根岸のドラゴン

なしごれん

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第三章 夏休み

第十四話

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昨晩の雨で湿った校庭に、桃色と水色の蝶が羽ばたくかのように、女子生徒の俊敏な動きと、和気あいあいとした掛け声が、夕焼けで染まる校舎に響いた。

三階のベランダから眺める、ビルに囲まれたその景色に、懐かしさを感じた私は、コンクリートの階段に腰を下ろし、時おり靡く彼女たちの艶やかで優美な髪を目で追いながら、ラケットに弾むボールの心地よい打球音を聞いていた。

「おい、変態野郎。もうすぐ練習が始まるぞ」

ベランダのドアから顔を覗かせたAが私にそう言うと、真っ白なボールを投げつけてきた。
私はそれを胸で受け止めると、固くなった身体を起こし、うんざりした顔で体育館へ入った。


八月の最終日、二学期の始まった中学校では、部活で精を出す生徒たちの活気で溢れている。
私たち三人は、たまたま予定が空いていたこともあり、卒業した中学を訪れ、OBとして部活に参加していた。

男子バレーボール部員は、私たちの代とは比べ物にならないくらい人数が増え、
小さい体育館を半分に分けたステージ側に、二十人あまりのバレーボール部員が密集して練習に勤しんでいる。

私は籠からボールを取ると、反対側のコートにいる部員目がけてサーブを打った。しかし、肩の筋力が落ちた私の打球は、勢いよくネットに掛かかると、静かに床に落ちた。

「おいおい、どうしたんだよ。サーブも入らないなんて、いくら何でも鈍りすぎじゃないか」

Aは呆れ顔で私にそう言うと、片手で持ったボールを空中へ投げ、思い切り腕を振って地面を蹴る。
その反動で、ふわりと浮いた身体は、姿勢が良くムチのようにしなって、力強いサーブを生み出した。
ドンと、重い球が反対のコートに入ると、勢いよく地面に弾み、壁に当たった。

その瞬間、反対側のコートでワァっと歓声が起こる。
それは男子部員だけでなく、隣の女子部員までにも及んで、一斉にAのところに駆け寄ってくる。

「うわぁ。俺、あんな強いサーブ見たの初めてですよぉ」
「どうしたら、あんなに強いサーブが打てるようになるんですか」
「もう一回見せて欲しいです」

部員は目を輝かせて、Aにもう一度打つように催促した。

「わかったよ。わかったから落ち着けって」

Aは笑いながら、興奮してはしゃいでいる部員をなだめるようにそう言うと、もう一度ボールを手に取り、ジャンプサーブを披露した。

私とBはその輪から少し離れて、部員にサーブの打ち方を教えるAを眺めていた。

「あんなに上手いのにベンチ外だったんだろ。監督の目、腐ってるんじゃないのか」

「Aの学校は強豪校だったからねぇ。それに、あの身長はバレーには厳しいよ」

Bは冷静のそう言うと、Aの周りに立っている一人の部員を指差す。

「さっきから見ていたけど、彼はサーブが一回も入っていない。でも身長が百八十もある。中学で八十だと、高校で八十五、下手したら九十近く伸びるかもしれない。そうなったら、どれだけ彼より上手い選手がいても、選ばれるのは彼だろうね」

Bは俯いて、そう言った。
中学生の頃、女子生徒より身長の低かったBは、半ば強制的にリベロ(攻撃をしない守備専門のポジション)に決められ、私や他の部員がスパイク練習をしている中、一人黙々とレシーブ練習をしていたことを、その時私は思い出した。

「Aにあと十センチ、いや七センチあったら、高校で活躍できる選手になれただろうね」

Bはそう言ってサーブを打った。Bの球は、ネットのちょうど上を掠めるようにして通り、右に曲がりながら床に落ちる。

「それでも俺は、Aを選ぶかなぁ」

私はそう呟いた。

「水木、スポーツっていうのは努力だけじゃどうにもならないものなんだよ。あれだけ必死に練習してきたのに、最後はデカいだけの二年チームに負けた。水木、君だって本当はわかっているんだろう?君こそあと五センチあったら、高校どころか、大学だって通用するポテンシャルがあったじゃないか」

「ばーか。俺くらいじゃあ、百八十でも選手は到底無理だよ」

私は後ろを向き、ボールを取りに行くと言って、反対側のコートへ出向いたのだが、本当は恥ずかしくて、Bに顔を見られたくなかっただけだった。


ワァっと、また歓声が上がる。
振り向くとAがバスケットリングを掴んでぶら下がっていた。

「おーい何してんだよ。カッコ付けるんなら練習の後にしてくれ」

「ちげーよ。二階にボールが上がっちまったから、取りにいこうと思ったんだよ」
Aはそう言うと、下でワーワーと騒いでいる部員に見せびらかすようにして、腕の力だけでプラプラと身体を左右に振った。

彼のその姿を見て、私は呆れながら苦笑し、近くのボールを撫でるようにして拾うのだった。


*

練習が終わり、裏門から学校を出た私たちはその場で立ち止まった。

「これからどうする?」

私はポケットに手を突っ込みながら、前を行く二人に尋ねた。

「飲みに行こうぜ。今日みたいな暑い日は、冷えたビールをカーッと飲んで、喉を潤すに限る。それにこの辺は飲み屋街だから、安くて美味い店が沢山あるんだよ」

Aは額に走る汗をタオルで拭きながら、伊勢佐木モールの方へと歩いて行く。

「ごめん、俺は今日無理だわ。高校の友達と遊ぶ約束してるんだ」

携帯を眺めていたBが弱々しくそう言った。
しかし、その表情には全く申し訳なさが感じられない、気取ったものだった。

「あ、お前もしかして女だなぁ。さっきからその服装、おかしいと思ってたんだよ。バレーのためだけにそのジャケットは、どう考えても不自然だ」

Aはニヤリとした笑みを浮かべると、からかうようにBにそう言った。

確かにBの服装は、運動をするためだけの格好とは言えない、キッチリとして大人っぽいものだった。
白のインナーに羽織られた真っ黒な薄手のジャケットは、残暑の厳しい今日には、少し苦しいだろうなと私は感じた。

「そんなわけないだろ。工業科の友達だよ」

「おーい。嘘つくなんて、Bらしくないぞぉ。正直になれって」

「別に嘘なんてついてないよ。本当に友達なんだって」

Bは強い口調でそう言うのだが、僅かに微笑んだその表情を、私は見逃さなかった。

「水木はもちろん行くよなぁ?安心しろ、今日は俺が奢ってやる」

「悪い、今週模試があるから、俺も今日はパスだ。でもイセモに寄るんなら、ちょっと寄りたいところがあるんだ」

私は最近になって、現代文の問題集を持っていないことに気づき、有隣堂に行こうと考えていたので、その趣旨を彼に伝える。

「あーそうかよ、じゃあ今日はなしだ。その代わり、今度行くときはお前らが俺に奢れ。わかったな」

私は無茶苦茶なことを言い出す彼の、いつになくすんなりとした決断に、多少なりとも違和感を感じたが、今日はそう言う日なのだろうと割り切って、伊勢佐木モールへと続く横断歩道を渡るのだった。


*


平日の伊勢佐木モールは、私の予想と反して、閑散としていた。

伊勢佐木町の有隣堂は、入口がフラワーショップになっていて、色とりどりの薔薇が入る私を出迎える。
私は年季の入ったエレベータに乗ると、五階の専門書のコーナへと進み、綺麗に整理された本棚の中から、自分に合った問題集を吟味していた。

その時

「もし……」

私の後ろで声がする、それも年老いた女の声だ。

私は急いで振り返った。

そこには白塗りの女性が、私を見上げるようにして立っていたのだ。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」

女性はがなり声で、ゆっくりとそう言っている。
私は白塗りで、真っ白なドレスを着たその姿に驚いて、後ろへ下がった。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」

「…はぁ…そのー、今の時代に兵隊さんはいらっしゃらないと思うのですが…」

私がそう言うと、女性は黙って他の客のいる方へと、動いていった。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」



私は一階で会計を済ませると、逃げるように外へ出た。
向かいの店先で、タバコを吸っていたAが、私に気づくと、ゆっくり近づいてくる。

「お、えらく早かったじゃないか。それで、お目当てのものはなかったのか?」

私は息を切らしながら、膝に手をついた。
「いやぁ…まったく。こっちはそれどころじゃなかったんだよ……まぁでも、本はちゃんと買えたよ…ほらここに………あれ?」

私は膝をついたその手に、何も握られていないことに気がついた。

「…あれ……おかしいな…どこかに落としたのかなぁ」

そう言って周りを見渡すが、本はどこにもない。
私は有隣堂と店の間を何度も往復し、石畳の道に目を凝らして探したのだが、結局、本は見つからなかった。

「お前さっきから何してるんだ?」

Aはタバコを踏んづけながら、周りをうろうろとしている私を不思議そうに眺め、そう言った。

「何って、本を探しているに決まってるだろ。Aもそんなところに立っていないで、一緒に探してくれよ。表紙は黄色で、大きな文字で『大学現代文』って書いてあるやつなんだ。見たらすぐわかるよ」

私はポケットに手を突っ込みながら、黙って突っ立っているAにそう言った。


「お前、面白いやつだな」

「はぁ?」
私は苛立って、怒鳴るようにAにそう言った。


Aは笑いながら、ポケットからタバコを取り出すと、それを口元に運びライターを近づけた。赤く燃えた炎は、一瞬火花を散って、白い煙と共に空に上がった。

「だってお前、出てくる時なにも持っていなかったぞ」

「え?」


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