根岸のドラゴン

なしごれん

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第一章 根岸森林公園

第二話

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私の地元は横浜の中心からニキロほど離れた下町で、ちょうど中区と境を接している住宅街だった。

昔から港が近いことから周りには中国、韓国人が数多く住んでいる国際色豊かな町で、昔ながらの商店街通りには、最近になってアジア専門の食材店が増え始め、向かいにあった老舗のパン屋は、いつの間にか中華系の雑貨屋に変わってしまった。

そこから北に真っ直ぐ進むと伊勢佐木町の端に着き、さらに進んで行くと、かつて日本最大の青線地帯と呼ばれていた黄金町に着く。

今ではその全てが廃止され、環境浄化推進運動の後、アートの町として再興しているため、その通りでは数多くのアーティストの作品を楽しむことができる。

その町で毎年秋に開催される黄金町バザールは、全国から芸術家が集まり、公開された作品やイベントを楽しむことができるため、その月はいつも通りに人が溢れていた。

私は小学生の時、毎年家族とそこに行って、普段は見ることのない異様な形をした現代アートに感動し、はしゃいだことを覚えている。

町中の至る所に作品が設置され、歩くだけでも楽しい通りなのだが、高架下で隔てられたその場所はやけに薄暗く、小さくぎちぎちに詰められた建物や光の届かない内装は、まだ幼い私の言葉では言い表せない怪奇さと異質さを放っていた。

その通りからひと区画戻った場所に、太田橋という大きな橋があり、その下を大岡川は流れていた。

磯子から流れる全長十四キロのその川は、江戸時代に開拓され、横浜の都市部を流れる川として、市民に知られている。

私はこの川が好きだ。

この橋を渡る時、私はいつもそう思う。
お世辞にも川の水は綺麗とは言えないし、たまにゴミも浮いている。そんな川なのだが、プロムナード沿いに連立する何百本もの桜は圧巻で、毎年それを見に横浜まで来る人も少なくはない。

それは川ではなく単に桜が好きなだけではないか、と言う人がいるだろう。もちろん私は桜も好きだ。しかし、私はその美しい桜と対照的なこの川に、横浜の原点があるのではと感じる時がある
太田橋の中央に立ち、川を眺めるとそれがよくわかる。右手にピンク色のネオンが光る伊勢佐木町。左手には灯りのない黄金町。真ん中には水面に反射しゆらゆらと輝くランドマークタワー

これこそ横浜である。横浜と聞くと、輝かしいみなとみらいを想像する人がほとんどだと思うのだが、それはほんの一部でしかない。かつては日本最大の貿易都市とされ、数々の流行品が街中に溢れていたその姿は、廃れた商店とシャッターの溢れた街に変わり、もはや横浜は日本の中心ではなく寂れた遊園地と化していた。

そうここは、時代の終わり、横浜の最後を見ることができる場所なのだ。

数十年前までは日本一の高さと称され、名を馳せた横浜のシンボルは、今ではその輝きを幾分か失い、霞んで見えるようになってきた。その高く聳える横浜の中心を輝かせるためにも、周りは黒く、暗いほうがいいのだと、ハマの陰と陽のその両方が見れる、この橋を渡るたびに私はつくづくそう思うのだった。


 私とAは午後十一時三十分に十字路の端にあるコンビニで待ち合わせをすることになっていた。

もうすぐ待ち合わせの時間なのだが、彼が来る気配は一切なく、それどころか、通りには車もろく走ってていなかった。

三月下旬とは思えない冷え切った夜の横浜に、時折吹く乾いた風だけが何もない世界に音をもたらした。私は頬を掠めるその風に、言い知れぬ寂しさを感じ、地元であるにも関わらず、急に不安な気持ちになった。

こんな夜中に呼び出して、彼は一体何をするつもりなのだろうか。

日中は交通量も多いこの場所に、静寂と孤独が漂って、私はふと目の前に広がる巨大な街路樹を眺めた。

その時、後ろから男の声がした。

「おーい」と叫ぶその男の声は、やや高く、かすれていた。

私はだんだんと大きくなるその声の主が、Bだとわかった時、思わず突飛な声を発した。

まさか、Bに会えるとは。

私はすぐに振り返り、笑いながら手を振る彼の元へ走った。

中学時代は黒髪で短髪だったその頭は、赤みがかかって肩まで伸びており、私より七、八センチ低い昔と変わらない背に紺色の高そうなコートが浮いていた。

「まった?」と尋ねるBの口元は、銀色のピアスが光って、私は彼の変わりように驚いた。

「いやぁ、全然だよ。それよりその頭、どうしたんだぁ?」
私は笑いながら、Bの明るい頭を指差しそう尋ねる。

「一昨日染めたんだよ。初めてだったから、とりあえず派手なやつにしようと思ってね。似合ってるか?」

Bはそう言って、にこやかな笑みを私に向けた。

「うーん。前の方が良かったよ」

私がそう言うと、彼は無言で私の肩を叩いた。

その何もかも許してしまいそうになる、彼のはつらつとした笑顔は、中学の時からまったく変わっていなかった。

Bはバレー部の中で一番背が低く、童顔で当時はふっくらしていたことから、マスコットキャラクターのような可愛さがあった。

そんな幼かった彼の髪は、きっちりとセンターで分けられ、体のラインも幾分か引き締まっているような気がした。

私はその彼の変貌が少し寂しかった。


「今日は何をするのか知ってるか?」
私はBに尋ねた。

「根岸のドラゴンを見に行くんだろ?」
Bはいつもの調子でそう答えた。

「…………なんだよ」

「え?」

「だから、それって何の事だよ」
私は何の疑いも感じられない、Bの正直な瞳を見つめてそう言った。

「いやぁ、俺も詳しくは知らないけど……………とりあえず根岸ってあいつ言ってたから、どうせ森林公園のことだろう?それならバスケだな」

そんなことのためにわざわざ私たちを呼んだのか。と私は呆れてため息をついたが、確かにAはバスケットボールが好きで、中学の時もよく海外選手の真似をして、休み時間に先輩たちと遊んでいたな、と私は校庭でボールをつく彼の姿を想像した。

「ドーナツ広場の方にコートがあるから、ここからだと少し遠回りしなきゃいけないな」
Bは携帯のマップを出し、楽しそうにそれを眺めた。

「あそこはいつも混んでるだろ。それに、こんな時間に行って空いてるのかよ。俺は知らない奴のプレーをたらたら見るぐらいだったらなぁ、家帰るからなぁ」

私は重い息を吐きながら、来る気配のない暗闇の通りを見つめた。

そこから五分ほど、私たちはAに電話をかけたり、メッセージを送ってみたりと、色々試してみたのだが、Aは待ち合わせ場所に来るどころか、メッセージが返ってくることもなかった。

その時、私はふとBに進路について聞いてみたくなった。

「Bは進路ってどうなっているんだよ。大学か専門学校には行くつもりなんだろ?」

「俺は工業高校だから就職にしたよ。行きたい学校もなかったし」

「うぇ、、マジかよ、じゃあ遊べないじゃん」

私はBのその選択に驚いた。

「ちゃんと土、日休みで給料もまあまあ良い所にしたから、遊べないことはないね」
Bはすまし顔で、自信満々にそう言った。

「ばーかお前、それ最初のうちだけで、慣れたら休日も仕事させられるやつだから」

「いや本当にうちは平気なんだって」

Bはそう言って会社のホームページを私に見せてきた。そこには経営理念や系種などがつらつらと書かれていたが、至って普通の工場のようだった。
場所は鶴見の真ん中で、給料もその年にしては良い方だった。

私は誇らしげに携帯を見せる彼を、不満そうに見つめた。

「Bって、働いて何かやりたいことでもあるの?」

「いいや。別に何もないけどさ」

「じゃあ大学に行くって選択肢はあったのかよ」

「うーん、なかったかなぁ」

私は彼の選択が正しいと思わなかった。

今どき大学に進学せず、高卒で働く人は少なかったし、いくら工業高校とは言え工業系の大学や専門学校はいくらでもある世の中だ。

そもそも彼は、十八から仕事を始めることに抵抗はなかったのだろうか。Bは昔から賢くなかったが、かといって怠惰だったかというと、そういう訳でもなかった。

課題は必ず手をつけていたし、授業も集中して聞いているようだった。しかし成績は下の中で、中学時代、彼が補修のため練習を休むことも少なくなかった。私はその原因が、彼の常に受け身で物事を進める性格にあるのだと感じていた。

 勉強とは目的のためにある。勉強なしで目的に到達はできない。そして目的をモノにするためには常に能動でなければならないのだ。それは勉強だけではない、スポーツや仕事全てに通ずるものであり、Bはこれにを気づいていなかった。受験に失敗した私がこんなことを語るなんておかしな話だが、自覚したところで簡単にできるものでもないので、私は喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、Bの生き生きとした瞳を眺めた。

「俺はぁ、バカだからさ。勉強なんてもうしたくないんだよ。それに高校だけでも大変なのにそれより上に行こうなんて言ったら、頭が幾つあっても足りねぇよ」
Bは頭の後ろを掻きむしりながら、笑っていた。
その何処か抜けているように感じられる、Bの笑った横顔を眺めていると、私はつくづく彼を嫌いにはなれないなと思うのだった。

「水木はどこの大学に行くんだ?」

「俺は浪人して、国立受けることにした。どこも引っ掛からなかったし特にやりたいこともないからね」

私は目を瞬かせ、目線を下に落としてそう答えた。

「おいおいマジかよ。てっきりマーチ(東京の有名大学群)くらい受かってるんじゃないかと思ってた」

Bは笑ったまま、驚いているようだった。

「そんなんで、本当に大丈夫なのかよ」

私は彼の発言に、どちらとも捉えられる曖昧な微笑をして目を伏せた。

と言うのも、私の成績は全体では下の中で、目標としている国立大学には程遠いものだった。もちろん大学など選ばずに、適当なところに入れればいいと、内心そう思っていたが、私には国立大学を受験しなければいけない理由があった。

三人兄弟の末っ子として生まれた私は、上の兄二人がそれぞれ私立大学に進学したことから、下の私に使えるお金があまりないことを、高校生の時からそれとなく気づいていたのだ。

父親は定年を過ぎているためお金について迷惑をかけたくない、だからこの一年で必ず合格して家を出てみせるんだ。私は不思議そうにこちらを見ているBの、霞みのない真っ黒な瞳を見つめ、自分が借金を返済できるような器ではないと心の底から思った。

そして大学に入ってからは、芭蕉のように日本中を旅し、ピカソのように芸術に没頭する、アーティスティックな学園生活も悪くはないな、と先の未来を夢想した。

「大学ならどこでも良いって訳じゃないだろ。それに、目標はやっぱり高くなきゃね」

私は自分に言い聞かせるかのように、Bにそう言った。

「でも一つも受かってないんでしょ?あと一年で間に合う?」

不安そうにBは言う。

「大丈夫だって。まだ一年あるんだぜ」

私は軽くあしらうようにそう言ってハッと我に帰った。
まだ一年あるのではない。もう一年もないのだ。今の私では到底手の届かないその門に、あと一年で入らなければいけないのだ。だとすると、こんなところにいて本当に良いのだろうか。

私は普段ならすぐ忘れるこの感覚の中心を、今初めて捕らえたのかもしれないと感じて、家に帰って勉強したいと強く思った。

ピュウとまた風が少し出てきた。

黒く小さい横浜の主は、カサカサと音を出しうごめいて、私の前に姿を現す。

月は雲で隠れ、昼間一片もその姿を見せなかった夜の横浜は、ますます闇に近づいていき、その闇はまるでこれが本来の姿だと私たちに教えるかのように住宅地を包んだ。
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