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<後編>
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本当に、何処にいてもこいつは見つかる。涼貴は憧れと嫉妬の両方を含んだ眼で勇次郎を見つめた。
なんでこんなに眩しいのだろう。派手な格好をしているわけでもない、一際声が大きいというほどでもない。でも気づけば、いつも勇次郎の姿は涼貴の視界に入ってくるのだ。
『……悪いですか、僕みたいなモヤシが運動なんかして』
思わず口をついて出た言葉が皮肉に満ちていて、涼貴は即座に自己嫌悪に陥った。これじゃあ、自分はただのイヤミで根暗な嫉妬野郎じゃないか。女の子のツンデレなら可愛いと思われるかもしれないが、それが自分では1ミリも愛らしさなんてない。
『ていうか、当たり前のように下の名前で呼ぶのなんでです?一回同じ班になっただけの仲なのに』
『え、嫌だったのか?前からずっと呼んでたけど』
『いえ、嫌ってわけでは、ないんですけど……』
そういえば、彼はあの――涼貴がちょっと苦手な少女、里埼朱美のことは苗字で呼んでいたような。何で自分は下の名前なんだろう。自分だけというわけではない。よくよく考えてみれば、誰とでも仲良くなれるはずの勇次郎が――苗字で呼ぶ人間と名前で呼ぶ人間に分かれているような気がする。あの里埼朱美は苗字。自分は名前。あの日の席替えで同じ班になった、あまり人付き合いが得意ではない二人の男子と女子も下の名前で呼んでいた部類だ。
ふと、あることに思い至る。もしかしたら、勇次郎は。
『……もしかして。君にも好きな人間と嫌いな人間はいたりします?クラスメートでも、苗字で呼ぶ相手と名前で呼ぶ相手がいるような気がしますが』
それを言うと、勇次郎はあっさり“あ、バレた?”と破顔して見せた。
『嫌いっていうか。これは仲良くなるのムズいかなーって奴は、苗字で呼んでるかもなあ。前に言っただろ。俺は何も、どんな人間とだって仲良くなれると思ってるわけじゃないって。ただその判断を、話す前に決め付けるのがおかしいと思ってるだけだって。話した上で、やっぱり苦手だなーって思った相手はそのまま苗字で通してるってだけだよ』
『じゃあ、僕は?』
『え、俺涼貴とはもうとっくに普通に友達のつもりなんだけど、違ってた?』
『……』
あっけらかんと、恥ずかしげもなくそんなことを言える彼。断られるとか、嫌われるかもしれないとか、そういうことは全く思わないのだろうか。だってそうだろう。
友達というのは、恋人と同じだ。片思いでは成立しない。片方だけが友達だと思い込んでいたって――相手もそう思っていてくれなければ、それは友達と呼べる存在ではないのである。
『……僕みたいな根暗と、友達になって楽しいんですか?』
本当は。それはとても嬉しい言葉であったはずなのに。どうして自分の口はこう、素直さからとは程遠い言葉しか出てこないのだろうか。
『友達になって楽しいかどうかって、友達になる前からわかることじゃないだろ?でもって、友達になってからも楽しいと思ってるから俺は今此処にいるんだけども』
眼をぱちくりとさせる彼は、普段よりもずっと幼い顔をしている。純粋。その二文字以外の何物でもない。
『俺、お前のこと好きだぞ?天才だのなんだの言われてるけど、それはお前が努力して成績キープしてるからだろ?体育はそんなに得意じゃないみたいだけど、でも運動が苦手な分周りをよく見てるじゃんか。この間の体育のバスケの試合だって、はっきり言って俺らのチームが勝てたのお前の指示のおかげだと思ってるかんな。お前はいつも汚い手は使わないし、やれる努力は絶対に怠らない!お前のそういうところに助けられてきたのはきっと、俺だけじゃないはずだぜ』
『……え』
『お前は真面目だけど、言うべきことはきちんと言う。ディベートの時も最後にずばっと決めていくのはお前だし、先生が間違ったことを言って誰かが傷ついていたら、そこはちゃんとフォローいれるのも知ってる。自分の意見ならちゃんと通る、言うべきは自分だってのもわかってる。そういうお前が友達だったら、何をしていても心強い!楽しいとか楽しくないもあるけど、少なくともお前が友達で損をすると思う奴は誰もいないと思うぞ?』
まさか。勇次郎が、そんな風に自分を見ていてくれるとは、思っていなかった。そして、そんな彼の真っ直ぐな言葉を聞けば聞くほど、胸の奥が締め付けられるように痛くなるこの感情も。
『ジョギング頑張るのはいいけど、無理すんなよ!出来ないことを克服しようと頑張るのはいーけど、苦手なことは悪いことじゃないかんな!じゃ!』
彼はそういうと、涼貴の肩をぽんぽんと叩いて走り去って行った。
涼貴は。叩かれた肩がやけに熱くて、暫くその場から動けなくなったのである。唐突に気づいてしまったその感情。理解してしまった絶望に、涼貴は必死で蓋をしようとしていた。
何故こんなにも彼の姿が目に付くのか。それは彼が目立つからだけではない。彼にライバル心を抱いているからだけでもない。――自分が無意識に、その姿を追いかけ続けていたからだ。
――そんな趣味なんかないだろ……瀬良涼貴。
本当に、笑えもしない話ではないか。生まれて始めて恋心を自覚したその相手が、まさかの同性であっただなんて。
両親に今の高校を受験したいと言い出した時は、わかりやすく反対されたし失望された。今の学校もけして偏差値が低いわけではないが、それでもT大合格率が高いというわけではない。あんたなら県で一番の学校にも行けるのになんで、と繰り返し説得された。
『どうしても、欲しいものがあるんです。それは多分、あの学校でないと手に入らないので』
大人しく真面目な秀才――そう評価されてきた涼貴は、生まれて始めて両親に歯向かった。
勇次郎と、同じ高校に行きたい。
想いを伝えられなくてもいい。最後の時、彼の隣にいるのが自分でなくても構わない。ただ、あの真っ直ぐな彼が――高校で何を成し遂げられるのか、それを近くでみてみたい。
そんな一心で、涼貴は道を選んだのである。惰性で勉強だけしてきた涼貴が始めて、“やりたいこと”を見つけた瞬間でもあった。
***
「勇次郎、今日の体育の授業見てたましたよ?」
放課後、部室に行くと。ユニフォーム姿のまま友人とだべっていた彼は、“よ”と軽く手を上げて挨拶をしてきた。
「おう、涼貴。なんか不機嫌そうだな今日は」
「当たり前です。あのですね、サッカー部が体育のサッカーで本気出すのは大人気なさすぎると思わないんですか?いつも全力投球なのはいいですが、さすがに素人相手はもう少し手加減しなさい、手加減を。あなたのドリブルを普通の生徒が止められるもんですか」
それに、と。涼貴は短く刈り上げた勇次郎の高等部を、ぺしりと叩いて見せるのである。
「変なシュートの打ち方して、また右の足首捻ったりしないでくださいよ?ケアするのも調整するのも、みんなマネージャーの僕なんですからね。仕事増やさないでくださいよ、エースストライカー」
「う……スミマセンデシタ」
「わかればよろしい、わかれば」
勇次郎は今、サッカー部にいる。その恵まれた体格と高い運動能力を生かし、強豪校だったここのサッカー部でも一年生ながらレギュラーを獲得。それどころか、既にサッカー部の未来を担うエースストライカーとして期待されているほどである。
涼貴は、彼のように共に選手として戦うことはできない。それでもマネージャーとして、彼らの戦いを全力でサポートすることができる。勇次郎がこれからどんな選手に成長していくのか、どんな風に未来へとその才能の翼を羽ばたかせていくのか――今はそれを、想像するだけで楽しくて仕方ない。
『知ってるとも!……興味がないだって、そんなことはないだろうさ。悪魔がニンゲンの目の前に現れる時というのは相場が決まっているものだ。つまり、“ニンゲンがそれを望んだ時”だ。俺様はな、お前の“願い”に惹かれて地上に降りてきてやったんだ。お前のことはずーっと前から上で見ていたんだよ。面白いヤツがいると思ってな。いつか“手助け”してやろうと思ってたのさ』
悪魔の言葉が、蘇る。どうせあの男は、今も嫌らしい笑を浮かべて自分をどこかで見下ろしていることだろう。
『あるだろう、優等生サマ。誰にも言えない……それでもお前を苛み続ける、秘密とやらがさ』
彼を、傍で見ているだけで――十分。
本当は、違う。わかっている。人間は欲の深い生き物だ。幸せを得れば得るだけさらに先が欲しくなるのが当たり前である。
恋心は、傍にいればいるほどに涼貴を苛んでいる。悪魔の言うことは正しい。本当は伝えてしまいたい。彼と恋人同士になれたら、堂々と一番近くにいる資格を得られたなら、どれだけ満たされるだろうかと思わなかった日はない。でも。
『お前はいつも汚い手は使わないし、やれる努力は絶対に怠らない!お前のそういうところに助けられてきたのはきっと、俺だけじゃないはずだぜ』
それをもし、叶えるのだとしたらそれは――いつか自分自身の、本当の努力で戦うべきことである。
それを怠ったなら。それは、勇次郎が認めてくれた自分自身を何より裏切ることになる。そんなことをして叶えた恋などに、一体どんな価値があるというのか。
「……とりあえず、用具は出してありますから。早めにアップは始めてくださいね」
「あれ、どうした涼貴。なんか忘れ物か?」
「いえ」
部室を出ていこうとする涼貴にかけられる声。涼貴は勇一度だけ振り返り、小さく笑みを浮かべて振り返った。
「ちょっと、ゴミを捨ててくるだけです」
***
「ほう、思った以上にお前は骨のある人間だったようだなあ。感心、感心」
その日の帰り。またしても夜道に現れた悪魔は、そう言っていかにも驚いたように頷いて見せた。
「まさか、ビンごと焼却炉に投げ込んでくるとはなあ。徹底していることよ」
「当然です。あのような危険な薬、誰かの手に渡って貰っては困りますから」
「そうかそうか」
涼貴は視線を逸らすことなく、悪魔をじっと睨みつける。こいつが何を企んで、あんなものを自分に託したのかは分からない。ひょっとしたら使ったところで効果など出なかったのかもしれないし、あるいは効果が出てもあとでとんでもない対価を要求された可能性もある。
悪魔との取引なんて、どう転んでもろくなものではなかっただろう。だが、目の前の存在が天使であったところで、間違いなく涼貴は同じことをしたという確信が今はあった。
「貴方が何を考えていたのかは知りませんが。僕から言いたいことは、一つです」
人間は、悪魔に比べればあまりにか弱く儚い存在であることだろう。
それでも自分達には意思がある。殴るための拳がある。立ち上がるための足がある。
どれほど運命に振り回されても――流されるだけの人形では、断じてない。自分達はそれを証明し続ける権利がある。誰だって、どんな世界だって――心は自由であるように。
「……人間をナメんじゃねぇぞ、クソ悪魔!」
ドスを効かせて涼貴が告げると。悪魔は転がらんばかりに、大声を上げて笑い始めた。そして。
「ガハハハハハハハ!そうかそうか、やっぱりそうか!そうでなかくては面白くない、やっぱり、俺様が見込んだだけのことはあるぞ、瀬良涼貴!」
くい、と顎を掴まれて向かされた。目の前に、ニヤついた悪魔の顔がある。
「そういう根性のある男を待っていたのだ。……おい、涼貴。俺様の伴侶になれ。一生目が覚めるような快楽の中で可愛がってやろうぞ」
「は!?」
「あの薬は本物だったが、お前がアレを使おうが使うまいが俺様は構わなかった。むしろ、使わない方に俺は賭けていた。合格だ、喜べ、この大悪魔・アビゲイル様に見初められるニンゲンなど滅多にいないぞ……」
「どうしてそうなるんですか!お断りです、この流れでなんで貴方の誘いを僕が受けると思うんですか!!」
好きな人がいるってなんべんも言ってるだろうが。というか、悪魔の声なんか聞くもんかと突っぱねたばかりではないか。
それなのに目の前の美丈夫は、それはそれは愉快そうに嗤うばかり。嗤うばかり。
「今のうちに好きに吠えているがいいさ!俺様はしつこい。必ずお前にイエスと言わせてみるぞ。これから長い付き合いになるなあ?よろしく頼むぞニンゲンよ!」
「だから!お断りだと言ってるじゃないですか!!」
涼貴の意思を無視して、勝手に進んでいく話。何がどうしてそんな馬鹿な流れになるというのか。涼貴は全力で頭を抱えたくて仕方なかった。
涼貴と勇次郎、そして悪魔のアビゲイル。
このおかしな関係がこの先どう決着するのかは――文字通り、神の溝知るところである。
なんでこんなに眩しいのだろう。派手な格好をしているわけでもない、一際声が大きいというほどでもない。でも気づけば、いつも勇次郎の姿は涼貴の視界に入ってくるのだ。
『……悪いですか、僕みたいなモヤシが運動なんかして』
思わず口をついて出た言葉が皮肉に満ちていて、涼貴は即座に自己嫌悪に陥った。これじゃあ、自分はただのイヤミで根暗な嫉妬野郎じゃないか。女の子のツンデレなら可愛いと思われるかもしれないが、それが自分では1ミリも愛らしさなんてない。
『ていうか、当たり前のように下の名前で呼ぶのなんでです?一回同じ班になっただけの仲なのに』
『え、嫌だったのか?前からずっと呼んでたけど』
『いえ、嫌ってわけでは、ないんですけど……』
そういえば、彼はあの――涼貴がちょっと苦手な少女、里埼朱美のことは苗字で呼んでいたような。何で自分は下の名前なんだろう。自分だけというわけではない。よくよく考えてみれば、誰とでも仲良くなれるはずの勇次郎が――苗字で呼ぶ人間と名前で呼ぶ人間に分かれているような気がする。あの里埼朱美は苗字。自分は名前。あの日の席替えで同じ班になった、あまり人付き合いが得意ではない二人の男子と女子も下の名前で呼んでいた部類だ。
ふと、あることに思い至る。もしかしたら、勇次郎は。
『……もしかして。君にも好きな人間と嫌いな人間はいたりします?クラスメートでも、苗字で呼ぶ相手と名前で呼ぶ相手がいるような気がしますが』
それを言うと、勇次郎はあっさり“あ、バレた?”と破顔して見せた。
『嫌いっていうか。これは仲良くなるのムズいかなーって奴は、苗字で呼んでるかもなあ。前に言っただろ。俺は何も、どんな人間とだって仲良くなれると思ってるわけじゃないって。ただその判断を、話す前に決め付けるのがおかしいと思ってるだけだって。話した上で、やっぱり苦手だなーって思った相手はそのまま苗字で通してるってだけだよ』
『じゃあ、僕は?』
『え、俺涼貴とはもうとっくに普通に友達のつもりなんだけど、違ってた?』
『……』
あっけらかんと、恥ずかしげもなくそんなことを言える彼。断られるとか、嫌われるかもしれないとか、そういうことは全く思わないのだろうか。だってそうだろう。
友達というのは、恋人と同じだ。片思いでは成立しない。片方だけが友達だと思い込んでいたって――相手もそう思っていてくれなければ、それは友達と呼べる存在ではないのである。
『……僕みたいな根暗と、友達になって楽しいんですか?』
本当は。それはとても嬉しい言葉であったはずなのに。どうして自分の口はこう、素直さからとは程遠い言葉しか出てこないのだろうか。
『友達になって楽しいかどうかって、友達になる前からわかることじゃないだろ?でもって、友達になってからも楽しいと思ってるから俺は今此処にいるんだけども』
眼をぱちくりとさせる彼は、普段よりもずっと幼い顔をしている。純粋。その二文字以外の何物でもない。
『俺、お前のこと好きだぞ?天才だのなんだの言われてるけど、それはお前が努力して成績キープしてるからだろ?体育はそんなに得意じゃないみたいだけど、でも運動が苦手な分周りをよく見てるじゃんか。この間の体育のバスケの試合だって、はっきり言って俺らのチームが勝てたのお前の指示のおかげだと思ってるかんな。お前はいつも汚い手は使わないし、やれる努力は絶対に怠らない!お前のそういうところに助けられてきたのはきっと、俺だけじゃないはずだぜ』
『……え』
『お前は真面目だけど、言うべきことはきちんと言う。ディベートの時も最後にずばっと決めていくのはお前だし、先生が間違ったことを言って誰かが傷ついていたら、そこはちゃんとフォローいれるのも知ってる。自分の意見ならちゃんと通る、言うべきは自分だってのもわかってる。そういうお前が友達だったら、何をしていても心強い!楽しいとか楽しくないもあるけど、少なくともお前が友達で損をすると思う奴は誰もいないと思うぞ?』
まさか。勇次郎が、そんな風に自分を見ていてくれるとは、思っていなかった。そして、そんな彼の真っ直ぐな言葉を聞けば聞くほど、胸の奥が締め付けられるように痛くなるこの感情も。
『ジョギング頑張るのはいいけど、無理すんなよ!出来ないことを克服しようと頑張るのはいーけど、苦手なことは悪いことじゃないかんな!じゃ!』
彼はそういうと、涼貴の肩をぽんぽんと叩いて走り去って行った。
涼貴は。叩かれた肩がやけに熱くて、暫くその場から動けなくなったのである。唐突に気づいてしまったその感情。理解してしまった絶望に、涼貴は必死で蓋をしようとしていた。
何故こんなにも彼の姿が目に付くのか。それは彼が目立つからだけではない。彼にライバル心を抱いているからだけでもない。――自分が無意識に、その姿を追いかけ続けていたからだ。
――そんな趣味なんかないだろ……瀬良涼貴。
本当に、笑えもしない話ではないか。生まれて始めて恋心を自覚したその相手が、まさかの同性であっただなんて。
両親に今の高校を受験したいと言い出した時は、わかりやすく反対されたし失望された。今の学校もけして偏差値が低いわけではないが、それでもT大合格率が高いというわけではない。あんたなら県で一番の学校にも行けるのになんで、と繰り返し説得された。
『どうしても、欲しいものがあるんです。それは多分、あの学校でないと手に入らないので』
大人しく真面目な秀才――そう評価されてきた涼貴は、生まれて始めて両親に歯向かった。
勇次郎と、同じ高校に行きたい。
想いを伝えられなくてもいい。最後の時、彼の隣にいるのが自分でなくても構わない。ただ、あの真っ直ぐな彼が――高校で何を成し遂げられるのか、それを近くでみてみたい。
そんな一心で、涼貴は道を選んだのである。惰性で勉強だけしてきた涼貴が始めて、“やりたいこと”を見つけた瞬間でもあった。
***
「勇次郎、今日の体育の授業見てたましたよ?」
放課後、部室に行くと。ユニフォーム姿のまま友人とだべっていた彼は、“よ”と軽く手を上げて挨拶をしてきた。
「おう、涼貴。なんか不機嫌そうだな今日は」
「当たり前です。あのですね、サッカー部が体育のサッカーで本気出すのは大人気なさすぎると思わないんですか?いつも全力投球なのはいいですが、さすがに素人相手はもう少し手加減しなさい、手加減を。あなたのドリブルを普通の生徒が止められるもんですか」
それに、と。涼貴は短く刈り上げた勇次郎の高等部を、ぺしりと叩いて見せるのである。
「変なシュートの打ち方して、また右の足首捻ったりしないでくださいよ?ケアするのも調整するのも、みんなマネージャーの僕なんですからね。仕事増やさないでくださいよ、エースストライカー」
「う……スミマセンデシタ」
「わかればよろしい、わかれば」
勇次郎は今、サッカー部にいる。その恵まれた体格と高い運動能力を生かし、強豪校だったここのサッカー部でも一年生ながらレギュラーを獲得。それどころか、既にサッカー部の未来を担うエースストライカーとして期待されているほどである。
涼貴は、彼のように共に選手として戦うことはできない。それでもマネージャーとして、彼らの戦いを全力でサポートすることができる。勇次郎がこれからどんな選手に成長していくのか、どんな風に未来へとその才能の翼を羽ばたかせていくのか――今はそれを、想像するだけで楽しくて仕方ない。
『知ってるとも!……興味がないだって、そんなことはないだろうさ。悪魔がニンゲンの目の前に現れる時というのは相場が決まっているものだ。つまり、“ニンゲンがそれを望んだ時”だ。俺様はな、お前の“願い”に惹かれて地上に降りてきてやったんだ。お前のことはずーっと前から上で見ていたんだよ。面白いヤツがいると思ってな。いつか“手助け”してやろうと思ってたのさ』
悪魔の言葉が、蘇る。どうせあの男は、今も嫌らしい笑を浮かべて自分をどこかで見下ろしていることだろう。
『あるだろう、優等生サマ。誰にも言えない……それでもお前を苛み続ける、秘密とやらがさ』
彼を、傍で見ているだけで――十分。
本当は、違う。わかっている。人間は欲の深い生き物だ。幸せを得れば得るだけさらに先が欲しくなるのが当たり前である。
恋心は、傍にいればいるほどに涼貴を苛んでいる。悪魔の言うことは正しい。本当は伝えてしまいたい。彼と恋人同士になれたら、堂々と一番近くにいる資格を得られたなら、どれだけ満たされるだろうかと思わなかった日はない。でも。
『お前はいつも汚い手は使わないし、やれる努力は絶対に怠らない!お前のそういうところに助けられてきたのはきっと、俺だけじゃないはずだぜ』
それをもし、叶えるのだとしたらそれは――いつか自分自身の、本当の努力で戦うべきことである。
それを怠ったなら。それは、勇次郎が認めてくれた自分自身を何より裏切ることになる。そんなことをして叶えた恋などに、一体どんな価値があるというのか。
「……とりあえず、用具は出してありますから。早めにアップは始めてくださいね」
「あれ、どうした涼貴。なんか忘れ物か?」
「いえ」
部室を出ていこうとする涼貴にかけられる声。涼貴は勇一度だけ振り返り、小さく笑みを浮かべて振り返った。
「ちょっと、ゴミを捨ててくるだけです」
***
「ほう、思った以上にお前は骨のある人間だったようだなあ。感心、感心」
その日の帰り。またしても夜道に現れた悪魔は、そう言っていかにも驚いたように頷いて見せた。
「まさか、ビンごと焼却炉に投げ込んでくるとはなあ。徹底していることよ」
「当然です。あのような危険な薬、誰かの手に渡って貰っては困りますから」
「そうかそうか」
涼貴は視線を逸らすことなく、悪魔をじっと睨みつける。こいつが何を企んで、あんなものを自分に託したのかは分からない。ひょっとしたら使ったところで効果など出なかったのかもしれないし、あるいは効果が出てもあとでとんでもない対価を要求された可能性もある。
悪魔との取引なんて、どう転んでもろくなものではなかっただろう。だが、目の前の存在が天使であったところで、間違いなく涼貴は同じことをしたという確信が今はあった。
「貴方が何を考えていたのかは知りませんが。僕から言いたいことは、一つです」
人間は、悪魔に比べればあまりにか弱く儚い存在であることだろう。
それでも自分達には意思がある。殴るための拳がある。立ち上がるための足がある。
どれほど運命に振り回されても――流されるだけの人形では、断じてない。自分達はそれを証明し続ける権利がある。誰だって、どんな世界だって――心は自由であるように。
「……人間をナメんじゃねぇぞ、クソ悪魔!」
ドスを効かせて涼貴が告げると。悪魔は転がらんばかりに、大声を上げて笑い始めた。そして。
「ガハハハハハハハ!そうかそうか、やっぱりそうか!そうでなかくては面白くない、やっぱり、俺様が見込んだだけのことはあるぞ、瀬良涼貴!」
くい、と顎を掴まれて向かされた。目の前に、ニヤついた悪魔の顔がある。
「そういう根性のある男を待っていたのだ。……おい、涼貴。俺様の伴侶になれ。一生目が覚めるような快楽の中で可愛がってやろうぞ」
「は!?」
「あの薬は本物だったが、お前がアレを使おうが使うまいが俺様は構わなかった。むしろ、使わない方に俺は賭けていた。合格だ、喜べ、この大悪魔・アビゲイル様に見初められるニンゲンなど滅多にいないぞ……」
「どうしてそうなるんですか!お断りです、この流れでなんで貴方の誘いを僕が受けると思うんですか!!」
好きな人がいるってなんべんも言ってるだろうが。というか、悪魔の声なんか聞くもんかと突っぱねたばかりではないか。
それなのに目の前の美丈夫は、それはそれは愉快そうに嗤うばかり。嗤うばかり。
「今のうちに好きに吠えているがいいさ!俺様はしつこい。必ずお前にイエスと言わせてみるぞ。これから長い付き合いになるなあ?よろしく頼むぞニンゲンよ!」
「だから!お断りだと言ってるじゃないですか!!」
涼貴の意思を無視して、勝手に進んでいく話。何がどうしてそんな馬鹿な流れになるというのか。涼貴は全力で頭を抱えたくて仕方なかった。
涼貴と勇次郎、そして悪魔のアビゲイル。
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あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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