根岸のドラゴン

なしごれん

文字の大きさ
14 / 25
第三章 夏休み

第十四話

しおりを挟む
昨晩の雨で湿った校庭に、桃色と水色の蝶が羽ばたくかのように、女子生徒の俊敏な動きと、和気あいあいとした掛け声が、夕焼けで染まる校舎に響いた。

三階のベランダから眺める、ビルに囲まれたその景色に、懐かしさを感じた私は、コンクリートの階段に腰を下ろし、時おり靡く彼女たちの艶やかで優美な髪を目で追いながら、ラケットに弾むボールの心地よい打球音を聞いていた。

「おい、変態野郎。もうすぐ練習が始まるぞ」

ベランダのドアから顔を覗かせたAが私にそう言うと、真っ白なボールを投げつけてきた。
私はそれを胸で受け止めると、固くなった身体を起こし、うんざりした顔で体育館へ入った。


八月の最終日、二学期の始まった中学校では、部活で精を出す生徒たちの活気で溢れている。
私たち三人は、たまたま予定が空いていたこともあり、卒業した中学を訪れ、OBとして部活に参加していた。

男子バレーボール部員は、私たちの代とは比べ物にならないくらい人数が増え、
小さい体育館を半分に分けたステージ側に、二十人あまりのバレーボール部員が密集して練習に勤しんでいる。

私は籠からボールを取ると、反対側のコートにいる部員目がけてサーブを打った。しかし、肩の筋力が落ちた私の打球は、勢いよくネットに掛かかると、静かに床に落ちた。

「おいおい、どうしたんだよ。サーブも入らないなんて、いくら何でも鈍りすぎじゃないか」

Aは呆れ顔で私にそう言うと、片手で持ったボールを空中へ投げ、思い切り腕を振って地面を蹴る。
その反動で、ふわりと浮いた身体は、姿勢が良くムチのようにしなって、力強いサーブを生み出した。
ドンと、重い球が反対のコートに入ると、勢いよく地面に弾み、壁に当たった。

その瞬間、反対側のコートでワァっと歓声が起こる。
それは男子部員だけでなく、隣の女子部員までにも及んで、一斉にAのところに駆け寄ってくる。

「うわぁ。俺、あんな強いサーブ見たの初めてですよぉ」
「どうしたら、あんなに強いサーブが打てるようになるんですか」
「もう一回見せて欲しいです」

部員は目を輝かせて、Aにもう一度打つように催促した。

「わかったよ。わかったから落ち着けって」

Aは笑いながら、興奮してはしゃいでいる部員をなだめるようにそう言うと、もう一度ボールを手に取り、ジャンプサーブを披露した。

私とBはその輪から少し離れて、部員にサーブの打ち方を教えるAを眺めていた。

「あんなに上手いのにベンチ外だったんだろ。監督の目、腐ってるんじゃないのか」

「Aの学校は強豪校だったからねぇ。それに、あの身長はバレーには厳しいよ」

Bは冷静のそう言うと、Aの周りに立っている一人の部員を指差す。

「さっきから見ていたけど、彼はサーブが一回も入っていない。でも身長が百八十もある。中学で八十だと、高校で八十五、下手したら九十近く伸びるかもしれない。そうなったら、どれだけ彼より上手い選手がいても、選ばれるのは彼だろうね」

Bは俯いて、そう言った。
中学生の頃、女子生徒より身長の低かったBは、半ば強制的にリベロ(攻撃をしない守備専門のポジション)に決められ、私や他の部員がスパイク練習をしている中、一人黙々とレシーブ練習をしていたことを、その時私は思い出した。

「Aにあと十センチ、いや七センチあったら、高校で活躍できる選手になれただろうね」

Bはそう言ってサーブを打った。Bの球は、ネットのちょうど上を掠めるようにして通り、右に曲がりながら床に落ちる。

「それでも俺は、Aを選ぶかなぁ」

私はそう呟いた。

「水木、スポーツっていうのは努力だけじゃどうにもならないものなんだよ。あれだけ必死に練習してきたのに、最後はデカいだけの二年チームに負けた。水木、君だって本当はわかっているんだろう?君こそあと五センチあったら、高校どころか、大学だって通用するポテンシャルがあったじゃないか」

「ばーか。俺くらいじゃあ、百八十でも選手は到底無理だよ」

私は後ろを向き、ボールを取りに行くと言って、反対側のコートへ出向いたのだが、本当は恥ずかしくて、Bに顔を見られたくなかっただけだった。


ワァっと、また歓声が上がる。
振り向くとAがバスケットリングを掴んでぶら下がっていた。

「おーい何してんだよ。カッコ付けるんなら練習の後にしてくれ」

「ちげーよ。二階にボールが上がっちまったから、取りにいこうと思ったんだよ」
Aはそう言うと、下でワーワーと騒いでいる部員に見せびらかすようにして、腕の力だけでプラプラと身体を左右に振った。

彼のその姿を見て、私は呆れながら苦笑し、近くのボールを撫でるようにして拾うのだった。


*

練習が終わり、裏門から学校を出た私たちはその場で立ち止まった。

「これからどうする?」

私はポケットに手を突っ込みながら、前を行く二人に尋ねた。

「飲みに行こうぜ。今日みたいな暑い日は、冷えたビールをカーッと飲んで、喉を潤すに限る。それにこの辺は飲み屋街だから、安くて美味い店が沢山あるんだよ」

Aは額に走る汗をタオルで拭きながら、伊勢佐木モールの方へと歩いて行く。

「ごめん、俺は今日無理だわ。高校の友達と遊ぶ約束してるんだ」

携帯を眺めていたBが弱々しくそう言った。
しかし、その表情には全く申し訳なさが感じられない、気取ったものだった。

「あ、お前もしかして女だなぁ。さっきからその服装、おかしいと思ってたんだよ。バレーのためだけにそのジャケットは、どう考えても不自然だ」

Aはニヤリとした笑みを浮かべると、からかうようにBにそう言った。

確かにBの服装は、運動をするためだけの格好とは言えない、キッチリとして大人っぽいものだった。
白のインナーに羽織られた真っ黒な薄手のジャケットは、残暑の厳しい今日には、少し苦しいだろうなと私は感じた。

「そんなわけないだろ。工業科の友達だよ」

「おーい。嘘つくなんて、Bらしくないぞぉ。正直になれって」

「別に嘘なんてついてないよ。本当に友達なんだって」

Bは強い口調でそう言うのだが、僅かに微笑んだその表情を、私は見逃さなかった。

「水木はもちろん行くよなぁ?安心しろ、今日は俺が奢ってやる」

「悪い、今週模試があるから、俺も今日はパスだ。でもイセモに寄るんなら、ちょっと寄りたいところがあるんだ」

私は最近になって、現代文の問題集を持っていないことに気づき、有隣堂に行こうと考えていたので、その趣旨を彼に伝える。

「あーそうかよ、じゃあ今日はなしだ。その代わり、今度行くときはお前らが俺に奢れ。わかったな」

私は無茶苦茶なことを言い出す彼の、いつになくすんなりとした決断に、多少なりとも違和感を感じたが、今日はそう言う日なのだろうと割り切って、伊勢佐木モールへと続く横断歩道を渡るのだった。


*


平日の伊勢佐木モールは、私の予想と反して、閑散としていた。

伊勢佐木町の有隣堂は、入口がフラワーショップになっていて、色とりどりの薔薇が入る私を出迎える。
私は年季の入ったエレベータに乗ると、五階の専門書のコーナへと進み、綺麗に整理された本棚の中から、自分に合った問題集を吟味していた。

その時

「もし……」

私の後ろで声がする、それも年老いた女の声だ。

私は急いで振り返った。

そこには白塗りの女性が、私を見上げるようにして立っていたのだ。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」

女性はがなり声で、ゆっくりとそう言っている。
私は白塗りで、真っ白なドレスを着たその姿に驚いて、後ろへ下がった。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」

「…はぁ…そのー、今の時代に兵隊さんはいらっしゃらないと思うのですが…」

私がそう言うと、女性は黙って他の客のいる方へと、動いていった。

「もし……兵隊さんを知りませんかぁ…」



私は一階で会計を済ませると、逃げるように外へ出た。
向かいの店先で、タバコを吸っていたAが、私に気づくと、ゆっくり近づいてくる。

「お、えらく早かったじゃないか。それで、お目当てのものはなかったのか?」

私は息を切らしながら、膝に手をついた。
「いやぁ…まったく。こっちはそれどころじゃなかったんだよ……まぁでも、本はちゃんと買えたよ…ほらここに………あれ?」

私は膝をついたその手に、何も握られていないことに気がついた。

「…あれ……おかしいな…どこかに落としたのかなぁ」

そう言って周りを見渡すが、本はどこにもない。
私は有隣堂と店の間を何度も往復し、石畳の道に目を凝らして探したのだが、結局、本は見つからなかった。

「お前さっきから何してるんだ?」

Aはタバコを踏んづけながら、周りをうろうろとしている私を不思議そうに眺め、そう言った。

「何って、本を探しているに決まってるだろ。Aもそんなところに立っていないで、一緒に探してくれよ。表紙は黄色で、大きな文字で『大学現代文』って書いてあるやつなんだ。見たらすぐわかるよ」

私はポケットに手を突っ込みながら、黙って突っ立っているAにそう言った。


「お前、面白いやつだな」

「はぁ?」
私は苛立って、怒鳴るようにAにそう言った。


Aは笑いながら、ポケットからタバコを取り出すと、それを口元に運びライターを近づけた。赤く燃えた炎は、一瞬火花を散って、白い煙と共に空に上がった。

「だってお前、出てくる時なにも持っていなかったぞ」

「え?」


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

処理中です...