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第五章 根岸のドラゴン
第二十一話
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どんよりとしたグレーの雲が空に漂い、金色の枯れ葉が、そこかしこに見受けられる十二月の初旬、私は実家のベッドに横たわって天井を見上げていた。
私は体調を崩していた。季節の変わり目に誰にでも起こる不調だと思って、数日間、普段通りに過ごしていたのだが、じんじんと響く腹痛と、込み上げてくる吐き気が、勢いを増して私の身体を刺激する。私はその都度トイレに駆け込んで、悶絶しながら用を足すのだが、ある時そのまま気を失って、気がつくと病院のベットの上だったことがある。どうやら電話越しに、私が声にならないようなかすれ声で、必死に助けを求めていたのだと、後に母から聞かされたのだが、私はその時の記憶が、全くと言っていいほどないのだ。ベッドから見上げる病室の真っ白な床と天井は、これから、何か恐ろしいことが起こるのではないのかと、私を不安な気持ちにさせた。私は怖くなって布団をかぶった。窓から見える大きなクスノキは、昨晩の雨に濡れて、薄黒い枝が、ニスを塗られたみたいに光っていた。
それから私は、一日中検査を受けた。急な体重の減少と腹痛。何か大きな病気ではないのかと心配した母親が、様々な検査を私に受けるよう進めたが、どんな検査をしても、私の身体に重大な欠陥が見つかることはなかった。
「もしかすると、心の病気なのかもしれません」
マルチチェアーをぐるりと回転させ、先生は私に向かって優しくそう言った。
「こころのびょうき?」
「はい。この病気は身体に何の異常も見つからないのに、いきなり症状が出てくる病気なんですよ。脳に強い印象を与えたときに発生する突発的なもので、近年、若者の間で増えてきているんです。最近、何か強くストレスを感じたこと、ありませんか?」
私は少し戸惑ったが、直近に起きた友人の死について、先生に語った。本当にそれが原因なのかはわからなかったが、私は早く家に帰りたかった。何度も来たことのあるこの総合病院は、あの日以来、私にとって何か恐ろしいものが潜んでいるのではないかという、心持ちにさせるのだった。
先生は私に、近所にある心療内科を紹介してくれた。
「ここはなるべくお薬を使わずに、漢方とサプリメントで治療をしてくれるところなんですよ。精神のお薬は合う合わないの差が激しいので、なるべく医薬に頼らないところを探してみました」
私は軽く先生に礼を言って、その紙に書いてある「ぞうクリニック」という文字を眺めた。知らない病院に行くのがこんなにも心細いことだとは思わなかった。
高層ビルの一階に位置するその病院は、女性スタッフ二人と院長の三人で経営している小さなものだった。入り口の小さな扉を開き中へ入ると、私は保険証と初診だということをスタッフに伝え、茶色のソファに座った。
「当院は初診のお客様にはアンケートをお願いしています。今のご自身の状況に当てはまるものに丸をしてください」
女性スタッフはニコリともせず私にそう言った。冷たいなと思った。
アンケートは五ページあった。最初の二ページが学校や家族のことについて、残りの三ページが自分についての質問だった。この数枚のアンケートで、本当に自分の症状がわかるのだろうかと不安になりながら、私は三十分かけて全ての質問に答えた。最後のページの一番下にある自由欄に、何か書こうかと悩んでいる時に、受付から私の名前が呼ばれた。
「水木さん」
「はい」
私は初診だということもあり、他の客がいなくなった閉店ギリギリの時間に名前を呼ばれた。女性スタッフは細い廊下へと私を案内し、小さな個室の前で立ち止まった。ここが院長の部屋なのだろう。私はゆっくりと、その木製の引き戸になった扉を開けた。
「こんにちは」
私の目に、白衣を着た若い男性が飛び込んでくる。黒髪で小麦色に焼けた肌に、光る白い歯。眩しいくらいに笑顔を輝かせたその男は、ゆったりとしたオフィスチェアに座っていた。
「どうぞお座りください」
そう言って、先生はゆっくりと手を前に差し出し、私に座るよう促した。
私は軽くお辞儀して、ベージュ色のソファに腰を下ろした。
四畳半の個室の真ん中に、大きな木製のテーブルが置かれ、先生はその上に置かれたキーボードを、カタカタと打ったと思うと、私が書いたアンケートに、無言で目をやって、またカタカタと、文字を打っていた。やがて、
「こちらのアンケート、回答ありがとうございました。大変でしたか?」
と言った。
「はぁ…………そうですねぇ」
私は小さく呟いた。早くこの場所から去りたかった。下を向いて、なるべく時間がかからないように、適当な返事だけして終わらせようと思った。
「今の症状は下痢と腹痛だけですか?」
「はい……それと、たまに夜眠れなくなる日があります」
「そうですか。腹痛はどんな時に起こりますか?」
「朝、起きた時は毎回ですね、食後に症状が現れる時もあります」
「わかりました」
先生は、しばらくパソコンの前で黙っていた。そして、何かを決心したように、肘掛けに腕を置いて、私の方へ身体を正した。
「水木さんくらいの年齢の方ですとね、急な環境の変化についてこれなくて、パニックになってしまったり、なかなか体調が回復しなかったりすることが多いんですよ」
「パニック…………ですか」
私の頭に一瞬だけ、何か影のような黒いモヤが浮かんだ。私はまた顔を伏せた。目線を真っ白なタイル床に注いで、上唇をキュッと噛んだ。何故だか、先生の顔を見ることができなかった。
「つい最近ですとね、彼氏に振られた大学生の女の子が、この部屋に入るといきなり叫んだんです。『先生、わたしは死にたいです。2年前から彼だけを愛してきて、結婚も考えていたのに、彼が別の女を好きになったから、もう一緒にはいられないって言うんです。彼はわたしのことなんて、もう好きでも何でもないことはわかっています。だけどわたし、それでも彼のことが忘れられないんです。寝ても覚めてもずっと彼のことが頭に浮かんで、わたし、どうすればいいかわかんないんです』ってね。それで私が、じゃあ彼のどんなところが好きなのかって尋ねたんです」
「はぁ…………」
私はため息とも取れる小さな声を出した。
「そしたら彼女はこう言うんです。『わたしのことをいつも一番に考えてくれるところです』って。私、笑いそうになっちゃいました。彼女のことを一番に考えているのなら、浮気なんかしないはずですよね。その後も彼女の話を聞いていると、どうやらはじめての彼氏だったみたいで、付き合った頃から、この人と結婚するって自分の中で決めてたらしいんですよ。まあ、何と言うか、可愛らしい話ですよね」
そこまで口にした先生は、肘掛けに置いた腕を、自分の膝の上に置き、じっと私の顔を見つめた。
「若さというものは、素晴らしいものです。初めて見たもの、聞いたもの。経験したことのないすべての物事が、新鮮で美しく見えるんです。もちろん、そのほとんどが悪い結果で終わります。でも、それは誰しもが初めてのものに対して経験することです。大事なのはその経験を、今後どう活かすか、それがなによりも重要なんですよ」
先生は穏やかな視線を私に送り続けた。その柔らかで、何もかも包み込んでしまう、先生のその顔を眺め、私はそれに、どんな表情で答えればいいのかわからなかった。
「あなたは最後の欄に書きました。———と。その何もかも純粋で、濁りのないあなたの感性を、どうかこれからも忘れないでくださいね」
そう言って先生は席を立つと、君は薬はいらないよ、とだけ言って、部屋から出て行ってしまった。私は天井に吊るされた、オレンジ色の照明をじっと眺めた。
それから一ヶ月、私は家に引きこもった。塾もバイトも辞め、実家の自室に閉じこもって、一日中ベットの上で過ごした。私は目を閉じた。眠くないのに目を閉じた。何かから逃れようと目を閉じた。しかし、瞼の裏側の虚空は、何もない私そのものを表しているような気がして、私は黙ってテレビをつけた。
ある時、私は根岸に行こうと試みたことがあった。病院以外、家から一歩も出ずに過ごしてきた私にとって、二キロ先の小高い丘にあるその場所は、あまりにも無謀な挑戦だった。途中、お腹が痛くなることを恐れた私は、水を少しとゼリーを口に入れてから、厚手のジャンパーをふわりと羽織ると、玄関へと進んだ。久しぶりに履く靴の、中敷の感触が懐かしかった。今にも雨が降りそうな、灰色の雲が漂う十ニ月の午後三時、私は家を出て根岸を目指した。曇りでも、外の光は私には眩しく思えた。家の中からでは感じられなかった外の匂い、少し青臭い葉っぱのような新鮮な香りが私の鼻をつつく。外ってこんなに寒かったっけと、私は強く吹く向かい風を顔で受け止めて、人通りの少ない平日午後の交差点を渡った。歩き方を忘れたのか、前へ進むたびに足に違和感を感じる。筋力の落ちた私の足は近所のコンビニに着くだけでジンジンと痛み出した。まだ五分しか歩いていない。このまま家へ引き返そうかと迷ったが、もう少し歩いてみようと、私はイヤホンで耳を塞ぎ、下を向きながら丘へ続く坂道を目指して歩いた。手は震え、左足の感覚は無くなっていた。一ヶ月で、これほどにも体力が落ちるのかと、汗をかいているのに何故か冷たくなる身体をゆっくりと動かしながら、私は強くそう感じていた。それからなんとか足を進め、丘へ続く坂道の端に辿り着いた時には、時計の針が数字の六を指していた。夜にしか来たことのなかったその長い坂道は、何台も車が通っており、杖をついた老人と学校帰りの小学生がちらほら見受けられた。私は足に力を入れた。この坂を登ろう。そう思った。
一定のリズムで足を進めながら、私は下を向いて坂を登った。
急勾配の坂道は、天国への階段のように、真っ白な空に続いていた。私はゆっくりと足を進めた。ひとつ、またひとつ、またひとつ。そう心の中で呟きながら、車道より一段高くなっている、コンクリート道を力強く蹴った。
急に苦しくなってきた。胸の奥が激しく動いている。私は下を向いて思った。
” こんなことをして、一体何になるのだろう “
考えてみればおかしいじゃないか、なぜこんな急な坂道を、辛い思いをして上らなけらばならないんだ。俺はこの数ヶ月、一度も外に出たことがなかったんだぞ。その俺が、なぜここまでして、坂を上らなければならないんだ。
私の頭の中にある、無数の言葉が溢れ出る。
もうかなり歩いたではないか、二ヶ月ぶりにしてはいい方だ。このまま引き返せば、こんな苦しい思いなんてしなくて済む。私は手をギュッと握った。首から湧き出た努力の結晶は、繋ぐ肩から腕にかけて勢いよく落ち、指の間に溜まった。
私は歯を食いしばった。そしてまたゆっくりと、長い坂道を上りだした。何故、いつもはなんとも思わないこの坂が、こんなにも憎らしく、こんなにも寂しく感じるのだろうか。私は息を吐いた。わざとらしくゼエゼエと息を吐いた。もういつだって辞めていいんだ。俺は何もかも諦めたんだ。受験も、友人も、—も。そう頭の中で強く思っているのに、私は動き続ける足を止めることができなかった。
私は全身汗だくになって、坂道の中腹まで辿り着いた。目の前にそびえ立つ赤い鉄橋が、いつにも増して私には大きく思えた。私は後ろを振り向いた。さっきまでいた場所が、小さい点のようになっていた。そのままスウっと視線を上へ動かしていくと、横浜のシンボル、ランドマークタワーがひっそりと雲の下に佇んでいた。再開発が進んでいるみなとみらいの一画に、一際目立っているそれは、随分悲しそうに私の目には映った。私は大きく息を吸い込んだ。鼻から入った冬の匂い、大気の乾燥した薄い香り、草木の揺れる微弱な風の音。私はそれらを噛み締めて、ゆっくりと、また足を進めたその時だった。
坂の上から、信じられないくらいの強風が、私の身体に押し寄せてきた。枯れ葉やビニール袋が、ひゅうひゅうと音を鳴らして落ちてくる。風は勢いを増して轟々と、台風のように電柱を揺らす。伸び切った髪の毛は、水を得た魚のように、ばたばたとなびく。その圧に、私は耐えられることができず、バランスを崩してよろめきかけたその時、猛スピードで坂を下ってきた車が、陽の光に反射して、私の目を覆ったその刹那。
目の前に、ひとりの影が立っていたのだ。
懐かしい整髪料とタバコの匂い、ジャラジャラとしたキーホルダーの揺れる音、ピカピカに光った白のシューズ。
その瞬間、ピタッと風が止んだ。
私はその影を見つめた。サァっと血の気が引いていくのがわかった。口を半分くらい開け、全身から汗が流れ出てくるのを感じながら、ただブルブルと身体は震えていた。
私は後ろに背を向けると、坂道を下った。最初はゆっくりと、一歩いっぽ足を前に出していたが、次第に震えが止まらなくなってくる。私は一心不乱になって走った。全身に力が抜けて、節々傷んでいることも忘れて、私は駆け抜けるようにして家へ帰った。家に着くまで、私が後ろを振り返ることはなかった。
私は目を開けた。そして、ベッドから身を乗り出すようにして、ベランダに続く窓を開けた。
やはり厚い雲が覆う横浜の空は、一面が鼠色の薄墨のようになっていて、その何日も続く同じ景色に、私はため息をついた。窓から入った木枯らしが、隣人のタバコの香りを運んで、部屋になだれ込む。その匂いを嗅ぐたびに、私の中に、何か言葉にできないような寂しさと、懐かしさが溢れ出てくる。
私はベッドに戻った。涙が出てきた。私はなんて情けないのだろう。
私は誰も救えない。
その無力さと、身体が動かせないもどかしさで、私はもう一度毛布を被った。
熱い雫が、頬を伝ってシーツに落ちる。湿った目頭は、冬の到来を感じさせるからっ風に吹かれて、だんだんと冷たくなる。その季節の変化を肌で感じながら、私はぼやけた目でただ天井を眺めていた。
私は体調を崩していた。季節の変わり目に誰にでも起こる不調だと思って、数日間、普段通りに過ごしていたのだが、じんじんと響く腹痛と、込み上げてくる吐き気が、勢いを増して私の身体を刺激する。私はその都度トイレに駆け込んで、悶絶しながら用を足すのだが、ある時そのまま気を失って、気がつくと病院のベットの上だったことがある。どうやら電話越しに、私が声にならないようなかすれ声で、必死に助けを求めていたのだと、後に母から聞かされたのだが、私はその時の記憶が、全くと言っていいほどないのだ。ベッドから見上げる病室の真っ白な床と天井は、これから、何か恐ろしいことが起こるのではないのかと、私を不安な気持ちにさせた。私は怖くなって布団をかぶった。窓から見える大きなクスノキは、昨晩の雨に濡れて、薄黒い枝が、ニスを塗られたみたいに光っていた。
それから私は、一日中検査を受けた。急な体重の減少と腹痛。何か大きな病気ではないのかと心配した母親が、様々な検査を私に受けるよう進めたが、どんな検査をしても、私の身体に重大な欠陥が見つかることはなかった。
「もしかすると、心の病気なのかもしれません」
マルチチェアーをぐるりと回転させ、先生は私に向かって優しくそう言った。
「こころのびょうき?」
「はい。この病気は身体に何の異常も見つからないのに、いきなり症状が出てくる病気なんですよ。脳に強い印象を与えたときに発生する突発的なもので、近年、若者の間で増えてきているんです。最近、何か強くストレスを感じたこと、ありませんか?」
私は少し戸惑ったが、直近に起きた友人の死について、先生に語った。本当にそれが原因なのかはわからなかったが、私は早く家に帰りたかった。何度も来たことのあるこの総合病院は、あの日以来、私にとって何か恐ろしいものが潜んでいるのではないかという、心持ちにさせるのだった。
先生は私に、近所にある心療内科を紹介してくれた。
「ここはなるべくお薬を使わずに、漢方とサプリメントで治療をしてくれるところなんですよ。精神のお薬は合う合わないの差が激しいので、なるべく医薬に頼らないところを探してみました」
私は軽く先生に礼を言って、その紙に書いてある「ぞうクリニック」という文字を眺めた。知らない病院に行くのがこんなにも心細いことだとは思わなかった。
高層ビルの一階に位置するその病院は、女性スタッフ二人と院長の三人で経営している小さなものだった。入り口の小さな扉を開き中へ入ると、私は保険証と初診だということをスタッフに伝え、茶色のソファに座った。
「当院は初診のお客様にはアンケートをお願いしています。今のご自身の状況に当てはまるものに丸をしてください」
女性スタッフはニコリともせず私にそう言った。冷たいなと思った。
アンケートは五ページあった。最初の二ページが学校や家族のことについて、残りの三ページが自分についての質問だった。この数枚のアンケートで、本当に自分の症状がわかるのだろうかと不安になりながら、私は三十分かけて全ての質問に答えた。最後のページの一番下にある自由欄に、何か書こうかと悩んでいる時に、受付から私の名前が呼ばれた。
「水木さん」
「はい」
私は初診だということもあり、他の客がいなくなった閉店ギリギリの時間に名前を呼ばれた。女性スタッフは細い廊下へと私を案内し、小さな個室の前で立ち止まった。ここが院長の部屋なのだろう。私はゆっくりと、その木製の引き戸になった扉を開けた。
「こんにちは」
私の目に、白衣を着た若い男性が飛び込んでくる。黒髪で小麦色に焼けた肌に、光る白い歯。眩しいくらいに笑顔を輝かせたその男は、ゆったりとしたオフィスチェアに座っていた。
「どうぞお座りください」
そう言って、先生はゆっくりと手を前に差し出し、私に座るよう促した。
私は軽くお辞儀して、ベージュ色のソファに腰を下ろした。
四畳半の個室の真ん中に、大きな木製のテーブルが置かれ、先生はその上に置かれたキーボードを、カタカタと打ったと思うと、私が書いたアンケートに、無言で目をやって、またカタカタと、文字を打っていた。やがて、
「こちらのアンケート、回答ありがとうございました。大変でしたか?」
と言った。
「はぁ…………そうですねぇ」
私は小さく呟いた。早くこの場所から去りたかった。下を向いて、なるべく時間がかからないように、適当な返事だけして終わらせようと思った。
「今の症状は下痢と腹痛だけですか?」
「はい……それと、たまに夜眠れなくなる日があります」
「そうですか。腹痛はどんな時に起こりますか?」
「朝、起きた時は毎回ですね、食後に症状が現れる時もあります」
「わかりました」
先生は、しばらくパソコンの前で黙っていた。そして、何かを決心したように、肘掛けに腕を置いて、私の方へ身体を正した。
「水木さんくらいの年齢の方ですとね、急な環境の変化についてこれなくて、パニックになってしまったり、なかなか体調が回復しなかったりすることが多いんですよ」
「パニック…………ですか」
私の頭に一瞬だけ、何か影のような黒いモヤが浮かんだ。私はまた顔を伏せた。目線を真っ白なタイル床に注いで、上唇をキュッと噛んだ。何故だか、先生の顔を見ることができなかった。
「つい最近ですとね、彼氏に振られた大学生の女の子が、この部屋に入るといきなり叫んだんです。『先生、わたしは死にたいです。2年前から彼だけを愛してきて、結婚も考えていたのに、彼が別の女を好きになったから、もう一緒にはいられないって言うんです。彼はわたしのことなんて、もう好きでも何でもないことはわかっています。だけどわたし、それでも彼のことが忘れられないんです。寝ても覚めてもずっと彼のことが頭に浮かんで、わたし、どうすればいいかわかんないんです』ってね。それで私が、じゃあ彼のどんなところが好きなのかって尋ねたんです」
「はぁ…………」
私はため息とも取れる小さな声を出した。
「そしたら彼女はこう言うんです。『わたしのことをいつも一番に考えてくれるところです』って。私、笑いそうになっちゃいました。彼女のことを一番に考えているのなら、浮気なんかしないはずですよね。その後も彼女の話を聞いていると、どうやらはじめての彼氏だったみたいで、付き合った頃から、この人と結婚するって自分の中で決めてたらしいんですよ。まあ、何と言うか、可愛らしい話ですよね」
そこまで口にした先生は、肘掛けに置いた腕を、自分の膝の上に置き、じっと私の顔を見つめた。
「若さというものは、素晴らしいものです。初めて見たもの、聞いたもの。経験したことのないすべての物事が、新鮮で美しく見えるんです。もちろん、そのほとんどが悪い結果で終わります。でも、それは誰しもが初めてのものに対して経験することです。大事なのはその経験を、今後どう活かすか、それがなによりも重要なんですよ」
先生は穏やかな視線を私に送り続けた。その柔らかで、何もかも包み込んでしまう、先生のその顔を眺め、私はそれに、どんな表情で答えればいいのかわからなかった。
「あなたは最後の欄に書きました。———と。その何もかも純粋で、濁りのないあなたの感性を、どうかこれからも忘れないでくださいね」
そう言って先生は席を立つと、君は薬はいらないよ、とだけ言って、部屋から出て行ってしまった。私は天井に吊るされた、オレンジ色の照明をじっと眺めた。
それから一ヶ月、私は家に引きこもった。塾もバイトも辞め、実家の自室に閉じこもって、一日中ベットの上で過ごした。私は目を閉じた。眠くないのに目を閉じた。何かから逃れようと目を閉じた。しかし、瞼の裏側の虚空は、何もない私そのものを表しているような気がして、私は黙ってテレビをつけた。
ある時、私は根岸に行こうと試みたことがあった。病院以外、家から一歩も出ずに過ごしてきた私にとって、二キロ先の小高い丘にあるその場所は、あまりにも無謀な挑戦だった。途中、お腹が痛くなることを恐れた私は、水を少しとゼリーを口に入れてから、厚手のジャンパーをふわりと羽織ると、玄関へと進んだ。久しぶりに履く靴の、中敷の感触が懐かしかった。今にも雨が降りそうな、灰色の雲が漂う十ニ月の午後三時、私は家を出て根岸を目指した。曇りでも、外の光は私には眩しく思えた。家の中からでは感じられなかった外の匂い、少し青臭い葉っぱのような新鮮な香りが私の鼻をつつく。外ってこんなに寒かったっけと、私は強く吹く向かい風を顔で受け止めて、人通りの少ない平日午後の交差点を渡った。歩き方を忘れたのか、前へ進むたびに足に違和感を感じる。筋力の落ちた私の足は近所のコンビニに着くだけでジンジンと痛み出した。まだ五分しか歩いていない。このまま家へ引き返そうかと迷ったが、もう少し歩いてみようと、私はイヤホンで耳を塞ぎ、下を向きながら丘へ続く坂道を目指して歩いた。手は震え、左足の感覚は無くなっていた。一ヶ月で、これほどにも体力が落ちるのかと、汗をかいているのに何故か冷たくなる身体をゆっくりと動かしながら、私は強くそう感じていた。それからなんとか足を進め、丘へ続く坂道の端に辿り着いた時には、時計の針が数字の六を指していた。夜にしか来たことのなかったその長い坂道は、何台も車が通っており、杖をついた老人と学校帰りの小学生がちらほら見受けられた。私は足に力を入れた。この坂を登ろう。そう思った。
一定のリズムで足を進めながら、私は下を向いて坂を登った。
急勾配の坂道は、天国への階段のように、真っ白な空に続いていた。私はゆっくりと足を進めた。ひとつ、またひとつ、またひとつ。そう心の中で呟きながら、車道より一段高くなっている、コンクリート道を力強く蹴った。
急に苦しくなってきた。胸の奥が激しく動いている。私は下を向いて思った。
” こんなことをして、一体何になるのだろう “
考えてみればおかしいじゃないか、なぜこんな急な坂道を、辛い思いをして上らなけらばならないんだ。俺はこの数ヶ月、一度も外に出たことがなかったんだぞ。その俺が、なぜここまでして、坂を上らなければならないんだ。
私の頭の中にある、無数の言葉が溢れ出る。
もうかなり歩いたではないか、二ヶ月ぶりにしてはいい方だ。このまま引き返せば、こんな苦しい思いなんてしなくて済む。私は手をギュッと握った。首から湧き出た努力の結晶は、繋ぐ肩から腕にかけて勢いよく落ち、指の間に溜まった。
私は歯を食いしばった。そしてまたゆっくりと、長い坂道を上りだした。何故、いつもはなんとも思わないこの坂が、こんなにも憎らしく、こんなにも寂しく感じるのだろうか。私は息を吐いた。わざとらしくゼエゼエと息を吐いた。もういつだって辞めていいんだ。俺は何もかも諦めたんだ。受験も、友人も、—も。そう頭の中で強く思っているのに、私は動き続ける足を止めることができなかった。
私は全身汗だくになって、坂道の中腹まで辿り着いた。目の前にそびえ立つ赤い鉄橋が、いつにも増して私には大きく思えた。私は後ろを振り向いた。さっきまでいた場所が、小さい点のようになっていた。そのままスウっと視線を上へ動かしていくと、横浜のシンボル、ランドマークタワーがひっそりと雲の下に佇んでいた。再開発が進んでいるみなとみらいの一画に、一際目立っているそれは、随分悲しそうに私の目には映った。私は大きく息を吸い込んだ。鼻から入った冬の匂い、大気の乾燥した薄い香り、草木の揺れる微弱な風の音。私はそれらを噛み締めて、ゆっくりと、また足を進めたその時だった。
坂の上から、信じられないくらいの強風が、私の身体に押し寄せてきた。枯れ葉やビニール袋が、ひゅうひゅうと音を鳴らして落ちてくる。風は勢いを増して轟々と、台風のように電柱を揺らす。伸び切った髪の毛は、水を得た魚のように、ばたばたとなびく。その圧に、私は耐えられることができず、バランスを崩してよろめきかけたその時、猛スピードで坂を下ってきた車が、陽の光に反射して、私の目を覆ったその刹那。
目の前に、ひとりの影が立っていたのだ。
懐かしい整髪料とタバコの匂い、ジャラジャラとしたキーホルダーの揺れる音、ピカピカに光った白のシューズ。
その瞬間、ピタッと風が止んだ。
私はその影を見つめた。サァっと血の気が引いていくのがわかった。口を半分くらい開け、全身から汗が流れ出てくるのを感じながら、ただブルブルと身体は震えていた。
私は後ろに背を向けると、坂道を下った。最初はゆっくりと、一歩いっぽ足を前に出していたが、次第に震えが止まらなくなってくる。私は一心不乱になって走った。全身に力が抜けて、節々傷んでいることも忘れて、私は駆け抜けるようにして家へ帰った。家に着くまで、私が後ろを振り返ることはなかった。
私は目を開けた。そして、ベッドから身を乗り出すようにして、ベランダに続く窓を開けた。
やはり厚い雲が覆う横浜の空は、一面が鼠色の薄墨のようになっていて、その何日も続く同じ景色に、私はため息をついた。窓から入った木枯らしが、隣人のタバコの香りを運んで、部屋になだれ込む。その匂いを嗅ぐたびに、私の中に、何か言葉にできないような寂しさと、懐かしさが溢れ出てくる。
私はベッドに戻った。涙が出てきた。私はなんて情けないのだろう。
私は誰も救えない。
その無力さと、身体が動かせないもどかしさで、私はもう一度毛布を被った。
熱い雫が、頬を伝ってシーツに落ちる。湿った目頭は、冬の到来を感じさせるからっ風に吹かれて、だんだんと冷たくなる。その季節の変化を肌で感じながら、私はぼやけた目でただ天井を眺めていた。
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