、言いたいことはある。そりゃ、少数派の意見を全部聴いていたら決まらないことはたくさんあるだろう。それでもだ。いつもいつも少数派になって、自分の意見を抹殺されるばかりの子がいたら――その子がどれほど傷つき、自己肯定感が死んでいくか。大人だってされたら嫌なことなのに、何故それが見えないのだろうと。
 LGBTQの問題も同じなのだ。
 たまたま彼等が少数派だった。たったそれだけの理由で差別され、嫌悪の目を向けられている。自分がそちら側になったら、ということを想像できない者達の手によって。
 無論、嫌いだと思うのは自由だ。けれど、嫌いだとしても攻撃するか、上手に距離を取るかは選べるはずではないか。何故わざわざ気持ち悪い、なんて攻撃的な言葉で苦しめるような選択をするのだろう。それを、“生理的嫌悪からの正当防衛だ”なんて言うのは乱暴すぎる。ほとんど、いじめっ子の理論と一緒だ。

「罪でも、悪でもない。……俺は男と恋愛する趣味はないって言ったけど、それは俺がそういう趣向じゃないってだけだ。お前の気持ちを、否定する気はない」
「……気持ち悪いって、思わない?」
「ああ」

 かたん、と音がした。久遠が振り返り、仁の前に駆け寄ってくる。そして、下から泣きそうな顔で見上げた。

「じゃあ、俺。今、卑怯なこと言う。仁の優しさにつけこんで」

 本当は、こんなやり方は間違っていると自分でもわかっているのだろう。だからこそ、そんな前置きをしたのだろう。
 わかっていても止められない時は、人にはある。それが心というものだから。

「今、ここで俺にキスして。さっきの女優さんにするみたいに」

 久遠の言葉に。仁は、心臓が大きく跳ねるのを感じていたのだった。

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