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第五章 根岸のドラゴン
第二十二話
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「今日はとっても天気がいいよ。外に出てみれば?」
ドアの外から、母の声が聞こえた。私は読んでいた本を机に置くと、自室のカーテンを開き、外を眺めた。ベランダから見える澄みきった春の青空が、どこまでも遠くに続いていた。
「……まぶしいな」
そう心の中で呟いた私は、日差しにやられた目を手で抑え、勢いよくカーテンを閉めると、静かに机に戻った。
あの日から四ヶ月、私は未だ部屋に引きこもる生活を続けていた。太陽の入らない閉ざされた空間は、テレビから発せられる明かり以外、光の出るものはなかった。そんな昼か夜かもわからない部屋で、こう何ヶ月も過ごしていると、頭がおかしくなってくる。いや、もう既に私の頭はおかしいのかもしれない。机周りに乱雑に置かれた本と、足の踏み場もないほどにゴミで溢れた部屋を眺めると、とても自分が普通の人間だとは思えなくなった。そんなことを考えるのも、嫌になってきて、私は黙ってベッドに横になると、目を瞑って暗闇に浸った。以前なら、何もない空間にただ一人ぼっちで漂っている自分が、この上なく寂しく思えたのだが、今の私は、それすらも感じることができなくなっていた。
この四ヶ月間、私は本を読んでいた。何もしたくない私にとって、読書は素晴らしいものだった。誰からも邪魔されることなく、自分の世界に入り込むことができる。私はページを捲った。この生活になんの不満も抱かないまま、私は一生を終えるのではと日々思った。
「ねぇ、ちょっとでいいから外に出てみなさいよ」
再び部屋の外から母の声がした。私はため息をついた。外なんかに何があるというのだ。そう心の中では思っているのに、身体は自然と窓に吸い寄せられていた。私はまた席を立った。カーテンを開き、今度は窓を開けた。真っ青な空から、温かい春風が吹き込んでくる。私はそれを吸い込んだ。自然の香り、水々しい草花の匂い、が私の五感を刺激する。私はまたゆっくりと息を吸い、目を瞑った。
ちょっとだけ散歩してみようかな。
私は床に落ちていた靴下を履き、ハンガーにかかっていたヨレヨレのセーターを被った。一瞬、お腹が痛くなることを恐れて薬を手に握ったが、家の周りを歩くだけだからと、それを引き出しに戻した。
「おはよう」
母の顔があった。何日かぶりに見るその母の顔は、何故だか他人のような雰囲気を、私に与えた。私は玄関へ向かった。母もついてきた。
床に座り込み、左足から順に靴に足を入れていった。靴紐を結ぶ時、手が震えて、なかなか上手くできない。私は諦めて、靴から足を抜き、部屋に帰ろうとしたその時、
「大丈夫」
母は私の肩を掴んでそう言った。優しかった。私は無言のまま、もう一度床に尻をつき、靴に足を入れた。今度はゆっくりと時間をかけ、丁寧に靴紐を結んだ。
両方の靴紐が結び終わると、私は床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「いってらっしゃい」
背後から、明るい母の声がした。
「………………あぁ」
私は汗で滲んだ右手に力を込め、グッとドアノブに手をかけ外に出た。
一歩外に出ると、私の目に、これでもかと陽の光が飛び込んでくる。私は慌てて顔を覆い、眩しさで目に現れた閃光をなんとか抑えようと、足元を見ながら前へ進んだ。いつもなら人の通りが激しく、学生の姿がちらほら見受けられる交差点沿いの大通りは、やっと日が差し掛かってきたところで、日曜朝の風景にしては、やや活気が感じられない、閑散とした街並みが続いていた。
私は、まだ春にしては冷たい寒風を肌で感じ、ポケットに両手を突っ込んだ。もう一枚、何か羽織るものを持って来ればよかったなと、口から出る白い息を見やりながら、ブロック塀が連なる、隣家の区画を右に曲がった。だんだんと光に目が慣れてきて、街並みが鮮明に見えてきた。すると、四畳半の部屋では見ることのできなかった新世界が、私の目に現れた。
それは都会の平凡な風景だった。大きなマンションが密集するそこは、車や人の気配はなく、窓ガラスに反射した数多の光が、私に、何か神秘的な別世界に迷い込んだのではないかという気持ちにさせた。人の営みが感じられない、そのひしめき合った建物を眺めながら、私は自然の繰り出す音の響きだけを、ただひたすらに感じていた。重なり合った葉が微弱な風で揺れる音、僅かに聞こえる鳥の囀り、遠くで走るトラックのエンジン音。その全てが新鮮で、真新しいものに私は思えた。休日の早朝にただひとり、陽の温かな日差しを浴びながら、その神秘さに感動していた私は、もう少し周りを歩いてみたいと心の中で思った。この自然に、自分の身体を預けてみよう。もう怖いものは何もないんだ。不安なこと、心配なこと、それら全てを、俺はとっくに捨ててきたんだ。もう悩むことなんてないんだ。そう考えるとなぜか少しだけ、心の奥底に、引っかかるような違和感を感じるのだが、私はそれを無視して突き進んだ。気がつくと、坂の前にたどり着いていた。
私は一瞬顔を上げ、その坂があることを確認してから、また下を向いて足を進めた。傾斜の激しいのその坂は、少し上っただけで首筋から汗が湧き出てくる。私の息は、足を進めるごとに徐々に荒々しくなっていき、心臓の鼓動が、耳の隣で高鳴っているかのように、大きくなっていくのを感じた。私は大きく息を吸った。赤い鉄橋が見えてきた。ここを越えればもうすぐ商店街が見えてきて、今よりも少しだけ、坂も緩やかになってくるだろう。そうすれば……
「 」
私は足を止めた。視線を足下に注いだまま直立して、坂上から降り注ぐ風の音だけを感じていた。私はもう一度大きく深呼吸をして、足を動かす。が、これ以上前に進むことができない。
目の前に誰かがいる。
坂の上で自動車の走行音が聞こえた。私は深く息を吐きながらゆっくりと、視線を前へ持っていった。
そこには人影が立っていた。
私よりもやや低い背に、真っ黒な身体が、そこに立っていた。
私はその影を見つめた。目線を黒一色の体に集中させ、逸らすもんかと拳を強く握った。影もまた、私を見つめていた。
私は十二月の初めにこの坂で見た奇妙な幻影が、また現れたのだと思った。そしてどうすれば、この幻影の前へ行けるのかと考えた。身体は小刻みに震え、汗が流れ出してくるのを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
見渡す限り漆黒の虚空に、私は立っていた。その地に立ちながら、私はもうこのまま、家に引きこもっていてもいいなと思った。誰からも頼られず、必要とされず、ひとり自分の部屋で、自分の世界で、生きていくのも幸せなのかもしれないと思った。何もない世界では何も起こらない。私はそう決意して、目を開けようとしたその時、
私の目の前に、森本司が立っていた。
彼は光っていた。全身真っ白な光沢を放ち、虚空の中でその輝きは効力を増して一面の闇を吸い込むかのようにぐんぐんと大きくなっていった。と同時に、漆黒の世界につかさとの思い出が、走馬灯のように現れた。
公園でよく鬼ごっこをして遊んだ幼少期。初めて同じクラスになった小学生時代。一緒になって顧問に叱られた中学時代。そして三年ぶりに再会し、すっかり垢抜けて、見慣れた姿の森本司が、今、謎の輝きを放ちつつも、私の目の前に立っているのだ。
そうだ。
一年前の三月。受験に落ち何をするにも億劫だった私に、彼は突然言ったんだ。
『根岸のドラゴンを見に行こう』
そこから全てが始まったのだ。
“ こんなことをして、一体何になるのだろうか “
「思いを………思いを伝える」
私は、どこからか降ってきたその言葉を、なぜか呟いていた。誰かが言っていたのであろうその言葉が、なぜ口から出たのかはわからなかったが、その音の響きに、不思議と懐かしさを感じた。
思いを伝えればいいのか?誰に?目の前のつかさにか?
私は、目の前で光り続けているつかさに、何か話そうと、必死に口を動かした。しかし、私の頭に浮かんだ言葉が、喉から口へ上がってくることはなく、私は口を開けたまま、何とか声が出ないかと踏ん張ってみせた。
ダメだ。上手く声がでない。私は喉元に手を置いて、何度も力んでみるのだが、何故だか声を出すことができなかった。
他に手段はあるのだろうか。私は周りを見渡すが、闇の世界では、目の前のつかさ以外何もなかった。
「クソっ……」
私は声にできないもどかしさから苛立って、拳で太ももを叩いた。
カチン
右太ももに、鈍い金属の音がした。私は驚いて、その不自然に盛り上がった太ももあたりを触ってみる。すると、四角い形をしたプラスチックが、私のポケットの中に入っていた。
携帯だ。
私は両手でそれを掴んだ。
そうだ。これを使えば、何かつかさに伝えることができるかもしれない。文字を打って言葉を見せれば、何か変わるのかもしれない。
私は恐る恐る、画面を開いた。思えば病院に行ったあの時から、私は携帯を開いていなかったな。と、画面から漏れ出た液晶の光に、視線を集中させながら思った。
画面には、私と司とのチャット履歴が映し出されていた。
『根岸のドラゴンを見に行こう』
その会話から始まり、会話は自然と流れていった。
私がバイトを始めるからと言って、相談に乗ってもらった四月十日。ゴールデンウィーク、運転の練習に付き合った時の海岸の写真。バレーボールのチームに入らないかと、本気で誘ってきた七月八日。夜遅くまで通話した夏の日々。
私はその流れる会話履歴を、その時の情景を浮かべながら、黙って読んでいた。
『なぁ』
『なんだよ』
『俺に好きな人ができたって話し、他の人には秘密な』
『なんでだよ』
『他の子にそれ言ったら、俺モテなくなっちゃうだろ』
『お前、サイテーだな』
『好きなら告白しちゃえばいいだろ?』
『うーん』
『いろいろあるんだよ』
『色々って?』
『色々は色々だよ』
『恋愛も心理戦だからな』
『水木にはヒ・ミ・ツ』
『なんだよそれ笑』
流れてくる会話を眺めながら、私は彼と連絡をとったこの一年間が、短いようで、とても長かったなと感じた。そして幼い頃から互いを認知していたにも関わらず、こんなにも多く連絡を取り合っていたのかと思った。
履歴は九月十二日の、彼からの通話で終わっていた。
その彼からの最後の履歴を読み終えて、私は深くため息をついた。
ああ、そういうことだったのか。
私はゆっくりと、瞼を開いた。
太陽の日差しが私の目を覆うと、坂の上から何台もの車が降りてきた。
私は視線を足下に注いだま、小さく呟いた。
「ごめん」
「俺、あの時、お前に返事してなかったな」
そこまで呟いて、私は視線をまっすぐ上に持っていった。
赤い鉄橋を背景に、森本司は立っていた。
そうだ。九月の十二日、私は根岸にいたんだ。あの夕暮れ時の公園で、私は彼女に告げられた。そして別れたあの時、つかさから電話がかかってきて、私はそれを無理やり切ったんだ。それが最後になるとも知らずに、目先の感情だけを優先して、先走っていたんだ。
その後悔だけが、いつまでも私の心に空いた、大きな穴だった。しかし今、目の前に立っている、森本司らしき人物は、私にははっきりと、その姿を確認することができるのだ。
私は森本司を見つめた。そしてこの四ヶ月間、一度も動かさずにいた強張った表情をなんとか変えようと、無理やり口角を上げ笑って見せた。
「俺は……」
「俺は君に、憧れていたんだ」
「誰とでも分け隔てなく話せたり、危ない状況でも、果敢に立ち向かっていけるところも。頭はあんまり良くないけど、優しくて、少し乱暴で、ルールや縛りが大嫌いな。そんなつかさが、俺は大好きだったんだ」
目頭が熱くなり、汗と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、私はなんとか声を出し続けた。暖かな陽気に包まれた涙が、静かに頬を伝っていく。
私はそれでも笑顔を作った。
「君がいなくなってから、俺は色々なことを諦めたんだ。普段の生活も、大学受験も、でもそれに、後悔はしていないんだ。自然に身を任せて、つかさと一緒になって遊んで。俺はそれでよかったと思うんだ。こんな何もない俺に、君は言ってくれたじゃないか」
「根岸のドラゴンを見に行こうって」
「あの時、あの誘いを断っていれば、俺はひとり地道に勉強して、大学に行けていたかもしれない。いつも通りの生活を、送れていたのかもしれない。でも、それでも、俺は自分の選択が、間違っていたとは思わない。だって、」
「今こうして、君と話せているじゃないか」
もしあの時、私がつかさとの誘いを断っていたら、私は今、この場所に、立っていなかっただろう。Bも、森川先生も、伊藤も、そして彼女にも。私は会えていなかっただろう。
私はぼやけきった目を手で拭った。
「俺、この四ヶ月間で、やってみたいことができたんだ。それは君と会っていなかったら、絶対にやろうとは思えなかったことなんだ。もちろん、それができるかどうかなんて、やってみなければわからないけど。俺はその挑戦に、自分の夢を、人生を、賭けてもいいと本気で思えたんだ」
「だから見守っていてくれよ。その場所から」
私はそう言って、深くお辞儀をした。何度拭っても、流れ出る涙を止めることができなかった。
そして、この顔を上げればもう二度と、つかさを見ることができないだろうと思った。
坂上から降り出す朝の風は、徐々に勢いを弱まらせ、澄み切った日曜の青空に、ようやく太陽が現れた。
*
私が顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。
私は足を進めた。ゆっくりと、確実に、前を向いて。私は坂を上った。
それでも少しだけ、後ろが気になったが、私は振り返らずに足を進めた。
行き先は決めていなかったが、足は自然とその方向へ向いていた。
私の前に、彼はもういない。それならば、行くべき場所はひとつしかないだろう。彼と最後に行ったあの場所に………
私は足に力を入れ、勢いよく坂を駆け上がった。
ドアの外から、母の声が聞こえた。私は読んでいた本を机に置くと、自室のカーテンを開き、外を眺めた。ベランダから見える澄みきった春の青空が、どこまでも遠くに続いていた。
「……まぶしいな」
そう心の中で呟いた私は、日差しにやられた目を手で抑え、勢いよくカーテンを閉めると、静かに机に戻った。
あの日から四ヶ月、私は未だ部屋に引きこもる生活を続けていた。太陽の入らない閉ざされた空間は、テレビから発せられる明かり以外、光の出るものはなかった。そんな昼か夜かもわからない部屋で、こう何ヶ月も過ごしていると、頭がおかしくなってくる。いや、もう既に私の頭はおかしいのかもしれない。机周りに乱雑に置かれた本と、足の踏み場もないほどにゴミで溢れた部屋を眺めると、とても自分が普通の人間だとは思えなくなった。そんなことを考えるのも、嫌になってきて、私は黙ってベッドに横になると、目を瞑って暗闇に浸った。以前なら、何もない空間にただ一人ぼっちで漂っている自分が、この上なく寂しく思えたのだが、今の私は、それすらも感じることができなくなっていた。
この四ヶ月間、私は本を読んでいた。何もしたくない私にとって、読書は素晴らしいものだった。誰からも邪魔されることなく、自分の世界に入り込むことができる。私はページを捲った。この生活になんの不満も抱かないまま、私は一生を終えるのではと日々思った。
「ねぇ、ちょっとでいいから外に出てみなさいよ」
再び部屋の外から母の声がした。私はため息をついた。外なんかに何があるというのだ。そう心の中では思っているのに、身体は自然と窓に吸い寄せられていた。私はまた席を立った。カーテンを開き、今度は窓を開けた。真っ青な空から、温かい春風が吹き込んでくる。私はそれを吸い込んだ。自然の香り、水々しい草花の匂い、が私の五感を刺激する。私はまたゆっくりと息を吸い、目を瞑った。
ちょっとだけ散歩してみようかな。
私は床に落ちていた靴下を履き、ハンガーにかかっていたヨレヨレのセーターを被った。一瞬、お腹が痛くなることを恐れて薬を手に握ったが、家の周りを歩くだけだからと、それを引き出しに戻した。
「おはよう」
母の顔があった。何日かぶりに見るその母の顔は、何故だか他人のような雰囲気を、私に与えた。私は玄関へ向かった。母もついてきた。
床に座り込み、左足から順に靴に足を入れていった。靴紐を結ぶ時、手が震えて、なかなか上手くできない。私は諦めて、靴から足を抜き、部屋に帰ろうとしたその時、
「大丈夫」
母は私の肩を掴んでそう言った。優しかった。私は無言のまま、もう一度床に尻をつき、靴に足を入れた。今度はゆっくりと時間をかけ、丁寧に靴紐を結んだ。
両方の靴紐が結び終わると、私は床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「いってらっしゃい」
背後から、明るい母の声がした。
「………………あぁ」
私は汗で滲んだ右手に力を込め、グッとドアノブに手をかけ外に出た。
一歩外に出ると、私の目に、これでもかと陽の光が飛び込んでくる。私は慌てて顔を覆い、眩しさで目に現れた閃光をなんとか抑えようと、足元を見ながら前へ進んだ。いつもなら人の通りが激しく、学生の姿がちらほら見受けられる交差点沿いの大通りは、やっと日が差し掛かってきたところで、日曜朝の風景にしては、やや活気が感じられない、閑散とした街並みが続いていた。
私は、まだ春にしては冷たい寒風を肌で感じ、ポケットに両手を突っ込んだ。もう一枚、何か羽織るものを持って来ればよかったなと、口から出る白い息を見やりながら、ブロック塀が連なる、隣家の区画を右に曲がった。だんだんと光に目が慣れてきて、街並みが鮮明に見えてきた。すると、四畳半の部屋では見ることのできなかった新世界が、私の目に現れた。
それは都会の平凡な風景だった。大きなマンションが密集するそこは、車や人の気配はなく、窓ガラスに反射した数多の光が、私に、何か神秘的な別世界に迷い込んだのではないかという気持ちにさせた。人の営みが感じられない、そのひしめき合った建物を眺めながら、私は自然の繰り出す音の響きだけを、ただひたすらに感じていた。重なり合った葉が微弱な風で揺れる音、僅かに聞こえる鳥の囀り、遠くで走るトラックのエンジン音。その全てが新鮮で、真新しいものに私は思えた。休日の早朝にただひとり、陽の温かな日差しを浴びながら、その神秘さに感動していた私は、もう少し周りを歩いてみたいと心の中で思った。この自然に、自分の身体を預けてみよう。もう怖いものは何もないんだ。不安なこと、心配なこと、それら全てを、俺はとっくに捨ててきたんだ。もう悩むことなんてないんだ。そう考えるとなぜか少しだけ、心の奥底に、引っかかるような違和感を感じるのだが、私はそれを無視して突き進んだ。気がつくと、坂の前にたどり着いていた。
私は一瞬顔を上げ、その坂があることを確認してから、また下を向いて足を進めた。傾斜の激しいのその坂は、少し上っただけで首筋から汗が湧き出てくる。私の息は、足を進めるごとに徐々に荒々しくなっていき、心臓の鼓動が、耳の隣で高鳴っているかのように、大きくなっていくのを感じた。私は大きく息を吸った。赤い鉄橋が見えてきた。ここを越えればもうすぐ商店街が見えてきて、今よりも少しだけ、坂も緩やかになってくるだろう。そうすれば……
「 」
私は足を止めた。視線を足下に注いだまま直立して、坂上から降り注ぐ風の音だけを感じていた。私はもう一度大きく深呼吸をして、足を動かす。が、これ以上前に進むことができない。
目の前に誰かがいる。
坂の上で自動車の走行音が聞こえた。私は深く息を吐きながらゆっくりと、視線を前へ持っていった。
そこには人影が立っていた。
私よりもやや低い背に、真っ黒な身体が、そこに立っていた。
私はその影を見つめた。目線を黒一色の体に集中させ、逸らすもんかと拳を強く握った。影もまた、私を見つめていた。
私は十二月の初めにこの坂で見た奇妙な幻影が、また現れたのだと思った。そしてどうすれば、この幻影の前へ行けるのかと考えた。身体は小刻みに震え、汗が流れ出してくるのを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
見渡す限り漆黒の虚空に、私は立っていた。その地に立ちながら、私はもうこのまま、家に引きこもっていてもいいなと思った。誰からも頼られず、必要とされず、ひとり自分の部屋で、自分の世界で、生きていくのも幸せなのかもしれないと思った。何もない世界では何も起こらない。私はそう決意して、目を開けようとしたその時、
私の目の前に、森本司が立っていた。
彼は光っていた。全身真っ白な光沢を放ち、虚空の中でその輝きは効力を増して一面の闇を吸い込むかのようにぐんぐんと大きくなっていった。と同時に、漆黒の世界につかさとの思い出が、走馬灯のように現れた。
公園でよく鬼ごっこをして遊んだ幼少期。初めて同じクラスになった小学生時代。一緒になって顧問に叱られた中学時代。そして三年ぶりに再会し、すっかり垢抜けて、見慣れた姿の森本司が、今、謎の輝きを放ちつつも、私の目の前に立っているのだ。
そうだ。
一年前の三月。受験に落ち何をするにも億劫だった私に、彼は突然言ったんだ。
『根岸のドラゴンを見に行こう』
そこから全てが始まったのだ。
“ こんなことをして、一体何になるのだろうか “
「思いを………思いを伝える」
私は、どこからか降ってきたその言葉を、なぜか呟いていた。誰かが言っていたのであろうその言葉が、なぜ口から出たのかはわからなかったが、その音の響きに、不思議と懐かしさを感じた。
思いを伝えればいいのか?誰に?目の前のつかさにか?
私は、目の前で光り続けているつかさに、何か話そうと、必死に口を動かした。しかし、私の頭に浮かんだ言葉が、喉から口へ上がってくることはなく、私は口を開けたまま、何とか声が出ないかと踏ん張ってみせた。
ダメだ。上手く声がでない。私は喉元に手を置いて、何度も力んでみるのだが、何故だか声を出すことができなかった。
他に手段はあるのだろうか。私は周りを見渡すが、闇の世界では、目の前のつかさ以外何もなかった。
「クソっ……」
私は声にできないもどかしさから苛立って、拳で太ももを叩いた。
カチン
右太ももに、鈍い金属の音がした。私は驚いて、その不自然に盛り上がった太ももあたりを触ってみる。すると、四角い形をしたプラスチックが、私のポケットの中に入っていた。
携帯だ。
私は両手でそれを掴んだ。
そうだ。これを使えば、何かつかさに伝えることができるかもしれない。文字を打って言葉を見せれば、何か変わるのかもしれない。
私は恐る恐る、画面を開いた。思えば病院に行ったあの時から、私は携帯を開いていなかったな。と、画面から漏れ出た液晶の光に、視線を集中させながら思った。
画面には、私と司とのチャット履歴が映し出されていた。
『根岸のドラゴンを見に行こう』
その会話から始まり、会話は自然と流れていった。
私がバイトを始めるからと言って、相談に乗ってもらった四月十日。ゴールデンウィーク、運転の練習に付き合った時の海岸の写真。バレーボールのチームに入らないかと、本気で誘ってきた七月八日。夜遅くまで通話した夏の日々。
私はその流れる会話履歴を、その時の情景を浮かべながら、黙って読んでいた。
『なぁ』
『なんだよ』
『俺に好きな人ができたって話し、他の人には秘密な』
『なんでだよ』
『他の子にそれ言ったら、俺モテなくなっちゃうだろ』
『お前、サイテーだな』
『好きなら告白しちゃえばいいだろ?』
『うーん』
『いろいろあるんだよ』
『色々って?』
『色々は色々だよ』
『恋愛も心理戦だからな』
『水木にはヒ・ミ・ツ』
『なんだよそれ笑』
流れてくる会話を眺めながら、私は彼と連絡をとったこの一年間が、短いようで、とても長かったなと感じた。そして幼い頃から互いを認知していたにも関わらず、こんなにも多く連絡を取り合っていたのかと思った。
履歴は九月十二日の、彼からの通話で終わっていた。
その彼からの最後の履歴を読み終えて、私は深くため息をついた。
ああ、そういうことだったのか。
私はゆっくりと、瞼を開いた。
太陽の日差しが私の目を覆うと、坂の上から何台もの車が降りてきた。
私は視線を足下に注いだま、小さく呟いた。
「ごめん」
「俺、あの時、お前に返事してなかったな」
そこまで呟いて、私は視線をまっすぐ上に持っていった。
赤い鉄橋を背景に、森本司は立っていた。
そうだ。九月の十二日、私は根岸にいたんだ。あの夕暮れ時の公園で、私は彼女に告げられた。そして別れたあの時、つかさから電話がかかってきて、私はそれを無理やり切ったんだ。それが最後になるとも知らずに、目先の感情だけを優先して、先走っていたんだ。
その後悔だけが、いつまでも私の心に空いた、大きな穴だった。しかし今、目の前に立っている、森本司らしき人物は、私にははっきりと、その姿を確認することができるのだ。
私は森本司を見つめた。そしてこの四ヶ月間、一度も動かさずにいた強張った表情をなんとか変えようと、無理やり口角を上げ笑って見せた。
「俺は……」
「俺は君に、憧れていたんだ」
「誰とでも分け隔てなく話せたり、危ない状況でも、果敢に立ち向かっていけるところも。頭はあんまり良くないけど、優しくて、少し乱暴で、ルールや縛りが大嫌いな。そんなつかさが、俺は大好きだったんだ」
目頭が熱くなり、汗と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、私はなんとか声を出し続けた。暖かな陽気に包まれた涙が、静かに頬を伝っていく。
私はそれでも笑顔を作った。
「君がいなくなってから、俺は色々なことを諦めたんだ。普段の生活も、大学受験も、でもそれに、後悔はしていないんだ。自然に身を任せて、つかさと一緒になって遊んで。俺はそれでよかったと思うんだ。こんな何もない俺に、君は言ってくれたじゃないか」
「根岸のドラゴンを見に行こうって」
「あの時、あの誘いを断っていれば、俺はひとり地道に勉強して、大学に行けていたかもしれない。いつも通りの生活を、送れていたのかもしれない。でも、それでも、俺は自分の選択が、間違っていたとは思わない。だって、」
「今こうして、君と話せているじゃないか」
もしあの時、私がつかさとの誘いを断っていたら、私は今、この場所に、立っていなかっただろう。Bも、森川先生も、伊藤も、そして彼女にも。私は会えていなかっただろう。
私はぼやけきった目を手で拭った。
「俺、この四ヶ月間で、やってみたいことができたんだ。それは君と会っていなかったら、絶対にやろうとは思えなかったことなんだ。もちろん、それができるかどうかなんて、やってみなければわからないけど。俺はその挑戦に、自分の夢を、人生を、賭けてもいいと本気で思えたんだ」
「だから見守っていてくれよ。その場所から」
私はそう言って、深くお辞儀をした。何度拭っても、流れ出る涙を止めることができなかった。
そして、この顔を上げればもう二度と、つかさを見ることができないだろうと思った。
坂上から降り出す朝の風は、徐々に勢いを弱まらせ、澄み切った日曜の青空に、ようやく太陽が現れた。
*
私が顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。
私は足を進めた。ゆっくりと、確実に、前を向いて。私は坂を上った。
それでも少しだけ、後ろが気になったが、私は振り返らずに足を進めた。
行き先は決めていなかったが、足は自然とその方向へ向いていた。
私の前に、彼はもういない。それならば、行くべき場所はひとつしかないだろう。彼と最後に行ったあの場所に………
私は足に力を入れ、勢いよく坂を駆け上がった。
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だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
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